(33)始まりは清々しい朝
始まりは清々しい朝だった。
窓からの柔らかで暖かい朝日を浴び、フェイはベッドの上でグイッと体を伸ばす。
「よし、快晴っ!」
外を見て顔を綻ばせて飛び起きると、そのままリビングを通り抜け真っ直ぐに厨房へと入る。鼻歌交じりに炭に火を入れると、水瓶に溜めた水をケトルで掬って火にかけた。
それらの行動の目的はただ一つ、最高のベルリーフティーを淹れる事である。
ケトルから吹き出る蒸気で乾燥した茶葉を丹念に蒸らし、沸いたお湯をすばやくポットもカップに入れて十分に暖める。
万全を期した上でポットのお湯を捨てると、再び沸きたての湯を注ぎ入れ、最後に香り高き茶葉を投入する。お湯と茶葉が渾然一体となり、赤とも黄とも云える色が生み出されていった。
「綺麗だ……なんて美しい」
名残を惜しみながら、渋みが出る前に茶葉を茶漉しで掻き出す。その頃にはリビングの中は芳しいベルリーフの匂いで満ちていた。
「おーい、エルカ! お茶が入ったぞ! そろそろ起きてくれ!」
店の奥に声をかけながら、フェイは料理用のナイフでパンとチーズを手早くスライスし、残った炭火で軽くあぶる。
「……おお、いい匂いだな。一週間ぶりなのに懐かしい気がするよ」
寝癖の残るエルカが、欠伸をかみ殺しながらリビングに現れ、店の隅に置かれたテーブルにつく。
フェイは真っ白な陶器のポットから温めたカップへと静かにお茶を注いだ。
コポコポと言う水音が少しづつキーを上げる。これがたまらない。
フェイは堪えきれずカップを鼻先で燻らせた。
「……ふぅ」
鼻から頭に抜けるような香りが突き抜ける。神様ありがとう! と、無意味に叫びたくなる瞬間だ。
「フェイ、今日なんだろ?」
そのエルカの何気ない質問に、フェイは満面の笑みで頷いた。
「ああ、今日はクロフの結婚式だ!」
砂漠のど真ん中で死闘を繰り広げてから、既に二日が経っていた。
あの後、手伝ってくれたディアナとカシムは、事の顛末を砂漠の民に報告すると別れ、一方のフェイ達は竜馬の馬車に乗ってゼクス領につくまで仲良く眠りこけた。
当然、セラだけは別の馬車で領主宅へ直行だ。
エルカーナに戻るなりエルカは領主宅に金をふんだくりに行ったが、そこまでタフでないフェイはルナに治療をしてもらうと、そのまま体力を回復させるべく大人しく眠り続けた。
なにせ、待ちに待ったクロフと、酒屋の看板娘レンファの結婚式が行われるのだ。疲れた様子など見せたくないではないか。
「ふんふんふん」
フェイは上機嫌で、領主からふんだくった上質のシャツとスラックスを身に付ける。
クロフ達の式場はルナの働いている教会で、エルカーナからはそれほど時間がかからないのだが、楽しみのあまり早いと分かっていても、つい身支度を急いでしまう。
そんなフェイの様子をベルリーフティをすすりながら見ていたエルカは、「そうだ」と懐から一枚の仮面を取り出した。
「フェイ、外に出る時は、これをつけていろ」
「……なんだ、これ? 仮面?」
「そうだ。お前は既に有名人だからな。あまり騒がれたくないだろう?」
「で、でも、これはちょっと」
「大切な友人の結婚式に野次馬が入るかも知れんぞ。いいから付けておけ」
「うっ」
フェイは仮面を受け取り、渋々装着する。
真っ白な仮面は木製らしく、つくりは丈夫だが結構重かった。しかも、顔は隠してくれるものの、シャツとスラックスと仮面など傍から見れば怪しさ大爆発である。
『でも文句は言えないか……なぁ、エルカも式に来るだろ?』
「いや、行きたいのは山々だが、事務処理が溜まってしまってね。クロフにおめでとうと伝えてくれ」
エルカは残念そうに両肩をすくめ、書類の山を指差した。
『ごめんな、字が書ければ俺が手伝えるんだけど』
「いや、気にするな。今日くらいは思い切り楽しんで来い」
