Shoot:1 Dog and Realize Girl (7)
一時間ほどすると、マンションの周囲は落ち着きを取り戻した。現在は、マンションの出入口で警官が警備に当たっていた。西脇哲治が現場に舞い戻る可能性は低いが、万一を考えて警官が配置されている。
車の前輪を狙ったわずかな間に、斎は車のナンバーを頭に叩き込んでいた。それをもとに緊急手配がなされ、パトカーが駆け回っている。もちろん諸角もそれに加わっていた。自分にも責任があるからと那々は強く同行を希望し、斎もそれに同調したが、さすがに民間人を同行させるわけにはいかないと拒否された。
仕方なく、車を確保したら連絡を入れてもらうことを条件に、二人はマンションに残った。
「……天瀬さん、お店、いいんですか?」
黙りこくっていた那々が、ぽつりと口を開いた。斎は微笑する。
「うん、今日は臨時休業」
「……やっぱり、事件のせいで……?」
「そうだね。でもそれは、君のせいじゃないよ」
「けど、あんなこと頼まなきゃ――」
「那々ちゃん」
柔らかい声に、顔を上げる。初めて、名前を呼ばれた。
「そんなこと言ってたら、何もかも那々ちゃんのせいになる。西脇哲治が暴走したのも、直美ちゃんがさらわれたのも」
「……その、通りじゃないですか?」
「違うよ」
あっさりと言い切って、斎は那々を見つめる。那々は息を呑んだ。鋭くないのに、目をそらせない。
「彼の暴走は、彼が責任を負うべきものだ。直美ちゃんのことでは、君だって守られるべき立場だった。なのに危険な目に遭わせたんだ。むしろ、僕たちの方に責任があると思うよ」
「それは……!」
違う、と言いかけて、那々は口をつぐんだ。ついさっき、斎が彼女に言ったことと同じだ。
彼も悔いている。直美を守れなかったことを。
「でも、ここでこうして動けないでいる。――情けないな」
自嘲気味に呟いて、斎は窓から外を見下ろす。辺りはすっかり夕闇に染まって、ライトのきらめく夜景に変わりつつあった。
その時、玄関のドアが開く音がした。
「那々? いるの? お客さん来てるみたいね」
母の由里が帰って来たのだ。玄関の見慣れない靴に眉をひそめながら入って来た彼女は、リビングの斎の姿を見て立ち止まった。
「すみません、お邪魔してます」
「どうも……」
会釈した斎に肯きを返しながら、由里は斎を見つめる。那々が慌てて間に入った。
「あ、あのね、この人天瀬さんっていって、その、知り合いなの」
「天瀬斎です。――お嬢さんがストーカーに狙われてるの、ご存知ですよね?」
「ええ……手紙がよく来て」
「その相手が、とうとう行動を起こしました。マンションで火事騒ぎを偽装して、彼女に近づこうとしたんです。その前にも喫茶店で刃物振り回してるような相手なんで、心配になって様子見に来ました」
「じゃあ、警察の方?」
「いえ、刑事じゃないんですけど。こないだ、一回お会いしましたよね? ≪ペニーハウス≫の前で起きた強盗犯の発砲事件の時に。覚えてらっしゃらないかもしれませんけど」
「あら、あの時の?」
由里が目を見張る。あの時は期せずして五年前の担当刑事に会ったことが印象的で、そういえば助けに入ってくれたという相手には礼もそこそこになってしまった。
「まあ、ごめんなさいね。あの時は動転してて」
「いえ、当たり前ですよ、あんなこと何度もあるわけじゃないし。で、あの時の刑事さん……ていうか今もう警部なんですけど、知り合いなんです、僕」
「まあそうなの。――あら、ごめんなさいね、いつまでも立ち話じゃ何だから、お掛けになったら?」
「いえ、お構いなく」
