(15)あんた知ってるか?
15) あんた知ってるか?
「あんた知ってるか?」
宿帳に記入しようとしていた手を止め、フェイは帽子の影から宿屋のマスターの顔をちらりと見上げた。
「知ってるって何のことだ?」
「ほら、例の噂だよ」
マスターは恰幅のいい狸のような顔をした人物で、見るからに話し好きそうだ。
長い話に付き合わされるかも知れないが、ひょっとしたら浮気の手掛かりがつかめるかもしれない
――さて、どうするかな
依頼の浮気相手と思わしき女性の家は、この宿の二階から垣間見る事が出来る。そこで、この宿に隠れながら女の動向を偵察しようという算段だった。
しかし、宿代が経費で落とせるとは言え、手持ちの金は心許ない。少しでも情報を手に入れる可能性があるなら利用するべきだろう――そう思ったフェイは探りを入れる事にした。
「面白そうだな。で、どんな噂だい?」
フェイがにこやかに聞くと、後ろで待っていたセラもとことことやって来てカウンターから顔だけをひょいと出す。
宿主はセラに不器用なウインクを一つ贈ると、待ってましたとばかりに話し出した。
「いやなに、久しぶりにスカッとする噂なんだよ。こないだ連絡板が更新されただろう? ほら、公女様の出したヤツだよ」
「ゲホホッ!」
フェイは慌てて帽子を深く被り直し、「す、すまない。少し風邪気味で……」とつぶやく。
「風邪か、気をつけなよ。で、話はこっからが本番なんだが、張り紙の色男――なんでもこいつがただの平民で、領主様が婚約を猛反対してるって噂なんだよ」
「……」
「そこであのリア=フェイロンって若者がとった行動が――何だと思う?」
「さ、さあな」
「実はな、ここだけの話なんだが……今、公女様と駆け落ちしてるらしいんだよ」
「ゲホホホホッ!」
危うく「アホか!」と叫び声を上げるところだったが、辛うじて咳き込んで誤魔化した。
心配そうに見つめるマスターに心配ないとフェイは手で合図したものの、心臓はバクバクと音をたてている。
もう部屋で休みたかったが、マスターの話好き魂に火が付いしまい、それすら適わない状況になっていた。
「いやなに。その噂を最初に聞いた時は、そんな事あるもんかって鼻で笑ったんだよ。いかにも女どもが好きそうな話じゃないか」
「そ、そうだな。ただの作り話だろ」
「いやいや、それがな兄ちゃん。領主の親衛隊が公女とリア=フェイロンの二人を追って、たった今、街中を駆け回ってるらしいんだよ」
「――は?」
このフェイの驚きを良い意味で解釈したのだろう。マスターはカウンターから身を乗り出して熱く語り出した。
「驚くのはまだ早いぜ! その親衛隊の隊長――これがまた悪鬼のような恐ろしいヤツなんだけどよ。そいつが道々リア=フェイロンを血祭りに上げる、とか叫んでるらしいんだよ! こりゃあ駆け落ち確定だろ!」
フェイの目の前がぐにゃあと歪み、立つことすらやっとの状態だった。
鏡を見なくても顔色が真っ青になっているのが分かる。
「あと公女様なんだが、絶世の美人だって噂は聞くけど、ほとんど公に姿を見せないだろう? あれ、実は成長しない呪いを掛けられてるせいって噂だぜ。そこで例の婚約者が呪いを解くべく、決死の覚悟でゴルゴンの秘薬を狙ってるとか。いやいや、泣ける話じゃないか!」
もはや、普通に街を出歩くことすら適わなくなった。
こんな領の南端であるローミクでここまで狂った噂が出回っているのだ。
もう二度と、お日様の下を歩けないのだろうか。
――いやいや、『人の噂も月の満ち欠け』だ
人とは熱しやすく冷めやすい。月が欠けてまた満ちるころには別の噂で持ちきりになっているはずだ。
月の満ち欠けの周期は40日、その40日間を出歩かずじっとたえていれば、きっと幸せが巡ってくる、はず。
フェイはその小さな希望にしがみつく事で正気を繋ぎとめた。
「……ええと、すまない。そろそろ休みたいんだが」
「おっと、風邪っぽいんだったな。すまない、ついつい話し込んじまった。ええと、あとはここに名前を書いてくれ。そっちの娘――じゃないか、妹さんかい?」
「妹じゃなくて婚――フガガッ!」
フェイはセラの口を問答無用で塞ぐ。
頼むから空気を読んでくれと言いたい。
「そうそう、腹違いの妹だ。ええと、ここに二人分の名前を書けばいいんだな」
「フグゥ!」
