第三話(4)
二年生の野次馬をかき分けて、その長身は現れた。静かな制止の声は、しかし藤原の動きを止めた。
藤原が振り返り、長身で短髪の三白眼が、藤原を一瞥する。
「藤原、チャイムはまだだが、もうすぐ授業がはじまるぞ」
低めの声で淡々と伝えるのは、それはそれで凄みがあった。たしか、三年で生徒会副会長の……俺の記憶にその名前は刻まれていなかった。
「うっせえな、一ノ瀬。二年と話してただけだ」
そうだ、この長身三白眼、副会長の一ノ瀬蒼司といったっけ。生徒会という立場ながら武闘派で、藤原みたいな輩を裏でシメてるとかなんとか。本当かわからないが。なんだよ、俺の上位互換か?
藤原が渋々と渡り廊下から、中庭に抜けて姿を消した。それを見送った一ノ瀬先輩は、俺の無事を確かめてから立ち去ろうと踵を返す。俺は嫌みの一つも言いたくて、声をかけた。
「一ノ瀬……先輩。どうせなら殴られる前に来てほしかったですね」
「お前は、殴られたのか?」
最初、その意味を俺は理解できなかった。
「一年、君は殴られたか」
「僕は、知らないっ。あんたが勝手にやったことだ!」
震える声を張り上げて、事の発端の一年は早歩きで去っていく。あいつが言うあんた、ってのは、俺のことなのかな。
「……兄さん、だいじょうぶ?」
心配そうに俺の顔を莉緒が見上げてきた。目線は、俺の口の端っこに向けられている。血の味がした。たぶん少し切れてるのだろう。
「ああ……大丈夫だ。ここはいいから」
俺は答えると、莉緒や一年たちを、さっさと行けと追い払った。
莉緒の後ろにいたサイドテールの女の子と、一瞬目が合った。彼女は軽く会釈をした。
ついて来い、と一ノ瀬副会長は藤原とタメを張る長身の背中を見せて歩き出した。
俺がついてくると微塵も疑わないのか。これが帝王の風格か。この男がいるから、不良たちは裏に封じ込められていると聞く。
ついていく必要はない気がするのだけど、助けられた手前、不義理もどうかと思う。
連れていかれたのは、なんてことはない、保健室だった。
ガラリと扉を開けたが、室内にひと気がない。
一ノ瀬は、不思議そうに保健室を見回した。
保健室に、保健医がいない。どうかとは思うが、離席することくらいはあるだろう。
「すわれ」
一ノ瀬は診察の時に患者が座るような丸椅子を示した。一ノ瀬はスマホを取り出し何事かを打ち込んでいる。
「少し待て」
とにかく、この男は言葉が少ないな。俺が他人だからか。
仕方ない。待つか。もう少しで休憩時間が終わるが、今日の体育は持久走らしいしな。
「一ノ瀬先輩は、いつも藤原みたいなやつらの相手をしているんですか」
風評通りなのか、と俺は聞いたつもりだった。少し意外な返答が返ってきた。
「俺はあいつと同学年だしな。卒業くらい、させてやろうと思っている。やさしさだよ」
なるほど。陰で不良どもを抑え込んで、一般生徒に手を出させないようにする。そうすることで、落ち度がなければ、少なくともやつらも卒業くらいはできるだろう。
落ち度がなければ、だ。
「だから、俺は殴られていないことにしろ、と?」
藤原に暴力を振るわれたと騒ぎ立てたら、藤原は少なくとも停学。経歴にも傷がつく。就職するのか進学するのかあいつの勝手だけど、不利になるだろう。
「お前もそのつもりだったんじゃないのか?」
確かに、殴られたのがあの一年なら騒ぎ立てただろう。
「だからって、代わりに俺が殴られたんじゃ割に合いませんけど」
「俺はお前に黙っていろとか、隠蔽しろとか、協力しろ、とは言わん。藤原の自業自得だ」
まったく。読まれている。同級生のために黙っていてくれとか頼まれたら、俺は逆に隠蔽だ不正だと反発したかもしれない。
だが今の俺は一ノ瀬副会長に共感を持っている。停学だの退学だのは、要するに権力だ。大人が決定する大人の力だ。そんなものに泣きつかずに、自分たちの力で、何とかしたいじゃないか、っていう気持ち。おかしいかな。むろん、そういう力を利用することも俺は知っている。使う時は徹底的に使う。
だから藤原がかわいそう、とかではない。
「一定数、世の中には言語を理解しない人間がいるからな。文字通り、事実として」
「なんです?」
「最初に聞いただろう。あんな連中の相手をいつもしているのか、と」
