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Shoot:1  Dog and Realize Girl (5)



「もーっ! 信じらんない!」

 道端で絶叫した那々を、直美がまあまあと宥める。

「那々、あんたものすごい目立ってるよ」

「あのねぇ、原因はあんたでしょうが! よりにもよって、マジであんなこと頼まなくても……!」

「え~、いい手だと思うんだけどなぁ」

 しれっとのたまう直美を、那々はぎっと睨む。

 そう、直美は冗談抜きの本気で、那々とくっつくこと――ふり、でも可――を斎に頼んだのだ。それだけでもとんでもないことなのに、

「それに、OKもらったんだからいいじゃん」

 そう、肝心要の斎も、実にあっさりと承諾したのである。頼む直美も直美だが、さらりとOKを出してしまう斎も相当の変わり者だ。

「だからって、いきなり『この子と付き合ってやってください』はないでしょ!」

 唐突にそんなことを切り出されて、さすがの斎も目を丸くして那々たちを凝視していた。その後で事情を説明して納得してもらったからいいものの、思い出すだけで顔から火が出そうだ。

 その上直美はてきぱきと、斎の携帯の番号を聞き出して那々と番号交換させた上、那々の携帯でツーショットの写真まで撮らせてしまったのだから恐れ入る。

「でもさ、あたし今すっごい冴えてる気分なのよね~。やっぱ昨日、マサヤとデートしたからかなぁ」

「はいはい、のろけはいいから……っていうか、朝から具合悪そうだったのはどこ行ったのよ」

「ああ、あれ? 風邪薬飲んだら治っちゃったから、風邪気味だったのかもね。でもあの薬、よく効くよね。どこのメーカーなのか聞いとけばよかった」

「……そんな即効性の風邪薬なんか、あるの?」

「あるっていうか、学校の保健室に置いてあるわよ。今度先生にどこのか聞いとこ」

 保健室に置いてあるのなら間違いないだろうが、どうしても釈然としないものを感じて那々は首をかしげる。しかし次の瞬間、そんなことは頭から吹っ飛んだ。

「さーて、じゃあ後は明日から、那々が天瀬さんとくっついたって広めるだけね!」

「ちょっと! あんた何とんでもないこと言ってんのよ!」

「だって、そうしないと意味ないじゃない。ストーカーに諦めさせるために、天瀬さんにまで協力してもらうんだから。内輪でカップルのふりしてたってしょうがないでしょ」

「けどさぁ……そんな噂広まったら、天瀬さんにも迷惑だよ」

「う~ん……じゃあしょうがない、那々に年上の彼氏ができた、ってことだけで妥協しとくか」

「……どっちにしても広めんのね」

「ストーカー対策よ、恨むならストーカーを恨むのね」

 涼しい顔で言ってのける親友――悪友かもしれない――を、那々は恨みがましく見やった。こうなったら、ストーカーを突き止めた暁には顔面に右ストレートでも叩き込んでやろうと心に決める。それくらいしか鬱憤の晴らしようがない。

 しかしそれに追い討ちをかけるように、直美が含み笑いをしながら言ってきた。

「それにさ、これを機会に本気でモーションかけちゃうって手も……」

「あんたねぇ!」

「いいじゃない、五年前のお兄さんは心の恋人、天瀬さんは現実の恋人。贅沢よね~」

「贅沢って……大体、天瀬さんならすぐ、本命の彼女できるよ。もっと大人の、綺麗な人とかさ。あたしとじゃ、年七つも違うんだよ?」

「あら、いいんじゃない? そもそも五年前のお兄さんだって、十六、七くらいだったんでしょ? 変わりないじゃん」

 直美の言葉に、心臓が跳ねた。

 ――そう。あまりにも似ている、二人。

 年も、顔立ちも、身にまとう雰囲気も。

 だからつい、思ってしまう。

 “彼”が生きていれば、きっと――と。

(……忘れちゃいけない。あたしが、忘れちゃいけないのに……)

