第三話(3)
「おい、お前、ぶつかっといて、詫びも無しか、ああ?」
その光景は、二時間目の体育のあと、体育館からの渡り廊下でのことだった。
前から歩いてくる背の高い男子。金色の短髪は、長身と相まってとても目立った。学校に馴染んだ様子からして、二年か三年だろう。
体操服姿の男子の肩が先輩にぶつかって、しかしそのまま過ぎ去ろうとした。金髪の先輩は、その体操服姿の一年の首根っこを引き戻して地べたに転がし、凄んだのだ。
何気ない動作だったけど、すごい力に思える。
「ちょ、ちょっとぶつかっただけじゃないですか……」
私は暴力には反対だ。でも、肩をぶつけて無言で立ち去るのはおかしいと思う。ただ、先輩を肯定もできない。だから、この出来事を、自分でも少し驚くくらい、冷めた目で見ていた。
「謝れねえのかって言ってんだよ!」
先輩が胸ぐらをつかんで、男子を引き起こす。
私の後ろには、いつの間にか、体育館から戻ろうとする一年生たちが立ち止まって傍観していた。どうすればいいのかわからなくて固まっているのだ。
「桐原さん……」
その中には葉月莉緒がいて、彼は少し立ち止まると、私より前に一歩を踏み出した。
(あんなの、放っておきなさいよ。自業自得だわ)
葉月莉緒に、私は小声で言った。
でも、と彼は小さな声で答えた気がする。
一度止めた足を、彼は前へと踏み出した。
◆◇◆◇◆
その場に通りかかったのは、本当に偶然だった。莉緒が、それを一人で解決できたのなら、俺はその仮定の未来を手放しで喜ぶだろう。
でも、俺は居合わせてしまった。弟のいる場に遭遇してしまった。
次の体育に向かう途中、渡り廊下に俺は莉緒の姿を見つけた。よりによって、不良グループのリーダー格、藤原に立ちはだかる格好で。
「あれ藤原じゃねえの? 一年やばくね?」
俺のあとからも、続々とクラスメイトの男子がやってきて、その場の空気に感づいた。
そう。藤原はやばいやつだ。校内に疎い俺も、面倒ごとは避けるべしという点で覚えている。というか、中学が同じ緑生学園で、当時から教師に厄介がられていた印象があるから忘れようがない。高校に入ってからも暴力沙汰を起こしているらしい。
いつもの俺なら、体育館への道筋を変えるだけだが、当事者が莉緒なら話は別だ。
俺は渡り廊下に出た。
「先輩、級友の僕から謝罪します。申し訳ありません」
莉緒の声がする。震えを、おなかからの声で抑え込んだ、そんな声だった。
「本人が言えよ、目の前にいるんだからよ」
ごつい手が、今度は莉緒の胸倉を掴む。
「待った、ちょっと待った」
俺の気の抜けた声で、場の緊張感が解ければいいが。
「ああ?」
藤原の裏拳が飛んできて、思わずのけぞったらうまく避けられた。莉緒の体操服の上着から、藤原の手が離れたのも運がいい。
「誰だ、てめえ」
藤原が、今度は俺のワイシャツを掴む。莉緒が標的よりはよっぽどいい。
「そいつは葉月春詩、そいつの兄貴っすよ。藤原先輩」
二年の野次馬が答えた。誰だか分からんが、紹介ありがとよ。
「ああ、お前あれか。問題児だろ。春の詩人ってふざけた名前の割にはずいぶん派手にやってたってな」
「へ、へえ。そんな風に伝わってたんですね。光栄っす」
まさか。本当に意外だった。俺は目立たない生徒のつもりだったからな。それよりも、名前のことを言われて頬が引き攣っているのを俺は自覚していた。
「なんだよ、葉月って不良界隈で有名なの?」
「あー、それなー。春詩に名前イジリはタブーなんだよ」
野次馬が勝手に盛り上がっている。俺って地獄耳なんだよ。目の前の相手の話より、周りの声が気になるタチなんだ。しかし、俺を名前呼びするやつ、だれだよ。
「タブー? ナニそれ?」
「俺、春詩と小中、同じ学校だったんだけどさ、あいつが小学で転校してきたとき、やたら合わない奴が同じクラスにいてさ、中学あがってから爆発したんだよ」
「なにが?」
「春詩が。まあ、ぼちぼち事件だったぜ。藤原先輩が言ってるのってそれじゃねえかな」
俺はその会話の方は見ずに、半分聞いていた。そんなこともあった。みんなそんなふうに思ってるのか。あ、こいつ、オナチューでオナショーの竹内だ。声としゃべってる中身で苗字を思い出した。名前は忘れた。
「で、なにがあったん?」
「春詩が、名前とか馬鹿にしてきたそいつを、めっちゃ殴り返してさ」
「ぼこぼこにしたのか?」
「いや互角……どっちかっていうと、春詩の方が反撃食らってたかなー?」
「なんだそれ」 と、竹内としゃべってるそいつは失笑した。
「でもさ、俺は春詩に一目置いたよ。ちゃんと、嫌なことを嫌って言えるやつなんだって」
「いや、口で言えし」 竹内の相手がおかしそうに笑う。
俺は過去を思い返した。子供の時って、あるだろ。口でうまく言えなくて、我慢して、そのまま我慢してしまいこんだり、ため込んだりするやつ。それで言い返せないままで、それがまた悔しくて。いい子だから暴力も振るえない。そのくらいの分別がある年だよ、小六とか中一って。
でも、俺は、殴り返したんだ。その時、許せなかったから。
竹内は、ふっとため息をついたのが雰囲気で伝わった。そのため息の意味は、俺も共感できる。言葉で言っても伝わらないときの、諦めの吐息だ。あの時、竹内が感じていた心情を、相手の心の中に再生することなんてできないのだ。
「でもそれが、春詩の言葉だったんだよ。すごかったぜ。軽い暴力事件みたいな扱いになっちゃって、そのあと春詩は一匹狼って感じになっちゃったけどな。俺のほかにも、あいつはやる奴だって思ってるやつ、いるんじゃないかな。懐かしいなー」
竹内は照れ隠しなのか、最後におちゃらけたけど、やばい、竹内のセリフに俺はだいぶうれしく思っていた。俺をわかっててくれてるやつがいたんだって。
「聞いてんのか、ああ? 春詩くんよお、落とし前どうつけんだよ」
いかん。聞いてなかった。耳がよそに集中すると、目の前の話が頭に入らないんだよ。とりあえず俺は誤魔化した。
「さあ。彼がちゃんと自分でゴメンナサイできるんじゃないですかね」
事の発端である一年男子に目配せする。俺が踏んだ場数も、捨てたもんじゃない。自分でも、こんな軽口が出るとは思わなかった。
「ち、知能が低いんじゃないですか、不良になんかぼく絶対謝りませんよ!」
「なんだと!」
藤原が激高する。
おいおい、莉緒にすらかばわれている男が、何を言ってるんだ。莉緒が間にいなかったら、俺はこの一年を藤原に差し出しただろう。
俺の胸倉を放してそいつに殴りかかる藤原。その間に割って入ると、藤原は躊躇なく俺を殴った。しかたねえな。停学とか退学とかをちらつかせて、抑止力にしようと思ったが、バカな一年のせいで交渉すっ飛ばしになっちまった。
「そこまでにしろ」




