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見えない貧困 ― 社会の隙間で生きる人々  作者: 冷やし中華はじめました


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7/7

社会を動かす声

【パート1:崩れる砂上の楼閣】


 記事が出たからといって、すぐに世界がひっくり返るわけではなかった。  『“貧困ビジネス”の実態』と銘打たれたスクープ記事は、確かに大きな反響を呼んだ。だが、権田側もしたたかだった。顧問弁護士を通じて「事実無根」と声明を出し、ネット上では「記者の捏造だ」という擁護の声すら上がった。  それでも、真由は怯まなかった。  第一弾の記事を皮切りに、第二弾、第三弾と矢を放ち続けたのだ。  有田以外の元入居者の証言、内部告発者から入手した裏帳簿のコピー、そして行政が長年黙認してきた監査記録の不備。  「事実」というナイフを、今度は感情任せに振り回すのではなく、外科医のように冷静に、腐敗した患部に突き立てていった。


 潮目が変わったのは、記事掲載から三ヶ月が過ぎた頃だった。  世論の高まりを無視できなくなった厚労省と東京都が、ついに特別監査に動いたのだ。  一度「お上」が動けば、権田が誇っていた「鉄壁の守り」はもろかった。行政の監査が入ると同時に、内部スタッフたちが雪崩を打ったように警察へ駆け込み始めたのだ。  彼らもまた、権田の支配に怯え、良心の呵責に苦しんでいた「人間」だったのだ。


【パート2:一冊の本】


 冬の初め。  テレビのニュース速報が、新宿の『輝きの杜』本部に警視庁の捜査員が入る様子を映し出した。  容疑は組織的な詐欺、および生活保護法違反。  画面の端で、背広を頭から被せられた権田が連行されていく。  かつて応接室で「我々は必要悪だ」と傲慢に笑っていた男は、今はただの小さく、くたびれた中年の男に見えた。


「……終わったな」  編集部のテレビを見上げながら、小山デスクがコーヒーを啜った。 「ああ。だが、連中も共犯だ。『輝きの杜』に丸投げしていた責任を問われないよう、行政は今頃トカゲの尻尾切りに必死だよ」


 真由の胸に、派手なカタルシスはなかった。  権田が捕まっても、あのアパートの三畳一間に大谷章が戻ってくるわけではない。彼が失った二十年が戻るわけでもない。  それでも、この逮捕劇によって、少なくとも数百人の「今の入居者」たちが、劣悪な搾取から解放され、公的な支援へと繋がった。  真由のペンの「ナイフ」としての役割は、ここで終わった。  だが、もう一つの仕事が残っている。


 さらに半年後。  真由の連載は、大幅な加筆を経て一冊の本として出版された。  タイトルは『見えない貧困 ― 社会の隙間で生きる人々』。  都内の大型書店。平積みされた自分の本を、真由は遠くから眺めていた。  爆発的なベストセラーになったわけではない。通り過ぎる人々は、スマホの画面に夢中で、書棚には目もくれない。  だが、一人の若い男性が足を止めた。就活生だろうか、リクルートスーツを着ている。彼は迷うように本を手に取り、冒頭の数ページを捲った。そして、噛み締めるように何度も頷き、レジへと向かった。


 真由は知っている。その本の中には、不正を暴く数字だけでなく、大谷章という男が書いた、システムのエラーログのような几帳面な文字が、そして最期の一行が刻まれていることを。  事実のナイフで社会を切り開いた後に、その傷口に巻くための「包帯」。  あの青年の心の中に、大谷章という「一人の人間」が、確実に住み着いたのだ。


【パート3:再会の山谷】


 春の終わり、真由は再び南千住の地を踏んだ。  駅前のタワーマンションは相変わらず陽射しを反射して輝いているが、歩道橋を渡った先の山谷の空気は、少しだけ柔らかく感じられた。  泪橋の交差点を抜け、あのアパート『ことぶき荘』があった場所へ向かう。  建物は老朽化で解体され、更地になっていた。大谷が命がけで奪還した「城」は、もう形としては残っていない。


「井川さん!」  声をかけてきたのは、柴田だった。  彼は相変わらず日焼けした顔で、台車に食料を積んで忙しく動き回っている。 「お久しぶりです。……聞きましたよ、有田さん、戻ってきたそうですね」 「ええ。昨夜、ひょっこりと。少し痩せてましたけど、『やっぱりここが一番落ち着く』って」  柴田は嬉しそうに目を細めた。 「記事のおかげで、ボランティアの希望者も増えました。……世の中、捨てたもんじゃないですね」 「柴田さんが諦めなかったからですよ」  二人は握手を交わした。その手は、温かかった。


【パート4:空がきれいだった】


 一人になり、更地のフェンスの前に立った。  真由はバッグから、一枚のコピーを取り出した。大谷章の遺品のノート、その最後のページだ。  原本は、警察から返還された後、美佐子の元へ届けた。  受け取った美佐子は、泣きながら言った。「私はまだ、これを読む資格がない気がします。でも、いつか必ず向き合います。……井川さん、コピーを持っていてください。彼を忘れないでいてくれた証として」と。


 コピーされた紙面には、震える文字でこう記されている。


『今日は空がきれいだった。そんな日は、“生きててよかった”と思えるんだ』


 真由はそっと空を見上げた。  高層ビルに切り取られない、山谷の広い空。雲がゆっくりと、淀みなく流れていく。  彼は、絶望の中で死んだのではない。  管理された「安全な家畜」であることを拒否し、飢えても、孤独でも、この空の美しさに気づける「人間」として死ぬことを選んだのだ。


 ――貧困は、他人事ですか?


 真由は心の中で、自分自身に、そしてこの世界に問いかけた。  答えは出ない。貧困もなくならない。権田のような怪物は、また形を変えて現れるだろう。  それでも、誰かの人生を「記号」として片付けず、その人の見上げた空の色を、震える声を、聞き続け、書き続けること。  ナイフを持ち、同時に包帯を持つこと。  それが、生き残った自分の、ペンを握る者の、唯一の報いなのだ。


 真由はコピーを丁寧に折り畳み、バッグにしまった。  ヒールを鳴らし、駅へと向かって歩き出す。  その足取りは軽く、しかし一歩一歩が重い決意に満ちていた。  東京の空は、どこまでも高く、青かった。

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