Shoot:1 Dog and Realize Girl (1)
レイアウト設定の勝手が分からずちょっと時間が開いてしまいました……。
彼は、目を細めて微笑っていた。
『……さよなら、だよ』
――待って! 置いてかないで!
息が切れるほど走っても、追いつけない。バンはどんどん遠ざかって、そして――。
「――!」
星海那々は、弾かれたように飛び起きた。息が上がっているのは、夢のせいだとすぐに理解する。
夢、だ。
彼はもう、夢の中にしか現れない。
那々は目を覆って深く息をつくと、気分を切り替えるように頭を振った。ショートボブの髪がばらばらと揺れる。
ベッドを抜け出してリビングに行くと、母の由里が朝食を用意しているところだった。
「あら、今日は早いじゃない」
「まあ、たまにはね」
そう答えた時、テレビのアナウンサーが新しいニュースを読み上げた。
『――今日で二〇XX年の≪青銀天聖教団≫事件から、丸五年を迎えます。この事件は、子供たちの誘拐事件に端を発し……』
思わずテレビを見つめた那々に、母がちらりと気遣うように視線を向けた。
「……もう、五年も経ったのねえ」
「うん……」
那々は窓際に立って、外に向かって手を合わせた。
――ありがとう。あなたのおかげで、無事に高校生になれました。
ここ五年の恒例行事。七月十一日、毎年この日の朝は、この窓越しに手を合わせる。
彼女は五年前、誘拐された子供の一人だった。
母が成田空港で職員として働いていたため狙われたのだ。小学校六年の夏休み直前、下校途中に三人組の男に取り囲まれ、薬のようなものを嗅がされて気を失った。気がついた時にはもう、教団施設内に囚われていたのだ。
あの時のことは、忘れようにも忘れられない。殺風景なプレハブ、仮面をつけて銃を持った見張り役。毎日増えたり減ったりする、自分と同じ立場の子供たち。家族をテロに利用するための誘拐だというのは、後から知った。顔を見なくなった子供は、親が退職しようとしたため見せしめにドラッグを打たれ、隔離されていたのだということも。
だが、彼女の記憶に最も鮮やかに残っていたのは、一人の少年だった。
≪ペインレス・ドッグ≫と呼ばれていた彼は、元は見張り役の一人だった。しかし、もう一人の見張り役が那々に暴行を働いた時、それを撃ち倒して子供たちを逃がしたのだ。折良く雑貨の搬入に来ていた業者の車を奪い、銃撃戦で怪我を負いながらも、那々たちを麓の警察署まで連れて行ってくれた。
なぜ彼がそこまでしてくれたのか、那々は未だに知らない。あの後彼は姿を消してしまい、連絡を受けて駆けつけて来た母の腕の中で、那々は泣きじゃくった。
しばらくして彼の捜索が打ち切られたというニュースが流れた時も、大泣きに泣いた。礼の一言も言えなかったことが、心残りでならなかった。
那々は未だに、はっきりと覚えている。あの少年の優しい端整な顔立ちも、少し甘さの残る声も。彼が流した血の鮮やかさ、最後に見た微笑みさえも。
それは、恋だったのかもしれない。
たった数日で永遠に叶わなくなったけれど、確かに彼女は、彼を想っていたのだ。
だから、那々の中にはもう恐怖はない。
彼女があの事件を思い出す時はいつも、監禁され手を上げられた負の記憶ではなく、あの少年と一緒に逃げた時の不思議な安心感が浮かんでくる。
あの少年は五年経っても、那々をあの事件から守ってくれるのだ。
そして、那々は毎年、この窓から彼が亡くなったという場所の方角に向かって、手を合わせる。あの時言えなかった、礼の言葉と共に。
――気づくと、ニュースはとうに別の話題に変わっていた。
「ほら、さっさと食べちゃいなさい」
「は~い」
