(20)パーティ前夜
パーティ前夜、月は明日満ちるのを待ちきれないように、その白い体を惜しげもなく夜空に晒していた。
ただ、パーティの存在すら知らないフェイには、その月を見ても何の感慨も抱かない。
眠れぬ夜の気まぐれに、小窓から溢れそうなぼんやりと月を眺めていただけだ。
――そういえば、小さい頃も眠れない夜は一人で月を見てたっけ
月の光は時に遠い記憶を呼び覚ます。フェイが思い出したのは、幼き日の眠れぬ夜だった。
孤児仲間と住んでいた空き倉庫は、夏になると蒸し暑くとんでもなく寝苦しかった。そこで一人でコッソリ抜け出しては、お気に入りの大きな木に登ったものだった。
その木には細腕のような枝が横に並んだ場所があり、そこへ横たわると、何故か酷く安心するのだ。
そこから月を見上げては、眠るまで人差し指でおでこをこすっていた。
――今考えると、俺ってほんと女々しいヤツだったな
おでこをこすっていた理由を思い出し、フェイは苦笑を漏らす。
その理由とは母親が眠る前、よくおでこにキスをしてくれた様な気がしたからだ。
しかし、実際にはフェイは物心つく前に捨てられており、そんな事を覚えているわけがなかった。
それに自分を捨てるような人間がキスなど、してくれるわけもない。
「ったく、ほんとにガキだったな。くだらねえ。捨てられたくせに変な望みなんてさ。さっさと捨てろよな、恥ずかしい」
フェイは過去の自分をあざ笑うと、手の平で両目を覆い、そしてポツリとつぶやいた。
「……けど、」
『けど』の先を言葉にすることは辛うじて耐える事ができた。
だが、心で思う事は止められない。
――けど、その記憶が本当だったら……俺を捨てた時に母さんは、泣いてくれたのかな
月の光は遮ったのに、フェイの胸には幼い頃の寂しかった記憶がふつりふつりと甦ってきた。
今夜は、眠れそうに無かった。
セラはベッドからムクリと起き上がり、真っ赤に腫れた目をゴシゴシとこすった。
どうやら泣き疲れて眠っていたらしい。
グルリと周りを見回す。
――誰も、いない
部屋は真っ暗で、しんと静まり返っていた。
皆、泣き続ける自分に愛想を尽かし、どこかへ行ってしまったのだろう。
これだけ泣いても事態が好転しない事は今までなかった。つまり、泣こうが喚こうがどうにもならないのだ。
しかし、諦める訳にはいかない。婚約者が、大切な人が牢で救出を待っているのだ。
――もう一度、お父様にお願いしよう
フェイに教わった通り、思いを言葉にしよう。ちゃんと伝えよう。
そう決めたセラは、腫れぼったい顔を水ですすいで自室を出た。
寝間着のまま広い廊下をペタペタと歩く。開かれた窓から見える月はもうほぼ満月だった。
「もう、明日なんだ」
新しい婚約者を決めるなんて考えられない。
しかも、フェイを牢に入れてまでやることでは絶対にない。
――フェイ、ごめんね。すぐに出してあげるから
やがて、執務室の扉が見える。
夜はかなり更けていたが、そこからは灯りが漏れており、部屋からは父とガラムの声が聞こえた。
「――領主公、婚約パーティはもう明日なのです、嬉しくないのは分かりますが……」
「当たり前だ! 娘を誰かにやる作業が嬉しい訳が無いだろう!」
地を割るような怒鳴り声、セラがあまり耳にしない不機嫌な罵声である。
勿論、父が本気でガラムを罵倒している訳ではないことは分かる。むしろ信頼しているからこそ、思いの丈をぶつけているのだ。
しかし、セラは父の怒鳴り声にすっかり萎縮してしまい、執務室まで後一歩のところで、その足は止まってしまった。
「しかし、やらねばなりません。既にエドガー王子がこちらに向かっているとの事です」
「王子か……王子と縁談がまとまれば、軍を動かすには十分な口実が出来るな。あと有力な貴族も教えてくれ、挨拶せねばならんだろう」
「はい。海都ツヴァイ領のリーガン公子、美都アハト領のコーディリア公子、我が領からはケント伯のご長男……あと、ゴネリル将軍本人が」
「なっ――ガラム! 貴様はあやつにまで招待状を出したのかっ!」
「いえ、どこから聞いたのか是非参加したいと手紙だけよこし、既にここに向かっているとの事です」
「あやつは既に四十近いではないかっ!」
「ですが、実質的な位は王子より上です。御来訪を断るのは不可能かと」
「ゴリネルめがセラを望めば、差し出さねばならん、という事か……」
セラの足が震える。
何を言っているかなど分からなくとも、迫り来る漠然とした結果だけは分かる。
自分が誰かのモノになって、フェイとは二度と会えなくなるという事だ。
なんとか会話に割って入りたかったが、しかし足は執務室まであと数歩の場所からピクリとも動かなくなっていた。
「……領主公、一つよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「領主公にとって、セシリア様はただの娘ではありません。亡き、奥方様の身代わりでございます」
「……だから、何だと言うのだ」
「セシリア様は、絶対に助からないと言われた状態で生まれ、それでも助かった奇跡の御子です。ただ、医者の見立てでは、それが原因でお体がこれ以上成長できないとのこと――」
「くどい! だから何だと言うのだ、単刀直入に言え!」
今度こそ、セラのひざから力が抜けた。
――成長しないって何?