 “彼”の面影、記憶を、斎のそれでかき消してはいけない。

 そう。――だから那々は、斎を想えない。

 ≪ペニーハウス≫のある方を振り返り、那々はため息をついて、振り切るように歩き出した。


 “彼”に囚われているのではなく、自分が“彼”に囚われていたいだけなのだと、分かってはいたけれど。


 少し離れたところから見つめる視線に、那々たちは気づかなかった。




 カップを片付けながら、斎はため息をついた。

「いや、ついにおまえにも彼女ができたか。よかったなあ、可愛い子で」

「……だから、ストーカー対策で付き合う“ふり”するだけだって、言ってたでしょ、あの子たちも」

 感慨深げな立河のからかいに、いちいち反応するものだから疲れてしまう。かといって、黙殺すればそのまま既成事実になりかねない。

「まあそれにしても、奇妙な縁だな、おまえとあの子は」

 からかいの口調をひそめて、声を落とした立河に、斎は苦笑してみせた。

「うん。――まさかここまで関わることになるなんて、思わなかった」

 もう二度と、会わないはずの少女だった。大体自分は、あの時に死んでいるはずだったのだ。

 五年前、立河に会わなければ、斎はきっとこの世にはいなかった。

 だが現実には、斎は≪天瀬斎≫として生き延び、そして彼女――星海那々と、再び出会った。そしてなぜか、彼氏のふりをすることになっている。

 あの時の少女が、もうそんな年頃になったのだ。

 いささか年寄りくさい感慨を抱いて、斎はふと、思い出した。


『しっかりして! ねえ、大丈夫?』


 そう言って心配そうに、自分の背中をさすってくれた彼女。小さな、だけどあたたかい手。

 もう最期だと思っていたあの瞬間に、あたたかい記憶をくれた少女。

 ――だから、守ってやりたいと思ったのかもしれない。

 芯が強い、しっかりした子だけれど、まだ高校生の女の子だ。正体も分からない人間から狙われて、怖くないといえば嘘だろう。

 付き合うふりをするというのは、突拍子もない提案だったけれど、彼女を守るには確かに悪くない手だと思った。どうせ、誤解されて困る相手もいない。もちろん、七歳も年下の女の子に本気で手を出す気もないし。

 カップを片付け、テーブルを拭いて椅子を整えていた斎だったが、足下にかすかに感触を感じて見下ろした。白い小さな包みが転がっている。拾い上げて開いてみると、小さな錠剤が二つ出てきた。

(薬……?)