テーブルに着こうとして、那々はテーブルに置かれた一通の封筒に気づいた。宛名として那々の名前だけが書かれた、真っ白な封筒。
「お母さん、これ」
「ああ、新聞取りに行ったら郵便受けに入ってたのよ。あんた宛になってるから」
「いいわよ、どうせストーカーからだもん。捨てちゃって」
「ストーカー?」
由里が目を丸くした。
「あんた、ストーカーされてるの?」
「大したことないよ。手紙でつらつらふざけたこと書いてくるだけだもん。好きですとか愛してますとか……あ~寒っ」
びりびりと豪快に封筒を破って中身を読み、すぐに放り出す。
「今まで五、六回来たけど、特に実力行使してくるわけでもなし、放っときゃその内諦めるでしょ。それに、あたしの理想はもっと高いの!」
「はいはい。腕っ節が強くてハンサムで、優しい人でしょ。そんな人がそうそういるもんですか」
「どっかにいるもん」
ストーカーからの手紙を握り潰してゴミ箱に放り込んだ。人のことを調べ尽くして手紙にまで書いてくるくせに、自分は顔も出さないような相手に用はない。
それに――那々はまだ、彼を忘れられない。忘れてしまうには、彼の記憶は鮮やかすぎた。
「でも那々、それ切手がないってことは、直接届けられたってことでしょ? 気持ち悪いじゃない、住所知られてるなんて。警察に言えば?」
「これくらいで捜査なんてしてもらえないよ。それに、何かしてきたら、殴り倒してやる」
「あんたねえ、女の子がそんなこと言うもんじゃないわよ」
眉をひそめる母親を尻目に、那々はテーブルに着いて朝食に手をつけ始めた。
朝食と身支度を終えると、インターホンが鳴った。七階上に住む、同じクラスの友人の沖田直美だ。大体同じ時間に家を出るので、いつもはエレベーターか一階のエントランスで合流するのだが、今日はこちらが少し遅くなってしまったので、迎えに来たらしい。
はいはい、と聞こえるわけでもないが返事をして、那々は玄関のドアを開けた。
直美は親が会社社長で、年季の入ったお嬢様だ。高校進学を機に一人暮らしをしたいという希望に、親がポンとこのマンションを寄越したというから恐ろしい。活発でどちらかといえば“可愛い”タイプの那々とはまた違い、パッと目につく華やかな印象。彼女は、那々が五年前に事件に巻き込まれたことも知っていた。
「そういえばさ、こないだいい店見っけたんだぁ」
「いい店って、この前みたいにライブハウスとかじゃないよね」
あの時は引っ張られて行って、帰り道に危うく補導されかけた。白い目を向ける那々に、直美が力説する。
「ちっがぁう、喫茶店! コーヒー専門みたいなんだけどさぁ、そこのウェイターのお兄さんがすっごい美形なんだよねぇ」
直美がずい、と那々に詰め寄る。
「あたしが狙おうかとも思ったんだけど、まあここは一つ、親友に新しい恋を提供するべきかと」
「新しい恋って」
「助けてくれたお兄さんに片思いってのも、それはそれでいじらしいけどさ。いつまでも後ろ向いてばっかじゃ春は来ないわよ」
「いいもん」
つん、とそっぽを向いて歩き出す。
それでも結局は、直美に引っ張られてその店を訪れることになりそうだと思いながら。
新宿の一画、雑居ビルに挟まれた小さなビルの二階に、喫茶店≪ペニーハウス≫はあった。十八世紀イングランドのコーヒーハウス――通称≪ペニー・カレッジ≫をコンセプトにしたこの店は、シックな内装と絶品のコーヒーで、近隣はもとより少し離れたオフィス街からも、足を伸ばしてくる常連が多い。だが店自体はさほど大きくなく、従業員もオーナー兼マスターの他には、ウェイターが一人だけという慎ましさだった。
