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見えない貧困 ― 社会の隙間で生きる人々  作者: 冷やし中華はじめました


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揺れる報道の倫理

【パート1:ノイズの嵐】


 月曜日の朝。  新聞社の社会部フロアは、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。 権田への宣戦布告をしてから数日。記事はまだ出ていないが、取材の動きを察知した側からの「先制攻撃」が始まっていたのだ。


 電話のベルが鳴り止まない。 「はい、社会部です」 『おたくの井川って記者、どういう教育してるんだ!』  受話器の向こうから、怒声が響く。 『貧困ビジネスだか何だか知らんが、一生懸命やってるNPOを犯罪者扱いする気か! 名誉毀損で訴えるぞ!』


 組織的な抗議電話(電凸)。回線をパンクさせ、業務を麻痺させる常套手段だ。  真由が唇を噛んで耐えていると、ウェブ版の予告記事のコメント欄にも、次々と粘着質な書き込みが増えていく。 『活動家の手先』 『正義の味方ごっこ乙』 『取材対象のプライバシーを侵害してるのはどっちだよ』


 以前の取材の秋葉原で感じた「電子的な喧騒」とは違う。これは明確な悪意を持った「ノイズ」だ。  権田の言葉が、呪いのように脳内で再生される。 『感情的な正義感で我々を潰せば、どうなるか分かりますか?』


 ペンは剣よりも強し、と言う。  だが、その剣を構えた瞬間、目に見えない無数の矢が、四方八方から飛んでくる。


【パート2:見えない敵からの警告】


 異変は、ネットの中だけで終わらなかった。  その週の木曜日。残業を終えて帰宅した真由は、自宅マンションの郵便受けの前で足を止めた。  ダイヤル錠を開け、中を覗く。  公共料金の請求書に混じって、封筒に入っていない、一枚の写真が直に入っていた。


 真由自身が写っていた。  昨日の夜、コンビニで買い物をしている後ろ姿だ。  写真の裏には、赤いマーカーで一言だけ、こう書かれていた。


『夜道には気をつけろ』


 手から写真が滑り落ちる。  見られている。  部屋のカーテンを閉め切っているのに、窓の外から無数の視線が突き刺さってくるような錯覚に襲われた。  恐怖は、生理的な震えとなって現れた。  あの大谷章が、ベニヤ板の部屋で感じていた「プライバシーのない恐怖」とは、こういうものだったのか。  安全な場所などない。常に誰かに監視され、いつ踏み込まれるか分からない恐怖。  真由はドアチェーンを確認し、膝を抱えてソファに座り込んだ。  これは、警告だ。これ以上踏み込めば、お前の「日常」を壊すぞという、卑劣な脅しだ。


【パート3:傷ついた人々】


 翌日、さらに追い打ちをかけるような知らせが入った。  NPO事務所を訪れると、柴田が沈痛な面持ちで電話をしていた。 「……はい、申し訳ありません。すぐに対応します」  電話を切った柴田は、真由を見るなり首を横に振った。


「有田さんからです」 「有田さんが? 何かあったんですか」 「……施設側に、情報源だとバレたようです。直接の証拠はないはずですが、『最近、記者と会ってただろ』と仲間内で噂を流されて……」  柴田は拳を握りしめた。 「昨夜、ネットカフェを出たところで、半グレのような男たちに囲まれて脅されたそうです。『余計なことを喋ると、東京にいられなくしてやる』と」


 真由は息を呑んだ。  記事では名前も顔も伏せた。特定されないように配慮したはずだった。  だが、狭いコミュニティの中では、犯人探しが行われる。権田たちは、記事が出る前に対策を打ってきたのだ。  有田は、恐怖でパニックになり、柴田の保護さえ拒否して姿を消してしまったという。


「私の、せいです」  真由の声が震えた。 「私が正義感を振りかざしたせいで、彼を危険に晒してしまった。権田の言った通りだ……私は、彼らを救うどころか、追い詰めている」


