(11)雨上がりの昼下がり
雨上がりの昼下がり、透き通るように高く爽やかな青空にその奇声はよく響いた。
「なあああっ!」
なんだこれは――と言おうとして二つ目以降の言葉は形にならなかったらしい。
道行く人々がフェイの奇声を耳に止めて振り返り、その驚き歪んだ顔を見ては慌てて目を逸らす。
「こっ、こっ、こんな……」
フェイが指差し震えているのは地面に刺さった木製の板。バイスアルムの片隅にポツンと立てられた領御用達の連絡板である。
その連絡板は雨風にさらされ少し痛んでいたものの、ごくごく一般的な連絡板だ。問題がその内容である事はまず間違いないだろう。
エルカはフェイの震える肩越しに、連絡板に貼り付いている紙面へと目を通した。
『全ゼクス領民へ
セシリア=ラドクリフの婚約者リア=フェイロンがゴルゴン討伐を成し遂げるまで、ゼクス領民はこれを全力で支援すべし セシリア=ラドクリフ』
それがこの看板の上半分に書いてある内容だった。
フェイにすれば驚天動地の内容だろうが、エルカはガラムから事前報告を受けた通りの内容である。
しかし、その紙面の下半分を見た瞬間「ほう」と感嘆のため息を漏らさずにはいられなかった。
紙面の下半分に印刷されていたのは、男の似顔絵だったのだ。
――これは、素晴らしい
確かにシュバート国の印刷技術が駆使されたその似顔絵は、ある意味において素晴らしかった。つまり、歯が浮くという言葉が見事に具現化した絵だったのだ。
似顔絵の男は妙にアゴが細く、髪は毛先にわざとらしいウェーブがかかり、耳元でもくるんと跳ね上がっている。
鼻は異常なまでに高く、気持ち悪いほど爽やかな笑顔が張り付き、むき出しになった歯にはキラリと輝くエフェクトまでついている。
トドメに拳大ほどの眼には、キラキラと輝く星が散りばめられている。
そして当然、下に書いてある人名にはリア=フェイロンとあった。
「あっ、あんちくしょおおおおお!!」
周りの視線も気にせずに叫ぶと、フェイは看板から紙を剥ぎ取ると粉々になるまで引きちぎった。
「はぁっ、はぁっ――」
恥辱に息を上げるその顔は、首を絞めてもこうはならないと言うくらいに真っ赤だ。一週間の入院生活の後だと言うのに素晴らしいリアクションである。
そんなフェイにエルカは耳元でささやいた。
「他の連絡板はどうする?」
一瞬のうちにフェイの顔が蒼白に染まった。
この連絡板は領の伝達手段として重要視さており、区画ごとにみっちりと配備されている。このバイスレイト沿いだけでも100箇所は下らないだろう。
つまり、広大なゼクス領全体では1000個所以上もの連絡板がある事になるのだ。
回収不可能――その事実に打ちのめされたフェイは地面に手を着き、ガクリと深くうなだれた。
その様子を見てエルカは心の中では妹に喝采を贈る。
――素晴らしい。我が妹ながら、末恐ろしいな
これほど的確かつ効果的に心理的ダメージを与える方法が他にあるだろうか?
