(17)小さな手
小さな手が紫のワンピースへと伸びる。
「フェイに酷い事しないでください!」
セラが掴みかかったのだ。お陰でフェイは開放され床の上に尻餅をつく。
一方、掴みかかられた女はやってられないと苦笑を漏らした。
それはそうだろう。セラがさぞ傷ついただろうと思って平手打ちまでしたのに、これではまるで道化である。
女は虫のようにまとわりつくセラを引っぺがすと、その頭にため息を落とした。
「そうかい、そりゃあ悪かったね。でもこれくらい許してくれよ。なんたってあんたらはあたしの恋を終わらせたんだ」
「あ、あんな間違った恋なんかっ」
「そうね、あたしの恋は間違いだった……」
女は一瞬だけ厳しい顔を見せるときびすを返し、床に落ちていた真っ白な帽子を拾い上げる。
「私の恋は、生まれてくる場所を間違えたんだ。でもさ、それだけなのにね……」
その寂しそうな後ろ姿に、セラは息を呑んだ。
今更ながら自分がもたらした結果を見つめ、下唇を噛んだ。
「……」
「ああ、そんな顔する事なんかないよ。適っちゃいけない恋なんだし、いつかこんな日が来る事は分かってたさ」
女はパタパタと帽子を振って、再びセラの前に戻ってくる。
「でも、終わらせたのが公女様で良かったよ。託す相手としては十分すぎるからね」
「……託す?」
大きく頷き、女はセラの耳元で何かをささやいた。
そして、白い帽子をゆっくりと、まるで重いガラスでも持っているかのように手渡した。
「あ、あの……ありがとうございます」
セラが頭をペコリと下げると、女は満足そうに微笑んだ。
「そう。その言葉でいいんだよ。さ、もう行きな。いつまでもここに居ちゃまずいだろう」
そこで、フェイは「あっ」と声を上げる。
女の言う通り、このままこんな場所にいては第二第三の追っ手がやってくるだろう。
はやく逃げなければならない――そう思って立ち上がったフェイに、女は声をかけた。
「そこのリア=フェイロン。まさか、まだ置いてくつもりじゃないだろうね」
何の事だ、などと聞いたら本当に怒られそうだった。
なにせ女の側には不安そうに帽子を胸に抱いたセラが、じっとフェイを見つめているのだ。
女は親指の先をぐいと階段の下へ向けた。
「あの親衛隊さんをやっつけたのはあんただろ? なら、責任もって最後までこの子を守るんだ。まさかあたしに預けて終わろうってんなら、今度はナニを蹴り上げてやるよ!」
「わ、分かったよ。連れてきゃいいんだろ、連れてきゃ」
「――ほら、行っておいで」
背中をポンと叩かれたセラは小走りでやってきて、フェイの黒ジャケットの裾をしっかりと掴んだ。
これでまた振り出しに戻る、だ。
ため息を吐いたフェイに、女は早く行けとあごで合図する。
――分かってるよ。こうなったら一刻も早く教会に行ってセラを預けるしかないからな
フェイは肩をすくめると女に背を向け、宿屋の大きな扉をゆっくりと押し開けた。
コロン
小さなカウベルの音が響き――その直後だった。
どわあああああああ!!
カウベルの音はその何千倍もの音によって瞬時にかき消された。
一瞬、土砂降りかと思ったがそうではない。
人だ。
歩道を埋め尽くす人、建物の窓にも、屋根の上にまで人がいる。その全ての視線がこちらを見て歓声や口笛を吹いているのだ。
フェイはあんぐりと開けて立ち尽くし、セラも人の多さに圧倒され、小動物のようにキョロキョロとせわしなく首を動かした。
「な、な、なんだこりゃあっ!!」
フェイの絶叫は、周囲のどよめきにあっけなく押し返される。
「本当に姫様ってば小さい! 人形みたい! かわいいっ!!」
「さっき入った白犬野郎はどうしたんだ?」
「バカだな兄ちゃん! あの黒い人がやっつけたに決まってるじゃん! ゴルゴンを倒す英雄だぜ!」
「いいぞ! 黒い兄ちゃん! 絶対公女様の呪いを解くんだぞ!」
「呪いって、キスしたら解けるんじゃなかったっけ?」
「それより、頬の手形はなんだ?」
「セシリア様ー! 駆け落ちがんばってー!」
全員の遠慮のかけらも無い声援と視線が、二人に向かって容赦なく降り注いでいる。
――なんだこれはっ、なんだこれはっ、なんだこれはああっ!