そう返した時、斎の携帯が鳴った。ディスプレイを見ると、相手は諸角だ。
「ちょっと失礼します」
急いで廊下に出て、通話ボタンを押した。
「天瀬です」
『ああ、俺だ。手配車両を押さえた』
喜ばしい内容のはずだが、諸角の声には覇気がない。それで、大体の事情は察した。
「いなかったんですか」
『車には、一人しか乗ってなかった。そいつが言うには、知り合いに頼まれて車を交換したそうだ。友人から携帯に電話があって、車がパンクしたが、急ぐんで車をしばらく貸してくれっつって頼まれたらしい。ちょうど近くにいたし、暇だからってんで頼みを聞いたそうだ』
「そうですか」
斎は軽く息をついた。予想していなかった結果ではない。
だがむしろ、こちらに限ってはそちらの方がまだ、動くチャンスが残されていることも確かだった。
「諸角さん、車の中に銃は? 運転手が同一人物なら、トカレフを持ってるはずです」
『なかった』
「なら、その車の運転手は多分無関係ですね。乗員ごと入れ替わったんだと思います」
『西脇哲治に渡した可能性は』
「ありません。少なくとも僕なら、扱いに不慣れな薬物中毒の学生に銃は渡しません」
『なるほど、確かにな』
電話の向こうで、諸角がため息をついた。
「諸角さん、もう一ついいですか。手配車両を押さえたのはどこですか?」
『代々木のタイヤショップだ。おまえが撃ち抜いた左前輪を、修理しに寄ったらしい』
「そうですか、分かりました」
少し考えて、付け加える。
「諸角さん、マンションの警備を強化してもらえるよう、所轄署に頼めませんか? 外からの侵入もですけど、内側から脱け出されることもないように」
『あのお嬢ちゃんか?』
「責任を感じて、思い詰めてます。必要だと思ったら、やりかねません」
小さい子供を庇って大男に立ち向かった、五年前のように。思い出して苦笑した。無茶なところは、変わっていないようだ。
『分かった、何とか頼めるだろう。おまえも無茶はするなよ』
「はい、ありがとうございます」
電話を切って携帯をしまうと、斎は星海家に戻った。
「少年が逃走に使った車を押さえたそうです。まだ捕まってないようですけど、遠からず捕まるでしょうし、警察の方からマンションの警備に人を増やしてくれるみたいですから。あまり長居するのもご迷惑なんで、そろそろ失礼します」
「わざわざごめんなさいね」
「いえ、それじゃ。――何か進展あったら、諸角さんから連絡来ると思うから、こっちにも電話入れるね」
那々に向き直ると、気丈に肯かれた。
「……お願いします」
「じゃあ、気をつけて。おやすみなさい」
マンションを出ると、通りに出てタクシーを捕まえた。今は歩いて帰る時間も惜しい。こういう時は、交通手段を持っていないのが悔やまれた。バイクくらいは持った方がいいかもしれないと思いつつ、タクシーに乗り込んで≪ペニーハウス≫の住所を告げる。
西脇哲治と直美の居場所の見当がついたような気がした。
車が見つかった代々木は渋谷区だ。だが多分、彼らは渋谷にいない。斎はそう断定した。
あの車は、衆目に晒されている。特徴を覚えられた可能性のある、目立つ車を他人に貸して、囮にしたのだ。いつ乗り換えたかは知らないが、おそらく渋谷には向かっていない。
ならどこへ行ったのかと問われれば、思いつく地名は一つしかなかった。
彼らは新宿に戻っている。
ある意味賭けだが、西脇哲治がどこから薬を手に入れていたか、考えてみた。学生の彼が、そうそう遠くまで薬のために出かけていたとは思えない。薬を流していたのは、近くにいる人物だ。だとしたら、彼らのホームグラウンドは新宿。手配の裏をかいて、戻った可能性は低くない。