 首をかしげて、斎はテーブルを見る。ここは那々たちがいたテーブルだ。彼女たちのどちらかが、この薬を落としたのだろうか。

 それにしても、ティッシュに包んだだけというのが解せずに、斎はしげしげとそれを見つめた。

「どうした?」

「うん、落とし物……みたいなんだけどさ」

 テーブルに薬を置いて、斎は肩をすくめる。

「とりあえず、聞いてみたらどうだ? せっかく携帯の番号も聞いたことだし」

 にやにやしながら言ってくる立河を少し睨んで、斎は奥に引っ込むと、携帯に登録したばかりの那々の番号を呼び出した。

『……はっ、はい! もしもし?』

 慌てて出たらしい那々の様子が微笑ましい。少し和みながら、斎は本題を切り出した。

「いきなり電話してごめんね? あのさ、さっき二人がいたテーブルの辺りで、落とし物見つけたんだ。薬みたいなんだけど、心当たり、ある?」

『薬、ですか? あたしは知らないけど……え?』

 しばし電話の向こうで話し合っているようだったが、やがて那々の声が聞こえた。

『それ、直美のです。風邪薬、落としちゃったって。念のために二錠持ってたけど、もう大体治ったからいらないです、って』

「そう、じゃあこっちで処分しとくね。帰り、気をつけて。――ホントは送っていくべきかな?」

『いっ、いいですよ、そんなの! その、おやすみなさい!』

「うん、おやすみなさい」

 午後五時台で少々気の早い挨拶だが、他に適当な言葉を思いつかなかった。電話が切れると、携帯をポケットに押し込んで店に戻った。

「どうだった?」

「やっぱりあの子たちの落とし物だった。もういらないって言ってたけど」

「まあ、薬だしな。落ちてたんだし、処分した方がいいだろう」

「そうだね」

 薬をゴミ箱に捨てて、斎はその薬のことはすっぱり忘れてしまった。

 ――≪ペニーハウス≫は夜七時までの営業だ。ドアにかかった≪営業中≫の札を≪準備中≫に引っくり返し、斎はゴミ箱を抱えて店を出た。ビルの脇に置いてあるゴミバケツに、その日その日のゴミを放り込むのだ。最近は分別がどうこうとうるさいが、≪ペニーハウス≫からのゴミは大抵可燃ごみなのでその点は大分楽だ。

 ゴミバケツの蓋を開け、ゴミを放り込んでいると、ティッシュの包みが転がり落ちた。

「あ」

 あの薬だ。拾い上げようとしたところを、寄ってきた野良猫が、オモチャにして遊び始めた。小さくてころころ転がるそれを、いたくお気に召したらしい。熱心に遊んでいる。

「あーあ」

 まあ後は捨てるだけなのだから、オモチャにされようと別に構わない。遊ぶ猫の姿に何となく癒されながら、さっさと片付けようと、斎はゴミ捨てを再開した。

 すると、猫の爪や牙で弄ばれ続けていたティッシュは、当然ばらばらに散らばり始めた。中から錠剤が転がり出る。猫は今度は錠剤にターゲットを変え、匂いを嗅いだり前足で転がしたりし始めた。

「あ、こら!」

 気づいた斎が声をあげるより早く、猫がぺろりと錠剤を舐める。空腹なのか、そのまま口の中に入れてしまった。斎が錠剤を取り上げようとすると、パッと逃げ出し、その辺りを駆け回り始める。ゴミバケツに飛び上がり、中身を引っかき回そうとしたから、斎も慌てて猫を捕まえに走った。だが猫は、毛を逆立てて威嚇し、またもの凄い勢いで駆け回り始めた。

 妙な胸騒ぎを感じて、斎は猫から視線を外し、地面に落ちたもう一つの錠剤を探した。薄暗かったが何とか見つけて、手の中に握り込む。

 駆け回る猫を見ていて、突然脳裏に甦る記憶があった。

 かつて一度だけ見た、動物実験。その時の猫も、ちょうどこんな風に凄まじく興奮して、正気を失ったように駆けずり回り、やがて泡を吹いて身体を痙攣させながら死んでいったのだ……。

 斎はゴミ箱を引っ掴み、店内に取って返した。錠剤をティッシュで包み直して、三階に上がり服を着替える。店の片付けを終えて上がってきた立河と鉢合わせするが早いか声を投げた。

「叔父さん、車出して!」

「斎?」

 面食らった顔の立河に、斎は階段を下りながら答えた。

「急ぐかもしれないんだ。――警視庁へ、早く!」




 途中で諸角に連絡を取って事情を話し、斎たちは警視庁に向かった。警視庁で合流した諸角に例の錠剤を託して、分析を頼む。

 かなり強引にねじ込んだらしく、ほとんど最優先の速さで結果が出た。

「……≪ヴァンパイア・キス≫?」

 斎の言葉に、諸角が苦い顔で肯く。

「最近、若い連中の間で広まってる、アップ系の薬物だ。成分が酷似してて、十中八九、≪ヴァンパイア・キス≫で間違いないらしい」

 アップ系というのは、人を興奮させる――いわゆる“ハイにさせる”類の薬物だ。対して、虚脱させ夢想状態に陥らせる薬物はダウン系と呼ばれる。

「≪ヴァンパイア・キス≫ってのは、どっちかってと“初心者向け”だ。注射器を使うようなドラッグと比べると、錠剤だから飲むだけでいいし、従来のドラッグより使いやすい。ぶっちゃけた話、経験のない人間を引きずり込むのにぴったりの薬ってことだ」

