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第7章:社会を動かす声

本の背表紙をなぞる指が、かすかに震えていた。


『見えない貧困 ― 社会の隙間で生きる人々』


編集デスクの小山は、初校を読み終えたあと、黙ってページを閉じた。煙草をくわえたまま、窓の外を見やりながらぽつりと呟いた。


「載せたな、大谷の言葉。……あの空のくだり」


真由は一瞬、返事をためらったが、静かにうなずいた。


「はい。でも、これは彼の“生きた証”です」


「……そうか。なら、載せろ。責任は、こっちで持つ」


それは、彼なりの背中の押し方だった。


書籍は静かに世に出た。書店の社会問題コーナーに置かれ、SNSでは小さな波紋が広がる。「まるで自分のことを書かれているようだった」という書き込みに、真由は目を細めた。しかし、数日後には別の話題がトレンドを埋め尽くし、本のタイトルはタイムラインから姿を消した。


――風みたいだな、と彼女は思った。一瞬、強く吹いて、すぐにどこかへ行ってしまう。


地方大学での講演に招かれた日。教室の空気は、東京とは違ってやわらかかった。質疑応答の時間、ひとりの女子学生が小さく手を挙げた。


「記者さんって、怖くないですか。相手の人生に踏み込むこと……」


真由は一瞬、言葉を探した。


「怖いです。いつも。でも、それ以上に、“聞かないこと”のほうが怖いです。誰も聞かなければ、その人の存在はなかったことになるから」


学生は、しばらく黙ってから「……ありがとうございます」とつぶやいた。


その後ろに立っていた柴田陽太が、まるで“初めて見るような目”で真由を見ていた。


都内で開かれたパブリックフォーラム。生活困窮者支援をテーマにしたこの会には、老若男女、さまざまな立場の人々が集まった。


柴田が開会の挨拶に立つ。「今まで“助ける”って思ってた。でも今は、“一緒に考える”って言いたい」と語る彼に、真由は心の中で拍手を送った。


休憩時間、子どもたちの前に「ぼよよん」が現れる。明るく跳ねるような声。でも、そのセリフにはいつものように静かな深さがあった。


「ぼよよんはね、ひとりで食べるごはんは、ちょっとだけさびしいんだ~。

だから、だれかと一緒に食べたいって、いつも思ってるんだ~」


子どもたちは笑い、大人たちは一瞬、黙った。


舞台の端で衣装のまま立っていた三井沙耶香が、ふと真由のほうを見て会釈する。真由は小さく頭を下げた。あの出会いが、自分を変えたのだと、今ならはっきりわかる。


展示コーナーには、ひっそりと一冊のノートが置かれていた。大谷章の手帳の複製。


開かれたページには、こう綴られていた。


「今日は空がきれいだった。

そんな日は、“生きててよかった”と思えるんだ」


その前に立っていた中年の男性が、帽子を胸に抱えたまま、じっと見つめていた。


春の終わり、真由はふたたび山谷を訪れた。

いろは会商店街の跡地は更地になっていたが、近くの公園では数人の男性が将棋を指していた。藤井志穂が「漫画に描いてみたい」と話していた路地には、まだ手描きの“ぼよよん”が壁に残っていた。


道の端で立ち止まり、真由は空を見上げた。


雲がゆっくりと流れていく。高層ビルも、観光バスもない。だけど、ここに“生きている人たち”がいる。


ノートを取り出し、彼女はそっと一行、書きつける。


「貧困は、他人事ですか?」


風が吹いた。ページが一枚めくれた。


彼女は立ち尽くしたまま、空を見上げ続けた。


生きるって、何だろう。

わからない。

でも、考え続けることだけは、やめたくない。


そう思いながら、彼女はそっとノートを閉じた。

この物語を書き終えて、最初に浮かんだのは「どうすれば“見えない”ものに、かたちを与えられるのか」という問いでした。


貧困。孤立。声にならない叫び。

それらは、いつだってどこかで存在しているのに、私たちは見過ごしてしまう。

あるいは、「知っているつもり」で目をそらしてしまう。


主人公の井川真由が見たのは、社会の“隙間”で生きる人々の姿でした。

取材という行為を通して彼女が出会ったのは、制度の裏にこぼれ落ちた命、そして誰かの記憶にすら残らなかった人生たち。

けれど、そこには確かに“生”があり、“声”があり、“尊厳”がありました。


記者として書くことの意味、報道が持つ暴力性への葛藤、それでもなお“伝えること”を選ぶ理由――

真由の姿を描くことで、私自身もまた、「社会とどう関わるか」「他者をどう見るか」ということを何度も自問しました。


この作品に登場する人物たちは、すべてフィクションでありながら、どこかに実在する誰かの欠片でできています。

彼らの人生に少しでも共鳴するものがあったなら、それはきっと、あなたのすぐそばにも“声なき声”があるということなのだと思います。


貧困は、遠くの国や、別の世界の話ではありません。

それは、もしかしたら明日の自分自身かもしれない。

あるいは、すでに隣にあるのに気づいていないだけかもしれない。


「希望を持つには、まず現実を直視する勇気が必要」

この言葉が、真由の取材を通して私自身が辿り着いた、ひとつの答えでした。


そしてこの本を最後まで読んでくださったあなたもまた、その“まなざし”を持つひとりです。


どうか、問いを忘れないでいてください。


貧困は、他人事ですか?


心からの感謝とともに。

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