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見えない貧困 ― 社会の隙間で生きる人々  作者: 冷やし中華はじめました


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2/7

崩れたシステム

パート1:変わる街、変われない男たち


 東京の東側、山谷地区によどんでいた死の静寂とは対照的に、秋葉原は電子的な絶叫に包まれていた。


 七月下旬の午後二時。  JR秋葉原駅の電気街口改札を抜けた真由は、いきなり鼓膜を叩く音の奔流ほんりゅうに眉をひそめた。  巨大な街頭ビジョンから流れるアイドルの甲高い歌声、家電量販店が垂れ流すセールの呼び込み、信号機の電子音、そして無数の言語が入り混じる観光客たちの話し声。それらが夏の湿った大気の中で反響し、逃げ場のない熱狂となって渦巻いている。


 駅前広場は、極彩色のカオスだった。  フリルのついたエプロンドレスを着たメイド姿の少女たちが、汗ばんだ笑顔でチラシを配っている。その横を、最新のスマートフォンを掲げた外国人観光客の集団が通り過ぎる。彼らのレンズが向く先には、アニメキャラクターが描かれた巨大な看板がビルを覆い尽くすように掲げられている。  クールジャパン。  かつて「電子立国」と呼ばれたこの国の、新しい、そして少しいびつな繁栄の象徴。  だが、真由の目には、その光景が薄皮一枚の虚構のように映っていた。  バッグの中には、あの大学ノートが入っている。死んだ大谷章が遺した、くすんだ灰色のノートだ。その重みを感じながらこの極彩色の街に立つと、足元のコンクリートがひどく頼りなく思えた。  このきらびやかな街の地層の奥深くには、大谷のような男たちが書き連ねた膨大なコードと、彼らの過労と、そして静かに切り捨てられていった無念が埋まっているのではないか。


 真由は人の波をかき分け、中央通りを渡った。  目指す場所は、再開発された巨大ビル群の裏手、まだ昭和の面影を色濃く残すガード下の路地にあった。  純喫茶『琥珀こはく』。  柴田を通じて紹介された大谷の元同僚、安西あんざいとの待ち合わせ場所だ。  一歩路地に入ると、表通りの喧騒が嘘のように遠のいた。雑居ビルの隙間から吐き出される室外機の熱風と、古い油の匂い。そこには、パーツショップやジャンク屋がひしめき合っていた時代の、すすけた秋葉原の残香があった。


 『琥珀』の重厚な木製のドアを押す。  カランコロン、と真鍮しんちゅうのベルが乾いた音を立てた。  店内は薄暗く、飴色の照明が煙草の紫煙をぼんやりと照らしている。壁掛け時計が時を刻む音と、カップがソーサーに触れる硬質な音。そこはまるで、開発から取り残されたエアポケットのような空間だった。


「……井川さん、ですか?」  店の一番奥、ビロード張りのボックス席から、一人の男が立ち上がった。  安西だった。  年齢は五十代後半だろうか。  真由は一瞬、彼がこの店の風景の一部であるかのような錯覚を覚えた。  くたびれたグレーのスーツは、肩のあたりが少し落ちており、肘の部分がテカリを帯びている。ワイシャツの襟元は黄ばみ、ネクタイは緩く結ばれていた。  その姿は、この街の表通りを闊歩かっぽする若者たちや観光客とは明らかに異質だった。時代の流れに取り残され、それでも必死に岩にしがみついている「昭和のサラリーマン」の生き残り。 「初めまして。井川です」  真由が頭を下げると、安西はぎこちなく会釈を返した。その手元が微かに震えているのを、真由は見逃さなかった。 「あ、安西です。……どうぞ」


