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Shoot:1  Dog and Realize Girl (4)



「いらっしゃいませ」

 店のドアが開く音に振り返った斎は、少し目を見張った。

「あれ?」

「あの……こんにちは」

 おずおずと店に入って来たのは、二人の女子高生だった。星海那々と、友人の沖田直美。

「あの、一昨日はどうもありがとうございました。あの後バタバタしてて、言い忘れてたから……」

「あたしも、あの後ちょっと寝込んじゃって。ホントは、昨日来なきゃいけなかったですよね」

 気後れしたような彼女たちに、斎はかぶりを振った。

「そんなことないよ。実は昨日、ウチも定休日だったから。来てくれても、いなかったかも。夕方なんか出かけてたし」

「そうなんですか?」

「うん、だから気にしないで。っていうか、わざわざありがとうね」

 にこりと微笑まれて、少女二人はほっとしたように顔を見合わせた。

「でも、凄いですよね~。普通あんな状態で、犯人取り押さえになんて行けないですよぉ」

「まあ……あれが初めてってわけじゃないし」

「え!?」

「前なんか、いきなり店に押し込まれて、大変だったなぁ。店の中のもの壊したら、叔父さんに殴られかねないし……」

「こら、聞こえてるぞ、斎」

「あ」

 カウンターから飛んできた声に、斎はしまったと振り返る。立河は苦笑しながら、グラスを二つ取り出して、コーヒーを淹れているところだった。

「大体、その犯人を椅子でのしちまったのはおまえだろう」

「あ~うん、それはそうなんだけど」

「……椅子……?」

「うん、相手銃持ってたし、手近に他に適当なものもなかったから。店壊されない内に、椅子できっちりトドメ刺させていただきました」

 意外にバイオレンスな一面に、那々も直美も一瞬呆気に取られた。だがこれぐらいでないと、銃を持った強盗を取り押さえになど行けないのかもしれない。

「お嬢さん方、そいつはこう見えて結構修羅場潜ってるよ」

 立河が笑いながら、斎を手招きする。

「ほら斎、お客さんを席に案内しろ。それと、これ」

 トレイに載せたグラスを、斎によこした。

「サービスだ」

「分かった」

 斎は少女たちをテーブルに案内し、グラスを置いた。一昨日彼女たちが注文したのと同じメニュー。

「マスターから。サービスだって」

「え、でも……」

「いいの、若い女の子には親切なんだから。ありがたくいただいときなよ」

 どうせ他にお客さんいないし、と身も蓋もないことを言う。確かに、ぽっかりと空白になったように、店内に客の姿はなかった。

「それじゃ……いただきます」

 那々はカフェオレを一口含んだ。相変わらず絶品だ。

 カフェオレは冷たいのに、ほんわりと温かいものが広がる。カフェオレの温度ではなく、記憶の底の方から。

 ――今度は、ちゃんとお礼言えた。

 五年前は、言いたくても言えなかった。言う前に、“彼”は永遠に手の届かないところに行ってしまったから。

 ちらりと斎を見やると、彼は他のテーブルを拭いていた。手慣れた、無駄のない動き。あの手で、一昨日はためらいもなく、銃を撃った。

 どっちが、本当の彼なんだろう。

 ウェイターの彼と、銃工の彼。

 そして重なる、“彼”の面影――。

 ぼんやり見つめる那々の視線に気づいたのか、斎がふと振り返った。

「何か?」

「あ、いえ、別に……」

「那々の好みのタイプに、天瀬さんがぴったりなんです~」

「直美ぃぃっ!」

 よりにもよって本人の目の前で言うか、それを!

