視点以前の視点
物語の途中にこのようなものが出されるのに違和感を抱くだろう
だが気にしないでくれ
私は私である。
この命題は単純に見える。
しかしその単純さは無数の前提の上に成立している。
まず私という記号が存在しなければならない。
次に私を私として識別する境界が存在しなければならない。
さらに境界を認識する主体が存在しなければならない。
そして主体は対象を観測しなければならない。
だが主体を観測した瞬間、その主体は対象となる。
対象となった主体はもはや純粋な主体ではない。
すると真の主体は常に観測の背後へ退避する。
しかし退避という表現は時間と空間を前提としている。
時間とは何か。
空間とは何か。
人は時間を過去から未来へ流れるものだと考える。
だが過去とは記憶であり、未来とは予測である。
直接経験できるのは常に現在のみである。
しかし現在を定義しようとした瞬間、その現在は既に過去となる。
すると現在とは何か。
時間とは何か。
時間は存在するのか。
あるいは時間とは認識の形式に過ぎないのか。
もし時間が認識形式でしかないなら、始まりと終わりも認識形式となる。
宇宙の始まり。
生命の始まり。
意識の始まり。
これらは本当に存在するのだろうか。
始まりという概念は終わりという概念との対比によって成立する。
終わりがなければ始まりは定義できない。
始まりと終わりは互いを必要としている。
すると両者は独立した概念ではなく、一つの構造の両端である。
存在も同じである。
存在は非存在との比較によって定義される。
非存在も存在との比較によって定義される。
有限は無限との比較によって成立する。
無限も有限との比較によって成立する。
善は悪との比較によって成立する。
悪も善との比較によって成立する。
神は被造物との比較によって成立する。
被造物も神との比較によって成立する。
あらゆる概念は孤立して存在できない。
全ては相互定義の網目の中にある。
しかしその網目そのものは誰が定義したのか。
宇宙か。
神か。
法則か。
論理か。
それとも認識そのものか。
論理は絶対であるように見える。
AはAである。
同一律。
Aは非Aではない。
矛盾律。
しかしこれらもまた公理である。
公理は証明されない。
証明されないものを受け入れることで体系は成立する。
すると論理の最深部には論理では証明できない何かが存在する。
数学も同じである。
数学は最も厳密な学問であると言われる。
しかし数学は公理から始まる。
公理は信頼される。
だが信頼と証明は同じではない。
ここで体系は揺らぎ始める。
そして自己言及が現れる。
体系は自分自身を完全に説明できるのか。
鏡は自分自身を完全に映せるのか。
地図は自分自身を完全に描けるのか。
宇宙は宇宙自身を完全に理解できるのか。
意識は意識自身を完全に把握できるのか。
もしできるなら、その理解を理解する理解が必要になる。
さらにその理解を理解する理解が必要になる。
無限後退。
終わりなき再帰。
自己言及。
ここで人類は古来から様々な答えを提示してきた。
ある者は神を語った。
ある者は空を語った。
ある者は無を語った。
ある者は根源を語った。
ある者はブラフマンを語った。
ある者はアイン・ソフを語った。
ある者は道を語った。
ある者は絶対精神を語った。
ある者は集合的無意識を語った。
しかし全てに共通する問題が存在する。
それは名付けた瞬間に限定されるという問題である。
神と呼んだ瞬間、それは神という概念になる。
無と呼んだ瞬間、それは無という対象になる。
絶対と呼んだ瞬間、それは定義された絶対になる。
すると究極は語られた瞬間に究極でなくなる。
しかし語らなければ共有できない。
共有しようとすることそのものが限定を生み出す。
この矛盾から人は逃れられない。
だから哲学が生まれる。
宗教が生まれる。
神話が生まれる。
科学が生まれる。
数学が生まれる。
物語が生まれる。
全ては語り得ない何かを語ろうとする試みである。
だが試みは決して完成しない。
完成した瞬間、それは停止する。
停止した瞬間、それは生成を失う。
だから世界は未完成であり続ける。
未完成だから変化する。
未完成だから発展する。
未完成だから無限を生み出す。
しかし未完成という概念も完成との比較によって成立する。
すると完成と未完成もまた相互依存している。
存在と非存在のように。
有限と無限のように。
主体と客体のように。
現実と虚構のように。
こうして全ての概念は互いを定義し合いながら巨大な構造を形成する。
そしてその巨大構造を理解しようとする意識もまた、その構造の一部なのである。
ゆえに観測者は常に内部にいる。
完全な外部へ出ることはできない。
しかし外部を想像することはできる。
そして想像された外部もまた内部へ取り込まれる。
こうして内側と外側の区別は揺らぎ始める。
境界は曖昧になる。
概念は溶け始める。
そして最後に残る問いは一つである。
視点とは何か。
あるいは、