 向かいの席に座ると、テーブルの上にはすでに飲み干されかけたアイスコーヒーと、分厚いシステム手帳が置かれていた。  スマートフォン全盛の今、その革張りの手帳は、まるで化石のように重々しく鎮座している。  安西は緊張した面持ちで、おしぼりで何度も手を拭いていた。 「柴田さんから、話は聞きました。大谷君が……亡くなったと」  声がかすれていた。 「はい。先月、南千住の自宅アパートで」  真由が事実を告げると、安西は視線をテーブルの木目に落とし、長く息を吐いた。 「そうでしたか……。南千住、ですか。最後は、あそこに」  彼は「山谷」という言葉を口にするのを避けたようだった。かつて共に働いた仲間が、ドヤ街で死んだという事実を、まだ咀嚼そしゃくしきれていないのかもしれない。あるいは、認めるのが怖いのか。


「突然のご連絡で申し訳ありません。大谷さんの最期の様子を知るにつけ、彼がどんな人生を歩んできたのか、どうしても書き残したいと思ったんです」  真由は慎重に言葉を選んだ。相手を警戒させないよう、それでいて熱意が伝わるように。  安西は分厚い眼鏡の奥の目をしばたかせ、自嘲気味に口元を歪めた。 「私の話なんかで、役に立つかどうか……。大谷君と最後に会ったのは、もう五年以上前ですから」 「構いません。彼がエンジニアとして働いていた頃のことを知りたいんです」  エンジニア。  その単語が出た瞬間、安西の背筋がわずかに伸びた気がした。  彼は手元のシステム手帳を愛おしそうに撫でた。使い込まれ、革が剥げかけたその手帳は、彼らにとっての「武器」であり「盾」だった時代の名残なのだろう。


「……優秀でしたよ、あいつは」  安西がポツリと言った。  その声には、先ほどまでの怯えとは違う、確かな熱が宿っていた。 「今の若い人は知らないでしょうがね。私たちが若かった頃、システムっていうのは、魔法の箱じゃなかった。職人が一行一行、魂を削って積み上げる石垣みたいなもんだったんです」  安西はアイスコーヒーの氷をストローでカランと鳴らし、遠くを見る目をした。 「あいつの書くコードは、美しかった。バグがなくて、無駄がなくて……まるで詩みたいに整然としていた」


 店内に流れる古いジャズの音色が、少しだけ大きく聞こえた。  真由はICレコーダーのスイッチを入れ、黙って安西の次の言葉を待った。  ここにあるのは、薄汚れたアパートで腐敗していった老人の話ではない。  かつてこの国を動かす心臓部を作り、そして壊れていった男たちの、誇りと哀惜の物語だ。


「教えてください。その『美しいコード』を書いていた彼が、なぜ社会から弾き出されてしまったのか」  真由の問いかけに、安西は深く頷き、システム手帳を開いた。  そこには、びっしりと書き込まれたスケジュールの隙間に、古い集合写真が挟まれていた。


パート2:バグのないコード


 安西がシステム手帳から取り出した写真は、L版の光沢紙だった。フィルムカメラ特有の粒子の粗さと、少しあせた色彩が、二十年という歳月の重みを無言で主張している。


 写真の中には、十人ほどの男たちが写っていた。  背景は、無機質なオフィスの会議室だ。ホワイトボードには「祝・第一次カットオーバー完了」の文字。机の上にはピザの宅配箱と、空になった栄養ドリンクの瓶が林立している。  男たちは皆、ワイシャツの袖をまくり上げ、ネクタイを緩め、疲労困憊こんぱいした顔で、それでも安堵の笑みを浮かべていた。  その中心で、一際背筋を伸ばし、照れくさそうにVサインをしている男がいる。


「……これが、大谷君です」  安西の指が、その男の顔を指し示した。  真由は身を乗り出し、その顔を凝視した。  黒縁の眼鏡。少し長めの髪。痩せ型だが、頬には血色が通っている。その瞳は理知的で、未来への希望に満ちていた。  あの三畳一間の煎餅布団の上で、むくろとなって発見された人物と、同一人物だとは到底思えなかった。 「いつの、写真ですか?」 「二〇〇〇年の一月一日です。朝の六時頃かな」  安西は目を細めた。 「『二〇〇〇年問題』。井川さんは覚えていますか? 若いから、歴史の教科書でしか知らないかもしれませんが」 「いえ、子供の頃にニュースで見た記憶があります。コンピューターが誤作動して、世界中のインフラが止まるかもしれないと騒がれていました」 「ええ。あれは、大げさな話じゃなかったんです。少なくとも、私たちにとっては戦争でした」