 ペンは凶器だ。  悪を刺すための刃は、同時に、守るべき弱者をも傷つける諸刃の剣だった。  その夜、真由は記事の原稿に向かったが、一行も書けなかった。  カーソルが点滅するたびに、有田の怯えた顔や、自分の背中に張り付く視線がフラッシュバックする。  怖い。書くことが、怖い。  真由はモニターを閉じ、編集部を飛び出した。


【パート4:やさしい嘘と真実】


 誰かに、会わなければならなかった。  「事実」や「正義」の世界に生きる人間ではなく、もっと別の視点で、人に「伝える」ことを仕事にしている人間に。  真由の足が向かったのは、以前、貧困家庭の子ども支援の取材で名刺交換をした女性のもとだった。


 郊外の公民館。  『親子で楽しむ! ぼよよん劇場』  舞台袖で、真由はパイプ椅子に座り、ステージを見つめていた。  ピンク色の着ぐるみを着たキャラクター「ぼよよん」が、派手なアクションで跳ね回っている。 「だいじょうぶ! 失敗しても、またやり直せるよ~!」  能天気なほど明るい声。  客席の子供たちが、「がんばれー!」と声援を送っている。その中には、おそらく今日の夕食にも事欠く家庭の子もいるはずだ。それでも今、彼らは目を輝かせている。


 終演後。  楽屋で着ぐるみの頭を外したのは、三井沙耶香みつい さやか。かつて小劇場の舞台に立っていた元女優だ。 「あら、井川さん。来てくれたのね」  沙耶香はタオルで汗を拭きながら、やつれ切った真由の顔を見て、少しだけ眉をひそめた。 「……ひどい顔。迷子になった子供みたいよ」


 真由は、堰を切ったように話した。  取材の行き詰まり。脅迫。そして、自分の書く記事が、有田のような弱者を傷つけているという事実。 「私は、間違っていたんでしょうか。事実を暴くことが、誰も救わないなら、書く意味なんてあるんでしょうか」


 沙耶香は黙って聞いていたが、やがて着ぐるみの頭を愛おしそうに撫でた。 「私ね、この『ぼよよん』の中に入っている時、嘘をついているような気分になることがあったの」 「嘘?」 「ええ。世の中はこんなに綺麗じゃないし、頑張っても報われないことの方が多い。子供たちに『夢は叶うよ』なんて言うのは、残酷な嘘なんじゃないかって」


 沙耶香は鏡越しに真由の目を見た。 「でもね、あるシングルマザーのお母さんに言われたの。『この子が笑ってくれるだけで、私は明日も頑張れます。嘘でもいいから、希望を見せてくれてありがとう』って」


 沙耶香は言った。 「井川さん。あなたの持っている『事実』はナイフよ。鋭くて、冷たくて、悪いところを切除できるけど、同時に人を傷つける」  彼女は、真由の手をそっと握った。手荒れした、生活感のある手だった。 「でも、言葉は『包帯』にもなれる」 「包帯……」 「事実は変えられない。でも、それをどう物語るかで、受け取る人の心は変わる。ただ傷口を暴くだけじゃなく、その傷の痛みに寄り添って、包み込むような言葉。……あなたなら、書けるんじゃない?」


 真由はハッとした。  私は、権田を倒すための「ナイフ」ばかりを研いでいた。  彼らの悪事を暴くこと、数字の矛盾を突くこと、それに躍起になっていた。  でも、大谷章が遺したノートはどうだ?  『空がきれいだった』という言葉。  あれは、絶望の中にいた彼自身が、自分の心に巻いた包帯だったのではないか。  私が書くべきなのは、断罪の言葉だけではない。  その闇の中で、必死に人間であろうとした人々の、尊厳の物語だ。


「……ありがとうございます」  真由の目から、涙がこぼれた。  それは恐怖の涙ではなく、凍りついていた心が溶け出す温かい涙だった。


 公民館を出ると、夜空に月が出ていた。  脅迫状の恐怖は消えていない。有田への贖罪も終わっていない。  でも、ペンを置くわけにはいかない。  包帯を巻いて、また立ち上がる。  それが、生き残った者の責任であり、伝える者の使命なのだから。

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