『……ありがとう、エルカ』
フェイは手を振って出て行く。
仮面の下の表情は分からなかったが、エルカはそれが幸せいっぱいな笑顔である事を、信じて疑わなかった。
教会の会堂は花々やリボンで鮮やかに彩られていた。いつもの教会の厳粛な雰囲気が、それだけで華やかな式場に一転するのだから不思議だ。
フェイはまず、クロフの控え室になっている小部屋を覗く事にした。
小部屋に入ると衛視仲間に囲まれているクロフが、真っ先に目に入る。その嬉しそうな湯子顔を見て、ずいぶんと久しぶりだと感じた。
フェイはクロフの背後からこっそりと近づき、後ろから声を掛ける。
『おーい、クロフ』
「ん? ――うおわっ!」
クロフは振り替えるや立ち上がって驚いた。
『俺だよ、俺!』
「……その声は、フェイか?」
『おうよ! 見て分からないか?』
「分かるかよ、くそっ! 変な仮面付けやがって!」
フェイとクロフは拳をガツガツと打ち合わせ、その様子に気を利かせたクロフの同僚の衛視たちが、静かに部屋を出て行く。
良い同僚達に恵まれたんだなと、フェイは人事ながら嬉しくなった。
「それにしてもまだ生きてたか。俺はまた領主かコノハに撲殺されたかとでも思ったぞ」
『勝手に殺すな! お前が緊張のあまり、結婚宣誓を噛むところを見るまでは死ねないっての』
「うお、怖い事を言うじゃないか」
クロフは顔を引きつらせた。どうやら本当に緊張しているらしい。
「それにしてもなんだよその仮面は。密教にでもはまったのか?」
『違うわっ! 今はこれが無いと町を歩けないんだよ……ったく』
「はずせはずせ、ここにはそんな野次馬はいないぞ」
フェイは頷いて仮面を外すと、クロフに満面の笑顔を見せた。
「おお、フェイ! なんて酷い顔に……」
「この顔は生まれつきだ! おめでとうくらい言わせろ!」
フェイはそう言ってクロフの胸元をゴツンと叩く。
この懐かしいじゃれ合いに、フェイはつい目元が潤みそうになった。
――――そうだ、これが日常なんだ
フェイはその有り難さを噛み締めていた。
式場に入ると既に席はほとんど埋まっていた。
これが皆、二人の結婚の証人となる為に集まった人々だ。
シュバート国の結婚式は、二人で一本の剣を掲げ夫婦の宣誓をする。神と人に宣誓の証人となってもらい、証人となった人々は二人の行く道を祝福するのだ。
「フェイー! こっちこっち!」
前の方からコノハが手を振り、フェイを呼んでいた。
助かったとばかりに向かうと、コノハは薄紅色のフォーマルドレスを着て、この間より少し華やかな化粧をしている。つい、コノハを背負った時の事を思い出し、フェイは赤面した。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
フェイは首を振って席に着き、その席が前から二列目だと言う事にようやく気が付く。なんと親族席のすぐ後なのだ。
「うわ、随分前だな……こんな前だと緊張するだろ。もう少し後ろに行かないか?」
「バカね、後ろに席なんてもう無いわよ。それにあんたが緊張してどうするのよ。緊張してるクロフをアタシたちが応援するのよ!」
コノハは真っ直ぐな視線でそう力説した。
少し前まで、コノハの事が良くわからないと思っていたフェイだが、その視線は初めて会った時と少しも変わらない。正義感に溢れた、いつものコノハの目だ。
――――すっかり、元通りになったんだな
フェイは「そうだったな」と小さく頷き、コノハの横で姿勢を正した。
やがて、時を告げる鐘が遠くから聞こえ、同時に明かり取りの窓をルナやシスター達がバタバタと閉めていく。
部屋が暗くなり、ただ一つだけ開かれた天窓から、一筋の光が射し込んでいた。
