ミステリ、推理小説というジャンルの内包する病理
さて、ようするに「読者がフェアで論理的な推理で真相に辿り着けると思えるように説得できる小説」こそが推理小説ですよってことを長々と説明してきたわけです。
「うるせーな、当たり前だろ。小説っつーのは読者あってのもんなんだからよ。読者が楽しめるように、読者に合わせろってことだろ。何当然のことをぐちゃぐちゃ言ってるんだよ」
というご意見もあるかもしれません。
確かに、小説どころか、ありとあらゆるエンターテイメントは、結局受け手を楽しませるかどうかなので、最終的には受けて次第というのはミステリや推理小説に限った話ではないのです。
が、実は、ミステリというのは、あらゆるジャンルの中でも一番、読者次第、というより読者を意識して書かなければいけないジャンルだと思っています。
なぜか?
それは、ミステリが「読者に謎を提供する」構造になっているからです。謎、そしてそれが解かれた時の驚きこそがミステリの面白さです。
ということは、謎がバレバレだったり、よくある陳腐なパターンだと、ミステリはくそ面白くもなくなるということです。
「別に他のジャンルでも先の展開が読めたり陳腐だったりすると面白くないだろ」
と反論があるかもしれませんが、ミステリは他のジャンルの比ではありません。
種の分かりきった手品を誰が見るでしょうか?
おまけに、ミステリは手品と違って、終わりに必ず種をばらさなくてはならない構造になっています。
さて、ということはどういうことか?
ミステリが最後に種をばらす手品だとするなら、そのネタばらしを沢山経験してきた読者は、手品のパターンや種がどんなものかをよく知っていることになります。つまり、経験値の高い読者には手品がばれやすい。
一方、あまり手品もネタばらしも見たことがない読者は、比較的簡単な手品でも新鮮に楽しんでくれるでしょう。
すなわち、ミステリはどのジャンルよりも読者を意識しなければいけないと同時に、読者の意識の差がどのジャンルよりも大きいのです。
これが、何を生むのか?
前述したヴァン・ダインやノックスの時代の読者と今の時代の読者の意識が違うという話に戻りましょう。
彼らは共通する暗黙のルールを明文化した、とはもう言いましたね。
しかし、常に読者を驚かせたり、新鮮な謎を提供していかなければいかないため、ミステリ作家達は、その暗黙のルールを破ってしまいました。もちろん、確かな技量や構成、論理があってのことです。
「探偵役以外全員共犯」「探偵役が犯人」「ワトソン役が犯人」「実は途中から劇中劇」エトセトラエトセトラ、これまでの歴史で、いくつもの掟破りのミステリが登場しました。
で、その度に、「アンフェアだ」という批判を受けつつも、読者に「まさか」というショックを与えてきたのです。
で、そのエポックメイキングな作品を読んできた読者にとって、ヴァン・ダインやノックスのルールなんてあってなきが如しです。そういうルールが守られるなんて最初から思っていません。「探偵役が犯人」だったり「作者が犯人」というメタミステリ構造じゃないか、みたいなところまで疑っていきます。
そういう今までのミステリを読んできた読者を驚かせるために、本格推理の最前線では、もはや「これって推理小説って呼べるの?」という限界ギリギリアウトの作品やアンチミステリが登場しています。「論理的に犯人不在」とか「犯人が最後まで分からない」とかもあります。
それを読んでミステリ好きな読者は「うおー、ここまで来たか」とか「こういう切り口か」とか楽しむわけです。
冷静に考えてみてください。
そういう作品を、ホームズを読んだこともない読者が読んで楽しめるでしょうか?
いや、そこまでいかなくとも、古典ミステリを読んでいて、最近のミステリはライトミステリやミステリ漫画くらいしか読んでいないという人を想定してもいいです。
そういう人が「ミステリの世界では有名な作品にはほとんど目を通している読者に向けて(驚かせるために)書かれた作品」を読んで、面白いと思うでしょうか?
作品のタイプにもよりますが、「なんじゃこりゃ」というのが感想になってしまう場合が多いと思います。
すなわち、ミステリ、推理小説は、ライト層にもコア層にも面白いと思ってもらえるものを作るのが非常に困難なのです。
経験値の違う読者を同時に楽しませることが困難という病理を内包したジャンルなのです。
これを、これまでの定義の言葉を使ってまとめるなら、次のようになります。
推理小説を書く際の「暗黙のルール」や「納得できるライン」は、読者のミステリ経験値によって大幅に変動してしまう。
これを踏まえて書かなければいけませんということで、ようやくこれらの定義の上で次から具体的な書き方に入っていきましょう。