もちろん、全然別の方向に行った可能性もあるが、具体的に地名が思い浮かぶのが新宿しかなかった。
探し出したい。一刻も早く。
那々が無茶なことをやらかす前に、決着をつけてしまいたかった。
斎はじっと、前方の闇を見つめた。≪ペニーハウス≫までの道が、ひどく遠く思えた。
連れて来られたのは、どこかのクラブのような店だった。
途中で車を乗り換えて新宿に逆戻りし、いわゆる歓楽街の中の小さな雑居ビルの前で、哲治たちは車を降りた。後部座席から、ぐったりした直美を抱えるように降ろす。騒がれないようにと、薬品で眠らせたのだ。
車を裏手の路地に置いて、運転していた少年が戻って来た。ベルトに挿したトカレフに向けられた、哲治の怯えるような視線に気づくと、歯を剥くようにしてにやりと笑った。
「いいだろ。意外と安いんだぜ」
「で、でも、さっきは……彼女に当たったら、どうするつもりだったのさ」
「当たんなかったんだからいいだろ。それより、一緒にいた野郎、あいつ何者なんだ? 刑事か?」
「喫茶店のウェイターだよ」
「はあ!? 何でウェイターが拳銃持ってんだよ!?」
「そんなこと知るかよ。――あいつ、普通じゃない。化物だ」
あの眼を思い出し、哲治は吐き捨てた。
「まあそんなことより、女運ぶの手伝えよ。奥に部屋があんだよ」
二人で直美を左右から支えるようにして、地下一階にある店内に連れ込んだ。けばけばしいネオンの下で、呼び込みをしていた少し年下の少年が興味深そうに見上げてきた。
「何すか、その女?」
「新しいオモチャだ」
「へえ!」
少年が唇を歪める。
「新しいの入ったって言ってたっすよね。試すんすか?」
「当たり前だろ」
少年にドアを開けさせて、二人は中に入る。ぎらぎら光るライトが、哲治の目を射た。中には何人かの少年少女がいて、耳をつんざくようなBGMをものともせずに騒いでいる。彼らの物珍しそうな視線を受けながら、二人は奥に入り、小部屋の一つに直美を運び込んだ。ソファに寝かせる。
「さて、と」
少年はサイドテーブルの引き出しから小さなボトルとケースを取り出した。ケースの中には、小さな注射器が数本セットされている。針のキャップを外し、ボトルの中の液体を注射器に吸い上げると直美の腕を掴んだ。腕の内側、血管に沿うように注射器の針を刺し、ピストンを押し込む。直美が軽く身じろぎした。
「へへ、後は起きてからのお楽しみだな」
それまで店で騒いでくる、と言い残して、少年は小部屋を出て行こうとする。哲治は慌てて呼びとめた。
「ねえ、薬――≪ヴァンパイア・キス≫はどうなってんだよ?」
「あ? あー、あれか」
少年は一旦店に消え、袋に入れた錠剤を持って来た。
「いくら持ってんだ?」
哲治が札を渡すと、少年はにやりとして、袋の三分の一ほどを出して寄越した。
「安くなっただろ? 欲しけりゃもっと強いのもあっからよ、いつでも言えよ」
「……ああ」
哲治は≪ヴァンパイア・キス≫をポケットに詰め込んだ。
少年が残りを持って店の方へ出て行く。残された哲治は直美を見ていたが、ふと思いついた考えに顔を綻ばせた。
この女にはまだ、使い道があるじゃないか。
哲治は直美の服を探り、彼女の携帯を取り出した。
不意に響いた着メロに、那々はびくりと身を竦ませた。
「電話?」
「メール」
急いで携帯を出し、新着のメールを開く。とたんに、目を見開いた。
【友達を無事に返して欲しければ、新宿のクラブ≪カトラス≫に来ること。もちろん一人で、誰にも秘密で。待ってるよ】
とっさに、携帯を閉じた。
「どうしたの? 何か変なメール?」
「……ただの広告メール」