 例えば、あの少女たちのような。

 冗談じゃないと、斎は苛立たしげに床を蹴りつけた。

「……飲んじゃった場合、どうなるんですか、これ」

「最初は、やたらとハイになって頭が冴えたような気分になるらしい。一度や二度なら、まだ何とか後戻りできるだろうが、慣れちまうと危ないな。下手すりゃ、こいつなしじゃ生活できなくなっちまうぞ」

 諸角の言葉に、ぞっとした。

「……ちょっと、すみません」

 断りを入れて廊下に出ると、携帯で那々にかけた。

「あ、天瀬だけど。ごめんね、こんな時間に」

『そんなの構いませんけど……どうしたんですか?』

「あのさ、ちょっと確かめてもらいたいことがあるんだ。――友達の持ってた風邪薬、あれ、どこから手に入れたのか、分かるかな」

『学校の保健室だって言ってましたけど……』

「保健室?」

 そんなはずはない。どこの世界に、ドラッグを常備してある保健室があるというのか。

『けど、あたしもちょっと変だなって思って……あの、一旦切りますね』

「え?」

『直美のとこ行って、本人に聞いた方が早いですよね。また電話入れますから』

「え、あの――」

 問答無用の勢いで切られて、斎はため息をついた。今から友人の家に行ったのでは、待ち時間は十分ではきくまい。

 ……と思ったら、ものの二、三分で携帯が鳴った。

『天瀬さん? ごめんなさい、いきなり切っちゃって』

「いいけど……もの凄く早くない? しばらく待つの覚悟してたけど」

『直美ん家、あたしとおんなじマンションの七階上なんです』

 納得した。確かにそれなら、自分を中継するより直接直美本人に話をさせた方が早いと、那々が考えたのも肯ける。

『天瀬さん、あたしに訊きたいことって何ですかぁ? 一応彼氏持ちですけど、天瀬さんならお付き合いしても――』

「いや、あの、そういうことじゃなくて」

 電話口に出るなりモーションをかけてくる直美に苦笑した。何というか、女子高生というのは誰でもこんなにパワフルなのだろうか。

「今日店に落ちてたあの風邪薬。学校の保健室でもらったっていうの、間違いない?」

『そうですよ? 保健室の棚にあったって、言ってましたもん』

「……『言ってた』? 自分で持ってきたわけじゃないの?」

『あたし、ちょっとだるくて寝てたんですよ。そしたら二年の先輩が、薬持ってきてくれて』

「じゃあ、自分で棚から持ってきたわけじゃなくて、その人にもらったの?」

『そうですけど。ティッシュに三錠包んでて、その内の一錠その場で飲んで――』

「飲んだ!?」

『え、あの薬、何かまずい薬だったんですか?』

 斎の勢いにただごとではないと感じたのか、直美の声が不安げになる。真実を告げるべきか迷ったが、このままでは彼女たちがドラッグに引き込まれる危険があった。迷いを切り捨てる。