その唯一のウェイターである天瀬斎は、テーブルを拭き終えてメニューなどを整頓すると、カウンターの内側に戻ってタオルを洗いにかかった。全体的に痩躯だが、捲り上げたシャツの袖から覗く腕は貧弱ではない。引き締まった、均整の取れた体躯をしていると、容易に想像がつく。
端整な顔立ちを、今時珍しいくらいの漆黒の髪が縁取っている。好青年という言葉がこれほど似合う人物もいるまいと思える、穏やかな雰囲気を漂わせた青年だった。
斎はタオルをラックにかけ、手を洗って各テーブルのシュガーポットや紙ナプキンの補充を始める。そうしていると、休憩に行っていたマスターの立河敏也が戻って来た。
「戻ったぞ。次、行ってきな」
「ありがと」
手早く補充を終え、斎はカウンターの脇を通って、奥に続くドアを潜る。細く短い通路から入れる八畳ほどの部屋は、現在は倉庫になっていて備品や豆のストックを保存する冷蔵庫、ユニフォームの替えを入れたロッカーなどが置かれている。そこには入らず通路の突き当たりのドアを開け、建物の裏手の階段を上がると、三階は住まいになっていた。間取りとしては2LDK。どちらかといえば殺風景な部屋だ。白いシャツと黒のスラックス、黒いエプロンのクラシカルなユニフォームから、エプロンだけを外してダイニングの椅子にかける。テーブルの上に作り置きされているチャーハンが、今日の昼食だ。
≪ペニーハウス≫は、斎と叔父に当たる立河の二人で切り盛りされていた。ここに住んでいるのも彼ら二人だけ。立河は四十三年独身を通しているし、斎はまだ二十二歳だ。結婚どころか、恋人もいない。
チャーハンを頬張った斎の耳に、電話のコールが聞こえた。ここの電話は複数回線引いてあり、番号ごとにコール音が違う。この音は、自宅用ではない。
「……はい、≪ペニーハウス≫です」
『ああ、俺。こないだトリガーの調整頼んでたけど、できてるか?』
「はい、できてます。いつでも結構ですよ」
『じゃあこれから取りに行く。十五分くらいで着くと思うから、用意しといて』
「分かりました」
電話を切ると、斎は内線で下の店にかけた。
「さっき、お客さんから電話があって。十五分くらいで着くって。しばらくそっち行けないけど、大丈夫?」
『ああ、こっちは心配いらない』
「じゃあ、そっち頼むね。僕は下にいるから」
短い休憩を終え、斎はエプロンを掴んで階段を下りていった。倉庫のロッカーにエプロンを放り込み、白のシャツを脱いでハンガーにかける。そして隣にかけてあった薄いグレーのシャツに着替えると、ロッカーを閉めて再び階段に向かった。今度は上がるのではなく、下りていく。一番下まで下りきって、建物の脇を回ると、普段は閉めている一階の入口の鍵を開けた。室内の照明のスイッチを入れると、壁一面の棚とカウンター、その脇にもう一つのドアが浮かび上がった。
斎はバインダーを片手に棚をざっと見て、目的の番号の入った扉を小さな鍵を使って開け、中のものに手を伸ばす。
シグザウエルSSG3000。競技用ライフルの流れを汲む、ボルトアクション式のスナイパーライフルだ。
ライフルケースに収められたそれをさっとチェックして、大丈夫という風に肯くと、カウンターの下の引き出しから弾薬を取り出した。
そうこうしていると、出入口が開いた。二十代半ばの男が、親しげに手を上げる。斎も笑みを返した。
「いらっしゃいませ」
「よう、おひさ。相変わらずマスターのコーヒーは絶品だな」
「どうも。――これ、お預かりしてたシグです」
SSG3000を受け取り、男はカウンターの脇のドアを指した。
「レンジ借りるぜ」
「どうぞ。シューティンググラスは?」
「必要ない」