母には言えない。那々は携帯をしまい、外を見下ろした。暗くてよく見えないが、多分下には警官がいるのだろう。もちろん那々をガードしてくれているのだが、今はかえってこちらの動きを封じることになった。
那々は少し考えて、口を開いた。
「あたし、今日スパゲティ食べたい」
「ええ? いきなり言わないでよ、もう買い物済ませちゃったわよ」
「いいじゃん、もっかい行こうよ。今日は何か色々あったしさ、気晴らししたい」
「まったくもう……大体、ストーカーがまだ逃げてるんでしょ?」
「もうすぐ捕まると思うって、天瀬さん言ってたじゃない。ねえ、行こうよ」
「しょうがないわね」
外出着のままだった由里が、ため息をついてバッグを取り上げた。
支度をして家を出た時、またメールが入った。
【≪カトラス≫は新宿歌舞伎町X-XX-X番地、Fビル地下一階】
歌舞伎町は、ここからそう遠くない。那々は携帯を握り締めた。メールは直美の携帯から入っている。西脇哲治は、間違いなく直美と一緒にいるはずだ。
エントランスに下りると、警官に呼び止められた。
「お出かけですか」
「ええ、ちょっと買い物に」
「そうですか、お気をつけて」
拍子抜けするほどあっさり、通してくれた。やはり母親連れだからだろうか。おそらく、手配の車が見つかったことも聞いているのだろう。
那々たちは、近くのスーパーに向かった。
店内は、さほど混んでいない。那々はトイレに行くと言って由里と別れると、そのまま別の出入口に向かった。辺りをざっと見回して、バス停に走る。路線名を確認、とにかく歌舞伎町方面へ行くバスを探した。
やっと見つけたバスは、発車寸前だった。慌てて駆け出し、乗り込む。
バスが動き出し、スーパーが遠ざかるのを見た瞬間、かすかに足が震えた。
このまま一人で行けば、何をされるか分からない。もちろん怖かった。だが、行かなければ直美が危険に晒されるのは間違いない。これ以上、彼女に危害が加えられるのを放ってはおけなかった。
――おねがいします。あたしに力を貸してください。
“彼”に、祈った。
歌舞伎町に着いたのは、七時半を回っていた。きらびやかなネオン、行き交う人々。自分がひどく浮いている気がして、那々は落ち着かなくなる。
不意に、横から声をかけられた。
「ねえ、あんた」
まさか自分が呼ばれたとは思わず、歩き出そうとしたら、肩を掴まれた。
「あんたよ、あんた」
「え?」
振り返ると、徹底的に脱色されたストレートヘアの、切れ長の目の少女が立っていた。
(……あ。こないだの……)
学校の廊下で直美とぶつかった少女だと、思い当たった。だが目の前の少女は確かに、学校よりこの雑踏の中にいる方が似合っているように思えた。冷めて大人びた雰囲気が、この街に合っている。
「あんた、こんなとこで何してんの」
彼女は那々を見下ろすように訊いてきた。実際、もともとの身長とヒールのあるミュールのせいで、彼女は那々より十センチほど高い。何となく気圧されるように、答えた。
「……用があるから。≪カトラス≫っていうクラブに」
「≪カトラス≫?」
少女が眉をひそめた。
「あの薬物中毒御用達って悪名高いとこ? あんたそんなとこに何の用があんのよ?」
「そんなの、そっちに関係ないでしょ。あたし急ぐの! 早く行かなきゃ直美が――」
言いかけて、口をつぐむ。言ったら現実になりそうで、恐い。
だが、少女の表情がはっきりと変わった。
「……それ、あんたの友達よね」
「それが、何!?」
これ以上、ここで時間を取りたくなかった。しかし次の瞬間、足を止めざるを得なくなる。
「もしかして、西脇って二年、関わってる?」
那々は目を見張った。