 耳まで真っ赤になった那々を、直美がにやにやしながら見やる。

「だぁってその通りじゃん。腕っ節強くて優しいハンサムなお兄さん」

「それなら直美だって、狙おうかなぁなんて言ってたでしょ!」

「ええと……それはとっても光栄なんだけど」

 遠慮がちな斎の声に、二人ははたと言い合いをやめた。照れ臭そうに、斎がカウンターを指差す。

「できれば、もう少しトーン抑えてほしかったなあ、と……」

 カウンターの中で肩を震わせている立河に、那々と直美は揃って頬を赤らめた。

「……ごめんなさい」

「いや、そいつはそういう方面には小学生並みに奥手だからな。未だにフリーなんだ。せいぜいからかってやってくれ」

「叔父さん!」

 慌てる斎に、今度は那々たちが笑い出す。

「でもフリーなら大チャンスじゃん。那々、立候補しちゃえば~?」

 直美がけしかけるが、那々はふっと顔を翳らせた。

「あたしは……まだ、そういうのは」

「そうだよ。別に急ぐもんじゃないし、そういうのは」

「おまえは少しは急げ。五年前から彼女の一人もいないじゃないか」

 フォローした斎に立河の絶妙な突っ込みが入って、少女たちがまた沸いた。だが那々は、奇妙な一致が気になる。

(五年前?)

 ――もちろん、ただの偶然なのだろうが。

 那々は再び、斎を見つめた。


 また、“彼”が重なった気がした。


 ――礼を言いに行ったつもりが結局コーヒーを一杯ずつご馳走になり、那々たちが≪ペニーハウス≫を出たのは五時半を回っていた。斎とはもちろん、マスターの立河とも予想以上に話が弾んでこの時刻だ。

 立河と斎は叔父と甥ということだったが、むしろ親子のように見えた。しかし那々がそう言うと、二人とも意味深な目配せを交わして苦笑してみせたものだ。何か事情がありそうな感じではあったが、馴染みでもない自分がどうこう言う筋でもないと思って見ないふりをした。

 マンションへの道を辿っていると、直美のポケットから携帯の着信が聞こえた。

「誰?」

「んふふ~、マ・サ・ヤ」

「ああ、彼氏ね」

 名前など知らなかったが、この浮かれようからして間違いない。直美が上機嫌で電話しているのを那々は聞くともなしに聞いていたが、通話を終えた直美がいきなり拝み倒すように頼み込んできた辺りから、他人事ではなくなってきた。

「あのさ、那々。今日、マサヤのバイト先が定期清掃の日で、早く帰れるっていうから、これからデートの約束しちゃった。悪いんだけど、中村(なかむら)さんにうまいこと言ってごまかしといてくれない? 二、三時間くらいで帰るからさぁ」

「そんなにどうやってごまかすのよ?」

「う~ん……じゃあ、本屋に寄って、そこで中学ん時の友達に会って話してたことにするから、口裏合わせてよ。ね?」

「ん、まあ、それくらいなら……」

「さ~んきゅっ! じゃああたし、待ち合わせあるから!」

 さっさと行ってしまった直美を見送り、那々はため息をついた。

 やっぱり、彼氏作った方がいいんだろうか……。

 “彼”に重なる彼を思い出し、慌ててそれを打ち消した。

(いくら何でも……昨日の今日で)

 ぶんぶんとかぶりを振って、足を早める。実は少々心細かった。ストーカーが一昨日の事件を知っていたということは、後をつけられていたということだ。もしかして今も、などと考えると、つい足どりが早くなる。

 マンションの入口が見えた時は、ほっとして急いで駆け込んだ。エントランスの郵便受けに何もないのを確認し、家に戻るより先に七階上の直美の部屋へと向かった。

 チャイムを押すと、家政婦の女性が顔を出す。中村という名前なのは、今日初めて知った。

「あら、お嬢様のお友達の……」

「あの、直美……さん、ちょっと本屋に寄るから遅くなるって言ってました。中村さんに伝えてほしいって頼まれたんで、お邪魔したんですけど」

「あらまあ、わざわざどうも。お宅から電話でも結構でしたのに」

「いえ、どうせ近くだし、エレベーターで上がって来るだけなんで……」

 もごもごと喋って、早々に辞去した。何となく後ろめたい。

 家に帰ると、母はまだ帰っていなかった。五年前の事件の後、母は空港職員を辞め、現在は保険の外交員の仕事に就いている。定時に帰れても、バスの時間がかみ合わないこともあるし、買い物をすると三十分くらい余計にかかるのはしょっちゅうだ。きっと今頃は帰りのバスの中か、デパート辺りで買い物の真っ最中だろう。

