(21)準備はいいか
「準備はいいか、コノハ」
エルカはライトブラウンのシャツとダークブラウンのサーコートを身に付け、コノハの着替が終わるのを今か今かと待っている。その風格はどこからどう見ても貴族であり、普段のナンパな雰囲気は微塵も無かった。
一方、コノハもエルカーナの一室にこもり、ドレスの着替えや化粧をルナに施してもらっていた。
「ゴメン、もうちょっとかかりそうなの」
コノハの代わりにルナが部屋から顔だけを出し、どことなくウキウキとした口調で言う。
「今日は遊びじゃない、目立たない感じで頼むよ」
「わかってるけど、ちょっとは、ね。あと十分くらいだから」
「分かった、パーティは十八時に始まるんだ。なんとか早めに行って経路を確認しておきたい」
「はいはい」
気の無い返事をすると、ルナはバタンと扉を閉めてしまった。
エルカは小さく息を吐くと、衛視の配置図にもう一度目を通す。それはクロフが今朝持ってきた情報を図面化したものだ。
その時の事を思い出すと、ますます失敗は出来ないと思った。クロフは危険を顧みず情報を提供したばかりか、帰りがけ『俺も参加できないか』とエルカに聞いてきたのである。
当然侵入できる人員に空きは無く、無理だと断ったのだがクロフはしつこかった。
『クロフ、君が衛視をクビになったらフェイがどれだけ悲しむか、分かるか?』
その言葉をもって、ようやくクロフは諦めたのだ。
これで失敗すれば、どれだけ恨まれるか分かったものではない。『頼む』と、言い残してクロフは衛視の仕事に戻った。重いものを頼まれたものだとエルカは苦笑する。
そもそも、このパーティの発案者はエルカ自身なのだ。妹の恋心をちょっと煽ってみるつもりが、大切なパートナーを危険に晒してしまっている。
『自分でやった事の責任は自分で取れ、それがこの町のルールだ』
そうフェイに言ったのもエルカだ。その責任を、今こそ取らなくてはならないのである。
エルカはギュッと手を握ると、もう一度、衛視の配置図に目を通した。
「お・ま・た・せ」
約束の十分を少し過ぎた頃、ようやくルナが応接間に戻ってきた。これ以上無いほどの上機嫌だ。
「じゃーん!」
ルナは手を引いてコノハを部屋から引きずり出す。
恥ずかしそうに俯くコノハは、まるで見違えてしまっていた。
いつもは邪魔にならないよう後ろで縛ってある真っ黒な髪をバサリと落とし、髪先を幾つもの金管で束ねてある。その長さは胸元まであり、それだけでだいぶ印象が違う。
ドレスは目立たないようオーソドックスなダークパープルのフィットドレスだが、着る人が着れば妖艶なドレスになるらしい。大胆に切れ目の入れてあるスカートのスリットが印象的だ。
「ほら、コノハ、顔上げて。化粧が会心の出来なんだから。ほらエルカ、見てよ」
ルナに促されて、コノハはゆっくりと顔を上げた。
エルカは一瞬、本当に別人かと思った。しかし、確かにコノハだ。
日に焼けて荒れていた肌は、見違えるようなきめ細かな小麦色の肌に変容しており、しかし、化粧を意識させない絶妙な色合いだ。
口には朱が、頬には薄いチークが、ややきつめに見られる目元には、柔らかな色のシャドウが施されている。
それ以上の細かな化粧については、エルカですら何が施してあるのかわからなかった。分かったのは欠点だった顔のきつい部分がいっさい無くなっており、それが別人だと思ってしまった原因だと気付く。
「たしかに、とても綺麗だと思うよ。ただ――」
エルカが『ただ』と続けたので、二人は何を言われるかと、それぞれ不安な顔を見せる。
「――ただ、今のコノハをフェイが見たら……見惚れて動けなくなるな」
「あははっ。うん、そうだよね!」
ルナは合格がもらえたことに安堵して笑い、エルカはどんな時でもエルカだなぁと妙に納得した。
一方、コノハは笑わなかった。それどころか化粧を施されてから、一切口を開いていない。強張った顔で、手はギリギリと握り締められている。
緊張しているのだ。
この違和感のある格好で貴族達と談笑し、フェイを救い出さねばならない。それを考えると、今さらながらひざが震えた。
第一、丸腰で行かなければいけないのが落ち着かない。せめて、棒切れの一本でも持っていきたいのだ。
「じゃあ、エルカ、コノハ、気をつけてね。くれぐれも無茶はしないで」
「ああ、行ってくるよ。コノハ、不安そうだが大丈夫か?」
しかし時間は、無情にもやって来る。
――大丈夫、絶対に上手くいく!