つまり、叩かないとわからない奴ら、とでも言いたいのだろうか。
「辛辣ですね」
「やさしさだよ。おまえのほうがよほど辛辣だ」
「俺が?」
「お前は、あの一年も、藤原のことも、考えたうえで、いつでも切り捨てられる目をしていた」
「俺は兄妹が大事で、それ以外はどうでもよかっただけです。普通でしょう?」
「それがお前の価値基準か」
ふ、っと一ノ瀬副会長は笑みを浮かべた。
そこから、会話はなかった。気が紛れたので、沈黙に緊張はない。
ただ、男同士の密室の沈黙は、長すぎるのも困る。
だが幸い、丸椅子の上で行儀よく待っていると、ほどなく背後で保健室の扉が開いた。
「兄さん、なんです? 保健室に呼び出しなんて」
「よく来てくれた。保健医がいなくてな。こいつの手当てをしてやってくれ。俺は……不器用でな」
俺は丸椅子でくるりと振り返って、その声の主を見上げた。
その生徒を、なるべく端的にいうなら、長い黒髪。制服を正しく着こなした美人、となる。
目が合うや否や、彼女の顔は真顔になり、目線を外し、それから咳払いをして改めて俺に向き直った。
「葉月春詩くん……」
彼女は俺を知っていた。俺も彼女のことは知っている。一ノ瀬副会長の妹。会長たるは、妹のほう。目の前の一ノ瀬真白だ。
「会ったこと、ありましたっけ」
「同級生なのだから、敬語はいらないわ」
問いかけの答えの代わりに、一ノ瀬真白は言った。
「はあ」
彼女はもう一度、俺の顔を見た。傷をあらためる冷静な目だ。
それから手を洗い、脱脂綿にガーゼ、消毒液に塗り薬、絆創膏やらを手早く取り出す。
「大袈裟ですよ」
「そうでもないわ。今は痺れてわからないかもしれないけど、腫れ始めてる」
俺の顔が動かないよう、頬に手を触れて丁寧に手当てを始めた。
「手慣れてますね」
「しゃべらないで」
一ノ瀬真白は抗議した。それもそうだ。口の端を切ったのだから患部が動くのはよくないな。
俺はおとなしく黙った。一ノ瀬真白の手が、頬に触れる感触。傷はちょっとだけ痛いが、なるほど痺れているのか激痛ではない。その傷口を治療する手。真剣なまなざしは俺(の傷)を見つめていて、きれいな瞳が近い。長い睫毛が一本一本よくわかる。そして、息づかいが聞こえる距離に真白の顔があった。
俺の口、臭くないかな。鼻息も荒くなるといけない。俺は呼吸を浅くしてこらえた。
最後に、想像以上に大きな絆創膏で、ほっぺたと、口の三分の一が覆われた。
「はい。どうぞ」
一ノ瀬真白は俺の顔から手を離すと、使い終わった道具をきれいに仕舞った。
「ケガしたとき、脳震盪はありませんでしたか? なくても、体育は休んでください」
チャイムは、とっくに鳴っていた。そういえば俺は体育館の更衣室に向かう最中だった。
よく知っているなと思ったが、一ノ瀬真白は二年。そうか。隣のクラスで、彼女も同じ体育の授業なのだ。
「手間をかけて悪かった」
兄が妹に向けて謝る姿を目の当たりにした。よその兄妹のありようを見るのは新鮮だった。
「兄さん、事情は分かったけど、ケガの理由はどうするの?」
一ノ瀬真白は、兄の一ノ瀬蒼司に尋ねる。事情というのは、藤原の暴力沙汰を内密にする件だ。一ノ瀬兄は俺の手当ての間、その説明で足りるのか、というくらい端的に妹である生徒会長に伝えていた。
驚くことに、会長はそれで内容を理解したのだった。
さて、確かに怪我のことを教師に正直に説明するわけにはいくまい。俺はとっさに思いついたことを口にしてみる。
「授業の前にバスケをしていて、ボールを顔面に食らった、と言います」
「そういう嘘がさらっと出てくるのは感心しないわ、葉月くん」
一ノ瀬蒼司が俺の顔を覗き込む。
「うむ。まあこれだけガーゼで隠してあれば、ばれんだろう」
「兄さんまで……だいいち、ほかの生徒がすでに状況を話しているかもしれませんよ」
「大丈夫。被害者がいなければ問題ない」
被害者とは、かくいうこの俺だ。
「あきれたわ。この件は兄さんのお好きなように」
一ノ瀬真白は保健室の戸口へと歩き出す。さすが会長、早く授業に出なければな。
そうだ、と彼女は立ち止まった。
「自己紹介していなかったわ」
彼女は振り向いて言った。
「一ノ瀬真白です」
気を張るでも格好をつけるでもなく、彼女はただ真直ぐに立って、俺を見て言ったのだった。