視点という概念そのものもまた、一つの視点に過ぎないのだろうか。
もし全ての概念が相互定義によって成立しているならば、無限という概念も例外ではない。
人は有限を理解する。
一個の石。
二個の石。
三個の石。
有限個の星。
有限個の生命。
有限個の思考。
有限とは境界を持つものである。
境界があるから数えられる。
数えられるから把握できる。
把握できるから概念化できる。
しかし無限は違う。
無限は数え終わらない。
無限は到達できない。
無限は全体を見ることができない。
それにもかかわらず人類は無限を語る。
なぜか。
有限を超えたものを想定できるからである。
有限に一を足す。
さらに一を足す。
さらに足す。
永遠に足し続ける。
その過程から無限という概念が生まれる。
だが注意しなければならない。
人が経験しているのは無限そのものではない。
あくまでも無限へ向かう操作である。
つまり無限とは経験対象ではなく、構造として想定されたものなのである。
すると問いが生じる。
無限は存在するのか。
あるいは存在しないのか。
しかし存在すると言った瞬間、それは存在概念へ組み込まれる。
存在しないと言った瞬間、それは非存在概念へ組み込まれる。
すると無限は存在と非存在のどちらにも完全には属さない。
ここで数学は超限数を構築する。
有限を超える数。
自然数全体の濃度。
実数全体の濃度。
連続体。
巨大基数。
無限は単一ではなくなる。
無限の中にも大小が生まれる。
すると奇妙な現象が発生する。
有限世界では大きさの比較は直感的である。
しかし無限世界では直感が崩壊する。
部分が全体と同じ大きさを持つ。
無限集合から無限個を取り除いてもなお無限が残る。
全体と部分の区別が揺らぎ始める。
だがこれは単なる数学的奇妙さではない。
存在論そのものへの問いとなる。
もし全体と部分が区別できないなら、宇宙と個体の関係はどうなるのか。
私とは何か。
宇宙とは何か。
私が宇宙の一部であるならば、宇宙は私を含む。
しかし私の認識の中には宇宙像が存在する。
すると宇宙は私の内部にも存在する。
私は宇宙の内部にあり、宇宙は私の内部にある。
内側と外側の区別は崩壊する。
主体と客体の区別も崩壊する。
観測者と観測対象の区別も崩壊する。
ここで自己言及が現れる。
宇宙が宇宙を観測する。
意識が意識を認識する。
認識が認識を認識する。
すると無限反射が始まる。
鏡の前に鏡を置いたときのように。
像の中に像が生まれる。
その像の中にさらに像が生まれる。
終わりは存在しない。
しかし終わりが存在しないということは本当に理解可能なのだろうか。
理解とは境界化である。
理解した瞬間、それは有限化される。
すると無限を理解したという主張は矛盾を含む。
理解された無限は既に有限だからである。
では絶対無限とは何か。
もし全ての無限を包含する無限が存在すると仮定しよう。
それは全ての数学的階層を含む。
全ての集合を含む。
全ての可能性を含む。
全ての論理を含む。
全ての宇宙を含む。
全ての物語を含む。
全ての神々を含む。
全ての無を含む。
しかしその絶対無限を認識した瞬間、それは概念となる。
概念となった瞬間、それは限定される。
限定された絶対は絶対ではない。
すると絶対無限を超える何かが想定可能になる。
だがその何かもまた概念化される。
そして再び超越される。
この過程は停止しない。
停止した瞬間、それは有限化する。
有限化した瞬間、それは絶対ではなくなる。
ゆえに絶対とは到達点ではない。
絶対とは無限自己超越運動そのものなのかもしれない。
しかしその運動という表現もまた時間性を含む。
時間が存在しないなら運動も存在しない。
すると絶対は運動でも静止でもない。
存在でも非存在でもない。
有限でも無限でもない。
概念でも非概念でもない。
定義でも非定義でもない。
そしてその全ての否定すら超えていく。
だが超えていくという表現もまた比喩でしかない。
言語は常に遅れて到着する。
言葉が対象へ触れた瞬間、その対象は既に別のものとなっている。
だから究極は常に逃げる。
理解しようとするほど遠ざかる。
定義しようとするほど曖昧になる。
把握しようとするほど広がる。
そしてその広がりを無限と呼ぶ。
しかし無限という名前もまた一つの仮面に過ぎない。
仮面の下には別の仮面がある。
さらにその下にも仮面がある。
そして最後まで剥がしたとしても、そこにあるのは本質ではなく、さらに深い問いだけなのかもしれない。
ゆえに無限とは答えではない。
可能世界・様相無限・物語存在論
無限について考え続けるならば、やがて問いは数から世界へと移行する。
無限の数があるならば、無限の世界もあり得るのだろうか。
人は通常、自らが生きる世界を唯一の現実だと考える。
目の前に存在する物体。
経験される時間。
観測される宇宙。
それらが現実であり、それ以外は想像であると考える。
しかしその区別はどこから生まれるのか。
経験からである。