コノハは覚悟を決め、小さく、ゆっくりと頷いた。
ゼクス領は鉱都と呼ばれている。
かつてバイスレイト以外にも金、銀、鉄等が採掘できた為、そう呼ばれるようになった。しかし、今では金と銀は既に掘り尽くされ、商業都市と云う位置付けに変わったのだ。
ただ、巨道バイスアルムを通した商業利益は莫大であり、その領主公女のお披露目パーティとなると、シュバート国全体でも有数の外交場となる。
しかも、来客に将軍や王子も参加すると聞かされたラドクリフ邸の侍女、執事、調理人達は色めきたっていた。
「何だこの肉はっ! 王都から最上級のものを頼んだはずだろっ!」
「すっ、すみません。昨日から王都の仕入れ馬車が来なくて、一応、ここらでは最高の肉なんですが……」
「ふざけるなっ! 何だこの肉の色、まるでラマみたいじゃねーか! もういい、お前、市場でツヴァイ産の最上級エビと魚を買い占めて来い!」
「ええっ!? 今からですかっ!?」
「セシリア公女殿下に恥かかせるつもりか? つべこべ言わずにさっさと行けっ!」
特に調理場は鬼気迫っていた。
その様子をこっそりと見ていたガラムは、戦場にいた頃には無い不安に襲われる。
――しかし、失敗する訳には行かない。ゼクス領の、いや、セシリア様の未来がかかっているのだ
今朝から急に協力的になってくれた公女を思い出し、ガラムは気を引き締めた。ようやく覚悟を決めたのだろう。
泣いても笑っても、一時間後には招待客が大挙してくるのだ。その前にやれる事はやっておかねばならない。
「まずは、セシリア様の様子を見てくるか」
ガラムは調理場を後にし、中庭にやって来た。
直径百キュピトのバイスレイトでできた巨大舞台があり、それを一キュピトの水路が円を描くように覆い、さらにその周りを樹木や花々が覆っている。
ゼクス領自慢の『満月の庭園』である。
舞台の形が完全な円であり、満月の夜に最も美しくバイスレイトが輝く為そう呼ばれている。しかし、ここにセラはいなかった。
ガラムはその足で牢屋にも行ったが、看守役のアズマも知らないと首を振る。
「セシリア様……いったいどこに」
と、そこまで考え、肝心のセラの部屋を確認していない事に気がついた。時間の猶予は無い。ガラムは大慌てでセラの部屋に向かった。
そこには案の定、人の気配がある。
「ヒック――――ヒック――」
――まだ泣いておられるのか
ガラムは扉をノックし、返事が無いので、そのまま中へと入った。
侍女たちは公女を精一杯大人に見せたかったのだろう。深紅と黒を基調としたドレスを着たセラが、真っ白な帽子を胸に震えていた。
その帽子には見覚えがある。最後に脱走した際、フェイに贈られたものだ。
「……セシリア様、もう、お時間です」
セラは俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。その動きには生気がまるで感じられない。
「その帽子はお預かりしましょう。もし御辛いのでしたら、私めが処分しますが?」
「駄目! これだけは……これだけは、誰にも、渡さない」
鏡台の引出しを開けると、帽子を生き物のように大切にしまう。
そして、ようやく顔を上げたセラの顔は――まるで死者のようだった。
白粉をかるく振った顔は、その必要が無いほど真っ白であり、目はドレスに負けないほど赤い。
長い金髪は、きっちりと頭上で結ってあり、確かにいつもより大人に見える。しかし、ガラムはいつものセラの方が、何倍も美しいと感じた。
無論、忠実な臣下はそんな感想はおくびにも出さない。
「さきほど特注の靴が届きました。早く慣らさねばなりません。さ、参りましょう」
「う……」
「セシリア様?」
「うおえええええええっ」
過激な掛け声と共にセラは嘔吐した。ガラムは急いで布巾を用意すると、汚れたドレスや口元を拭く。
幸い、ほとんど胃液しか出ていないため、ドレスの着替えだけは免れた。
「セシリア様、どうなされました? 緊張しておいでですか?」
「昨夜から、ずっと気持ち悪いの……大丈夫、なんでもない」
セラはそのまま、ふらふらと着付け役が待つ部屋へと歩いていった。
その様子を見て、ガラムの心中にはある予感が生まれたのだ。
――――セシリア様――まさかっ!?
しかし、その疑問はしばらく保留となる。なぜなら、セラと入れ違いに衛視の一人が走りこんできたのだ。
「ガラム様、急いで応接間にお戻りくださいっ!」
「む、どうした?」
「ゴッ、ゴリネル将軍が、到着されました」
「ちっ! 予定より早いではないか」
ガラムは忌々しげに舌打ちすると、大急ぎで応接間へと駆け出した。
「久しぶりだな、ラドクリフ公」
「ご壮健とお見受けします。ゴリネル将軍」
「貴公も相変わらず頑健よな。とても五十を過ぎたようには見えんよ」
ゴリネルは太った腹をゆすって笑った。
どちらが将軍かと他国の人に聞けば、十人中十人がラドクリフ公を指すだろう。それほど、ゴリネルは将軍としての迫力に欠けていた。
目鼻立ちは丸みを帯びており、赤みがかった髪はやや薄く前頭部は顕著だ。それを隠すように横の髪を前頭部に回してセットしてある。そして、ラドクリフ公とは対照的な脂ぎった体躯、どれもが将軍としての威厳に欠けていた。
しかし、世襲制の貴族達とは違い、将軍は勲功のあった者が就任する。ゴリネルは盗賊団ゴルゴンを何度も退却せしめ、将軍にのし上がった歴戦の将軍なのである。
将軍は国王に次ぐ権威があり、公爵より位が上だ。
九公爵の一人とはいえ、無礼は許されない。
「ところで、ゴリネル将軍。再三ゴルゴン討伐の要請を出したはずですが、現在はどのように」
「ラドクリフ公、今日はそのような無粋な話をしに来たのではない」
「しかし、ゴルゴン討伐はシュバート国の――」
「ああ、そうそう! 来る途中、妙な噂を聞いたのだが、説明していただけるかな」
「……噂、ですと? なんの噂ですかな」
ラドクリフ公は表情を変えずに聞いた。しかし、聞くまでも無い。街中で騒がれている噂と云えばたった一つだ。
ゴリネルは勿体つけるように、あごひげをひと擦りして、ニヤリと唇の端を歪めた。
「黒猫だよ」