実弾と、ドライファイア用のダミーカートリッジを差し出し、斎はドアの鍵を開けた。開かれたドアの向こうにはまたしても階段。下りるとそこには、二十メートルのシューティングレンジが五レーン並んでいた。ターゲットの位置を必要に応じて変えられるようになっているが、現在はすべて二十メートルの位置にセットされている。
男はSSG3000を構え、まずダミーカートリッジを込めて引鉄を引いた。カチン、と切れのいい音がする。
肯いて、今度は実弾を込めると、スコープを覗いて倍率を調整。引鉄を引いた。
ターゲットの真ん中が、綺麗に撃ち抜かれた。三回ほどそれを繰り返して、短く口笛を吹いた。
「いいな。トリガー・プルが軽くなったし、よく切れてる。これぞ理想って感じだな」
「どうも。じゃあ、受け取りのサインお願いします」
「了解」
男はSSG3000をしまって一階に戻り、カウンターで差し出された用紙にペンを走らせた。
一圓千秋。彼とは二年前に≪ペニーハウス≫が開店して以来の付き合いだ。彫りの深い顔立ちをしていて、色を抜いた明るい髪色がよく似合っている。無造作に伸ばし、やはり無造作に括っただけの髪型だが、百八十を超える身長・整ったマスクとあいまってまるでモデルのようだ。
千秋はペンを置くと、代金の封筒をカウンターに置く。試射後のクリーンアップを済ませて、斎は中を改め、それを手提げ金庫にしまうと、サインの入った用紙をファイルに綴じて領収兼明細書に手早く金額を書き込んだ。
「これ、領収と明細書です」
「サンキュ。これがないと経費で落ちねえからな」
領収書を受け取り、千秋はしげしげと斎を見やる。
「いっつも思うんだけどさ、上でウェイターしてる時とこことで、どうして服が違うんだ? そのまま来りゃあ、面倒ないだろ?」
「こっち用の仕事着です。喫茶店のユニフォームに火薬とガンオイルの臭いなんてつけるわけにいきませんから。コーヒーの香りにそんなもの混ぜたら、叔父に殴られます」
「はぁ、なるほどねぇ」
気の抜けた返事をして、彼はライフルケースを抱えた。
「ありがとうございました」
挨拶にひらひらと手を振って、千秋はドアの向こうに姿を消した。
――アメリカを筆頭とする銃器生産国の圧力に押される形で、七年ほど前に法改正があり、日本でも銃の規制が緩和された。これまで公然と銃を所持できる職業は(建前上)警察官と自衛隊くらいだったが、規制緩和によりその幅が広がったのだ。代表的なところで警備会社。中でも現金輸送に携わる会社は、強盗の脅威に対抗するため率先して銃を導入した。
もっとも、そのためのハードルは高い。法改正以前から所持が認められていた猟銃などと同様、国家公安委員会の定める講習・試験(実技含む)を受け、各都道府県警に銃所持の申請をし、精神異常・重大疾患なしという医師の診断書を提出しなければならないのはもちろんだが、その上さらに倫理講習、危険物取扱講習、応急処置講習、誓約書の提出が待っている。そして職務上銃が必要だと認定されてようやく、帯銃許可証が発行される。申請をしてから許可証が発行されるまで約九ヶ月という、気の長い話だ。そして実際に銃を所持すれば、その銃についての届出をしてナンバーをもらわなければならない。有効期限はいずれも一年。そのたびに更新する。
そして、それらの銃の整備・修理においての事故を防ぐため、専門の技術を持つ職人も必要になった。いわゆる銃工だ。銃工は、国家公安委員会と都道府県警察の両方に承認される必要があり、営業するためにはその承認と帯銃許可証が必須となる上、二年に一回審査を受ける。この審査をパスしないと、営業ができない。