「……込み入った話になるから、電話じゃ話せないんだ。どこか、落ち着いて話できるとこないかな。僕らみんなで」

『話……ですか?――那々、どうする?』

 すると、電話が直美から那々に代わった。

『あの……お店に行っちゃ、だめですか?』

「店? ≪ペニーハウス≫に?」

『ウチも直美のとこもだめだから……他に思いつかなくて』

「うん、こっちは構わないけど……じゃあ、明日の夕方?」

『天瀬さん、明日土曜日ですよ? あたしたち、学校休みです』

「あ……」

 そういえば、もう週末だ。土日祝日関係ない商売をしていると、つい忘れがちになる。

「そうだっけ。じゃあ、時間いつでもいいから。朝八時半から午後七時までやってるから、その間なら」

『分かりました。じゃあ、十時頃、お店の方に行きます』

 電話を切って、斎は壁に拳を叩きつけた。

「――くそ!」

 間に合わなかった。最悪の事態でなかったことは救いだが、それでも後手に回ってしまったのは事実だ。

 部屋に戻ろうとした時、また携帯が鳴った。

「はい」

『あの……あたし、那々です。さっきの話ですけど、その……直美、何か変なことに巻き込まれてるんですか? 何か、嫌な感じがして。――直美、ホントに大丈夫かなって』

「うん……気をつけた方がいいよ。あまり知らない人に、気を許さない方がいい」

 勘のいい子だ。しかし、話をするまで不安な思いはさせたくないので、斎は言葉を濁す。せめてもの、忠告だった。

 通話を終えると、急いで部屋に戻った。

「諸角さん、学校の中を捜査って、できますか?」

「よっぽど事情があればな。だが何でだ?」

「ドラッグが、校内で受け渡された可能性があります」

 諸角も立河も、目を丸くした。

「生徒が、流してるってことか?」

「少なくとも、今回のケースでは、薬を落とした女の子は同じ学校の生徒から薬を渡されてます。さっき、話を聞きました。風邪薬だって言われたそうですけど」

「それで、疑いなく受け取っちまったのか……」

「一錠、もう飲んじゃってるそうです」

 諸角がぎょっとした。

「何だと!?」

「まだ、ぱっと見で分かるような症状はないみたいです。僕もそんなにおかしな感じは受けなかったし……だけど、これ以上彼女たちが関わる前に、何とかしないと」

「そうだな。薬物対策課の方に話は通すが……」

「二年の生徒から、薬を渡されたそうです。その生徒がどこまで関わってるかは分かりませんけど、調べてみる価値はあると思います」

「分かった。伝えておく」

「それと……明日、彼女たちと話をすることになりました。諸角さんも、立ち会ってもらえますか? その方が、彼女たちも納得してくれると思います」

「ずいぶん急だな。どこへ行きゃいい」

「≪ペニーハウス≫へ。十時頃にって、あの子たちと約束してますから。――あまり騒ぎを大きくはしたくないんです。できるだけ穏便に、お願いします」

 そう言い置いて、斎たちは捜査一課を後にした。

 帰途に着きながら、立河は斎をちらりと見やった。厳しい表情で、フロントガラスの向こうの闇を見つめている。

「よく、分かったな」

 そう言うと、斎は我に返ったように立河を見つめた。ふっと自嘲めいた笑みを浮かべて、フロントに視線を戻す。

「……昔、教団にいた時にさ。動物実験に立ち会ったことがあるんだ。自分たちの使う薬を作るための実験だからって」

 教団では、斎たちのような戦闘要員にドラッグを服用させていた。戦うことに興奮し、盲目的に臣従する兵士を作り上げるために。

「あの薬を食べた猫の様子が、その時実験に使われてた猫とよく似てたから……興奮剤に近い、ドラッグの一種じゃないかって思ってさ」

「おまえも……か?」

 恐れるような立河の問いかけに、斎はかぶりを振った。

「僕は……体質的に、薬が効きにくかったらしいから。ほら、たまにいるでしょ、麻酔が効きにくい人とかさ。あんな感じ」

「じゃあ、ドラッグは使ってないんだな」

「うん。――っていうか、使っても無駄だったっていうか」

「無駄?」

「教団でよく使われてたドラッグって、興奮剤と、あとは鎮痛剤だったから。興奮剤は効きづらいし、鎮痛剤は必要ないでしょ」

 自分の両手を見つめて、斎はこともなげに言う。

 ――≪ペインレス・ドッグ≫。決して痛みを感じることのない、忠実な教団の犬。

 ずっと昔、少なくとも物心つく以前から、彼には痛覚がなかった。痛みというのがどういうものなのか、彼には分からなかった。任務のたびにドラッグを打つ仲間たちを、どこか遠い目で見ていたのだ。