物言いたそうなセラを抑えながら、フェイは宿帳に二人分のサインをした。
『ザーボン=デガワ』
『ドドリア=デガワ』
「フガアフゴオオウッ!」
サイン欄に書かれた名前を見て、セラが猛抗議した。
偽名が気に食わなかったのだろうが、もちろん構ってなどいられない。
「ザーボンさんと、ドドリアさんですね。お部屋は二階の左奥になります」
「そうか、ありがとう。さぁ、ドドリア。部屋に行こうか」
「ムーーー! ムグゥフーーー!」
「何を言ってるんだ? あっはっは、そうか今日は疲れてしまったか。仕方ない、はやく部屋で休もう」
フェイは嫌がるセラを引きずって部屋に連れ込もうとする。一歩間違えれば変態の誘拐犯だ。
階段を登りかけたフェイを見て、店主がするどく呼び止める。
「ちょっと、デガワさん!」
「なんだとコノヤロウ!」
「――あ、いえ、その、宿賃は前金でして」
フェイはいそいそと前金を払いながら心に誓った。
偽名に嫌いなヤツの名前を使うのはやめよう、と。
「エルカッ! やっとみつけた!」
「やぁ、コノハ――それにルナも、血相変えてどうしたんだ?」
役所の待合室へ駆け込んだコノハとルナの二人は、まさに仕事を抜け出してきましたと言わんばかりの稽古着と神官服だ。
一方、エルカは役所の事務員らしき女性とテーブルを挟み、優雅にお茶をすすっていたようだ。
コノハとルナの乱入に、その女性は「この二人はなんなの?」という視線でエルカを睨んでいる。
「エルカ! こんなところでナンパしてる場合じゃないのよ!」
コノハはその女性を一切無視し、声高にエルカに詰め寄った。
一方のルナは息がすっかり上がっており、言葉を発するところではないようだ。
「いや、私は情報収集をだね」
「だからそれどころじゃないの! フェイが、セシリア様と駆け落ちしたって!」
「なんてことだっ!」
エルカは雷に打たれたように立ち上がると、持っていた書類を鞄に詰め込みつつ、女性に別れを告げる。
「すまないジムイーナ、重大な用事が入ったんだ。この続きはまた今度に」
女は不機嫌な顔でむくれるが、エルカはそれどころではないと鬼気迫る顔でコノハに尋ねる。
「それで、フェイはどこにいるんだ!」
「ちょ、ちょっとエルカ、その人、それでいいの?」
急かそうとしていたコノハは、逆にエルカに聞いてしまった。
「構わないさ。私の大切な友がまた災厄に巻き込まれているのだろう? この間のように見過ごしてなるものか! さぁ、一刻も早くフェイの元へ行くぞ!」
そう言って逆にコノハ達を急かす。
――エルカってこんな熱血な人だっけ?
口には出さなかったが、ルナとコノハは互いの目を見て肩をすくめた。
バベキャ
執務室の肉厚な木製扉が領主に殴られた途端、細枝のように真っ二つになった。
報告をしていた若き親衛隊員アズマは、その異様な光景と立ち上る黒いオーラに開いた口がふさがらない。
「……アズマ、とか言ったな」
「は、はいっ!」
「すまない、もう一度聞かせてもらえないか」
「は、はいっ! 公女殿下は婚約者であるリア=フェイロンに連行されており、現在――わわっ」
ドゴスッ
丸太のごとき豪腕が唸りを上げてアズマの顔面を右から左へと打ち抜いた。
「うぉのれ! リア=フェイロンめがっ!」
領主は呪詛の叫びを上げると、歯の隙間からシュウシュウと息を漏らしながらも机の上に溜まっている公務に戻った。
一方、地面を這いずったアズマは、その見事な忠誠心で恨みの矛先をリア=フェイロンへ向ける事に成功したのだった。
フェイは窓際に立ち、浮気相手と思しき女性の家を覗いていた。
そのフェイに習うように、セラも隣の窓から覗いている。すぐに飽きてるだろうと思っていたが、意外にもセラは集中力を切らさないで見張っているようだ。
部屋の中でもしっかりと白い帽子をかぶっており、時折意味も無くかぶり直しては満足そうな微笑を浮かべていた。
公女ともなればなんだって、それこそ竜馬の馬車だって買ってもらえるだろうに一番安い帽子で喜んでいる。
何故そんなに嬉しいのか、その理由くらい鈍いと言われているフェイにだって分かる。
――い、いかん。しっかりしろ、リア=フェイロン! こいつのせいでとんでもない目にあってるんだ! 冷徹にならねば、本当に身が持たないぞ! あれを見ろ!