 リビングでテレビを見ようとして、ふと窓が目に入った。毎年七月十一日、“彼”が亡くなった場所に向かって、那々が手を合わせる窓だ。

 ――あたしは、どうしたいんだろう。

 那々はぼんやりとソファに座って、窓を見つめた。“彼”を想っているはずなのに、彼――天瀬斎のことが気になって仕方ない。

 いつの間にか、直美のデートのことも忘れていた。




 運が向いてきたのかもしれない。

 そんなことを考えながら、哲治は直美の後をつけていた。

 ≪ヴァンパイア・キス≫の効用か、直美に薬を飲ませる方法は何通りか考えついた。帰り道、那々について行きたいのを我慢して、必要になりそうな道具を手に入れるために走りもした。直美の方が≪ペニーハウス≫に行くとか騒いでいたので、彼女たちの行方を掴むのは簡単だった。

 そして今、直美は那々と別れ、一人で繁華街の方へ向かっている。

 哲治の計画の一番のネックが、偶然に解決された。

 彼が一番悩んだのが、どうやって二人を引き離すかだった。哲治は二人ともに顔を知られている。直美に薬を飲ませることが成功しても、那々に怪しまれては元も子もない。二人を引き離した上で、直美に≪ヴァンパイア・キス≫を飲ませるケースが理想的だった。そのチャンスが、棚ボタのように転がり込んできたのだ。

 直美は携帯で時間を確認すると、一軒の喫茶店に入った。ここで待ち合わせか、時間を潰すのか。

 どちらにしても、チャンスだ!

 哲治は顔を伏せ、彼女から少し間を置いて店に入った。ざっと見渡し、直美が窓際のテーブル席にいるのを確認する。カウンターはいくらも空いているのだから、ここで待ち合わせなのかもしれない。直美は入って来た哲治に気がつかず、携帯のメールに夢中になっている。

 奥まったテーブルを確保すると、まずアイスコーヒーを注文する。そして哲治はデイパックを置き、必要なものをポケットに突っ込んでトイレに向かった。途中でシロップや氷を置いているカウンターに立ち寄り、コーヒー用のガムシロップを一つ、手の中に隠し持った。

 トイレは男女兼用で、水道もすべて備え付けになっている。鍵をしっかりかけると、ポケットの中を探って、≪ヴァンパイア・キス≫の袋と小さな注射器を取り出した。近くのデパートを探して、見つけてきたものだ。夏休みが近くなって、昆虫採集のキットが売り出されているので、割と簡単に手に入った。

 注射器からピストンを外し、≪ヴァンパイア・キス≫をこぼさないように慎重に注射器の中に流し込む。そして、針から噴き出してしまわないよう、ゆっくりとピストンを押し込んだ。ある程度まで押し込むと、水道の水を掌に溜め、注射器の中に吸い上げる。針にキャップをして軽く振ると、粉状の薬はあっという間に溶けていった。

 持って来たガムシロップの容器の、蓋の少し下に針を押し込み、ピストンを押し込んだ。少し振って混ぜてしまうと、注入した液体はガムシロップに違和感なく溶け込んだ。針の穴も、蓋の張り出しのすぐ下で目立たない。

