第四話(4)
俺のお説教を受け流すと、莉緒は俺と背中合わせで着替え始めた。
衣装ダンスの鏡に映る莉緒の姿を、見ないようにする。鏡の中の莉緒が、着替えが終わるのをちらりと確認してから、俺は莉緒に向き直った。
「とにかく、いつでも呼べよ」
「うん……そうだ、兄さんのボタン、直してあげるよ」
そういうと、莉緒は母さんの部屋から裁縫箱を借りてきた。
座布団に正座して、俺のシャツを膝の上に広げると、糸を通した針でボタンを丁寧に縫い付けていく。
胡坐をかいて俺はそれを見物していた。
(絵になるな……美少女が、繕い物をしている……ようにしかみえない)
イカン。いま思ったことを、ごくん、と文字通り唾とともに飲み込んだ。口には絶対出さない。莉緒が気にするといけない。
正座した美少女が、俺のワイシャツを繕っている。そのシチュエーションが、どうにも落ち着かなくて、俺はごろんと畳に転がった。
莉緒を見上げる。莉緒の横には畳まれた洗濯物があった。
母さんが物干しから取り込んで、畳んでくれた衣類を、先ほど莉緒が兄妹それぞれの分にわけてくれたものだ。
りこと、莉緒と、俺の分。下着もまとめてあって、スポーツブラもいくつか。妹がいるから女物の下着は見慣れているけれど、三つに分けられた洗濯物の山のうち、二つにスポーツブラがあった。
そのスポーツブラのいくつかは、りこではなく莉緒が着けるものだ。
あの中学の修学旅行の事件以来、莉緒は医者にかかっていて、定期的な検診を受けている。心と、体に必要なものだ。
間違いなく、莉緒は男子だ。と、今の俺は自分に言い聞かせているのかもしれない。
莉緒の苦しみは、他人にはわからないから。
莉緒は、中学一年を過ぎても、声変わりはなく、ほかの男子に比べて体も小さいままだった。それくらいは珍しいことでもないし、家族は気にもしていなかった。
一方で、違う変化があった。莉緒の体は、逆に女らしく変化していったのだ。有り体に言えば、胸がやわらかに膨らんだり、といったことだ。
莉緒はそれを隠した。当然だ。男子なら恥ずかしいと思っておかしくない。
「兄さん、怖い顔してるよ? どうしたの……?」
あの事件のせいで、家族は、莉緒が隠していたことを莉緒の意図しない形で無理やり知ることになった。
スポーツブラ。りこの着替えはボケっと眺めるクセに、莉緒の着替えに背を向ける理由がそれだ。
俺は顔をむにむに動かして強張った顔をほぐすと、笑顔を莉緒に向けた。
「なあ、りこのブラと、見分けつくのか?」
俺は常々、莉緒の気持ちが暗く重たくならないよう、軽口をきく、あるいは平坦に言う、という方針を定めていた。(そうなるにも時間が掛かったのだ)
「もう、兄さんのバカ、ちゃんとわかるよ」
莉緒は怒ったようでいて、優しく思いやるように、縫い終わった俺のシャツを畳んでくれた。
「はい、出来たよ」
「ん、ありがとう」
そこへ階下から、ごはんよ、と母の声がする。
「おりるか」
「うん」
俺たちはりこを起こして、兄妹そろって台所に向かうのだった。
◆◇◆◇◆
今朝、私は思いのほか早く登校してしまっていた。始業前に職員室に所用があるから、ちょうどよいのだけど。
昇降口に生徒の姿はほとんどない。校門坂には、私のあとに何人か続いていたが。
「桐原さーん」
元気に駆け寄る杉山柚羽の姿には気づいていなかった。そして驚きだった。彼女が私の名前を憶えていることに。
「桐原さん、早いんだねぇ。バス?」
「歩き」
「近いの? いいなあ。私はバスなんだぁ」
下駄箱から上履きを取り出して履き替えながら、杉山さんは世間話とばかりに続ける。一本遅いバスでも間に合うんだけど、その時間はだいたい激混みだから早く出るんだ、とかそういった話だ。
「あ、私、杉山柚羽ね、念のため」
「覚えてるわ。私は桐原理々香だけど……覚えていたのね」
「んー、物覚えはいいほうかな。よろしくね、理々香ちゃん。私は柚羽でいいから」
彼女は私の想像より大また三歩くらい速く、距離を詰めてきた。いきなり名前呼びされるのを、不快と伝えるべきか悩んでいる間に、彼女は先へ行く。
「どしたのー? いこうよ」
「わ、私、職員室に呼ばれてるの、先生に」
一緒に歩きたくない言い訳っぽく聞こえたかしら。馴れない人物とは、どう会話すればいいのか分からなくて、私は苦手だ。ただ、職員室に行かなければならないのは誓って本当だ。
杉山柚羽は、はっ、と何かを思い出したような表情をした。
「いっけない、私もだ!」
私は、ちょっとだけ嫌な顔をしたかもしれない。
校内SNSのメッセージアプリで私を呼び出したのは、担任の高梨先生だ。青陵学園の校内SNSはツールとして便利だが、こう気軽に教師に使われるのは考え物だ。校内SNSは、一般的なSNSなどを生徒が使い始める前に、ネットリテラシーを育むのが目的、ということらしいが。今時中学からSNSをやっている子もいるだろうから、教育より実際のツールとしての存在意義のほうが強いのではなかろうか。
「絢ちゃんセンセエ、なんで私たちぃ?」
「なんだ、言わなかったか。君たちは学級委員が決まるまでの臨時の委員になっている。あと、“高梨先生”だ」
杉山柚羽のコミュ力は教師にも通用するらしい。朝っぱらから呼びだされた抗議を、軽い雰囲気でストレートに伝えられるのは、正直羨ましい。
高梨絢先生は、今日もつややかな黒髪を結いあげていて、いつも掛けている眼鏡を、今は外していた。率直に言って美人だ。
「その臨時の委員って、どうやって決まったんですかぁ」
「ランダムだ」
高梨先生はあっさりと切り返した。
「さ、この教科書を運んでおいてくれ」
それは、落丁があって交換になった、新しい古文の教科書。本日一時間目の教科だ。
「まあ、朝から呼び出すなんてことは滅多にない。よろしく頼む」
圧倒的に杉山柚羽がしゃべって、職員室を一礼して辞したとき、私には言葉を発した記憶がなかった。おはようございます、くらいは言っただろうか。なんていうコミュ力の差。
ずっしりと重い教科書を手に、四階まで上がるのはなかなかの重労働だ。
杉山さんが泣き言をいうので、ついつい自分は押し黙ってしまう。他人が不平不満を代弁する効果というのは、どうやらあるらしい。
だから、一人でいたら、それを私は無視したかもしれない。階段の踊り場の足元に落ちていた紙片を、私は拾う余裕があった。




