鹿、襲来。
「しっかりしろ!」
昨日、担任の女教師が放ったそれは、俺をふるい立たせる言葉だった。
俺はその言葉を胸に抱いて、心を入れ替えて頑張ろうと思ったのだ。
つまり、そう。もう学校に遅刻しないと決めたのだ。
それなのに、何故今こんなことになっているのか……。
神様は俺のことが嫌いなのだろうか。
本当に、心を入れ替えて頑張ろうと思った。もう遅刻はしないと決めた。なのに、良いことのはずなのに妨害されている。俺の人生の三叉路で、こんな刺客を送ってくるということは、やっぱり神さまは俺のことが嫌いなのだろう。
――気配がする。
まただ。また奴が来る。
茶色っぽい毛並み、細い体。木の枝みたいなわっさわさした角。
土ぼこりと激しい足音を立てながら、田舎道を突進してくる。
鹿。
そう、鹿だ。一頭や二頭ではない。それはそれは大量の鹿さんだ。
「こうなれば、真正面から戦ってやる!」
俺は突進してくる鹿に向かってファイティングポーズした。
すると鹿は、俺の真横を通り過ぎ、直後、死角から別の鹿が突進してきた。
「ぁぐ!」
背中に激痛が走り、顔をしかめる。
なんというコンビプレー。
そう。俺はさっきから鹿に襲われているのだ。油断するとすぐに鹿は突進して来て、いや、油断していなくても鹿は突進して来て、俺の登校を妨害しようとしているのだ。
このまま鹿に襲われ続けたのでは、遅刻どころか無事に登校すらできずに命を落としかねない。
いつか鹿の素早さに翻弄され続け、やがて疲れ果てて倒れたら、鹿たちに野の草のごとくむしゃむしゃされてしまうに違いない。
そもそも、俺はしっかりしなくてはならない。
昨日遅刻したら、先生に思いっきり怒られたのだ。
今まで怠惰に生活してきて、遅刻を繰り返して、俺はきっと、誰かに叱られたかったのだろう。自分の方を見て欲しいという、子供っぽい思考を抱いていたのかもしれない。
でも、叱って欲しいみたいに思っていたくせに、いざ叱られたとき、とても悔しくなった。自分に対する悔しさがこみ上げてきた。だから、心を入れ替えて頑張ろうと思ったのだ。そのために、まず遅刻をしないことから始めようと思ったのだ。ゆえに、俺が今日、遅刻しないということは、新しく生まれ変わった俺がこなさなくてはいけない最低限の行為。言い換えれば、死活問題とも言える。
しかし、この状況は……つまり神様とか運命とか、そういう類のものが、俺のオデコに向けて「ちゃんとする資格がない」という烙印を押しているような状況なのだろうか。
通学路は、山の中の一本道に差し掛かった。
この低い山の向こうに、学校はある。
まだ朝七時前。今の時間だ。まだ走れば間に合う。
そう思い、俺は走ろうとしたのだが、その時、またしても土煙と地を揺らさんばかりの足音。まるで戦国の合戦場で馬の足音を聴いているような気分だった。
鹿が攻撃を仕掛けてきた。
「仕方ない。相手してやるか」
強がりつつ、俺は構えたが、またしても死角から突進され、目の前がかすんだ。今までの攻撃とは違った。本気の突撃だ。
「一体俺が何をしたと言うんだ! 俺は学校に行ってはいけないのか!」
おしかった。ぎりぎり避けられなかった。
俺は、鹿の突進により吹っ飛ばされ、山道から転げ落ちた。
雑木林を転がり続け、何とか木のつるに拾われて転落は止まった。
「くっそ……」
絡まるつるを解き、そして再び通学路に戻るべく、山の斜面をよじ登った。
「はぁ、はぁ」
何とか登り切ったところで、校則違反の携帯電話を取り出す。
基本的に山エリアは圏外なのだが、この通学路となっている山道にまではギリギリ電波が届くらしい。
画面上、電波一本が立ってるのを確認し、素早く番号をプッシュして、耳に当てる。
掛けた先は、俺を叱った先生だ。
担任に直接話を通しておけば、遅刻してしまったとしても誠意だけは伝わるはずだ。
通話。
「もしもし、先生ですか? 俺、今日少し遅刻します。すみません!」
頭を下げた。
しかし、先生の返答は、意外なものだった。
『あんた、何いってんの? 今日休みでしょ。通学路に不発弾が見つかったから、処理するまで休校って知らなかった?』
不発弾。なんだそれは。
「初耳ですけど」
『昨日の朝のホームルームで伝えたはずよ』
「まじか」
『用はそれだけ? それじゃ切るわよ。私は忙しいの』
通話、終了。
そういえば、確かに昨日は遅刻した。
けどさ、でもさ、そんな大事なこと、帰りのホームルームでも伝えてくれればいいのに。むしろ、それしないって、教師失格なんじゃないの?
電話をしまった瞬間に、俺の肩は弾んだ。びっくりして弾んだ。不意に、山に轟音が響き渡ったからだ。
轟音、そうだな、爆発音のようだった。鳥たちが一斉に飛び上がり、動物の悲鳴のようなものが聴こえた。進行方向に煙が立ち上っている。
まさか、不発弾が爆発した?
そう思った次の瞬間――ッ!
二度目の爆音。今度は近い。爆風に煽られて、目の前に樹木の幹の拡大映像が広がり、すぐに暗転した。
それからしばらくの記憶が、無い。
ゆらゆらと、ゆりかごの上に居るような感覚だった。
居心地の良いまどろみだった。
目を開くと、青空が見えた。青空の手前には、木の枝のようなものがフラフラと揺れている。
体を起こして周囲を見回すと、大移動する鹿の群れが道いっぱいにビッシリと広がっていた。
なんだこれは。
大量の鹿たちが移動している。
かの有名な某アニメ映画、『風の谷のナウ○○』におけるダンゴムシみたいなやつの大移動のようではないか。
山の方を見上げれば、視界に黒い煙がいくつも上がっている。サイレンの音が響く。
町に、自衛隊の士官が立っているのも見えた。
鹿たちは、爆弾の存在を知っていたのだろうか。全てを知って、俺を助けようとしてくれていたのだろうか。
いつしか風景は、見慣れた地元の町になる。アスファルトの上を、鹿たちの群れが俺を担いで大移動しているのだ。
「なぁ、鹿さん鹿さん」
俺は、思い切って鹿に話しかけた。
「…………」
しかし、鹿はシカトした。
それでもめげずに俺は再度話しかける。
「俺を助けてくれたの?」
「――然り」
何と鹿が首を回してこっち見ながら喋りやがったので、これはケシ科の植物を原料とした何らかの非合法薬物でも知らぬ間に射ち込まれてしまったのではないかと疑った。
「少子化防止のためじゃ」
何者なんだよ、この鹿は。
「さあ、しかと送り届けたぞ」
見上げれば、自宅。
「これは、貸しじゃからな」
そう言って、鹿は帰っていく。鹿たちはぞろぞろと去っていく。
いつの日か、救われし借りは返さねばならないよな。
これからの人生は、鹿のためになることを考えて過ごそう。環境問題とか。鹿せんべいの味を改良するとか。
俺は新たな決意をしっかりと胸に抱いたのだった。
【鹿、襲来 おわり】