自分の意志も言えなかった内気な妹は、しばらく見ぬ間にコレを善意でヤれる女になっていたのだ。
――まったく。恋する女とは恐ろしい
エルカはニヤニヤと歪む口元を手で隠し、この状況をたっぷりと楽しみながら、フェイが復活するまで待った。
やがて、フェイはゾンビのようにノロノロと立ち上がる。
「……いや、こんな絵から俺が分かる訳がない……そんな訳がない」
そう自分に言い聞かせるようにブツブツと唱えながら、やはりゾンビのようにズルズルと移動を開始した。
当然、エルカもその後を追う。
しかし、たとえ無茶苦茶に美化された似顔絵でも、フェイの特長はしっかりと押さえてあったらしい。
屋台で焼きチーズを買おうとフェイが近づくと、屋台のオバちゃんはニッコリと笑って歓迎の声をあげる。
「やあ、未来の領主様が来て下すった!」
フェイの顔が顔面神経痛のごとく引きつった。
屋台のオバちゃんは凍りつくフェイに「たぁんと食べて精をつけな」と、気前良く焼きチーズを一本おまけしてくれたのだ。
むろん、それはエルカが消費する事になる。
焼きチーズは外に薄く巻いたパン生地がカリッと焼けて、中がトロトロに溶けている僅かな瞬間でこそ旨いのである。
一方のフェイは教訓を生かすべく、今度は目立たないよう道の脇に隠れて歩く事にした。
もちろん、それも無駄に終わる。
「あぁ! 未来の領主様ぁ! 哀れな乞食におめぐみを!」
道端の乞食に激しく呼び止められた。
フェイは無視して歩み去ろうとするが、乞食はしつこく「領主様ぁ! お恵みを!」と叫び続ける。
そこで走り去ればいいものを、叫ばれるのがうっとうしくなったフェイは小金を渡してしまうのだった。
「おおぉ! さすがゴルゴン退治をなさる勇者様だ! ありがとうございっ!」
乞食は一際大きな声で御礼を叫び――当然、周囲の視線が一気にフェイへと集まった。
「え、あれがセシリア姫様の婚約者!?」
「どこどこ? え、あの人なの? うそぉ!」
「なにあれ、ちょっと貧相じゃない?」
「こら、コウちゃん。指差しちゃダメよ」
周囲の無遠慮な視線やら言葉やらが、次々と飛んでくる。
フェイはまるで少女のように涙目で狼狽すると、ついには耐え切れなくなり、顔を真っ赤にして野次馬の中心を駆け抜け抜けた。
エルカも口元を押さえて後に続く。もちろん心の中では民衆に喝采を贈る事も忘れない。
――ああ、素晴らしきかな野次馬領民!
結果、そこにいた人々は絶望に暮れるフェイと絶頂に浸るエルカを奇妙な目で見送る事になった。
フェイは人通りのいない路地に駆け込み、ようやく足を止めた。
犬の如く過呼吸を繰り返し、近くにあった樽をガシガシと殴ると、鼻声混じりに叫ぶ。
「はぁ、はぁ――くそっ! くそっ! くそおっ!」
「フェイ、大丈夫か?」
「大丈夫なわけあるかよっ! なんなんだよお前の妹はっ!!」
フェイは声を荒げてエルカに詰め寄った。
されどエルカは慌てず騒がず、沈痛そうに目を伏せ、適度な間を作ってからポツンと謝る。
「……すまない」
あまりにも絶妙に謝られたので、フェイはかえって動揺した。
「い、いや、悪い。エルカのせいじゃないのは分かってるんだ。ただ、ちょっと――」
「分かってるよ、フェイ。今はひとまず帰ろうか?」
「あぁ、そうだな。でも、エルカは商店通りに用事があったんじゃないのか?」
「水臭い事を言うもんじゃない。相棒が困ってるんだ。一緒にいるのは当然だろ」
「……でもっ」
何か言おうとしたフェイを遮るように、エルカは緩やかに首を振る。
こんな楽しい状況で、フェイを置いてどこかへ行くなどありえない。一時として目を離すつもりなど無かった。
しかし、焦りもまた禁物だ。
人間の順応力は計り知れないもので、この状況が続けば慣れてしまう可能性だってのだ――慣れ、それほどつまらない事も無い。絶対に避けなくてはならない事態だろう。
――まずは人の眼を逃れ、我らがエルカーナにこもる
そうすれば、フェイは部屋の中であれこれと想像し恐怖を膨らませ、その不安こそが最高のリアクションへと成長するのだ。
エルカは右手を広げ、フェイの背中を優しく包む。
「さぁ、フェイ。エルカーナに帰ろうじゃないか。きっと明日になれば状況は変わっているさ。もし、この状況が停滞するのならば、その時は私が変えてみせよう。あぁ、必ずね」
「……エルカ」
フェイにその言葉を疑う心など、砂粒ほども残されていなかったのだ。