「知ってるの!?」
「……やっぱりか。あの馬鹿……!」
少女は苦々しげに吐き捨てて、髪をかき上げた。息をついて、話し始めた。
「……こないだ、どっかに電話かけてんの聞いた。後で本人にカマかけたら、クスリやってるって口滑らせたからさ。――ったく、あの野郎、きっちり釘刺しといたのに」
少女の目が鋭くなった。那々は息を呑む。同年代の少女で、ここまで鋭い眼をできる者を、彼女は知らなかった。
「……あんたさ、そのクラブに行く気よね」
「そうよ」
「なら、あたしも付き合おっか」
今度こそ、那々は目を見張った。
「……何で?」
いくら何でも唐突だ。だが少女は、あっさりと返した。
「あんたは知らないだろうけど、あたしはあんたに借りがあるから。いつ返せるかって、思ってた」
「借り……?」
那々はしげしげと目の前の少女を見つめたが、いくら考えても見覚えのない顔だった。少女は肩をすくめる。
「だから、あんたは知らないって。――それにあんた、何も持たずに来てるでしょ」
「何も、って……」
「こういうモンよ」
少女はポケットからひょいと、バタフライナイフを取り出して展開する。那々はぎょっとした。
「ちょっと、こんなとこでそんなもの……!」
「誰も見てやしないって。――あたしいくつか持ってるけど、一つ貸そうか?」
那々は少し考え、肯いた。
「借りとく」
「いい度胸」
少女がにやりとした。
借りたナイフは、刃渡り十センチ足らずの、小さなシースナイフだった。それを目立たないように服に仕込んでもらいながら、那々はふと尋ねた。
「そういえば、名前聞いてなかった。あたし、星海那々」
「……桜庭まひる」
そう言って、彼女はナイフを仕込み終えると、慣れた様子でポケットからメンソールの煙草を取り出し、火を点けた。
「こっちもやってみる?」
「それはいい」
かぶりを振って、少女と並んで歩き始める。彼女はよほどこの辺りに詳しいのだろう、足どりに迷いはなかった。ほどなく、目的のクラブ≪カトラス≫に辿り着いた。少年が、気だるそうに地下への階段のところに立っている。
「あたしは、ちょっと遅れて入ってく。その方が都合いいんでしょ?」
「うん」
歩き出しかけて、ふと思いついた。振り返る。
「……そういえば、さっき言ってた“借り”って何? 気になるから、教えて」
まひるはちょっと笑って、はぐらかした。
「無事に戻って来れたらね」
「……縁起でもないこと言わないでよ」
ぼやいて、那々は階段を下りていった。いぶかしげな少年に、待ち合わせだと告げる。ドア越しにも、大音量のBGMが聞こえてきた。
那々は一つ深呼吸して、ドアを開けた。
≪ペニーハウス≫では、意外な来客が斎を待っていた。
「……一圓さん?」
「よう、おひさ」
当たり前のようにカウンターでコーヒーを飲んでいる千秋に、斎はため息をついた。今日は臨時休業、しかも今は営業時間外なのだが。
「いや、こないだからここのコーヒー飲みたくてさ。半時間前まで仕事で、やっと引けてここ来たら、臨時休業だぜ? 諦め切れなかったんで、マスターに頼んで入れてもらった」
「ウチ、七時までですよ?」
「いいだろ、固いこと言いっこなし」
いけしゃあしゃあと言い切った千秋に、諦めた。頭を切り換えて、立河に向き直る。
「叔父さん、悪いけど車出して。行きたいとこあるんだ。急ぎで」
「急ぎ?」
「もの凄く。もしかしたら、女の子一人の身の安全がかかってる」
「何だそりゃ」
立河が目を丸くした。
今までの経緯をざっと話すと、立河は難しい顔になった。
「そりゃおまえ、どうやって探す気だ。新宿ってだけじゃ、探しようがないだろう」