≪ペニーハウス≫は、コーヒー専門喫茶店という顔の他に、銃工という別の顔を持っている。店舗のオーナーは立河だが、銃工の資格を持っているのは斎だけなので、銃工の仕事の管理責任者は斎だ。管理責任者が別なら、別業種を並行営業しようと何の問題もない。≪ペニーハウス≫は東京でもまだ数少ない公認銃工店であり、斎は業界ではそこそこ有名な腕利きの若手銃工だった。
シューティングレンジルームの鍵をかけると、今日引き渡し予定の品が他にないのを確かめ、入口の鍵をかけた。銃工の≪ペニーハウス≫は原則予約制だ。もっとも、飛び込みもないわけではないが。そうひっきりなしに客が来るわけでもない店で一日中過ごすのは非効率以外の何物でもないので、普段は上の喫茶店を手伝っている。客の方も大体分かっていて、まず喫茶店の方でそれとなく用件を仄めかし、ついでにコーヒーを楽しんでから下に来る、というのが定番だった。
シューティングレンジが地下にあるのは、防音のためだ。試射の音が高らかに響くようでは少々具合が悪い。その点ここはおあつらえ向きに、ライブハウスだった地下一階が転用できた。防音の設備がしっかりしているのがありがたい。もともとは個人営業の楽器店が入っていたビルだったが、立地が良いとはいえないため、価格もそこそこだった。立地の悪さは腕の良さで補えばいいと斎たちは考え、そしてそれは確実に実践されている。
斎は倉庫兼用ロッカールームでシャツを着替え、エプロンを着けると喫茶店の方に戻った。三組ほど客が入っている。若い女性客がちらちら視線を送ってくるのをかわしつつ、カウンター内のシンクで手を洗うと、早速トレイを渡された。
「三番のお客様だ」
「分かった」
三番テーブルは女性三人組だった。見たところ女子大生。お待たせいたしました、と営業スマイルつきで会釈すると、はにかむように笑顔を返された。こうして口コミで“美形の店員がいる”という評判が広まっていることを、斎は知らない。
二十分ほどすると、客も引き始めた。
「落ち着いたね」
「ああ。おまえ、ほとんど休憩になってないだろ。一杯飲むか?」
「うん、カプチーノがいいな」
冷房の効いた店内にいると冷える。熱いカプチーノを啜っていると、テレビが十分枠のニュースを流し始めた。
『――今日、七月十一日で、≪青銀天聖教団≫事件から丸五年を迎えました。この事件は……』
カタン、とカップがカウンターに置かれる。斎の顔がわずかに歪んでいた。
「……そっか。今日だっけ」
「斎」
「うん、大丈夫。――これ、洗っとくね」
三分の一ほど残ったカップを取り上げ、カウンターの中に入る。とたんに、店のドアが開いてカップルらしい客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
にこやかに会釈する斎の表情に、先程の翳りはもうなかった。
午後四時を過ぎると、この界隈にも学生の姿が目立ち始める。それでもコーヒー専門という敷居の高さか、店内の客の平均年齢は高めだ。主は、帰社前の息抜きを楽しむ営業社員風のサラリーマン。
「お待たせいたしました」
疲れた表情のサラリーマンらしい客のテーブルにカップを置いた時、ドアが開いて一人の男が入って来る。スーツ姿だが、明らかに普通の会社員ではないと分かる、四十代後半ほどの体格のいい男。この店の常連だった。
「いらっしゃいませ」
「よお、いつもの頼む」
「はい」
カウンターに一直線、メニューも見ない。頼むものはいつも決まっているので、立河は彼が店に入って来た瞬間から、ブレンドの用意を始めていた。モカブレンドが、彼の定番メニューだ。
「諸角さん、今日はどちらにご用で?」
尋ねられて、諸角久尚は苦笑した。
「鋭いな。今日は甥っ子の方にも世話になりに来た」
「じゃあ下、鍵開けてきます。こっち、大丈夫だよね?」
「ああ、多分な」