そんなこと何も聞かされていなかった。
これ以上聞いてはいけないと言う思いと、それでも知りたいと願う願望の狭間で、その会派は容赦なく続けられた。
「では、言わせていただきます。セシリア様を政治の世界から遠ざけること、それが領主公の本心ではないでしょうか?」
「ぬかせっ! 何故我々貴族が領民から税を受け取る? 何故貴族に生まれただけで飢えない? それは貴族に領を繁栄させる義務があるからだ! 貴様とて、一族の長だったのならわかるはずだっ!」
「しかし、セシリア様は――」
「セラがどうだと言うのだ? 仮に好き放題させて皆になんと説明する? 母親の命と引き換えに生まれた事が、何かの理由になるとでも言うのか!」
その後の言葉は、もう聞こえなかった。
セラはきた道を引き返すと、声にならぬ悲鳴を上げながら、月夜に浮かぶ廊下をまろびながらも走り続けた。
――私が、お母様の命を奪った
やっと理解した。
小さい頃から兄が自分をうとんでいた理由が、母親の存在を問うた時の気まずそうな侍女たちの反応の意味が。
だから兄は家を出て、この体は小さいままで、フェイは牢に入れられているのだ。
「――フェイ、フェイを探さなくちゃ、そして、言わなきゃ」
言わなくてはならない。
自分は汚れているのだ。罪人なのだ。
だから、この領のために犠牲にならなければならない。
だから、言わなくてはならない。
『ごめんなさい』と、そして、『さよなら』を。
ダンダンダンッ!
詰め所の扉が激しく叩かれる。
囚人一人を監視するだけで暇だったアズマは、何事かと飛び上がった。
扉を開く――が、誰もいない。
「お願い!」
いや、視線を下に向けると、やや寝癖のついた金色の頭が見えた。
「セシリア様! いったいどうなされました」
「フェイを、フェイのところに行かなきゃ……言わなきゃ……」
寝間着のままの公女を見る。
その顔は蒼白であり、目もうつろで、今にも倒れそうであった。
「セシリア様、明日は大切な日でございます。どうか、お部屋でお休みください」
「お願い。どうしても、どうしても、言わなきゃいけないの」
アズマは悩んだ、勝手に面会させれば今度こそ城から追い出されるかもしれない。
だが、目の前の少女の事を思う。
明日、別の婚約者が決まれば、もうフェイと会うことも無いだろう。
これが最後かもしれないのだ。
「セシリア様、少しだけですよ」
セラは唇を引き結んで、小さく頷いた。
アズマの後ろについて、セラはゆっくりと階段を上がる。
牢は四階建てである領邸の五階、屋根裏部屋とも言える場所にあるのだ。
セラはそこに足を踏み入れた事など無い。
一歩、一歩、未知の階段を登る度、セラの心に不安が積もっていった。
――できれば、笑顔で言いたい
『さよなら』の言葉を思うたびに泣き出しそうになる。
しかし、言わなくてはならなかった。フェイを自由にしなくてはならない。
そうしなくては、フェイの身も危険だと言う事がようやく分かったのだ。
――私の婚約者になんかなったから、フェイは……
母親の命を奪った次は、フェイの自由も奪い、さらにはその命を危険に晒してしまっていたのだ。
無知な自分に唇をかみ締め、こぼれそうになる涙を、まぶたの裏でこらえる。
やがて、階段は終りを迎え、無骨な扉がゆっくりと開かれた。
「――っ!」
まず鼻をついたのは酷い悪臭だった。
その向こうでボロ布に包まっている黒い影が動く。
光の加減で顔が影になっているが、見間違えようが無かった。
「……フェイ」
「セラか?」
フェイは驚き、額にやっていた手を下げると起き上がった。