光は式場の前方に設置された講壇に降り注ぎ、そこには装飾用の豪奢な剣が抜き身で横たえられていた。光を浴びた剣が、銀色の光を周囲に撒き散らす。
暗くなったはずなのに、剣に反射する光で、フェイは逆にまぶしく感じた。
ザワッ
後方の扉が開き、クロフがレンファの手を引いて現れた。
会衆が僅かにざわめくも、二人は雑音など聞こえないかのように静々と講壇前に向かって歩を進めた。
ゼクス領の特色として、新郎新婦は必ず真っ白な衣装に身を包むという仕来りがある。クロフは暑いのを我慢して、輝くような白いサーコートを着込んでいる。そして、レンファの着ているドレスも上から下まで真っ白であった。
「綺麗……」
コノハがうっとりとため息を吐いた。
フェイもくすぐったいような違和感を覚える。なにせ普段はじゃじゃ馬として知られているレンファが、完全な淑女として飾られているのだ。
肩を出した大胆なドレス、スカートは腰の辺りから円状に広がっており、白い花を腰に巻いているような、幻想的で可憐な衣装だった。
「クロフ、奮発したな」
フェイの独白を聞いたコノハが、フェイのつま先を軽く踏んだ。
「って、何するんだっ」
「シッ! 雰囲気無くすような事言わないで」
――――つま先踏まれた方が、雰囲気なくなるわっ!
そう言い返そうとしたが、クロフのためにグッとこらえる。
決してコノハが怖かったわけではないのだ。うん。
カチャリ
クロフが右手で剣を取り、レンファの左手が添えられる。
二人は支えあうように、一本の剣を光射す方へと掲げた。
「神よ、御照覧あれ!」
クロフの宣誓が始まった。
「我は剣の民、アルター=クロフォード
何も持たずに生まれ、何も持たずに死する者
されどこの一瞬の生に、守る喜びを知る者なり
故に我は望む、二人が一本の剣とならんことを」
そしてクロフはレンファを見る。
その労わるような視線にレンファは小さく頷いた。
「我は剣の民、ラウォン=レンファ
母の胎から出でて、母なる大地に還る者
されどこの一瞬の生に、愛する喜びを知る者なり
故に我は願う、二人が一本の剣とならんことを」
「「神よ、我らの行く末を御照覧あれ!」」
宣誓の余韻が消え、会堂からは割れんばかりの拍手と歓声が沸きあがった。
その中を二人が手を取り、歩いて行く。
「やったな、おいっ! クロフ!」
「レンファ、おめでとう!」
祝福の拍手は、二人が見えなくなるまで、止む事は無かった。
「おおぉ、すごい御馳走だ!」
外に出ると、教会の庭が立食パーティの会場として生まれ変わっていた。その入り口ではクロフとレンファが、招待客一人一人にワインを注いでいる。
全ての招待客が入ると、クロフ自らの音頭で乾杯をし、パーティの盛り上がりは加速していった。
その中でいそいそと動き回るルナが、フェイの目に留まる。
「おーい、ルナ。大変だよな、神官見習なのに雑用ばっかりで」
「あぁ、フェイ……まぁね」
ルナは大量の皿を抱えて、少し憂鬱そうだった。
「どうしたんだよ? なんか元気ないぞ?」
「いいのいいの、分不相応な事は諦めるの……それより、フェイ。今からクロフの友人代表の挨拶をやるんだけど、お願いしてもいい?」
「う……まぁ、やれと言われればやるけど。でも、俺なんかにできるかな?」
「大丈夫、フェイなら上手くできるって」
「お、おう!」
ルナに言われて、フェイはすぐにその気になった。男とはかくも単純なものである。
新郎新婦席の横に設置された小さな壇上に昇ると、フェイはケホンと咳き込んだ。
会衆の視線が集中する。
「えー、皆様。俺……ケホンッ、わたくし、クロフの友人で、リア=フェイロンと申します」
ドヨドヨと会場がざわめいた。フェイのこめかみがヒクつく。
――――なんだよ、その反応は。そこっ、黒猫とか言うなっ……いやいや、怒るな。クロフの大切な日なんだ。笑顔だっ、笑顔っ!