 安西はアイスコーヒーのグラスに視線を落とし、ポツリポツリと語り始めた。  当時、金融機関の勘定系システムを担当していた彼らは、年末年始の休みを返上し、泊まり込みでシステムの監視を行っていたという。  世紀をまたぐ瞬間、年号のデータが「99」から「00」に変わる。古いプログラムがそれを「1900年」と誤認すれば、利息計算から送金まで、すべてが狂う。日本の金融が大混乱に陥る、その瀬戸際だった。


「一九九九年の大晦日、午後十一時。とある地方銀行のサブシステムで、致命的なエラーが見つかったんです」  安西の声に熱が帯び始めた。 「誰も予想していなかった箇所のバグでした。現場はパニックですよ。上司は怒鳴り散らすし、若手は顔面蒼白で固まっている。あと一時間で二〇〇〇年になる。修正が間に合わなければ、年明けと同時にATMが止まる可能性があった」  真由は息を呑んだ。  薄暗い喫茶店の空気が、張り詰めたサーバー室の冷気へと変わっていくような感覚に陥る。


「その時です。大谷君が動いたのは」  安西は写真の中の大谷を、誇らしげに見つめた。 「彼は騒ぐこともなく、ただ静かに端末の前に座りました。そして言ったんです。『三十分ください。ロジックは分かっています』と」  キーボードを叩く音だけが、静まり返った部屋に響いたという。  当時のプログラムは「スパゲッティコード」と呼ばれる、継ぎ接ぎだらけの複雑怪奇な構造をしていた。他人が書いたコードを解読するだけでも数日はかかる代物だ。  だが、大谷は迷わなかった。


「彼はね、コードの『呼吸』が聞こえると言っていました。どこでデータが詰まっているのか、どこで論理が破綻しているのか。画面を流れる文字列を見るだけで、直感的に理解してしまう」  安西は自分の指先を見つめながら、溜息をついた。 「二十五分後、彼はエンターキーを一度だけ強く叩いて、振り返りました。『終わりました。テスト通します』。……汗一つかいていませんでしたよ」  日付が変わった瞬間、システムは何事もなく稼働を続けた。  歓声が上がり、誰かが買ってきた缶ビールで乾杯をした。その時の記念写真が、これなのだという。


「……天才、だったんですね」  真由の言葉に、安西は深く頷いた。 「ええ。職人でした。今のAIみたいに、最適解を出すだけじゃない。彼の書くコードには『配慮』があったんです。後で誰かが修正しやすいように、分かりやすい注釈を入れておく。メモリを無駄食いしないように、美しい数式で処理をまとめる。……読む人が読めば分かるんです。そこには、彼の誠実な人柄がそのまま表れていた」  安西は写真の端を、親指で愛おしそうに撫でた。 「私たちは、自分たちが社会の血管を作っているんだという自負がありました。私たちが止まれば、日本が止まる。だから、徹夜も、サービス残業も、苦じゃなかった。それが『正義』だと信じていたから」


 真由は、改めて写真の中の大谷を見た。  Vサインをする彼の指先は、油性ペンのインクで汚れている。袖口も煤けている。だが、その表情は、山谷の路地裏で死んだ男のそれとは対極にあった。  彼は、誰かに必要とされていた。  彼には、居場所があった。  その才能は、間違いなくこの国の経済を支えるいしずえの一つだったのだ。


「……それほどの方が、なぜ」  真由は喉まで出かかった問いを、押し殺すことができなかった。 「なぜ、その技術と誇りを持ったまま、社会から弾き出されなければならなかったんですか」  安西の表情が、ふっと曇った。  写真の上にあった指が止まる。  彼はゆっくりと顔を上げ、真由を見た。その瞳の奥には、諦念と、そして深い自責の念が揺らめいていた。