 他の誰もが当たり前に持っているものが、自分には欠落している。

 教団の幹部には歓迎されても、彼自身はいつも、自分が人間ではないような気がして怖かった。

「……僕はずっと昔から、自分がどこか間違った存在なんじゃないかって思ってた」

「馬鹿言うな!」

 間髪入れずに怒鳴られて、きょとんとする斎に、立河は哀しくなる。教団では、誰も手を差し伸べることがなかったのだろうか。この孤独に。

 だが、斎はすぐに、綻ぶような笑みを浮かべた。

「うん。――そんなこと言うなって、前にも言われた。『痛みを感じないのは、おまえが悪いんじゃない』って」

 それはきっと、斎が今なお面影を抱えている“父親”。

 それでも、立河はその存在に感謝する。

 斎を、人間として愛してくれたのであろう、その人物に。

「……良かったな、大事にしてくれる人がいて」

「うん。――大好きだったよ、父さんのこと」

 斎は窓の外へ顔を向けてしまい、直接表情を見ることはかなわなかったが。

 ガラスに映った口元だけは、かろうじて読み取れた。


『……ごめん、父さん。――ごめんなさい』




 治まったはずの症状が、また再発している。

 直美はだるい身体を、引きずるようにして歩いていた。いつもよりペースの遅い彼女を、気がかりな那々が振り返る。

「ねえちょっと直美、あんたホントに大丈夫? 何か、昨日より具合悪そうだよ」

「そうかも……あ~やっぱ、あの風邪薬取っといてもらった方がよかったかなぁ」

「けど、天瀬さんの様子だとさ、あんまり使わない方がいいような薬みたいだよ? やめときなって」

 斎は、いたずらに人を不安に陥れるような人間ではない。その彼が、わざわざ注意を促したような事態なのだ。那々はずっと、嫌な予感を感じていた。

 ≪ペニーハウス≫のドアを開けると、テーブルを拭いていた斎が顔を上げて出迎えた。

「いらっしゃい」

「……どうも」

 斎はシンクで手を洗い、立河に声をかけた。

「叔父さんごめん、ちょっと抜ける」

「そこ使うんだろ。エプロン外しとけよ」

「うん」

 斎は言われた通り黒のエプロンを外して、奥まった四人掛けの席に那々たちを案内した。なるほど、目立たない席だ。しかしそこにはすでに、先客がいた。

「あ……」

 那々は思わず呟く。そこにいたのは、諸角だった。

「この間の刑事さん?」

「ああ、こいつに呼ばれてね」

 諸角は苦笑しながら、モカブレンドを飲んでいる。斎は一旦カウンターに取って返すと、カップとグラスを人数分トレイに載せて持って来た。斎が諸角の隣へ、そして向かい合う形で那々たちが座る形で落ち着いた。

「……ごめんね、わざわざ呼び出して。でも、大事な話だから」

 斎はしばし言葉を探すように言いよどんだが、ほどなく口火を切った。

「昨日、あの薬を警察で分析してもらったんだ」

 薬を食べた野良猫に起こった異常を話し、斎は直美を見つめた。

「君が落としたあの薬。――あれは風邪薬なんかじゃない。ドラッグだ」

「え……?」

 直美がぽかんとする。那々が割って入った。

「ちょっと待ってください、ドラッグって――」

 いくら何でも、突拍子がなさ過ぎる。だが、諸角があっさりとそれを肯定した。

「残念ながら、事実だ」

 今まで黙っていた諸角が、小さなビニール袋をテーブルに置いた。同じ、白っぽい錠剤。

「≪ヴァンパイア・キス≫っつってな、若い連中の間で流行ってるドラッグだ。こいつは押収品だが、似てるだろ?」

 似ているどころではない。そのものだ。直美が力のない声で呟いた。

「……じゃああたし、麻薬飲んじゃったんですか……?」

「まあ、一回くらいなら、そう大した影響は出ない。これからこいつに手を出さなければ、そんなに時間はかからず治る。大切なのは、自分自身の意志だ」

「あの……あたし、何か犯罪に問われちゃったりするんですか?」

「まさか。君は被害者だよ。騙して飲ませた方が卑怯なんだ」

 斎が吐き捨てるように言う。いつもは穏やかな双眸に、鋭い光が宿っていた。

「こんなこと言うと何だけど、自分から進んでドラッグを使うのなら、どうぞご自由にって言うよ。ついてくる結果だって、本人の責任だからね。自滅したいのなら、そうすればいい。――でも、それを他人に押し付けるのは許せない。卑劣もいいところだ」

