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第一話 桜のとき(1)

 わが家が、親父の故郷に引っ越したのは俺が小学六年の時だ。

 親父の実家は、広くて、古臭い家だった。この地域の名家だとかなんとか。

 家は古いが、住所で言えば東京の隣県だ。こんど引っ越すのだと友達に言ったら、東京に遊びに行くから泊めてくれ、なんて羨ましがられたものだ。

 その友達も、今となっては顔も名前も覚えていない。

 都会に引っ越すという点については、俺もちょっとは期待をしていたのだが、期待はまあ、ほどほどにしておいてよかった。

 期待していた景色は、立ち並ぶ高層ビルとにぎやかな街。子供心のおぼろげな憧れ。

 引っ越し先の親父の実家は、もともと住んでいた町より田畑が広がっていて、田んぼのあぜ道もかくやという県道を、路線バスがのんきに走っている。

 これが現実。いま思えば、こっちのほうが俺に向いていたわけなんだけど。

 こうしてわが家は、地方から見れば、都会という印象でひとまとめにされがちな、他愛のない町の住人となった。




 それから月日がたち、新しい地元になじんで、なんやかやと中学を卒業。

 高校一年も、もうすぐ終わり、次の春を迎えようとしている。

 ガラガラ、と玄関の引き戸を開けた。

 そうだ、俺は家に帰ってきたところだった。

 やけに広い玄関で、温泉旅館かと思うほどだ。まあ慣れた。勝手口も別にある。

 引っ越し先の父方の実家は、由緒正しき名家。代々続く血筋で、子供の頃に家系図も見せてもらったことがあるが、その血統は江戸時代の初期まで遡れるらしい。

 そんな家柄も、今では財産もなく、面倒な親戚づきあいばかり残っているのを子供ながらに肌で感じて育った。

 親父の兄、俺にとっての叔父さんにあたる人が亡くなって、親父がこの家を継ぐことになったのだとか。叔父さんには奥さんも子供もいなかったそうだ。そういえば叔父については不愛想なイメージしか記憶に残っていない。

 あとを継いだはずの肝心の親父は国家公務員で、いずれ地元に戻ってくる予定。ただいま単身赴任中。

 この家には、母さんと俺たち兄妹、あわせて四人が暮らしている。

「ただいま」

 言ってはみたものの、返事はない。

 この広さじゃ、声もどこかで迷子になる。まあ、これも慣れたけど。

 そのとき——

 ドタドタドタッ!

 二階から階段を駆け下りてくる音がして、元気な声が響いた。

「おかえりーっ、はる兄っ!」

 顔をのぞかせたのは兄妹で一番下の、妹()()

 短い栗色の髪はまるで少年みたいだ、とでも評したほうがいいのか。いや、うそだ。今は小動物みたいにかわいいというのも正しいけど、ぱっちりとした瞳とつやつやな髪質の良さ。小顔に赤みのさしたほっぺ。美人になる。うん。兄バカ。口が裂けても本人には言わないが。

 そんなりこが、中学のセーラー服姿で、スリッパも履かずに廊下を駆けてくる。

「りこ、階段あぶないよ。兄さんは逃げないから……」

 ちょっとだけ間をおいて、今度はゆっくり階段を下りてくる足音。姿を見せたのは、同じ中学の男子制服を着た弟の莉緒だ。

 二人の声に、思わず笑顔がほころぶ。

 りこが本気ですっ転ぶんじゃないかと、莉緒はそれはもう、本当に心配そうに後ろをついて降りてくる。莉緒は、りこが小さい頃から転んだり落っこちたりするのを、目の当たりにしてきたからな。

 それにしても、耳がいいな、ふたりとも。

「りお、明日の準備はできてるか?」

 靴を脱ぎながら、俺は階段から降りてきた莉緒に声をかけた。

 明日は莉緒の高校入試本番なのだ。俺の通う青陵学園への入学が決まるかどうかという大事な日だ。合格すれば、高校生活も賑やかになるだろう。

 いや、りこがいる家にいるだけで、俺の生活はもう十分賑やかだけどな。

 そんなことを思って苦笑する俺に、莉緒は首を傾げて見せた。

「うん、大丈夫だよ、兄さん」

 いつもと変わらぬ、少し憂いのある微笑み。

 いろいろあったもんな。こうして笑えてるだけでもすごいよ、莉緒。

「そっか。りおが入学したら、俺も楽しみが増えるよ」

 俺はつい、鼻の頭をぽりぽり掻いて照れ笑い。

 “弟”の莉緒も、つられるようにふわっという笑顔を見せた。

 なんというか——莉緒は美少女だ。

 やわらかな髪。睫毛は、愁いを秘めた瞳を隠すように長い。中学卒業間近の男子にしては、背丈も肩幅も小柄で、シルエットが一層女の子のようだ。本人が気にするといけないから言わないけど。