フェイは真っ赤になりながらも、激励のつもりかバシバシと触ってくる人波を掻き分けて道を進み出した。
一方セラは「ありがとう!」とにこやかに帽子を振りながらフェイの後ろを離れない。
味方など、ここには誰一人いないのだ。
――帰りたい。早くエルカーナに帰って、お茶が飲みたい。エルカに会いたい
フェイ半泣きになりながらも、野次馬達の海をすり抜け、押し退けて、すこしでも早く教会へと駆け込もうと躍起になっていた。
だが、大通りに出た瞬間、人の群れがプツンと絶える。
「な、なんだ?」
人の海にぽっかりと無人の空間が出来ていた。
次に感じたのは異質な気配。
「……ようやく会えたな、リア=フェイロン」
重く、しわがれた声。
無人の空間の中央に、一人の屈強な戦士が腕を組んで立っていた。
そして理解する。この空間は、その戦士の人を寄せ付けぬ重圧によって作り出されていたのだと。
竜馬のような厳つい顔、短く刈り込まれた灰色の髪、黒い切れ長の目。
必要最低限の白鎧を身にまとい、その戦士は、薄く笑っていた。
「……風の、ガラム」
誰だろう、と思う前にフェイの口からその言葉が先に出ていた。
あまりに思い描いていた通りの戦士だったからである。
「いかにも。このナラド=ガラムディン、ゼクス領主ラドクリフ公の命により、貴様を捕える」
フェイの憧れの人が、今、目前でシャムシールを抜き放った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! セラは返す! だから……」
「言ったはずだ。領主公は貴様を所望なのだと」
「んなバカな!」
ガラムが一歩ずつ間合いを詰める。
しかし、フェイは迷っていた。
剣を抜けば良いのか、逃げれば良いのか、それすら決められないでいたのだ。
そんなフェイの前にセラが進み、両手を広げる。
「ガラム! やめて、お願い!」
「……セシリア様、失礼します」
ガラムは優雅に一礼し――その直後、風になった。
滑るような足さばきで十歩はあったはずの間合いを縮め、瞬きの間にセラの眼前に迫る。
そして、主人であるセラの首筋へ手刀を叩き込むと、倒れるより早く小脇に抱え、再びフェイと間合いをとった。
流れるような一連の動作。
あまりに速く、あまりに冷徹だった。
――ああ、俺はこうなりたかったんだ
フェイが絶望にも似た羨望を浮かべている間に、このガラムの所業を見た周囲の野次馬から非難の声がポツポツと生まれる。
「ひ……ひどい」
「そ、そうだ。セシリア様になんてことするんだ」
「人の恋路の邪魔するんなんて、サイテーよ!」
「ひっこめ! この悪魔!」」
「ラマに蹴られて死んでまえっ!」
初めはさざ波のようだった非難の声も、すぐさま津波のような罵声に変わった。
しかし、ガラムは眉一つ動かさない。
そして、ゆっくりと曲刀の先をフェイに向け、大地を揺るがすような声で叫んだ。
「ゴルゴンを倒す! そう誓ったそうだなぁ! リア=フェイロン!」
その一喝だけで野次馬たちは息を呑む。
罵声にまみれた大気が、針が落ちても聞こえそうな沈黙へと昇華されたのだ。
「なれば、このガラムを倒してみよ! 貴様の覚悟をここに示せ!」
そう言ってガラムはシャムシールを大上段に振り上げ、一直線にフェイに斬りかかる。
死ぬ――そう思ったフェイは条件反射でダガーを引き抜いた。
ギン
ダガーの側面を曲刀が滑り、火花が散る。
おおおおおっ
地鳴りのような歓声が沸きあがった。
――冗談じゃない、今のはわざと避けられるように斬りやがったんだ!
フェイの憶測を肯定するかのように、ガラムの目尻に浮かぶシワが濃くなる。
今や全ては相手の思惑通り、フェイは人垣と言う逃げられぬ監獄の中で、まんまと決闘しなくてはならなくなっていた。
しかし目の前にいるのはエルカの師匠で、ゴルゴンの副団長だった人である。実力など雲泥の差があるはずだ。
――俺は、死ぬのか?
足が震える。息が上がる。動機が苦しい。
恐怖を感じれば動けなくなると分かっていても、目の前の男はほとんど生きた伝説なのだ。
「ふっ」
鋭い呼気と共にガラムのシャムシールが再び迫ってくる。
今度は下からの残撃。
ギリリ
腕を狙った一撃を弾きながら半歩後ろに下がって避ける。だが、弾いたはずの曲刀がクルリとひるがえり、フェイの喉元を狙って蛇のように伸びた。
チッ
シャムシールはジャケットの襟をかすめ、一瞬前までフェイの顔があった空間をえぐる。少しでも遅れていたら、即死だった。
フェイの中で恐怖がさらに膨らむ。
「どうした! 名うての用心棒カシムを倒し、我が配下アズマをも下した男が、この程度かっ!」
――ふざけるな、二つとも偶然だ!