 哲治は注射器や袋をトイレに流すと、ガムシロップを持ってトイレを出た。

 直美のテーブルを見ると、やっとメールを終えたのか、メニューを見ている。決めたらしく、ウェイトレスを呼んだ。

「アイスコーヒー、一つ」

 哲治はカウンターに向かった。直美も席を立ってカウンターに行こうとしている。わずかに、哲治の方が早くカウンターに辿り着いた。

「あれ?」

 あたかも今気づいたように、目を見張ってみせた。

「君、確か……」

「ああ、昨日の」

「今日は、友達は一緒じゃないんだ?」

「やだ、いくら何でもいつも一緒なわけじゃないですよ」

「それもそうだね。――あ、ガムシロップ? フレッシュもかな」

 哲治は備え付けの籠からガムシロップを取るふりをして、隠し持っていたシロップをコーヒーフレッシュと一緒に直美に渡した。

「あ、どうも。じゃ、あたし待ち合わせしてるんで」

「ああ、引き止めて悪かったね」

 哲治は席に戻ると、興奮を押し隠して直美のテーブルを見やった。彼女は程なく来たアイスコーヒーに、シロップとコーヒーフレッシュをためらうことなく注ぎ入れて、一気に半分ほど飲んでしまった。

 ――やった!

 直美から目を離し、哲治もアイスコーヒーに口をつけたが、味などほとんど気にならなかった。急に喉の渇きが襲ってきて、三分の二ほどを一気に飲み干す。

 ドアが開いて、若い男が入って来た。直美が手を振ったところをみると、彼が待ち合わせの相手らしい。

 今の内に、せいぜい楽しめばいいさ。どうせすぐに、それどころじゃなくなるんだから。

 哲治は席を立ち、支払いを済ませて店を出た。直美の笑い声が追いかけてきたが、ドアを閉めるとすぐに聞こえなくなってしまった。




 ――これは夢だ。

 立ち尽くし、目の前の光景を見つめる。手にした銃が滑り落ち、ごとりと重い音をたてた。

 白い布に覆われたそれが、誰より大切な人なのだと、聞かされてはいても頭が受け付けなかった。ふらりと足が動いて、それが横たわるベッドに近づく。

 そうだ。あの人が、こんな簡単に死ぬはずがない。

 自分を落ち着かせて、そっと布をめくった。

 見知った――自分の一番大切な人が、そこで静かに目を閉じていた。

「――――ッ!」

 膝の力が抜けて、その場にへたり込んだ。

「あ……あぁ……っ」

 シーツを固く掴んで、縋るように見上げる。横たわる彼は、もちろん目を開きはしなかった。触れた手の冷たさに、やっと頭が動き出した。ただ眠っているだけなのだと、現実を拒否するには、少年自身同じような光景を見すぎていた。

 死。

 その一文字に、打ちのめされた。

 喉から漏れる声が、まるで獣のようだ。人ですらない、ただの生物としての慟哭。

 それでも、涙は出なかった。

 ――どれくらい、そうしていただろうか。

 掠れた声をあげ続ける彼の肩に、手が置かれた。有無を言わさず、引き離される。

「……気は済んだか」

 ぼんやりと、声の主を見上げる。細面の、神経質そうな男の顔。彼はベッドの方を一瞥し、少年を引きずるように立たせた。

「おまえも、任務を終えたばかりだろう。明日も早い。身体を休めなさい」

 言葉の羅列が、頭を通り過ぎていく。

 任務? 休む?

 彼が死んだのに?

「……ぃ、やだ……」

 幼い子供がそうするように、ゆるゆるとかぶりを振った。

「ここにいる。――ここで、一緒にいる!」

「いい加減にしろ、≪ペインレス・ドッグ≫!」

「嫌だ!」

 腕を振り解こうとすると、頬を張られた。痛みは感じないが、衝撃は感じた。すうっと、頭に上った血が引いていく。

 おとなしくなったこちらに安心したのか、男は腕の力を緩めた。

「≪静かなる牙(サイレント・ファング)≫は死んだ。もうおまえと共にいることはかなわない。現実だ。――おまえだって、仲間が死ぬのは初めてじゃないだろう」

 そうだ。彼は死んだ。自分は生きている。だから、一緒にはいられない。

 なら――死んだら?