月明かりを浴びたフェイの顔は腫れており、体もボロボロだった。
この汚い部屋で10日間も閉じ込められた事を思うと、言おうとした『ごめんなさい』が鉛のように重くなり、その重さに怖気づきそうになった。
一方、フェイも何を言っていいか分からなかった。
ひたすら泣いていたと聞いたとおり、セラの泣き腫らした目や蒼白な顔が、心に刺さったからだ。
「では、しばらくしたら迎えに上がります」
アズマはうやうやしく一礼すると、しずかに扉を閉め、律儀に階段を下りていった。
しかし、二人きりになっても、セラは口を開けなかった。なにか言葉を紡げば、そこで泣いてしまいそうな気がしたからだ。
もう少し、もう少しすれば、きっと言えると自分に言い聞かせる。
「まだ、起きてたのか?」
先に口を開いたのはフェイだった。
その変わらぬ優しく低い声に、セラは口を引き結んだまま、小さく頷く。
「眠れないのか?」
この状況で、こんな状況でも心配してくれるのだ。
――好きになってよかった
セラはその気持ちを胸いっぱいに吸い込んだ。
そして、ゆっくりと頭を下げる。
「ごめんなさい」
「――は?」
「明日、私の婚約者が決まるの」
「セラ?」
「だから、無かったことにするから。私とフェイは会わなかった。そしたらフェイは自由だから、ここから出られるから、だから……」
じわりと浮かぶ涙を、目を閉じて堪え、精一杯の笑顔を作る。
「さよなら」
月の光を浴び、無理に笑う少女を前に、フェイは言葉を失った。
素直に『さよなら』と言い返せば、きっと自由になれるのだ。
だが、その言葉の意味はセラを捨てるという事なのだ。
フェイは何がなんだか分からなくなり、月を見上げた。
『眠れないの?』
ふと、声が蘇った。
女性の声、懐かしい声、とても落ち着く声、温かい声。
その後に続く、額の温かなぬくもり。
――ああ、あれは本当に俺の過去だったんだ
月の光で蘇った記憶をなぞるように、フェイは額をひとなでする。
そして、目をつぶって震えながら笑っているセラに近づいた。
綺麗な寝間着を汚さぬよう、身をかがめる。
そして、月明かりに白い額へ、そっとキスをした。
パチリ
セラの目が開かれ、離れていくフェイの顔を凝視する。
「おやすみ」
フェイの言葉に、セラはようやく何が起こったのか理解した。
蒼白だった顔は目に見えて赤く染まる。
しかしそれに終わらず、今度は真っ青になった。
「お、おい、セラ?」
セラは真っ青な顔を歪めてうつむき、屈み、床に手をつき、
「おええええええっ」
「吐くかよっ!」
セラは盛大に吐いた。
この騒ぎを聞きつけたアズマがセラを連れ去ることになり、フェイは傷つきながらもゲロの清掃に当たった。
アズマはセラの背中を擦りながら、ゆっくりと階段を下りる。
「おそらく、あの部屋の悪臭にやられたのでしょう。さ、足元に気をつけてください」
アズマはそう言ったが、セラは納得しなかった。
それも理由の一つかも知れないが、一番大きな理由はそれではなかった。
確かに額にキスをされたと分かった瞬間は、本当に嬉しかったのだ。心が震えるほどだ。
しかし、その直後、もう一人の自分が囁いた。
『お前に、その資格は無い』
その声が聞こえた瞬間、体の奥底から途方も無い不快感がこみ上げたのだ。
――最後、だったのに
みっともない姿を晒した事が、たまらなく恥ずかしかった。
――でも、『さよなら』を言えた
あのキスはフェイの『さよなら』だったのだ。最後のプレゼントだったのだ。
もういい、もう十分だ。早く部屋に帰って、思い切り泣こう。
セラはまだぬくもりの残る額を、そっとなでた。