「でも、放っておいたら事態はどんどん悪くなる。僕にも責任があるんだ、じっとしてられない」
「おい」
不意に、千秋が二人の間に割り込んだ。飲み終えたカップを立河に渡し、にやりと笑う。
「俺が付き合ってやろうか?」
「一圓さんが?」
きょとんと、斎は千秋を見つめた。
「俺、明日久々にオフなんだ。歌舞伎町にいい店あってさ、飲みに行こうと思ってたんだよな」
「……付き合えっていうんじゃないですよね。一圓さんも知ってるでしょ、僕、救いようのない下戸ですよ」
「いやそこ威張られてもアレなんだが……前に聞いたことがあってな。歌舞伎町にドラッグ撒いてるクラブがあるから、そこには行かない方がいいってよ。話聞いてたらドラッグ絡みらしいし、可能性あんじゃねえ?」
「それ本当ですか?」
「おうよ。歌舞伎町ホステス歴二十年のママから聞いたんだから、間違いないぜ」
なぜか胸を張る千秋。斎は即決した。
「お願いします」
「よし来た」
キーホルダーを取り上げ、千秋は財布を取り出しかけた。
「マスター、いくらだっけ」
「僕が持ちます」
斎が半ば押しやるように急かした。ラッキー、と呟いて、千秋は駐車場へ向かった。
千秋の車はシルバーのフェアレディ、クーペタイプだ。乗り込もうとした斎は、助手席に鎮座ましますライフルケースに気づいた。ああ、と思い出したように千秋がケースを引っ張り出してよこす。
「これは?」
「ああ、ついでに、こいつの修理、頼もうと思ってさ。だからマスターに頼んで粘ってたんだぜ。二階は持ち込み禁止だろ? だからおまえが戻ってからと思ってたんだが」
「シグはこないだ調整したから……レミントン?」
彼の銃はすべて斎が面倒を見ている。ケースの中を覗いて呟いたが、次の瞬間薄明かりに照らし出されたレミントンM700の全貌に、悲鳴じみた声をあげた。
「何ですかこれ、何やったらこんなに見事に壊れるんですかっ! ああもう、サプレッサーぐちゃぐちゃだし、スコープも壊れてるし! まさかバレルまでいかれてないですよね!?」
「いやぁ、ポイントで張ってたら向こうの奴に襲われてな。とっさにそいつで……」
「……殴ったんですね、撃つんじゃなくて」
思わず、こめかみを押さえた。レミントンは狙撃銃なのだ、繊細なのだ。動かないボルトを蹴飛ばすくらいならともかく、断じて装備品が吹っ飛ぶまで相手を叩きのめすためのものではない。自分がP226を鈍器代わりにしようとしていたのは棚上げして、斎は再びため息をついた。
「……スコープとサプレッサー交換、サイト修正、その他諸々調整ってところですね。中のメンテは?」
「してない」
「じゃあ、メンテ込みで。しばらく入院になりますよ、これ」
「おう、頼む」
けろりとした顔の千秋に、白々とした視線を向けて、ケースを閉じる。下手に落としてこれ以上壊すのは避けたい。
とにかく、緊急事態なので原則を無視し、ケースを店に放り込む。下の工房に持って行ってもらうよう立河に頼んで、斎たちはばたばたと車に乗り込み、スタートした。千秋の運転は危なげなく、フェアレディは滑るように街を駆け抜けていく。
歌舞伎町に入った時、斎の携帯が鳴った。ディスプレイに映し出された名前は諸角だ。進展があったのかと、電話に出た。
「はい、天瀬で――」
とたんに、諸角の怒鳴り声が飛び出してきた。
『おい! おまえ、今どこにいる!?』
「どこって――」
とっさに返答できず口ごもると、電話口で諸角がまた怒鳴った。
『あの嬢ちゃんが消えたぞ! おまえ、一緒にいたんじゃなかったのか!?』
「消えた?」
思わず携帯を握り直した。