 ふと、視線が動いた。床に転がる一丁の銃。あれで頭を撃ち抜けば、きっと追いつける。

 彼のところへ。

 そう思った瞬間、男の腕を振り解いて飛びすさった。すくうように銃を拾い上げ、セーフティを解除、スライドを引いた。

「何を――!」

「なら、僕も死ぬ。父さんと一緒に死ぬ!」

 銃口を頭に押し当て、引鉄を引き絞ろうと――。

 した瞬間、背後から凄まじい力で手首を掴まれ、腕を捻り上げられた。取り落とした銃を、広い掌が受け止め、耳元で怒鳴り声が炸裂する。

「てめえ! 何してやがる!」

「放せ! 僕は――!」

 身体が動かない。暴れようとすると、急に突き放された。虚を突かれてよろけた彼の首筋に、手刀が打ち込まれた。

 ――そして、意識が闇に落ちる。




 ガタン、と音がして、立河は目を開いた。反射的に時刻を確認する。午前一時。

 嫌な予感がする。

 ベッドから抜け出すと、隣の斎の部屋のドアを叩いた。

「斎? 入るぞ」

 部屋に足を踏み入れ、立河は嫌な予感が的中したことを知った。

 必要最小限のものしかない部屋の中、斎は手足を投げ出すようにしてベッドに横たわっている。目を見開き、荒い息を繰り返していた。しかし、目を開いてはいるものの、立河の姿を捉えてはいない。

「斎!」

 声をかけても無駄だと悟って、立河はやや乱暴に、斎の肩を掴んで揺さぶる。初夏にあるまじき体温の低さに、ぞっとした。

「――あ……」

 呻くような声を漏らして、斎が身じろぎした。見開いたままの瞳が、次第に焦点を結び始めて、立河を認めた。とたんに、飛び起きる。

「はあ……ッ、は……」

 必死で息をつく肩を抱き込むようにして、落ち着かせた。

「……落ち着いたか」

「ごめ……今、何時……?」

「一時だ」

「昼の……じゃないよね。ごめん、起こした」

「気にするな。寝られそうか?」

「……ん、しばらく無理。喉渇いた。水飲んでくる」

 ふらりと立ち上がり、斎は台所へと消える。立河は後を追おうとして、床に落ちた時計を蹴飛ばした。音の正体はこれだったらしい。

 台所で、斎は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを、貪るように飲み干しているところだった。ボトルの三分の一ほどを一気に飲んでしまうと、息をついてキャップを締める。

「……参ったなぁ。最近は、大丈夫だと思ってたんだけど……」

 まだ少し掠れた声で、斎は苦笑混じりにぼやいた。

 だが、無理もないと立河は思う。この数日、斎にとって過去を思い出させるに充分な出来事が続いた。特に、五年前に救った少女との再会は、予想などしていなかっただけに強烈だろう。

 彼女の存在が悪いとは言わない。だが、それに関連してくる記憶が悪すぎた。

 ――五年前、彼らが叔父と甥になった当初、斎の状態はひどいものだった。そこから、ゆっくりと時間をかけ、回復してきたのだ。しかし、もう大丈夫かと思えば、思い出したように脆い部分が顔を覗かせる。この五年間、斎がこういう状態になった回数は両手の指ではきかなかった。

