第五話(2)
「ああもう、朝っぱらから……」
教室にへとへとになって辿り着くと、ぐだー、っと、私は背もたれに全力でもたれ掛かった。リクライニングのない学校の椅子を、めいいっぱいに身体でアジャストしてだらける。
四月も下旬に差し掛かって、今日は汗ばむ陽気だ。
りことの追いかけっこのせいで、朝一からタオルの出番となった。
「とみちゃん、ごめんって」
りこが笑いながら、少し足をさすっていたのを、私は見逃さなかった。
「りこ、足痛いの?」
「あ、ううん。なんか自分の手で筋肉ほぐすのがクセになっちゃって」
まだ本調子ではなさそう、というのは先ほどの鬼ごっこでも分かった。全力が出せない、出さないように気遣っている、そんな走り方だった。
「それはそれとして……りこ、それ以上を膝あげちゃだめよ?」
「え?」
どうして? と聞き返す無垢な瞳に私は額を押さえる。
(スカートの長さ、考えなさいよ)
小声で鋭く言い、男子たちのほうを顎で示した。何人かがギクりと目線を逸らして誤魔化す。
あ、とそれに気づいて、りこは膝を合わせてお行儀良くした。
周囲の男子の目というものが、りこにも少しわかったようだ。
「わ、わたしも気にしてないわけじゃないよ……ただ、すぐ忘れちゃうだけで……」
りこの頬が赤くなっていた。
ああ、恥じらいはあるのね、と、私は少し安心したものだ、と、のちに葉月家で述懐する。
◆◇◆◇◆
その、とみちゃんの述懐とやらは意外と早いタイミングで訪れた。
俺と母さんは、とみちゃんから学校のそんな出来事を聞いたのだった。
「と、とみちゃん……ばらさないでよぅ」 と、りこはぽかぽか親友をたたいていた。
もちろん、とみちゃんは情報開示に容赦なかった。りこがかわいいこと、最近男子に人気なこと、あと、りこがかわいいこと(重要ポイントは二回言います、と、とみちゃん)
それから後輩女子にモテてるって話。きっかけのスカートの件などなど。
今日はGWに突入する直前の祝日。
とみちゃんがうちに遊びに来てくれて、ひとしきり俺と母さんも交えて、世間話がてら報告していってくれた。
いまはりこと二人で居間にいる。(我が家の子供部屋は三人共用なので)
この日はバドミントン部の地区大会が緑生学園中学で催されているという理由と、GWのハードな練習スケジュールに備えるという名目で、二人の所属するバレー部は休みといっていた。
長いGW期間、りこは足が復調していないので部活を休むから、この日を使って会っておこうと、とみちゃんが時間を作ってくれたらしい。
持つべきものは親友だな……ん? そういえば俺の交友関係ってすごく寂しいような……。
(ま、俺のことはさておき、りこの足は心配ないのかな)
俺が脳裏でそんなことを考えていると、母さんもいろいろ思案していたようで、それが口について出できた。
「りこもかわいいからねえ。制服のスカート、買い直してあげたほうがいいのかしら?」
誰に言うでもなく漏らす母さんだが、多分これは俺が相談を受けていることになるのだろう。
「むだだよ」 茶をすすって応じる。
りこはかわいい。莉緒もそうだった。中学二、三年ごろから目立つようになった。りこは派手な目立ち方はしないタイプ……兄としてかわいいとは思っていても、家族のひいき目がなければそれほどでもないと思っていたのだが……。
「りこがかわいいってバレたんだから、今さらスカート長くしたってさ」
それに、スカートの丈はちょっと短いくらいで、実のところほかの女の子と大差ない。
実は、りこは足がちょっと長いのではないかと俺は思っている。この、わずかな違いも相まって絶妙にスタイルが良く見えているのではないかと……これも兄のひいき目なのか?
