第四話(3)
「ただいまぁ」
がらがらと家の引き戸を開ける。開けたのは、俺の背中から手を伸ばしたりこ。広い玄関が暗い。カギはかかっていなかったが、奥の方もしんとしていて、母さんは出掛けているようだった。
「りこ、降りてくれよ……」
俺は、りこの足がつく高さまでかがんでやったのだけど、りこは足を踏ん張るつもりがない、という風に、俺の胴体に足を絡めてしがみつく。
「えー、二階まで連れてってよお」
「甘えるな」
「あら、お帰りなさい」
じゃれていると、ちょうど母さんも帰ってきた。
母さんは近所の個人商店の買い物袋を提げていた。大量の食材は街のスーパー、ちょっとした買い物はご近所さんというのが母のスタイルだ。
「うん」 「ただいま~」
「ハル、そのほっぺどうしたの?」
「ああ、バスケのボールを食らってね」
母さんにも、真実を言う必要はない。だって、心配かけちゃうだろう?
「もう、気をつけなさいよ?」
「大丈夫だよ」
俺は母の手にした買い物袋を一つ手に取り台所の食卓についていくと、お茶に付き合った。
「ねえ、学校の……莉緒の様子はどう?」
母さんは、りこが二階に上がっていったのを見計らったかのようなタイミングで口にした。
莉緒が高校に入学して一週間。そんな話題がそろそろありそうだ、とは予感していた。
「今日から、中学と同じ吹奏楽部に入ったよ。あとは……まあ、目立ってる、かな。」
「莉緒、かわいいからねえ」
母さんは、頬に手を当てて笑う。笑顔の裏に、心配の気持ちが隠れてるのも俺は知っている。
中学二年の修学旅行の事件で傷を負った莉緒を、家族みんなで支えてここまできた。
「目立ってはいるけど、みんな良いほうに捉えてるから、大丈夫だよ」
「そう……」
莉緒の容姿が、良いほうに作用すればいい。安直だが、莉緒の見た目の良さは、まず最初に好意的にみられる。それをきっかけに莉緒の味方をしてくれる仲間が増えてくれればいい。あんなに性格よし、器量よしなんだから、好かれないはずがない。俺はそう願った。
「あのね。莉緒が毎月通院してるでしょう?」
母さんは、少し声を低くした。
それは修学旅行の事件以来、継続的に受けている定期健診のことだ。心と、体のために、莉緒は毎月市内の総合病院に通っている。家族の中で隠していることではないから、声のトーンを落とした理由は何か別にあるのだろう。
「お医者さんの、倉松先生から電話があってね、今度の定期検診は、保護者の方も同席してくださいって、念のため電話しましたって。そのことを、莉緒にも手紙で先月持たせたっておっしゃるの」
俺は、深く考えずに母さんの説明を聞いていた。
「ふうん……それで?」
「母さん、莉緒からその手紙を受け取ってないのよ」
ばり、と、煎餅を齧る口が止まった。いや待て、ちゃんと噛んで飲み込もう。
ぼりぼりと咀嚼する。莉緒の心情を考えてみる。俺は母さんに、熱いお茶のお代わりをもらってすすった。
「りおには、何か来てほしくない理由があるのかな」
あまり深刻ぶらない母さんだけど、心配しているのは明らかだ。
「あとで検診の日付を教えるから、ハル、あんた付いてって。確か今週か来週あたり、そろそろだから」
「俺で大丈夫かな」
「親に言えないことなら、せめてお兄ちゃんがついていってあげなきゃ。お願いね」
「うん……」
「ただいま……」
そんな話をしていると、玄関の方で莉緒の声が小さく聞こえた。俺の地獄耳をもってして、ようやく聞こえる音量。やはりこの旧名家の和風家屋は三人暮らしには広すぎだ。玄関からの声が遠くて、母さんには聞き取れていない。普段、台所仕事をする母に聞き取れというのは無理がある。
「おかえりー!」
俺は大きな声で返事した。母さんからすれば、俺が突然声を張り上げたようにしか見えないはず。
「あら、莉緒?」
だが母さんは察する。
「りおみたい」
部活は初日だから、早く終わったのかな。母さんはお茶を入れ直し、食卓に出してあるお茶菓子を足した。
莉緒が台所に顔を出すと母さんが笑顔で迎える。心配で沈む顔なんて、微塵も見せず、明るく笑う。母さんて、いいよな。
「おかえり莉緒。お菓子あるわよ」
莉緒は微笑む。それから三人で茶飲み話を楽しんだ。相談事は終わったから、りこも呼んだんだけど、りこは疲れたから夕ご飯まで休むってさ。
「今日は早かったのね。吹奏楽部に入ったんでしょう?」
「うん、今日は説明と軽い練習だけ」
「りおの楽器って、なんていうやつだっけ」
「もう。中学の時にも教えたでしょ……」
莉緒は苦笑しながら教えてくれたけど、ああ、これは聞いてまた忘れちゃうやつだ。
お喋りしながら、夕食の仕込みの最中だった母さんが、忙しくし始めたので、俺は二階に上がって一息ついた。
俺たちの子供部屋で、りこはクッションに抱き着いて寝息を立てている。
莉緒が後を追うように部屋に入ってきた。
「兄さん、洗濯ものだよ」
母さんがきれいに畳んでくれた洗濯物を、莉緒がまとめて持ってきてくれた。
「ああ、そこに置いといてくれ」
制服を脱いで、ネクタイをほどく俺の横顔を、莉緒がまじまじと見ていた。
「どした?」
「ごめんね」
莉緒の手が、そっと絆創膏に触れる。
「ああ、これ、大袈裟だよなあ」
晩御飯、食べづらいから、絆創膏を剥がそうかな。母さんに傷を見せるのは気が引けるし、どうしよう。
「兄さん、シャツのボタン、取れ掛かってる……」
ネクタイを抜いたワイシャツの首元のボタンが、かろうじて糸にぶら下がっていた。
「ああ、あのときのだな。藤原め、思い切り掴みやがって」
シャツを脱いで部屋着のパーカーを羽織る。
「ああいう人が、ほかにもいるんでしょ?」
「まあ。ほんの数人だし、心配ないよ。それよりも、りお。下手に矢面に立つなよ。あの男子だって、自分で何とかできるはずだ」
「うん。ごめんなさい……」
りおはもちろん、自分の手に余ってしまった現実を反省しているのだと思う。俺が介入しなければ、自分で何ができたかと考えもしただろう。
「……でも、兄さんなら、ああすると思ったから」
りお、それは俺を買いかぶりすぎだ。俺はお前たちさえ無事なら、他人なんてどうでもいい。転校して以来、ずっとそうだ。それは言わなかったけど。
「暴力の盾になるなんて、賢くないやり方だ」
俺は一ノ瀬という先輩の話をした。ああいうのを相手にするのが得意だということ、不良グループは三年しかいなくて、みんな煙たがっているから、部活の三年の先輩に相談すれば些細な問題は解決するであろうこと、そもそも俺をまず最初に呼べば話が早いってことを話した。
「うん、そうだね」
莉緒は答えた。莉緒にも、どこか信念というか、強い芯の部分がある。こういうそっけない答えの時には、たぶんこちらの言うことは分かってくれていても、曲げることはないだろう。頑固なのだ。