フェイはクエスト屋で培った作り笑いを顔に貼り付けると、これでもかと明るくしゃべり始めた。
「まずはクロフ、結婚おめでとう! 思えば、クロフと出合ったのは八年前、巨道商店街で幼きクロフ君が財布をスられて泣いている所でした」
「あああっ! お前、それをここで言うかっ?」
クロフの反応に会場がドッと沸いた。
これでフェイのイライラもあっという間に解消され、口にも油がのる。
「あの事のクロフは貧弱で泣き虫で、そのくせ負けん気が強くて、毎日のように喧嘩を吹っ掛けられました。倒しても倒しても、毎日挑んできたのです。そして、忘れもしない三年前の夏の日、とうとう私はクロフに負けたのです。彼は初志貫徹、有言実行、愚直な男です。レンファは良い人を選んだと確信している次第です」
おおおっとドヨメキが響き、「あの黒猫にか」と云う言葉がハッキリと聞こえる。
そのせいか、ちょっと毒の効いたジョークがフェイの口から漏れる事になった。
「なんと言っても、あの短気で傍若無人で人の話を聴かないクソ領主に仕えているのです。その忍耐力は保証付きでしょう」
シン
会場が静まり返った。
滑ったか、と思ったフェイは慌てて話を締めくくる。
「え、ええと、兎に角、クロフ、レンファ、おめでとうっ! 末永くお幸せにっ!」
パチ……パチ……
非常に疎らな乾いた拍手が響く。
その冷え切った空気にショックを受ける間もなく、ルナが引き攣った顔で次の挨拶者を紹介した。
「では、続きまして上司代表――領主様」
「――は?」
壇上から降りようとしたフェイの肩が、背後からガシリと掴まれる。
振り返ると、ヤツがいた。
「小僧、宴席に戻るにはちょっと早くないか?」
「……ははは、ですよねぇ」
フェイはラマのように引かれ、再び狭い壇上に引きずり戻された。
むろん、領主も一緒である。
「さて、紹介に預かったゼクス領主ラドクリフである。クロフ、おめでとう。日頃の功績を称えて、わしから一発芸を贈ろう」
「い、一発芸ですか?」
「うむ」
領主は嬉しそうに頷いた。
「人間花火だ」
領主はフェイの両肩を鷲掴みにすると、上へ放り投げた。
当然、重力にひかれてすぐに落下する。
その先に見えるのは、拳を溜める領主公の姿であった。
「うおあああぁ! ちょ、ちょっとまって――」
落ちてくるフェイに向って、領主公は渾身の一撃をもって答えた。
「たあまやああああああぁ!!」
ドゴォン
「おおお、これまたすごいな!」
「新記録だっ!」
「かーぎやーっ!」
すっかり酔いのまわった衛視たちはヤンヤヤンヤと喝采を贈った。
「ありがとう、忠実な衛視諸君。さて、わしは職務に戻らねばならない。名残惜しいがさらばだ。クロフ、末永く幸せにな」
「あ、ありがとうございます」
クロフが引きつった顔で礼を述べた頃、
グシャ
ようやくフェイが落ちた。
パーティは終わり、コノハとフェイは連れ立って教会を後にする。
日は傾き、間も無く夕焼けが始まる時間になっていたからだ。
「フェイ、無事終わってよかったね」
『無事じゃねーよっ! ってて、くそっ、脇腹が……』
「大丈夫? 肩貸そうか?」
『……いや、いい』
仮面越しにフェイが断るとコノハは少し不満そうな顔をした。
しかし、こんな事にめげている暇はコノハに無い。婚約パーティの帰りにフェイが告白してくれたのに、色々と事件があったせいで返事がうやむやのままなのだ。
だから、コノハはこの日、このタイミングで返事をしようと心に決めていた。
その前に、まずは人気の無い場所――仮面を外せる場所まで行かなくてはと、コノハは帰路とは違う道に入り、クルリとフェイを振り返った。
「フェイ、ちょっと来て欲しいところがあるんだけど」