斎がエプロンを外しながら奥へと引っ込む。ウェイターと銃工の兼業は、なかなか慌ただしい。
「忙しいかい、マスター?」
立河は肩をすくめて微笑する。
「コーヒー一本に絞っちまうと、なかなかね。斎がいるから、あいつ目当てのお嬢さん方がちょいちょい来るが。本人は気づいちゃいないがね」
「マスターの若い頃も、あんなんじゃなかったのか?」
「あいつの方が人当たりがいいな。若い頃の俺は、とことん一匹狼でね」
そう言う立河も、四十三歳という年齢より少し上には見られるものの、なかなか渋いナイスミドルだ。
「――モカ、どうぞ」
出されたコーヒーを一口。広がる味わいに諸角は微笑する。
「ここのコーヒー飲んじまうと、自販機のはもう飲めないな」
「嬉しいね」
ゆっくりとコーヒーを飲み干すと、諸角は椅子を下りた。
「美味かったよ。ごちそうさん」
代金を払って店を出る時、女子高生らしい二人連れとすれ違った。この店に若い女性が来る場合、目的は大体決まっている。だが今日ばかりは、そのお目当ては不在である。
(悪いなぁ、嬢ちゃんたち)
その原因であるところの諸角は胸中で詫びつつ、一階への階段を下りて行った。
斎はすでに、仕事着に着替えて待っていた。
「悪いな、待たせたか」
「いえ。ところで、今日は修理ですか?」
「ああ、こいつを頼む」
諸角は上着の下のショルダーホルスターからリボルバーの拳銃を取り出し、カウンターに置いた。
「薬物中毒のガキと撃ち合いになってな。何とか取り押さえたはいいが、こいつがマトモに弾喰らっちまった。まあ、一歩間違えば俺の指か頭が吹っ飛んでたがな」
黒光りするS&WM29を取り上げて、斎はしげしげと見つめる。かなりの大口径弾がシリンダーに当たったらしく、端が抉れていた。傷の縁も変形してささくれ立っている。確かに、これを引き続き使おうとは思わない。
「あちゃあ……シリンダー交換ですね。他も傷んだりしてないか見たいし、少し預からせてもらうことになりますけど……」
「ああ、頼む。きっちり直してくれよ、俺の命の恩銃だ。ところで、代わりはあるか?」
「629でよければ、すぐ出せます」
「それでいい、貸してくれ」
「分かりました」
斎は後ろの棚から、同型のリボルバーを取り出した。S&WM629は、M29のシルバーモデルだ。個人的に、こういった大口径のモデルを斎は好んでいた。
「レンジ開けます。少し慣らしてください」
「ああ、借りるぞ」
シューティングレンジルームを開け、諸角が階下に下りていくと、斎は厚みのあるバインダーを取り出し、シートに記入を始めた。彼が“カルテ”と呼ぶこのシートには、顧客ごとの銃のデータや修理・整備の状況などが書き記してある。後で時間ができた時に、自宅スペースに置いてあるパソコンでデータベース化するようにしていた。
(S&WM29、シリンダー破損、要交換、っと。分解して中のパーツも掃除した方がいいかな。諸角さんって仕事が仕事だから、そんな時間ないだろうし)
そんなことを考えながらカルテを埋める。備考欄に≪貸出有≫の文字と銃のナンバーを記入してペンを置いた時、試射を終えた諸角が階段を上がってきた。
「使いやすいな。俺のより引鉄のキレがいい。さすがにきちんと手入れしてるな」
「何ならメンテもしますよ、サービスで」
「ありがたい。暇がないんだ」
「でしょうね」
バインダーをぱたんと閉じて、預かったM29を奥の工房の棚に置いた。
「時間かかりそうか?」
「できるだけ早く上げますよ。諸角さんはお得意様だし――」
その瞬間だった。
壁の向こうから聞こえた音に、彼らは揃って顔を跳ね上げた。銃を扱う者なら聞き間違うはずのない――銃声!