 自分も、そして斎も。それぞれ、過去を背負っている。

 血塗られた過去を。

「――叔父さん、もう寝ててよ。僕もうちょっと起きてるから。大丈夫、明日に響くような夜更かしなんてしないからさ」

「寝られるのか? 俺もさすがに昔みたいに、寝付くまで面倒は見きれんぞ」

「もう子供じゃないよ」

「子供みたいなもんだ、いつまで経っても」

 そう言ってやると、斎はきょとんと目を見張り、ふっと微笑した。

「そうだね。――そうかもしれない」

 呟いて、ミネラルウォーターのボトルを揺らした。

「……昔、おんなじこと言われたよ。叔父さんみたいに、僕のことを子供みたいだって、言った人がいたんだ」

「そうか」

「うん」

 斎はボトルを冷蔵庫に戻すと、先ほどよりもしっかりした足どりで歩き始めた。

「寝られそうか?」

「うん、大分落ち着いたから。しばらく横になってれば、寝られると思う。起こしちゃってごめん」

「いいから、早く寝ろ」

 ぽんと肩を叩くと、大分体温が戻っていて、ほっと息をついた。

「ん、おやすみ」

 斎が部屋に戻って行くと、立河は複雑な気分で台所を後にする。

 自分より前に、斎が親のように慕っていた人物がいることは知っている。だがその人物のことについて、斎はこれまで、ほとんど口を開かなかった。

 ずいぶん、依存していたのだと思う。今でも夢に見るくらいには。

 ――もうそろそろ、解放されてもいいんじゃないか。

 あの様子を見ると、囚われている、とさえ思えてしまう。

(……やれやれ。ずいぶん肩入れしちまったな)

 かぶりを振って、立河はベッドに潜り込んだ。叔父というより、もろに父親の気分だ。

 布団をかぶって、強引に目を閉じる。

 翌朝、寝過ごさないことを祈って。




「……美。――直美?」

 那々の声に、直美ははっと我に返った。

「あ、何?」

「どうかしたの、何かすっごいぼーっとしてるよ。具合でも悪い?」

「うん……何か、頭重いっていうか……微妙に、すっきりしないんだよね」

「保健室行ってきた方がいいんじゃない?」

「……そうだね。ちょっとサボるか。那々ぁ、ノート頼んでいい?」

「いいから、早く行ってきな。ついてこうか?」

「大丈夫。そこまでひどかない」

 次の三時限目は、直美が苦手な英語だった。堂々とさぼれるのなら、体調不良もありがたいというべきか。

 保健室には、誰もいなかった。養護教諭は席を外しているらしい。ベッドに寝転がった直美は、一向におさまらない頭の重さに内心首をかしげた。

 昨日はあんなに調子がよかったのに。特に、マサヤとデートしている時は。

 やばいなあ。風邪でもひいたのかな。

 そう思いながらごろごろしていた直美は、ドアの開く音に頭を起こした。もう授業は始まっているから、きっと養護教諭だろう。

「先生、気分悪いんでちょっと休ませてくださ~い」

 てっきり養護教諭だと思っていた直美が声を投げると、仕切りの陰から顔を出したのは男子生徒だった。

「あれ? また会ったね」

 昨日喫茶店でも会った、二年の男子生徒だ。

「偶然ですね、ええと……」

「ああ、二年の西脇。――そういえば、先生いないのかな」

「あたしも、いないんで勝手に寝ちゃってるんですけど……」

「参ったな、カッターで指切っちゃったから、絆創膏もらおうと思ったんだけど……そういえば、そこの棚に風邪薬あったと思うよ。飲んでおいたら?」

「棚、ですか……?」

「ああ、俺が取るよ」

 西脇はそう言って、仕切りの向こうに消えた。棚を開けてごそごそやっているようだったが、ほどなくティッシュに包んだ小さな錠剤を三錠と、コップに水を入れて持って来てくれた。

「一回一錠って書いてあったけど、一錠だけじゃまた具合悪くなった時困るだろ」

「ありがとうございます……」

 早速一錠口に入れて飲み下すと、直美は残りの二錠をポケットに入れ、ベッドに横になった。西脇は絆創膏を探しているのか、またあちこち棚を覗いているようだったが、やがて保健室を出て行ったらしい。足音が遠ざかっていった。

 いつしか直美は、うつらうつらとまどろみ始めていた。

 ――保健室を出た哲治は、階段を上りながら唇を歪めた。

 これで四錠。全部飲んでしまえば、もう薬を絶つことは不可能だろう。後は、直美が薬を求めて縋りついてくるのを待つのみだ。

 その時、背後に足音が近付いてきた。

「ねえ」

 振り返ると、ほとんど金髪に近いような髪色をした切れ長の眼の少女が、哲治を見上げていた。

「何だよ」

「あんたさ、こないだ誰かにクスリ頼んでたでしょ、電話で」

 哲治は絶句した。誰だ、こいつは?