『そっちは丘しかないぞ?』
「いいから、来てよ!」
有無を言わせない態度に、フェイは首を傾げながらもコノハの後ろを歩き始めた。
コノハは少し俯いたまま黙々と進み、とうとう小さな丘の頂上まで進んだ。
丘の上は低い草が一面に生えており、それゆえ見晴らしは非常に良かった。夕日に染まったその場所は、十分に美しい光景と言えるだろう。
しかし、こんなものゼクス領では珍しい光景ではない。早く帰って休みたいフェイは、少し声を荒げた。
『おい、コノハ、引き回すのもいい加減に――』
「フェイ!」
突然、コノハは立ち止まると振り返った。
「ここなら大丈夫だから、仮面を取って」
『え?』
「もうっ! ちょっと頭下げて」
そう言うと、コノハはフェイの顔からするりと仮面をとりはずした。
息苦しかった仮面が無くなり、さわやかな緑の匂いと、コノハの香水の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「で、こんなところに連れてきて、いったいどうしたんだよ?」
フェイが尋ねると、コノハは俯いたまま、奪い取った仮面をもじもじとお腹の辺りでいじる。
「あ――あのね、まず確認したいんだけど、一昨日、セシリア様に会った時、抱き合ってたよね?」
途端にフェイの顔が真っ赤に染まった。
「ちがっ、あれは違うぞ! 変な意味は全く無い! ただ、オルフェルが無事で嬉しくて、それでつい」
「うん。たぶん、そうだと思ってた。それを聞きたかったの」
「ふうん……えっと、要件はそれだけか?」
その言葉に、今度はコノハの肩がピクリと跳ね、その顔が夕日に負けないほど真っ赤に染まった。
「コノハ?」
フェイの呼びかけに答えず、コノハはスーハーと深呼吸を繰り返し「よし」と頷いた。
「あのね、フェイ。領主様の邸宅から私を背負って帰った時、覚えてる?」
「……ああ、あの時か」
「そう、その時、私に言ってくれたじゃない」
何のことだ、とフェイはあの時にした会話の内容を思い出い返す。
確か、コノハに色々と昔の事を言われたが、これではないだろう。
その後、三年間と気持ちは変わっていないかと聞かれ、ゼクス領で一番強いのはコノハだと言った事だと思い、「お前が一番だと思ってるよ」と答えたのだ。
となると、またこの話題だろうか?
――――いやまてよ、それは結論が出てるよな。となるとその後、王子救出を手伝ってくれってお願いした事か?
そうだ、きっと手伝いをお願いした事だろう。ひょっとして謝礼でも欲しいのかもしれない。
フェイは考えの末に出た結論に満足する。
「あの時の返事……今、するね」
「え? でもコノハ、あれはもう終わった事だろ?」
「……終わった、コト?」
コノハの声音が乾いたモノに変わる。
しかし、フェイにそれが何を示すか分かるはずもない。
「だってほら、もう王子は無事に救出できたし」
「……まさか、あたしが、依頼を手伝うように、あんな事、言ったの?」
「まさかって、そんなの当たり前だろ。何を今更、バカだなぁコノハは。あっはっは」
バキン
コノハの手の中で頑丈なハズの仮面が砕け散った。
そして、操り人形の糸が切れたように、コノハがその場にペタリと座り込む。
「おい、コノハ?」
フェイは俯く悪魔の肩に手を置いた。
それが既に人間をやめた存在だと警告する者は、誰もいなかった。
コノハはスッと顔を上げた。
「ぎゃあああああああっ!!」
その顔を見た瞬間フェイは絶叫を上げるや、バッタのように飛び跳ねて丘を駆け下りた。
カサカサカサカサカサ
逃げるフェイの後方から、奇妙な音が追従する。
――――振り返るなっ! 振り返ったら負けだ!