「おいおい……仮にも刑事の前で、そういうことを言うなよ」

 呆れたような諸角の言葉に、斎は肩をすくめた。

「偽らざる本音ですから」

「……おまえ、おとなしそうな顔して結構きついよなあ」

「そうじゃなきゃ、できない商売してますから」

 自嘲するような笑みをこぼした斎は、那々たちに向き直った。

「その薬を持って来た二年生って、誰だか分かる?」

 さすがにショックを受けていた直美だが、それでもしっかり肯いた。

「苗字だけなら。西脇って、言ってました。――ほら、こないだストーカー見たって言ってた、あの人だよ」

「え? そうなの?」

 後半に、那々が目を見張った。

「ストーカーって、あの手紙の?」

「あ、はい。最近は家だけじゃなくて、学校の下駄箱にも手紙が放り込まれるようになってて……それで直美が、あんな変なこと頼んじゃったんですけど」

 じろりと直美を睨むと、けろっと返された。

「いいじゃない。おかげで天瀬さんみたいなカッコイイ彼氏ができたんだから」

 モカブレンドを飲みかけていた諸角が咳き込んだ。

「……彼氏!?」

 じろりと見やってくる眼光に、斎は心持ち身を引いた。

「おまえ、青少年保護条例違反でしょっ引くぞ。この子がいくつだと思ってるんだ」

「彼氏の“ふり”ですよ! そうすれば、ストーカーも諦めるかもしれないって」

 慌ててまくし立てる斎に、少女たちが笑った。恨みがましそうに彼女たちを見やりながら、斎が話を戻す。

「……とにかく、その西脇っていう二年生には、絶対に気を許さないで。それと、一つ訊きたいんだけど、君たちの住んでるマンション、防犯カメラってあるかな」

「は?」

 戻ったと思うといきなりすっ飛んだ話に、那々たちは顔を見合わせた。

「ある、と思いますけど。エントランスとか……あ!」

 那々がはっとする。

「カメラに、映ってるかも! 郵便受けに手紙入れるストーカー!」

「だよね、やっぱり」

 斎がにっこりと、諸角の肩を叩いた。

「というわけで、お願いします、諸角さん。やっぱり、警視庁が乗り出せば一発ですよね」

「おまえなあ……最近、大分いい性格になってきたんじゃないか?」

「これが地ですよ」

 あっさりと言い切って、斎は立ち上がった。

「じゃあ、諸角さん、お願いします。ドラッグのことはもちろんですけど、ストーカーも思い余ると厄介ですから。早く解決しないと、両方とも」

「そうだな。何とか動いてみるさ」

 二杯目のモカブレンドを飲み干して、諸角は席を立った。

「さあ、君らのマンションに行こうか。防犯カメラの記録が残ってるだろう」

「あ、はい!」

 那々たちもコーヒーやカプチーノを片付けて立ち上がった。

「気をつけて。何かあったら電話してくれていいから」

 那々にそう言う、斎の表情はやさしい。さっきの突き放した言葉が、嘘のようだった。

 あんな鋭い表情も、できる人なのだ。

 知らなかった一面に、少しぞくりとした。




 発着履歴からコールバックした相手は、なかなか出なかった。コール音が十回を超え、諦めかけた時、やっと気だるそうな声が聞こえた。

『……何だよ』

「今、どこにいるんだ?」

『家で寝てンだよ。何だよ、朝っぱらから』

「薬、都合してもらえる? いい獲物が手に入りそうなんだ」

『マジかよ?』

 相手の声音が変わった。

「大体そっちの希望通りのがね。ウチの一年で、社長令嬢。顔もまあ、いい方なんじゃない?」

 ひゅう、と相手が短く口笛を吹くのが聞こえた。

『上玉じゃん。おまえの女か?』

「違うよ」

『なら、俺らが頂いちまってもいいわけか?』

「別にいいよ。っていうか、どうなろうとこっちの知ったこっちゃない。――で、そろそろそいつがあの薬欲しがりそうなんだけど、都合つく?」

『いつでもいいぜ。けど二、三日じゃ、ちょい短いんじゃねぇのか? 一月くらい使っちまえば、完璧中毒だけどよ』