『母親と買い物に出た時に、母親の目を盗んでどろん、だとよ。――おまえ、あれからどうした?』
「≪ペニーハウス≫に戻りました。気になることがあって」
『気になること?』
「面の割れてる車を囮にして、彼らがどこへ向かったかです。――那々ちゃんが自分から姿を消したとなると、僕の追ってる線の可能性が上がりました」
『何?――おまえ、今何してる?』
諸角の声が低くなった。怒鳴り声よりこっちの方がなぜか怖い。気持ち、携帯を耳から離した。
「歌舞伎町にいます。那々ちゃんのマンションからも、そう遠くはありません。それに、西脇哲治にドラッグを流してた相手も、新宿にいるはずですから。ちょうど、ドラッグを流してるクラブの噂を聞いたんで、そこに向かってるところです」
『待て、こら! 無茶なことするな、ここは警察に――』
「任せろって諸角さんが思ってるのと同じくらい、僕も自分で動きたいんです。僕だってあの場にいた、でもみすみす西脇哲治を逃がして、直美ちゃんをさらわれた。――腹立ってるんですよ、彼にも、自分にも。ここまで来て放り出せるもんじゃない。申し訳ないですけど、止められても無視します」
電話の向こうで、諸角が息を呑んだ気配が伝わってきた。ややあって、聞こえた声は半分諦め混じりだった。
『……馬鹿野郎。まったく、そこまで言うならもう何も言わん。だが、俺に手錠かけられるような真似はするなよ』
「分かりました」
そんな場合ではないのに、笑いが浮かんだ。
携帯をしまうと、千秋がもの問いたげに見やってきた。
「ずいぶん入れ込んでんな、この件に?」
「この件っていうか、あの子たちを、何とか助けたくて。――大事ですから、十代の頃って。十代で経験したことって、下手したら一生残っちゃいますから。こんなことを、あの子たちに残したくないんです」
自分は、もう手遅れだ。だから、せめて彼女たちだけは。
そう思っていると、頭を小突かれた。
「年寄りみてえなこと言うな。おまえだって、大差ないだろうが」
「二十歳の壁は、高いですよ」
そう言うと、千秋に笑われた。
「成人してようと若い奴は若いし、高校生のガキでも枯れてる奴は枯れてるんだよ。他人のために走り回れるなんざ、若いって証拠だ」
フェアレディがスピードを落とし、有料駐車場へと入っていく。車をどうするのかと訊いたら、代行を頼むと返された。
「それで、そのクラブの名前って、分かります?」
「ああ、確か――」
思い出すように視線をさまよわせ、千秋は答えた。
「≪カトラス≫だったっけな」
通された小部屋で、那々は西脇哲治と対峙していた。初めて顔を合わせた時とは別人のような、荒んで鋭い雰囲気に、わずかに息を呑む。あるいはこれが、彼の本性だったのだろうか。
「やあ。来てくれたね」
「……直美は?」
思った以上に、固い声になった。哲治は肩をすくめて、顎をしゃくった。
「隣」
急いで部屋を出て、隣のドアを開けた。
ソファに身を縮めるようにして座り込んだ、細い後姿が見えた。
「直美!」
駆け寄った那々の顔が、振り向いた直美の様子に凍りついた。
目が、どことなく虚ろだった。身体が小さく震えている。那々の姿を認めた瞬間、縋るように抱きついてきた。
「直美……どしたの? 寒いの?」
「……ちが……よく、分かんない……止まらないの」
かちかちと歯を鳴らし始める。腕を回された背中に爪を立てられて、思わず声をあげた。
「ちょ、直美、痛いって……」
「あ、あたし、ねえ、どうなっちゃってるの? ねえ、那々ぁ」
「直美、落ち着いて。ね、落ち着こう?」
直美の腕を引き剥がした拍子に、白い肌に浮かんだ赤い点が見えた。腕の内側、ちょうど血管の真上にぽつんと浮かんだそれ。