 少女はその様子を見て、確信したらしい。ため息をつく。

「……別に、ばらそうってんじゃないけどさ。一つ、釘刺しとこうと思って」

「釘?」

「一年三組、星海那々」

 紡がれた名前に、今度こそ目を見張った。

「どうして、彼女のことを……!」

「あの子には、借りがあるから。――あんたがクスリをやろうが捌こうが、あたしは別にどうでもいい。けど、星海那々とその周囲には、絶対にクスリを流すな。それがあたしの用件よ」

「……借り……?」

「そう。じゃ、確かに伝えたからね。あの子たちに手を出そうとしたら、あたしがあんたを潰すから」

「潰す、だって……? できるもんなら」

 哲治の嘲りを遮るように、彼女は一歩一歩、哲治に近付いてくる。階段の途中で動けずにいる哲治に、嘲り半分の笑みをひらめかせると、右手をひょいと哲治の眼前に突き出した。

 哲治は目を見張った。後ずさろうとして段につまずき、尻餅をつく。彼女の右手には、いつの間にかバタフライナイフが握られていた。いつ取り出したのかすら、哲治には分からない。手品のような鮮やかさだった。

「踏んだ場数が違うよ。喧嘩なんかからっきしのお坊っちゃん?」

 彼女は笑いながら、バタフライナイフをポケットに収める。

「あの子たちに手を出したら、こんなもんじゃ済まさない。分かった?」

「わ、分かった……もともと、彼女に手を出すつもりなんかないんだ! お、俺だって彼女のことが……!」

 哲治は慌てて口をつぐんだ。少女は呆れたように彼を見て、肩をすくめる。

「ま、いいけど。その言葉、憶えててもらうからね」

 そう言うと、彼女は哲治を追い越して階段を上がっていった。ぽかんと見送っていた哲治は、慌てて後を追いかける。

 だが、彼女の姿はとうに消えていた。




 学校帰り、≪ペニーハウス≫が見える辺りで立ち止まり、那々は前を行く直美の腕を引いた。

「ねえ……本気で行くの?」

「当ったり前じゃん! 那々だって気になるんでしょ、天瀬さんのこと」

「そりゃまあ……じゃなくて!」

「ああいうタイプは、意外と押しに弱いのよ。まずは告って、押しまくるべし、よ!」

 何だか異様にテンションが高い。少々違和感を覚えながらも、逆らうと後が怖そうなので、那々は口をつぐむことにした。

 ドアを開けると、マスターの立河が会釈した。

「いらっしゃい」

「どうも……あの、天瀬さん、は……?」

「あいつなら、“本業”の方に行ってるよ。しばらくすれば、戻ってくるけど」

「本業?」

 直美が首をかしげる。そういえば、彼女は斎が銃工だということを知らないのだ。事情聴取の時にもちょっとしたパニック状態で、他人の話など聞くどころではなかったから。

「じゃあ、待ってますね」

 直美がさっさとテーブルに向かう。那々も気後れしながら、それを追いかけた。

「ちょっと、これって何か図々しくない?」

「何で? 何か頼めばいいじゃない。それに那々は、早いトコ誰かとくっついちゃった方がいいって」

「だから何で!」

「ストーカー対策」

 脈絡のない話の飛び方に、那々は目をぱちくりさせた。

「ストーカー?」

「だからさ、那々が誰かとくっつけば、ストーカーだって諦めるんじゃないか、ってことよ。そこ行くと、天瀬さんなんか最高じゃない。あの人相手じゃ、大抵の奴は霞むわよ。タメ張ろうっていうんなら、よっぽどの自信家じゃないと」