「諸角さん!」
斎が叫ぶより早く、諸角はドアを蹴破らんばかりの勢いで駆け出していく。斎も続こうとしたが、ふと思い直したようにカウンターの引き出しのベレッタを弾ごと引っ掴むと、諸角に続いて駆け出した。
店内には、マスター一人しかいなかった。
「ねえ……確かに渋いオジサマだけどさあ、直美が言ってたのってあの人じゃないんでしょ?」
「当たり前よっ! あ~もう、ついてないなぁ。ちょうど用事で抜けてるなんてさぁ」
ため息をつく直美を、那々は白い目で見やる。しきりに悔しがる彼女は放っておいて、カフェオレに専念することにした。ウェイターのお兄さんはともかく、このカフェオレは確かに収穫だ。
落ち着いた店内には、自分たちの倍くらいは年上のサラリーマンたちが目立った。この味で値段も手頃と来れば、仕事の息抜きに寄るにはもってこいだろう。
冷たいカフェオレをちびちびと飲みながら、ちょっとした人間観察をしていた那々は、ふと窓の外に目をやった。周囲に雑居ビルが多いせいか、店の前を行き交う人はバラエティ豊かだ。中には、一瞬ぎょっとするような奇天烈な服装をしている女性もいる。
自棄のようにシロップとコーヒーフレッシュをぶち込んだアイスコーヒーを飲み干し、直美は息をついた。
「お兄さんいないし~、もう帰ろっか」
「ま、今日は巡り合わせが悪かったってことよ」
カフェオレを片付けて、那々は立ち上がった。マスターに申し訳なさそうに微笑されると、自分たちの目的がバレたようでちょっといたたまれない。
店を出ると、とたんに初夏の熱気が押し寄せてきた。夕方だというのに、まったく涼しくない。
「あっつ~い」
直美が辟易したように声をあげた時、向かって右手の方から悲鳴があがった。何事かと目をやると、ヒールが十センチ近くありそうなミュールを履いた女性が、帽子を被った派手なTシャツの少年に突き飛ばされて転んだところだった。
「突っ立ってんじゃねぇよっ、クソアマっ!」
「何あれ、ガラ悪――」
眉をひそめた那々は、だがすぐに目を見張った。少年がズボンのベルトに挟んでいるのは、どう見ても――。
「おい、待てよ! てめぇ人の連れ突き飛ばしといて、詫びもなしかよ!?」
女性の連れらしい二十歳くらいの男が、少年の腕を掴んだ。
「はなせよ!」
「ンだと――」
もみ合いになり、少年の手がベルトに伸びた。
――ガゥン!
銃声が耳を打つ。脇腹を押さえて男がうずくまるように倒れ、呻き声をあげた。女が叫びながら後ずさる。
「馬鹿にすんじゃねぇぞ! お、俺はさっき、そこのコンビニやってきたんだからな! 一人撃ってやったぜ!」
銃を振り回しながら、少年が叫ぶ。周囲は一瞬にしてパニックに陥った。悲鳴と共に、通行人は我先に逃げ出していく。
動き出したのは、那々の方が早かった。直美の手を掴んで、踵を返す。
「え、那々!?」
「店に戻るの、早く!」
屋内に逃げ込めば、わざわざ追っては来ないだろう。トチ狂って発砲されても、建物の中にいれば怪我をする可能性は低い。遮蔽物が山ほどある。五年前の経験から、那々はごく自然にそう思いついていた。
だが、直美が足をもつれさせて転んだ。
「直美!」
那々が振り返るのと、
「銃を捨てろ! 警察だ!」
≪ペニーハウス≫の入ったビルから、銃を持った男が飛び出してきたのはほぼ同時だった。
シルバーの大型リボルバーを構え、彼は撃たれて逃げ遅れた男を庇うように動く。ちらりと振り返って、彼が重傷ではなさそうなのを見て取ると、胸ポケットから身分証を取り出した。
「警視庁捜査一課の諸角だ。銃を置いて、両手を……」
「うるせぇ!」
少年は銃を振りかざすと、那々の手を借りて立ち上がりかけていた直美に銃口を向けた。
「よせ!」
「動くな! この女撃つぞ!」
直美の顔から血の気が引き、那々は凍りついたように立ち尽くす。もう少しだったのに!
その時――諸角が開けっ放しにしていったドアが静かに動いた。
バン!
いきなり大きく開け放たれたドアに、少年がぎょっとして肩越しに振り向く。瞬間、銃声。銃を持った少年の右手に、弾丸が叩き込まれた。着弾の衝撃で、銃口が直美からそれる。
ドアから飛び出してきた青年が、斜め前方の地面に向かって飛び込みざまに撃ったのだ。立ち尽くす那々を傷つけず、万一外しても通行人に当たらない射線を確保するには、少年の斜め後ろ、地面すれすれから上方に向けて撃つしかない。青年はほんの刹那の間にその射線を見出し、少年の右手を撃ち抜いたのだ。恐ろしい腕前だった。
そして、左手を支えに地面に触れるが早いか、身体を捻って転がりながら着地。その勢いで右足を振り抜き、少年の膝裏を打った。
少年が体勢を崩した時には、諸角がすでに動いている。銃を左手に持ち替え、渾身の右ストレート!