「まったく、ハルはいいお兄ちゃんねえ。べたぼれじゃない」
「そんなこたぁ、ないよ」
誤魔化すように冷めたお茶を煽った俺は、鼻から茶柱が出そうなくらいむせた。
古く、ややもすると古民家的な内装の我が家。日当たりのよい縁側に向いた障子をあけ放ち、居間の畳で足を伸ばすと心地よいというのを、俺は知っている。
俺は母さんの淹れたお茶のお替りをお盆にのせて、とみちゃんとりこがいる居間にお邪魔した。
「入るぞー」
りこは心地よい畳に投げ出していた素足を、すっと畳んで居住まいをただした。今日は、ホットパンツで、ある意味スカートより肌色の面積が大きい。
ちらりと、りこに目を配ってから、俺は視線を移した。
「とみちゃん、ゆっくりしていってくれ」
お盆を座卓に置いて言った。
和室に置かれたその座卓は、足が木彫りになった立派なやつだ。天板は一本の木から切り出したと聞いたことがある。とすれば、相当でかい、巨木といっていい。俺が子供のころ、飾りの木目を貼り付けてそれっぽく見せている品物もあるそうだが、これは本物なんだよ、と親父が言ってたっけ。わが家のことに限らず、俺たちはそんなすごいものに何げなく囲まれて暮らしているのかもしれない。
「ありがとうございます。お構いなく」
とみちゃんはきちんと座って、俺に丁寧な受け答えをした。ちょっと妹の不出来がなさけない。
だがまあ、何も言わずに俺は居間から辞した。
「りこって、お兄さんの前だと、ちょっと……かわいくなるね。ほんのわずかに」
「えっ?」
焦ったようなりこが反撃を試みる。
「とみちゃんだって、すごいよそ行き」
「だって、よそのお家のご家族だもん、ちゃんとするでしょう」
とみちゃんのずばり正論に、りこは撃沈したようだった。
……俺は、階下の声を、自分たちの部屋に寝っ転がって聞いていた。いや、盗み聞きするつもりはなかったのだが。
わが家は広い。が、古い和風建築のせいか、真下の音はよく抜ける。子供部屋のほぼ真下が居間があって、お茶のあとの昼寝の誘惑に乗って寝そべると、思いのほか会話が聞き取れてしまったのだ。
「勇吾はどうなのよ?」
とみちゃんから、男子の名前が出る。やっぱり女子ってこういう時の話題は恋バナになるんだろうか。
「えっ、何で勇吾くん?」
りこは、とぼけたような声を出した。それは何かをとぼけた声だって、兄だからわかる。
「まあた、とぼけちゃって」
うん、親友のとみちゃんもわかるみたい。ってか、『ゆうご』って誰だ。
「さ、さいきんね。なんか勇吾くん、すごい私のこと気遣ってくれて。こないだの試合のこともめちゃくちゃ褒めてくれたし、松葉杖のとき、下駄箱に靴をしまうの、代わりにやってくれたり……」
松葉杖で片足立ちだと、自分の外履きを拾うのは大変だもんな。『ゆうご』くんとやら、いいやつなんだな。
りこの声色からも、彼に対する印象が良い事は推し量れた。
「へぇ~。イイ感じなんだ?」
「べ、べっ、別にただそれだけだよ」
がちゃん、と陶器の器がぶつかる音がする。りこがテーブルに膝小僧でもぶつけたかな?
なんだか、それ以上聞くのは、男がすたるというか、いけない気がして、俺は少し散歩にでも出掛けることにした。そう。妹の色恋なんて、気持ちがざわつくだけだ。
「いってきます」とは言わずに、そっと玄関を出た。なんだか、りこに出掛けるのを気取られたくなかった。そこらをぶらついて時間をつぶそう……。
都心を離れると、こうまで田舎になるのか、という感動が芽生えるくらい、このあたりはなにもない。だから、適当にぶらつきながら自販機で缶コーヒーでも買えば、ちびちび飲み干すまでのあいだ時間をつぶせると思っていたのに、財布を忘れて無一文。
「あー」
些細なことでも、うまくいかないときって、こんなもんだよな。五月が近い、深い青空を見上げた。