理解した瞬間、息が止まった。頬が熱くなる。頭に血が昇るというのはこういうことを言うのだと、意識の片隅でぼんやりと考えた。
手が自然に、腰の後ろに仕込んだシースナイフに伸びていた。ブラウスで隠していた柄を握り締め、鞘から引き抜く。綺麗に磨き上げられた刃に映る自分は、落ち着いた顔をしていた。だが中身は、煉獄のようにどろどろした怒りを抱いていた。
まひるに感謝する。ありがとう。あたしにこれを貸してくれて。
……あいつだけは。
「ひっ……!」
刃物に怯える直美に気づいて、急いで背中に回して隠した。
「大丈夫。――あいつ、あたしがやっつけてくるからね」
殴り飛ばすなどと、甘っちょろいことを言っていた頃が、ひどく遠く思える。あの時はまさか、事態がここまで悪化するなど思ってもいなかった。
直美をソファに座らせて、那々は部屋を出た。そして思い出す。今まで関わった人たち。“彼”。それから、
(――天瀬さん)
自分のせいで、事件に巻き込んでしまった人。なのに一言も責めずに、自分を守ってくれたやさしい人。自分が姿を消したことを知れば、きっと心配するに違いない。
でも、これは那々の戦いだから。
これ以上、彼を巻き込んではいけない。
ドアの前に立って、目を閉じた。思い出す。“彼”の顔、斎の顔。彼らの強さを、少しでも分けてもらえる気がするから。
――大丈夫。やれる。
目を開いて、ドアを開けた。
哲治は那々の顔を見て、にいと笑った。
「どうだった? 友達の様子は」
「……何で、直美に薬なんか」
「仕方ないだろ? ≪ヴァンパイア・キス≫は仲間を増やさないと手に入らないんだ」
「仲間?」
「そう。吸血鬼が血を吸って同族を増やすって、聞いたことあるだろ? あれと一緒さ。だから≪ヴァンパイア・キス≫。うまいネーミングだろ。それでさ、俺も誰か一人、仲間に引き込まなきゃならなかったんだ。できるだけ裕福な家の、子供をね。あいつはいつも君を厄介なことに引っ張り込むから、引き込むならあいつにしようって決めてたんだ」
「何で! 何でそうなるの!?」
「だってそうだろ!? あいつが君をあの店に連れてかなきゃ、強盗の巻き添えを食うことなんてなかった! あの女があの店員と君を取り持とうとしてる! あいつはいつだって、俺と君にマイナスなことしかしちゃいないんだ! 排除して何が悪い!?」
叫びに、息を呑んだ。目が眩む。ああそうか、こいつの世界には、もう彼自身と那々の、二人しか必要ないのだ。
「……天瀬さんの、言ったとおり」
『自分にしか通用しないような理屈を人に押し付けて、うまく行かなきゃ全部他人とか社会とかのせいにするようなのが、一番嫌いなんだ』
斎の言葉は、正しかった。
「そ、そいつが何だってんだ!」
「あんたの理屈は、あんたにしか通用しない。あたしは、あんたの理屈には従わない」
背中に回していた右手を前に出す。ナイフの刃が、室内の照明にきらめいた。哲治が、信じられないように目を見開いた。
「な……何で? 何で俺を?」
「あんたが、あたしの周りの人を傷つけたから! 直美も、天瀬さんも! けどあたしのせいでもある、だから、あたしが決着つけるの!」
握ったナイフは震えなかった。頭が、ひどくクリアになる。自分のすべきこと。それは、目の前のこいつにこのナイフを突き立てること。
傷つく痛みを、教えてやる。
哲治が後ずさって逃げようとした。だが狭い部屋の中だ、すぐに逃げ場を失って立ち尽くした。
「お、俺は……俺は君のことを、ずっと――」
「あんたなんかっ!」
那々がナイフを振り上げた。哲治が頭を抱えてうずくまる。
その時――銃声が轟いた。