フェイの理性は振り返ることを全力で止めた。
だが、絶大な恐怖はそれすら紙のように押しのけ、フェイはつい肩越しに後ろを見てしまう。
そこに、四足で迫る悪魔がいた。
カサカサカサカサ
「ぎゃああああああああっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ! 教会行ってごめんなさいいいいっ!」
「やあ、おかえりフェイ……随分やつれたな。おい、泣いているのか? フェイ?」
エルカに返事をせずに、フェイはフラフラと自室に入っていった。
――――寝よう、死ぬほど寝よう
真っ暗な部屋に明かりもつけず、フェイはベッドに潜り込もうとした。
しかし、部屋の異変に気が付く。ベッドが盛り上がっているのだ。
僅かに匂うのは砂漠の民が使う香の匂いだ。
――――誰か、いるのか?
ベッドの中に潜んでいた者も、フェイが入った事に気が付いたらしい。
隠れるのをやめ、ゆっくりとベッドから姿を現す。
「なっ」
月明かりにまぶしい素足がまず目に飛び込んだ。
毛布をゆっくりと落とすと、衣服を何もつけていない起伏のある胸が晒された。
いや、下は裸でない。ただ辛うじて陰部が隠れるような下着を付けているのみだ。
侵入した人物は、ベッドから立ち上がると、恥じらいもせずフェイの前で立ち尽くす。
「……カシム?」
「待ちかねたぞ、リア=フェイロン!」
カシムは立てかけてあった大根棒を取ると、フェイに突きつけた。
「さあ勝負だ! この日をどれだけ待ちわびた事か!」
「その前に答えろ……その格好は、何だ?」
カシムはブーメランのようなぴっちりした黒革のパンツを、誇るように逸らす。
真ん中が盛り上がっているのが無性に憎い。
「貴様の速度に対抗するため、徹底的に洗練された究極の戦闘スタイルだ! 見よ、この無駄の無い姿!」
「お前の全てが無駄だあああっ!」
フェイの怒声にカシムはにやりと笑う。
「黒猫め、この姿に臆したか」
「誰でも臆すわ! 大体、この前は正々堂々と勝負するって言ったじゃないか! 今、俺はボロボロの上に素手だ。見て分からないのかっ?」
カシムは侵入したらしい窓から、大根棒を投げ捨てた。
「体調不良は貴様の不手際だ。不運を呪え。さぁ、俺も素手になったぞ。肉弾戦といこうか」
「いいから寝かせてくれぇ……」
「それはできん!」
カシムは腰を落として、タックルの構えを取る。
「今夜は…………寝かさない」
ささやくようなその声に、とうとうフェイは、キレた。
「エルカッ! フェイはいるっ!?」
「どうした、ルナ。何を怒ってる?」
「いいから、フェイはどこなの!」
フェイが自室にこもったすぐ後に、今度はルナがエルカーナを訪れたのだ。
エルカは戸惑いながらも、隠す理由も無く、素直に答えた。
「一応、フェイは自室にいるが」
「部屋ね。ちょっと、はやくどいてっ!」
ルナはガンガンと床を踏み鳴らしながら、フェイの自室の前に向った。
そして、フェイの部屋の扉の前に仁王立ちになったルナは、ノックもせずにドアを一息に開く。
「ちょっとフェイ! あなたコノハに何を言った――の――」
そこで見たものは、組み伏せたフェイと組み伏された裸のカシムである。
フェイの胸元ははだけられており、なによりカシムの黒パンツがルナの網膜に焼き付く。
「きゃあああああああっ!」
ルナは悲鳴をあげて去り、残されたフェイはカシムの上で泣き崩れた。
「ハァッ――ハァッ、コ――コノハッ!」
「ルナ、どうかしたの?」
教会の講堂で待っていたコノハの問いに、息を切らして走ってきたルナはガクガクと頷いた。
「――理由が、分かったの。ショック受けないで聞いてね」
「うん、覚悟してる。たとえフェイがロリコンだったとしても」
「フェイ、実はね……」
「実は?」
ルナは沈痛な面持ちで、しかし容赦なく告げた。
「ハードゲイだったの」
「…………うわ」
「きついね、きついよね」
ルナに抱き寄せられたコノハは、その胸にポタリと涙を落としたのだった。