「確かに、そうかもしんないけど……って、直美あんたまさか、天瀬さんにそれ頼もうっていうんじゃ……!」

「ふんふん、那々もようやくその気になったか」

「あのねぇ! いくら何でもそれって強引すぎ――」

 思わず声を高めかけた那々は、はたと周囲に気づいて声を落とした。

「……大体、そんなこと頼んだりしたら、迷惑じゃん、天瀬さんにも」

「だからぁ、そっから急接近しちゃえばいいんだって。ふりから、ホントに付き合っちゃえば」

「……頭痛くなってきた」

 本当に頭痛がしたような気がして、那々はこめかみを押さえる。後押しにしても、限度というものがあるだろう。

「直美あんた、何かおかしくない? 最近、ちょっと強引すぎるよ」

 こと斎との件に関しては、もう無理やりにでもくっつけてやろうとしているようにさえ思える。那々の方は、まだ“彼”への気持ちすら整理できていないというのに。

 すると、直美が那々を見つめた。

「だってそうでもしないと、あんたいつまで経っても、誰とも付き合えないよ?」

 ……息が、詰まった。

「五年前のお兄さんをいくら好きでも、その人はもういないんだよ? あんただけ、取り残されちゃうんだよ。――もう、いいじゃん。他の人、見たってさ」

「そ、んなの……!」

 言葉がうまく出てこない。何をどう言えば、この気持ちを説明できる?

 那々にとって、あの少年の記憶が支えだった。彼の面影を抱えていたから、事件の後もそれほどショックを引きずることなく、比較的楽に日常に戻れた。あの事件のことで心を痛めることがあるとすれば、それは彼に一言の礼も言えなかったのを思い出させる、あの夢を見ることくらい。

 これからどんな人と出会おうと、変わらず心の中に在り続ける人。それが、“彼”。

 なのに――斎に出会ってから、それが揺らぎ始めた。

 面影が、重なる。似すぎているがゆえに、斎と“彼”の面影が混同し始めていた。どちらを思い出しているのか、分からなくなる。

 怖い。“彼”の記憶が薄れるのが。

 そうなれば、“彼”が完全に、この世から消えてなくなるような気がした。

 言葉を探していた那々に、その時落ち着いた声がかけられた。

「いらっしゃい」

「あ……」

 見上げると、いつもの通りウェイターのユニフォームを着込んだ斎が、トレイを片手に立っている。

「何を淹れればいいかな? また、こないだと同じの?」

「え……と、あの」

「同じので、お願いします。いいよね、那々?」

「……うん」

 こくりと肯くと、斎はにこりと微笑んだ。

「カフェオレもいいけど、冬場はカプチーノがお勧めだよ。僕も好きなんだ。美味しいよね……って、これじゃ手前味噌か」

 苦笑して、オーダーを伝えにカウンターに取って返す。その後ろ姿を見ながら、那々は奇妙に気分が落ち着くのを感じた。昂ぶった神経が、宥められた気がする。

 息をついて、“彼”の顔を思い浮かべた。斎によく似た、だが幾分幼さを残した少年の顔が、脳裏に浮かぶ。ほっとして、薄く笑みを浮かべた。

 大丈夫。あたしはまだ、あの人のこと忘れてない。

 ……しかしそのため、斎がグラスを二つ、自分たちのテーブルに持って来たのに気づくのが遅れた。そして、直美が「あの」などと声をかけながら、彼を引き止めたことにも。

 気づいた時には、手遅れだった。

 直美ははっきりと、言っていたのだ。

「那々のことで、ちょっとお願いがあるんですけど、いいですか?」



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