第8章:選択肢の消失
違和感は、朝からあった。
頭の奥が、やけに静かだ。
いつもなら、何か起きる前にざわつく“気配”が、今日はない。
「……来ないな」
何が、とは言わなかった。
リリィは、俺の顔を覗き込む。
「いつも、変な文字出てたもんね」
「……ああ」
出ない。
それが、こんなにも不安だとは思わなかった。
◆
昼過ぎ、小さな集落に辿り着いた。
木柵で囲まれただけの、貧しい村だ。
だが、人の気配がある。
――安心しかけた、その瞬間。
悲鳴が上がった。
「魔獣だ!」
柵の外。
狼に似た魔獣が、村人を追い立てている。
「……来たか」
反射的に、視界を探す。
だが――
何も、表示されない。
「……お兄ちゃん?」
リリィの声が、遠い。
これまでなら、選択肢が出ていた。
戦うか、逃げるか、助けるか。
でも、今回は違う。
何も、ない。
◆
魔獣が、子供を弾き飛ばした。
血が、地面に散る。
思考が、追いつかない。
「……くそ」
俺は、走り出していた。
理由は、分からない。
損得も、結果も、考えていない。
ただ――見過ごせなかった。
「離れろ!」
叫んで、石を投げる。
当然、効かない。
魔獣が、こちらを向いた。
死ぬ、と思った。
◆
「――伏せろ!」
聞き覚えのない声。
次の瞬間、魔獣が吹き飛んだ。
槍が、地面に突き刺さっている。
現れたのは、鎧姿の女性だった。
額に傷。
鋭い目。
「無謀だ」
短く言う。
「だが、判断は早かった」
彼女は、魔獣に止めを刺した。
◆
事後処理の中、俺は膝に手をついていた。
「……生きてる」
それが、正直な感想だった。
女性は、こちらを見る。
「冒険者か?」
「……いいえ」
「なら、何者だ」
答えられない。
勇者でもない。
冒険者でもない。
ただの、異物。
そのとき。
リリィが、俺の手を握った。
「この人は、選んでくれた」
女性は、少し驚いた顔をした。
「……そうか」
◆
夜。
焚き火の前。
初めて、俺は“待たなかった”。
選択肢を。
表示を。
許可を。
「……怖かった」
独り言が、漏れる。
もし、あの瞬間、俺が動かなかったら。
誰かが死んでいた。
視界に、微かな文字が浮かぶ。
《能力低下:不可逆》
だが、その下に。
《意思決定:自律》
初めて見る表示だった。
◆
リリィが、隣で言う。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「今日は、後悔してない?」
考える。
確かに、危なかった。
無謀だった。
死ぬ可能性も高かった。
それでも。
「……してない」
即答だった。
リリィは、安心したように笑った。
その笑顔を見て、分かった。
これまで俺は、
選択肢に責任を押し付けていた。
「表示されたから選んだ」
「他に道がなかった」
でも、今日の選択は違う。
誰にも強制されていない。
◆
夜空を見上げる。
星は、少しだけ増えていた。
視界に、最後の表示が浮かぶ。
《灰色の祝福:再定義中》
俺は、静かに息を吐く。
もう、元には戻れない。
だが。
選択肢がなくても、
俺は、選べる。
それを知った夜だった。