「何なら、ちょっと強めのを打っちゃってもいいよ。それこそ、一回やっちゃえばもうやめられないようなのを」

『おっまえ、意外と怖ぇのな。マジ容赦ねぇって』

「ああいうタイプの女、嫌いなんだ。どうせなら、とことんやってもらってもこっちは一向に構わない」

 吐き捨てて、哲治は携帯を握り直す。

「で、さ。割り引いてくれるのか?」

『まだ無理だな。その女目の前に連れて来るってんなら考えてもいいけどな』

「そう」

 足下を見やがって。歯噛みしたいのをこらえた。

「……連れてけば、いいんだな」

 考えがまとまらない。≪ヴァンパイア・キス≫を一錠取り出し、噛み砕いた。しばらくすると、頭がクリアになってくる。いい感じだ。

 今日は土曜で、学校は休み。昼間は遊びに出かけたとしても、夜にはさすがに家に戻っているだろう。

 ふと、ある考えが閃いた。

「じゃあ今日の六時頃、今から言うマンションに来てくれよ」

『マンション?』

「ああ。そいつをうまくおびき出すから、後は好きにしなよ。薬を打つなり、拉致るなり」

『待てよ、誰かに見つかったりしねえだろうな?』

「安心してくれよ、絶対見咎められない方法を考えてある。最近は何かと物騒だからね。何が起こったって不思議じゃないだろ?」

『ふぅん、まあいいさ。なら、その女は俺が頂きだ。せいぜい遊ばせてもらうぜ。ホントに拉致っちまってもいいんだな?』

「ああ。そっちも、薬用意しといてくれよ」

『OK、じゃあ、そのマンションの名前は?』

 マンション名を伝えて通話を終えると、哲治はふっと息をついた。

 いよいよだ。

 直美と引き換えに、≪ヴァンパイア・キス≫を安く手に入れることができる。そして同時に、あの女を那々の傍から引き離すことも。

 あの女は厄介だ。早く那々から遠ざけなければ。

 いつものように、那々の後をつけていた帰り道。彼女に彼氏ができたと聞いた時、危うく取り乱すところだった。ストーカー対策のための“恋人のふり”と分かってほっとしたが、けしかけているような直美に不安が膨らむのを感じた。

 那々と恋仲になる相手が自分でないと考えるだけで、腹の底から湧き上がるような怒りを抑えられない。

 しかもその相手が、強盗から那々を救ったあの青年であろうことが、怒りを増幅した。

 何もかも、沖田直美――あの女がそもそもの原因だ。あの女が那々を≪ペニーハウス≫に連れて行かなければ、那々があの男と出会うこともなかった。しかも、二人の間を取り持とうとしているのもあの女だ。

 そう、あの女があの女があの女が!

 ……だから、めちゃくちゃにしてやる。薬漬けの、廃人にでもなってしまえばいい。

 哲治はリビングに顔を出した。父は出かけ、母は家事に忙しいようだ。サイドボードに歩み寄り、通帳とカードのある引き出しを開けた。ほとんど残高のない自分のものは残して、親名義のカードを抜いた。暗証番号は確か、父の誕生日だったはずだ。

 カードをポケットにねじ込み、哲治はリビングを出た。

「母さん、ちょっと出かけてくる」

「どこに行くの?」

「分からないよ。適当にぶらついてくる。夕方には帰るよ」

「息抜きもいいけど、勉強もちゃんとしなさいね。最近成績上がってるみたいだから、母さんも楽しみよ」

「うん」

 勉強なんて必要なものか。≪ヴァンパイア・キス≫さえあれば、そんなものどうとでもなる。

 家を出て、近くのデパートのATMで、二十万ほど引き出した。そして、デパートやホームセンターを回り、必要なものを買い集める。

 袋を抱えて歩きながら、哲治は会心の笑みを浮かべた。

 ――これで、何もかもうまく行くんだ。

 もうすぐ。もうすぐ那々を、あの男から取り戻す。

「……そうか。じゃあ、あいつも邪魔だな……」

 ふと気づいたように呟くと、哲治は何かを思案するように視線をさまよわせながら、雑踏へと消えていった。



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