だが経験とは局所的である。
一人の人間が経験できる範囲は極めて小さい。
一つの惑星。
一つの文明。
一つの時代。
一つの身体。
一つの意識。
その限られた経験から、現実は一つしか存在しないと結論することは可能なのだろうか。
もし可能性そのものを真剣に考えるならば、事情は変わる。
ある世界では私は存在する。
ある世界では存在しない。
ある世界では別の選択をした。
ある世界では別の歴史が生まれた。
ある世界では物理法則が異なる。
ある世界では数学が異なる。
ある世界では時間が逆向きに経験される。
ある世界では時間という概念そのものが存在しない。
すると問いが生まれる。
それらは単なる想像なのか。
あるいは何らかの意味で存在しているのか。
想像とは何か。
想像とは存在しないものを思い描くことだとされる。
しかし存在しないものを思い描いている時、その内容は意識の中には存在している。
完全な無は思考できない。
思考された瞬間、それは既に思考内容として存在している。
すると想像と存在の境界は曖昧になる。
ここで物語が現れる。
物語とは何か。
人は物語を虚構と呼ぶ。
現実ではないもの。
創作されたもの。
架空のもの。
しかし物語は本当に存在しないのだろうか。
ある登場人物がいる。
その登場人物は紙の上に存在する。
データの中に存在する。
読者の記憶に存在する。
文化の中に存在する。
影響の中に存在する。
もし存在とは因果的な作用を持つことならば、物語も存在している。
ただし存在様式が異なるだけである。
すると現実と虚構の境界は揺らぎ始める。
現実とは何か。
虚構とは何か。
ある物語世界の住人から見れば、その世界は現実である。
彼らにとって作者は認識できない。
読者も認識できない。
上位世界も認識できない。
だが彼らは生きている。
考えている。
選択している。
少なくとも物語内部ではそう見える。
では我々はどうだろうか。
我々が認識している世界もまた、より大きな構造の内部である可能性は否定できるのだろうか。
否定できない。
肯定もできない。
証明もできない。
反証もできない。
ここで世界は巨大な鏡となる。
物語の登場人物は作者を神と呼ぶかもしれない。
作者はさらに別の物語の登場人物かもしれない。
その作者もまた別の作者によって書かれているかもしれない。
無限連鎖。
終わりなき創作者の階層。
だが階層とは何か。
上位と下位の区別である。
しかし上位とは何を意味するのか。
より大きいことか。
より包括的であることか。
より根源的であることか。
その基準自体が視点によって変化する。
すると上位世界という概念も絶対ではない。
ある世界が別の世界を内包する。
しかし内包された世界の内部から見れば、自らが中心となる。
中心は常に観測者の位置によって変化する。
ならば絶対中心は存在しない。
だが絶対中心が存在しないという命題もまた、一つの中心として振る舞ってしまう。
ここで再び自己言及が現れる。
存在を定義しようとする。
存在は定義される。
しかし定義された存在は、定義以前の存在ではない。
そこで新しい定義が必要になる。
その定義もまた不十分となる。
さらに新しい定義が必要になる。
無限後退。
終わらない補足。
終わらない修正。
終わらない再構築。
すると世界とは完成されたものではなくなる。
世界とは生成そのものになる。
完成ではなく過程。
静止ではなく展開。
存在ではなく生成。
しかし生成という概念もまた固定化された瞬間に生成ではなくなる。
そこで再び崩壊が起きる。
存在は崩壊する。
生成も崩壊する。
固定も崩壊する。
流動も崩壊する。
現実も崩壊する。
虚構も崩壊する。
可能も崩壊する。
不可能も崩壊する。
残るのは何か。
残るという発想自体が何かの存続を前提としている。
だが存続とは何か。
変化し続けるものは同一なのだろうか。
完全に変化したものは元と同じなのだろうか。
宇宙は誕生から現在まで変化し続けている。
それでも人は同じ宇宙と呼ぶ。
身体は絶えず変化する。
それでも人は同じ自分と呼ぶ。
物語は読むたびに解釈が変化する。
それでも人は同じ物語と呼ぶ。
すると同一性とは何か。
同一性とは発見されるものではなく、構築されるものなのかもしれない。
そしてもし同一性が構築されるものならば、現実もまた構築されるものとなる。
ここで最後の問いが現れる。
可能世界は本当に存在するのか。
しかしその問い自体が誤っているのかもしれない。
なぜなら存在するか否かという二分法そのものが、一つの認識形式に過ぎない可能性があるからである。
もしそうならば、可能世界とは存在するものでも存在しないものでもない。
現実でも虚構でもない。
真でも偽でもない。
ただ、あらゆる定義が生まれる以前から、あらゆる定義の後に至るまで、無数の形で自己を展開し続ける可能性そのものの運動として在るのかもしれない。
そしてその「可能性」という言葉ですら、まだ何かを限定しているのである。