「技術が変わったから? いいえ、違います」  安西は首を横に振った。 「大谷君は勉強熱心でした。新しい言語も、ウェブの技術も、必死に食らいついていました。……彼を殺したのは、技術の進化じゃない。『構造』の変化です」 「構造……ですか」 「ええ。二〇〇〇年を過ぎて、ITバブルが弾けた後、業界の空気が一変したんです。『良いものを作る』ことよりも、『安く、早く、誰でも作れる』ことが求められるようになった。職人は不要になり、代わりに求められたのは……」  安西は言葉を切り、苦い薬を飲み込むような顔をした。 「部品パーツとしてのエンジニアでした」


 店内に流れるジャズの曲調が変わった。  サックスの音が、低く、物憂げに響く。  安西はシステム手帳を閉じようとはせず、開いたままじっと見つめていた。まるで、そこから目を離せば、過去の栄光が霧散してしまうのを恐れるように。


「リーマンショック。二〇〇八年。……あの日が、すべての終わりの始まりでした」


パート3:構造的排除


部品パーツ、ですか」  真由が繰り返すと、安西は自嘲気味に頷いた。


「ええ。二〇〇〇年代半ばから、業界の風向きが変わりました。開発の規模が巨大化して、一人の天才が全体を見渡すような作り方じゃなくなったんです。作業は細分化され、マニュアル通りに動く『手足』が大量に必要になった」  安西は、溶けかけた氷が浮くグラスを見つめた。 「大谷君のような、こだわりのある職人は煙たがられるようになったんです。『余計なことはしなくていいから、仕様書通りに組め』『品質よりも納期だ』とね」


 そして、その日は唐突に訪れた。  二〇〇八年九月。リーマン・ブラザーズの破綻に端を発した世界金融危機は、瞬く間に日本の実体経済をも凍りつかせた。  IT業界も例外ではなかった。企業の投資マインドは一気に冷え込み、開発プロジェクトは次々と凍結された。


「あの日……十月の終わりの、雨の日でした」  安西の声のトーンが、一段低くなった。 「私と大谷君は、大手通信キャリアの次世代システム開発に携わっていました。派遣先の本社ビルの会議室に、私たち協力会社のエンジニア三十人ほどが集められたんです」


 安西の描写は具体的だった。  窓のない、空調の音がやけに大きく響く会議室。  長机の向こうに立ったのは、プロジェクトマネージャーの若い正社員だった。彼は一度も派遣社員たちの顔を見ようとせず、手元の書類に視線を落としたまま、事務的に告げたという。 『本プロジェクトは、予算の見直しにより無期限凍結となります。つきましては、皆さんの契約は今月末をもって終了とさせていただきます』  三十秒にも満たない宣告だった。  怒号も、質問も飛ばなかった。ただ、重苦しい沈黙だけが部屋を支配した。全員が、薄々予感していたからだ。自分たちが、景気の調整弁でしかないことを。


「大谷君は、その時四十五歳でした」  安西が言った。 「エンジニアとしては、一番脂が乗っている時期です。知識もある、経験もある。でも、その年齢が、致命的な足枷あしかせになったんです」


 真由はペンを止めた。 「年齢、ですか?」 「ええ。『三十五歳定年説』なんて言葉がありますが、派遣の世界ではもっとシビアです。四十五を過ぎると、紹介される案件が激減する。なぜだか分かりますか?」  安西は真由の答えを待たずに続けた。 「『単価』が高いからです。そして、『使いにくい』からです」


 安西の説明は、冷徹な論理に基づいていた。  企業が欲しがるのは、最新の技術を安く使い倒せる、体力のある若者だ。  大谷のように経験豊富なベテランは、単価(給与)が高くなりがちだ。その上、現場の指揮官であるプロパー社員(正社員)は、大谷よりも年下の二十代、三十代が増えていた。 「年下のあごで使われることを嫌がるベテランもいますし、逆に若い上司の方が、年上の部下に指示を出すのを嫌がるんです。技術力なんて二の次ですよ。『扱いやすさ』と『コスト』。その天秤にかけられた時、大谷君の席はどこにもなかった」


