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第八話(4)

 予鈴のチャイムが、いささか暑すぎる五月晴れのしたで鳴り響き、いいタイミングで教室の空気を一区切りしてくれた。

 結局のところ、この程度のことで、誰がやったかなんてわかるはずもない。

 私はゴミを片付けてトイレに行くと、手を洗った。葉月莉緒が、汚れを厭わず握ってくれた手……。手の感触を思い出して、鏡に映る自分の顔を見て振り返るのをやめた。照れ臭かったのだ。

 廊下に出ると、杉山柚羽が出迎えた。

「理々香ちゃん、すごいね~! 好きになっちゃったかも。リオくんもよく言った!」

()()()()……」

 相変わらずの彼女に頬が引き攣る。

「……桐原さん、ありがとう」

 杉山さんに続いて、葉月莉緒くんが言った。

 女子トイレの前で待っていて、これほど自然に見える男子も珍しい。

「私が勝手にやったのよ……ごめん、目立たせてしまった」

「いいよ。気にしないで」

 彼は首を振った。

「そうだ、私も名前で呼ばせてね。リオくん」

 私は関係性の進展を提案した。これでも実は、内心、勇気を出したのだ。

「わたしも柚羽でいいよ!」

「よろしく杉山さん」

「えー、そんなあ」

 馴れ合うつもりは別にないのだ。ないのだが……。

 そうこうしていると本鈴のチャイムが鳴る。私はさっさと教室に戻った。振り返らなかったけど、リオくんも柚羽も一緒に来てくれるのを、私は知っていた。




 ◆◇◆◇◆




 体育祭当日の日曜。俺は、弁当と体操着と水筒だけを詰め込んだリュックを背負って、校門までの坂道を登っていた。

 莉緒は“着替え”の問題があるので、俺よりずいぶん先に家を出ている。

「私も青陵の体育祭いきたかったなあ」

 出がけにそんなことを言ったのはりこだった。俺たちが卒業したあと、どうしてもひとり小学校や中学校に取り残されるので、それがつまんないって前にぼやいてたのを思い出した。

 まあ、仕方ないじゃないか。

 日曜開催ではあるが、りこはりこで、バレー部の練習がある。夏の大会に向けて部の気合も高まっているというから、がんばってこいと、りこを宥めた。

「母さんがビデオに撮っておくから」

 母さんは、りこの駄々っ子なんてお構いなしで楽しそうだ。親父に使い方を叩き込まれたビデオカメラを用意して、すでに俺たちの姿を収めている。母さん、バッテリーの消耗に気をつけろよな。

 そんなふうに家を出たのが一時間とちょっと前。




 坂道を校門間近なところまで登ったところで、自身の名を呼ばれて振り返った。

「葉月先輩」

 後輩の知り合いなんて、数えるほどしかいない。いや、目下この高校には一人だけ。

「桐原さんか」

「どうしたんですか? ぼんやりして」

 桐原理々香は、とみちゃんと比べれば、まだ知り合って日が浅いせいか遠慮がある。そこが助かる。とみちゃんがずんずんと攻めてくるので、俺は年下の女の子に弱いのではないかと最近思う。

「んー、真白……会長、結局曲げてくれなかったな、って」

「そのことですか」

 桐原さんはあのとき生徒会室を訪れ、俺も同席した状況で莉緒に関する報告をしてくれた。

『桐原理々香さんの情報で、何らかの悪質な行為があったのは明らかです』

 真白は言った。

 俺はあのとき、桐原さんに先立って生徒会室を訪れ、状況を確認していた。莉緒の出場種目希望が提出されていないことがわかり、その時点では、未提出は莉緒の責任だから、穴埋め的に莉緒が不人気種目などに割り当てられるのは当然。俺はそれを聞いて止むなしと思っていた。いや、なんとかしてやりたい気持ちは残っていたが。

 そこへ、桐原さんからの情報が加わった。

『ですが、すでに出場種目は発表されたうえ、逆に弟さん本人からは何の届けもない』

 真白は、生徒会長の顔で俺を見た。

 そこで俺は脳裏の記憶を閉じた。




「あのときはすみませんでした」

 俺は桐原さんの発言の意図を、目線で聞き返した。

「私もあのときは、自分で自分を助ける気がない人の面倒なんて、見てやる必要はないって思ってました」

 なんか、俺の周りの女子は、自他に厳しい女の子が多いのかな……。

「でも、不正があった証拠も見つけたのに、リオくんは、がんばってみる、って決めて」

「ああ……」

 莉緒は俺にも改めて言ったのだ。桐原さんと俺に、がんばる、と晴れやかに。

「ああ言われちゃあ……な」

 莉緒の表情を思い出した。ちょっとだけ強くなった莉緒だ。

 片や真白は真白で、『あなたは、一生莉緒くんの保護者をするつもり?』 と。

『じゃあ、せめて近くで見守れるようにしてくれないか』 といったが、 『約束はできません』 と、真白は突っぱねた。

『莉緒ばかり割を食って、不正の方はどうなんだよ』

 ちょっとケンカ腰になってしまった。その言葉はあまりに俺の都合ばかりで、苛立ちをそのまま真白にぶつけてしまった。真白にも公平性を持たなければいけない立場があるのに。

 俺は頭を掻いて反省した。

 真白は俺の苛立ちを受け止めながらも、俺たちのことを考え、俺を莉緒と同じ赤組にしてくれていたのだ。

 これで、競技以外は莉緒の近くにいてやれる。ほとんど一日一緒といってもいいくらいだ。ちょうど赤組にいた生徒会メンバーと俺の名前を差し替えることで、一般生徒の変更が発生しない対応が可能だったからだ。

 だが、種目については発表済みで、割り当てられた人たちがいる以上、差し替えはえこひいきになる。だから、そこはそのまま。

 とにかく、俺は見守るしかないが、真白の差配は的確だった。真白にぶつけてしまった言葉が、申し訳なくて身に染みた。




 体育祭開会の花火が、まだ朝早い町内の空に上がる。

 青空に白い煙が小さく爆ぜた。

 長年のセレモニーだ。ご町内には事前に青陵高校の体育祭の日取りが回覧され、花火や放送に対するお願いが根回ししてあるという。

 その代わりといっては何だが、何十年も前から青陵高校の体育祭は、学園祭と同様に外部者の観覧が可能だ。当然保護者も来るが、近所のお年寄りも賑やかさを楽しみにしているらしい。

 学校施設が関係者以外立ち入り禁止の昨今ではめずらしい、と俺は思っている。

 校門と昇降口までの間にある広場には、少ないがキッチンカーも来てちょっとしたお祭りのようだった。

 校門からグラウンドに至る動線やら、各色組の待機エリアは飾り付けられて体育祭モードに切り替わっている。場内には音楽が流されていて、いよいよ激戦の開幕が待たれた。

 日が高みへと登り始めている。今日は、一段と暑くなりそうだ……。


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