フェイの視線の先、直下の街路で白い鎧の男が走り回っていた。
あれは間違いなく領主公の私兵――しかも、衛視から選りすぐった新鋭隊員だろう。
ヤツの目的はセラの回収、そして、このリア=フェイロンを血祭りに上げることなのだ。
「悪だ、悪党になれ、リア=フェイロン……」
フェイはブツブツと自分に言い聞かせ続けた。
「フェイ! 出てきた!」
セラの声にフェイは我に返る。
彼女の小さな指先を追ってみると、件の家から紫のワンピースを着た女性が見えた。
年の頃は三十ちょっと、赤茶色の腰まである長い髪、浮気相手と思しき女性に間違いない。
彼女は家を出るとそのまま向かいの宿、フェイ達のいる宿へと入って来たのだ。
「おおお、ひょっとしてこの宿で男と待ち合わせか?」
「ねえ、フェイ。なんで宿屋なの?」
「なんでって――くそっ! いいかセラ、何を見ても止めるなよ。ちゃんとした証拠が要るんだ」
フェイはセラの返事を待たず部屋を出ると、階段の脇――カウンターが見えるギリギリのところでしゃがみ込み、コッソリと階下を覗き込んだ。
カウンターにはさっきの紫のワンピースを着た女性がいた。
ボソボソと話し声が聞こえるが、遠いので部分的にしか聞こえない。
「――だから――いい?」
「ああ、いつものダンナだろ? かまわないよ」
幸い狸顔のマスターの大声だけはハッキリと聞き取る事ができた。
いつものダンナ――これはビンゴかもしれない。かつて無いほどのスピード立証になりそうである。
あとは現場証拠を掴み、クライアントへ報告。そして、その足で教会へ行きセラを迷子と言って預ける。
要領の良いルナならきっと、セラをうまく領主の元へ返す事が出来るだろう。
まさに完璧な作戦だった。
「……フェイ」
「のわああっ!」
いつの間にか背後にセラが来ていた。
考えに没頭していたとは言え、こんな素人の気配を感じれなかったのは少し悔しい。
「――ふぅ、ビックリさせるなって。部屋で待ってろよ」
「でも、気になる」
「ちっ。いいか、何があっても黙ってろよ――っと、来たな」
カランとカウベルの音と共に一人の男が入って来る。
赤色がかった髪と中肉中背、そして依頼人の婦人に見せてもらった肖像画の通りの顔――ターゲットのハンスに間違いなかった。
「ハンス!」
待っていた女性が明るく弾んだ声でハンスを呼んだ。
互いを確認し、二人は満面の笑顔を見せると、そのまま走りよって――
「だめええええええっ!」
絶叫が響き渡った。
抱き合おうとした二人、マスター、そして最も驚愕しているフェイの視線を一身に受け、セラはすっと立ち上がった。
真っ白な帽子を剥ぎ取り、天高く放り投げると一歩踏み出す。
「妻帯者でありながら、別の女性と不埒な行いをしようなど、このセシリア=ラドクリフが絶対に許しませんっ!」
「お前、いいから人の話聴けよっ!」
フェイの悲痛な叫びは、階下のどよめきによってあっけなく掻き消されたのだった。
全世界のデガワさん、ザーボンさん、ドドリアさん、申し訳ありません。ほんとは大好きです。