 そしてつややかな唇はつつましく結ばれていて、莉緒が言葉を紡いだなら、優しい言葉しか俺は聞いたことがない。と、これは性別とは関係ないか。

 いや、戸籍は間違いなく男の子なんだけど。簡単には言えない事情があるのだ。

 ともかくそんな美少女然とした顔で微笑まれると、兄としてもちょっと照れる。

 莉緒は、どんなテレビで見るアイドルよりも……そう、語彙力を失うくらいの美少女で、きれいな顔立ちをしていた。

 体つきも細いし、怪我の絶えないりことは違った意味で、守らなければと思う。

「あーもう、いいなあ、ずるいー。私も早く高校行きたいな~っ!」

 りこの大きな声で、我に返った。

 自由奔放。いつもの、りこらしい元気っぷりだ。

 俺はため息交じりに苦笑い。中学校に兄妹一人になっちゃうからな。りこは小学校のとき、中学に兄二人が上がったときもそうだった。自分が取り残される気分になるのだろう。

「りこ、俺の手をぶんぶんしないでくれ」

 俺の腕にまとわりついていたりこが、ぶんぶんと手を振り回していた。 楽しそうなのはいいけど、歩きにくい……。が、まあ我慢してやるか。

 俺は鞄を小脇に抱えたまま、台所に直行する。

 台所では、母さんは電話中だったみたいで「ごめんください」と、ちょうど受話器を置いたところだった。

 チン、と黒塗りの電話機が音を立てる。留守番電話機能を後付けする装置が付けられていて、この時代まで延命している旧時代の利器だ。時代錯誤というか文化財と評したほうがいいのか。この黒電話、本当にスマホにつながるのか? と疑問に思わないでもない。

「ただいま」

「あらおかえり」

「電話、なんだったの?」

「役場からよ、次の集会にでてくれって」

 役場——市役所の支所だけど、合併して市になる前は町役場だった場所だ。昔の名残で役場って呼ばれてるらしい。

 母さんは、PTAでも町内会でも、なんでも頼まれるタイプだ。頼まれたら断れない性格なんだよ。損してるんじゃない? って言ったことがあるけど、そうでもないわよ、と返された。タフで図太い性格なのかな。なんだかんだと、毎月どこかの行事に関わっているのだから、素直にすごいと思う。

「ふうん……腹減った、ごはんまだ?」

 とにかく、親の付き合いに口を出せるほど、俺も大人の世界にはまだ遠かった。

「りお、明日受験だし、さっさと食わせて寝かせてやらないと」

「そうね。ちょっと待って」

 母さんはいそいそと準備する。微妙なお年頃の兄妹三人の世話と家事をこなす母は偉大だ。専業主婦だと侮るなかれ。




 翌朝。

 俺は莉緒を学校に送った。

 りこも一緒だ。

 朝の空気は冷たく澄んでいて、緊張感のある静けさが漂っていた。

 莉緒は制服の上に紺色のコートを羽織り、マフラーをきっちり巻いて、いつにもまして、姿勢を正している。

「兄さん……ありがとう」

 学校に近づく坂道の途中、莉緒がぽつりとつぶやくように言った。

 なんのことだ、と問い返すように俺は振り返った。

「いろいろ……それに、こうして送ってもらえるの。なんか……心強いから」

 俺は返事をせずに、莉緒の頭をくしゃっと撫でた。

 ほんの少し照れているような、どこか嬉しそうな表情を莉緒は浮かべる。

 それから、じわりと瞳に涙が浮かんで、莉緒はこらえたようだった。そして、また笑顔を見せる。

 なんだか、女の子を泣かせてしまったみたいに感じてしまうじゃないか。

「はーい、写真撮るよ!」

 りこがスマホを構えた。

 風の中で揺れるセーラー服の裾。今日も彼女は元気だ。

「りこ、あんまり撮らないで」

 莉緒は、ある事情で最近写真が苦手で、小さな声で抗議した。お構いなしに、りこは撮るけど。

「へへーん、今のすっごくいい顔だったよ、りお兄」

 俺は苦笑いして、ふたりのやりとりを横目で見ながら歩く。俺の通う高校、青陵学園の正門はもうすぐだ。

「じゃ、ここでいいな」

「うん……」

 莉緒は少し先を歩いて立ち止まると、振り返った。

「……行ってくるね」

「おう。いつも通りやればいい。大丈夫だ」

「うん」

 莉緒はもう一度、振り返って小さく手を振った。その背中が校門に消えていくまで、俺とりこは並んで見送っていた。

 莉緒がんばれ。俺とりこの胸の内には、同じ言葉が念じられているに違いなかった。

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