第七話(5)
俺は人目を避けて彷徨った。
「春詩くん、こんなときは屋上がおすすめです」
屋上は立ち入り禁止で、鍵がかかっている、という噂だったはずだけど。俺は真白の役職を思い出して、疑問を差しはさむのをやめた。
果たして、屋上の扉は開け放たれており、青い空が四角く覗いていた。
「天気のいい日は、空気の流れをよくするために屋上のドアが開けてあるんですよ。そんな日は、生徒会に、生徒が立ち入らないよう注意喚起の連絡が来るんです」
俺は、一歩一歩階段を登って、四角く切り取られた景色の外に足を踏み出した。
そこは、ちょっとがっかりするくらい床が剥がれたり傷んでいたけど、眺めだけは最高だった。
十数階建てのビルが少々あるだけの街並みは見通しが良くて、反対方向には山並みの緑が連なる。うんと目を凝らせば、空気が澄んでいる日には海も見えるのかな。
解放的な景色にふさわしく、心地よい風が吹き抜けた。
気持ちのいい景色だ。
「ないしょです」
振り返った俺の目に映ったのは、うれしげな真白のほほえみだった。
そのほほえみを見ながら俺は……ふと、真白の手を握っていることに気づいて、その手を離した。
「すまん、つい、いつものクセで」
「いつも、誰かの手を?」
「い、妹と、弟だよ。あいつらのこと、ほっておけなくて」
「仲がいいのですね……うらやましいです。こうして、手を引かれるのは、いいものですね」
真白は俺に握られていた自分の手を、いとおしげに胸元に運んだ。
彼女は、もっと冷めていて理屈で物事をこなしていくタイプだと思っていた。
それが、先ほどからの姿を見ていると、なんだか“一ノ瀬会長”と話していた時のようには、うまく話せない。
言いたいことは、山ほどある。いや、ちょっとか。まだ付き合いは浅いんだ。
「なんで……いきなり名前で呼ぶなんて……すげえ、目立つよ、俺なんかと」
俺は、なんというか、中二病ではないけれど、評価で言えば学校内ではアウトローなポジションだ。不良ではないけれど、過去にいろいろと問題を持った生徒という見方は、俺の中学時代を知る者たちの評価を引きずっている。
「俺なんかだなんて、言わないでください」
彼女はつんとする。そして彼女は言葉を重ねた。
「私は、気になりませんよ?」
彼女は、俺の何を知っているのだろう。
「俺が気になるんだよ。真白の評判に傷がつく気がする」
「その気遣いは、喜ばしいです」
一歩前進です、とつぶやく真白は、スカートを揺らして手すりにすがった。
「名前で呼び合うのは、恋人同士になる前提のお付き合いなら、手ごろなステップではないかしら」
「真白は、奥手な男子が越えられない壁を、やすやすと越えてくるんだな」
「春詩くんだって、女の子の手を握るなんて、相当なハードルをやすやす越えてきました」
あちゃあ、一本取られた、と俺は顔を覆った。
「それにしたって、俺と恋人になる前提でお付き合い、なんて、やっぱり理由が見えないよ」
「そうですね、もう少し前提の共有は必要かもしれません」
何が面白いのか、真白はにこにことしていた。
「私は、春詩くんに、興味があります」
ひとつひとつ、自分の中でかみ砕くように真白は言った。
「でも恋愛感情はありません。たぶん、いまのところ」
自分の言葉が、胸の内側でどう響いているのかを確認するように、ひと言ひと言、ゆっくりと彼女は言った。
胸の前にある自分の手を、彼女は握る。
「ただ、聞いてください。私は、春詩くんの手を握れてうれしかったです。屋上の秘密を二人で共有出来て、それもうれしいです」
ひとつひとつ、積み重ねてみたい、とでも言うようだ。
「それで、お昼はいかがですか?」
「あ……」
俺は、あの場から抜け出すことに気を取られて、弁当を持ち出すのを忘れていた。
「では、私のお弁当を半分差し上げます」
教室にあらためて戻るのが恐かった俺は、その誘いに乗ってしまった。
ウカツだ。
まんまと罠にかかり、俺と真白は、同じ箸で一つの弁当を分け合った。
ウカツだ。
真白のいう、段階を踏んでいると、周囲の声はなんだか気にならなくなった。
俺は竹内に事の経緯を話し、肩をぽんぽんと叩かれた。どういう意味だかわからないが、そっとしておいてくれた。一方、俺と真白が付き合っているらしいという噂は徐々に全校に浸透していった。
そんな日々を数日過ごしていると、中間テストの期間が始まった。あらゆる部活が休みとなるが、唯一活動が許される部がある。
それは、我が帰宅部だ。
俺が日々の訓練の成果を発揮して家に帰ると、それ以上に早く、莉緒が帰宅していた。
あろうことか、莉緒は荷物を置いて、俺を出迎える余裕さえあった。吹奏楽部員に、帰宅専門の俺が敗れるとは……。
冗談はさておき。
「おかえり。何かあった?」
「なんでもないよ」
小首をかしげる莉緒の頭を撫でる。いや、いけない。これは弟にすべきムーブではない。ただ、つい、莉緒も、りこと同じくかわいく思ってしまうのだ。背丈は、りこより少し高い160センチ。手を置いてしまいたくなるのだ。変かな……。弟をかわいがるの、普通だろ?
ちょっとくすぐったそうにした莉緒に謝って二階に上がる。
部屋には、洗いあがった洗濯物が、兄妹の衣類ごとに分けられていて、莉緒とりこの洗濯物もあったけど、俺には見分けがつかなかった。いや、もっと触れて探れば判別はつくけどさ。
夕食後、俺は実に『珍しく』勉強机に向かっていた。
俺たちの子供部屋には壁に向かって机が三つ並べられている。
一つは、俺が小学校入学時に親に買ってもらったもの。
もう一つは、莉緒が同じく入学の時に買ってもらったもの。
最後の一つは、りこが莉緒の入学時にわがままを言って一年早く買ってもらったもの。
それら三つが年の順に並んでいる。
すると、風呂上がりの莉緒が戻ってきた。りこは、といえば、とっくに布団を敷いて漫画を読んでいる。おや、新刊だな。あとで読ませてもらおう。だが今はだめだ。
「あれ? 兄さん、めずらしいね」
生まれてこの方、俺のことを見てきた莉緒に、珍しいといわれるのは仕方あるまい。
「りお、兄も高校に入学する直前だけは神童だったのだよ」
「中三のときに、やる気スイッチがなぜか入って、成績がよかったっていう……」
「そうそう」
俺のトークの鉄板ネタの一つだ。
あのときは、授業をなぜだかきちんと聞く気になった。そうするとすらすら授業の内容が理解できてしまったのだ。真白に、地頭がいい、なんて言われたのもその辺かもしれない。残念ながら、何故やる気スイッチが入ったのかは、いまだに不明だ。
「それで、やる気スイッチがオンになったの?」
「そういうわけじゃないけどな……」
「一ノ瀬会長と……付き合うことになったから、がんばる気になった、とか?」
莉緒がおそるおそる聞いてきた。
やはり噂は一年まで広まっていたのか。
「えっ!?」
コミックスに没頭していたはずのりこが、恐ろしく素早く反応していた。
さすがバレー部、拾ってくるな……。