心では文句が言えるのだが、口に出す余裕は無い。
曲刀は変幻自在にうねり、必死で避け続けるフェイのジャケットを斬り裂いた。
その斬撃は、とてもダガーで受け止められるものではない。受け流して軌道を逸らし、そこに生まれた空間へ体をねじ込み、どうにかしのいでいるのが現状だ。
ジッ
しかし、確かに流したはずの剣先が曲がり、フェイの体に次々と裂傷を増やしていく。
ジャケットはすでにボロボロだった。
――長引けば、不利になるだけだ
フェイは必死で相手の隙を探す――だが、見つけたのは隙ではなく恐ろしい事実だった。
ガラムが抱えているセラの長い金髪が、まったく揺れていないのだ。
つまり、ガラムはほとんど動いておらず、逆にフェイの逃げる先ばかりが完全に読まれている事になる。
「……化け者かよ」
フェイのダガーは全く届かない、ただ避ける一方であり、ガラムは体を動かす必要すらない。
あまりにも完全な実力差だった。
ギリリッ
それでも、フェイは斬撃を受け流し続ける。
死ねないのだ。
まだ浮気調査の報酬ももらっていなければ、ルナに告白もしていない。奮発して買ったベルリーフティーの葉もたっぷり残ってる。
そしてなにより、もうすぐクロフの結婚式なのだ。
――あいつの結婚を祝うまで、死ねるかよっ!
覚悟が決まったせいか、ようやく足の震えが止まる。上がっていた呼吸が徐々に落ち着き、無駄な動きが減る。
シャムシールの不規則な動きも、徐々にではあるが法則が分かってきた。
そして、フェイがなにより実感している事がある。
――コノハの突きの方が、速いっ!
ジャリ
曲刀を頬のすぐ横で受け流し、そのままガラムの懐に入る。
そして、がら空きになった胸元にダガーを一閃――させようとして標的が消えた。
直後、真横から脇腹を蹴り飛ばされる。
フェイはなす術も無く宙を飛び、人垣に突っ込んだ。
人垣の輪がさらに広がった。
「落胆したぞ! 殺すつもりの無い剣で、このガラムが止まると思ったか!」
――さすが、エルカの師匠だ
殺されないためには確実に殺せとは、いかにもエルカが好きそうなノリだ。
――そりゃあ、出し惜しみなんか出来ねえよな
フェイは立ち上がると息をゆっくりと吸い込み、ダガーを逆手に構え直す。刺突には向かないが、掻き切る事に適した持ち方だ。
姿勢を低く、さらに低く構え、さらにその状態から前に倒れこんだ。
そしてアゴが地面に着くすれすれまで倒れた時――全身のバネを使い、這うように疾走する。
フェイは一枚の影になって、ガラムに迫った。
「……ほう」
ガラムの唇がつり上がる。
冷静にシャムシールを下段に構えると、間合いに入ったフェイを草を刈るようになぎ払った。
しかし、フェイはそれをさらに切り上げ、曲刀を下から潜り抜ける。
――いける!
足腰に負荷のかかる下段薙ぎの後だ、絶対に避けられるタイミングじゃない。
そう確信し、無防備を晒した足首目掛けてダガーを閃かせた。
ゴッ
ダガーに力を込めたとほぼ同時に、蹴り飛ばされていた。
ガラムは避けられぬと分かるや、斬られる足を使って問答無用でフェイを蹴り飛ばしたのだ。
確かに被害を最小に抑えられる可能性があるが、恐怖心が少しでもあれば出来ない事であり、フェイには想像もつかなかった行動だった。
そして、その結果、絶好のチャンスは足首に僅かな裂傷を付けただけに終わってしまった。
「本当に化け物かよっ!」
コノハ相手に唯一勝ったことのある奥の手だっただけに、フェイの顔が苦渋に歪む。
切り札の結果がアキレス腱にかすり傷を負わせただけなのだ。与えたダメージなど無いに等しい。次の手などもう無いのだ。
対してガラムは肩をゆすり出す。
「猫のごとき柔軟な動き、このガラムですら初めて見たぞ! 面白い、久方ぶりに胸が震えるわっ! くぁっはっはっはぁっ!」
この状況で、実に楽しそうに笑ったのだ。
ガラムは笑いながらセラをその場へ音も立てずに置いた。
そして、自由になった手で腰に差してあったもう一本のシャムシールを抜き放つ。
左右非対称の、しかし、見る者を魅了する見事な二刀流の構えだった。
「このガラムに二刀を抜かせたこと、地獄で亡者どもに誇るがいい!」
「そんなのありかよっ!」
フェイが泣きそうに叫びながら、それでも生きたいと思う一心でダガーを正眼に構える。
その覚悟にガラムは満足そうに頷き、まるで砂漠に住む巨獣のように、魂の限り叫んだ。
「いくぞおおっ! 黒猫おおっ!!」
その声にひるみそうになりながらも、フェイは一歩を踏み出し――
ゴスッ
しかし、衝撃は後ろからきた。
「すまない、フェイ」
声と共に視界が暗転する。
その声は聞き間違えようが無い。
フェイが一番聞きたかった声だからだ。
「すまない」
間違いなく、エルカの声だった。