少年は、足下の青年の身体を飛び越えて吹っ飛んだ。
時間にしてほんの数秒。那々が呆然と見つめる間に、すべては終わっていた。
「……まったく、無茶苦茶しやがる」
撃たれた男に応急処置を施した後、救急車待ちの間に少年を引きずり立たせて拘束しながら、諸角は苦笑した。起き上がって服を払った斎が、涼しい顔で肩をすくめる。
「諸角さんの位置から44マグナムなんて撃ち込まれたら、周りがタダじゃ済みません」
確かに、下手をすれば跳弾して周囲の通行人に当たったかもしれない。諸角はため息をつき、言及をやめた。その代わり、斎の右手に目をやる。
「それにしても、また可愛らしいのを持って来たな」
「大口径はまずいでしょ。どうせ近距離になるだろうし、下手に大怪我させないように弱装弾のやつの方がいいかと思って」
ベレッタM950“ジェットファイア”。手の中に収まってしまうサイズの、二十五口径オートマチックだ。とっさのことだったので三発しか弾を持ち出せなかったが、二発は使わずに済んだ。
少年の銃を諸角が没収し、ためつすがめつ観察する。
「銃にナンバーは……ないか。違法だな。強盗・傷害に銃器不法所持もプラスだ」
「……そういえば、僕が撃っちゃったのはOKなんですか?」
「おまえは帯銃許可証持ってるし、その銃も申請済みだろ。状況が状況だから、正当防衛が通るだろうし……」
そこで言葉を切って、諸角が渋い顔になる。
「……それにおまえ、あの公安の“姫”のお気に入りだろうが。そんな奴をしょっ引く度胸のある奴が、本庁にいると思うか?」
「はは……」
斎も、乾いた笑いを浮かべた。
「しかし、こいつも運がなかったな。よりにもよって、実技試験でオール満点叩き出した化物が相手とは」
「勝手に人を人外扱いしないでくださいよ……」
「実際に人間離れしてるんだからしょうがないだろ。拳銃からライフルまで、全部ターゲットのど真ん中にぶち込みやがって。どんな訓練してたんだ」
「まぐれですって」
「おまえ、あれ未だに銃器管理課で語り草になってるぞ。知ってるか?」
掛け合い漫才のような会話を遮るように、救急車とパトカーのサイレンが響き始めた。ばらばらとパトカーを降りて敬礼する警官たちに少年と銃を引き渡すと、運悪く巻き込まれてしまった少女たちに目を向けた。
「ほれ、あのお嬢ちゃんたちを介抱してやれよ。気の毒に、怖い目に遭っちまったしな」
「余計に怖がられますよ。目の前で銃撃ったのに」
「まあ、そうかもしれんが……そもそもあのお嬢ちゃんたち、おまえ目当てでここに来たんだろうしな」
「……僕目当て?」
「本当に気づいてないのな、おまえ……」
呆れたように嘆息する諸角に首をかしげつつ、斎は少女たちの方へ歩いて行った。
「――大丈夫?」
声をかけられ、那々がびくりと肩を跳ねさせる。直美に駆け寄ってからずっと、青年の方を食い入るように見つめていたが、彼が近づいてくるととたんに顔を伏せた。
「やっぱり、怖がられちゃったか」
それを彼は自分に対する恐怖と受け取ったらしく、諦めたような口調でぼやく。那々はゆるゆると首を振った。
「……ちが、そうじゃ、なくて……」
上手く言えない。だが、彼に対して恐怖などは感じなかった。
ただ、信じられなかっただけだ。
彼は、五年前に死んだはずのあの少年に、よく似た顔立ちをしていた。