 安西の手が、システム手帳の縁を強く握りしめていた。革がきしむ音がする。 「派遣会社からも言われましたよ。『大谷さんはスキルは高いんですが、もう少し柔軟性があれば……』とね。要するに、上司に媚びへつらったり、理不尽な仕様変更にニコニコ従ったりする『愛想』がないと言われたんです」  真由の脳裏に、大谷のノートの几帳面な文字が浮かんだ。  不器用で、真面目で、嘘がつけない男。  かつて「美しいコード」を書くと賞賛されたその誠実さが、効率化された現代のシステムの中では「融通が利かない」というバグとして処理されたのだ。


「彼は努力していました」  安西は、友の名誉を守ろうとするように言葉を強めた。 「夜遅くまで資格の勉強をして、新しい言語も習得しようとしていた。でも、面接に行っても、見られるのは技術じゃない。履歴書の『年齢』欄を見て、面接官は興味を失うんです」  安西は悔しげに唇を噛んだ。 「百件以上応募して、全滅でした。……あんなに優秀な男が、ですよ? まるで社会全体から『お前はもう用済みだ』と言われているようなものです。あれじゃあ、心だって折れますよ」


 真由は、冷えたコーヒーを一口含んだ。苦い味が口の中に広がる。  想像してしまった。  スーツを着て、履歴書を持って、真夏の東京を歩く大谷の姿を。  一社落ちるたびに、自分の中の自信が削り取られていく感覚。  昨日まで「先生」「大谷さん」と頼りにされていた自分が、今日は誰からも必要とされない透明人間になっていく恐怖。  あの六畳間に残されていた鎮痛剤の山は、肉体の痛みだけでなく、その心の痛みを麻痺させるためのものだったのかもしれない。


「……それで、安西さんは」  真由は、恐る恐る核心に触れた。  同じ派遣エンジニアだった安西は、なぜ今、スーツを着てここにいるのか。  安西の肩が、びくりと跳ねた。  彼はゆっくりと顔を上げ、真由を見た。その目は、迷子の子供のように泳いでいた。


「……私は、生き残りました」  絞り出すような声だった。 「技術力では、彼の方がずっと上だったのに」


パート4:生存者の告白


 グラスの表面についた水滴が、安西の指を伝ってテーブルに落ちた。  ポタリ、と小さな染みができる。  安西は、まるで懺悔室ざんげしつにいる罪人のように、身体を小さく丸めていた。


「どうして私が残れたか。……理由は単純です。私が、プロジェクトマネージャーの煙草仲間だったからです」  安西は乾いた笑い声を漏らした。 「技術の話じゃない。酒の席で上司の愚痴を聞き、喫煙所でライターを差し出す。そういう『社内政治』が、大谷君よりも少しだけ上手かった。ただ、それだけのことなんです」


 真由は言葉を失った。  2000年問題の危機を救った天才的なコードよりも、喫煙所での世間話の方が価値を持った。そのあまりに軽薄で、しかし絶対的な現実。 「契約終了が告げられた翌日、マネージャーに呼び出されました。『安西さんは、話しやすいから残ってよ』と。……私は、安堵しました。これで来月のローンが払える。娘の学費も何とかなる、と」


 安西は眼鏡を外し、目頭を強く押さえた。 「でも、大谷君は違った。彼は誰よりも真面目に仕事をしていたのに、誰よりも早く切られた。私は、彼の席を奪ったようなものです」 「……大谷さんは、そのことを知っていたんですか?」 「ええ。私が残ると知った時、彼は……」  安西の言葉が詰まった。喉の奥から、嗚咽おえつを堪えるような音が漏れる。 「彼は、笑ったんです。『良かったですね、安西さん』って」  安西の声が震え出した。 「『安西さんには、守るべき家族がいるから。僕なんかより、あなたが残るべきだ』……そう言って、私の肩を叩いたんです。怒ることも、恨み言を言うこともなく。あの時の、寂しげで、でも透き通った笑顔が、今でも夢に出ます」


 真由の胸に、鈍い痛みが走った。  大谷のノートにあった『誰にも知られずに』という言葉。  彼は、自分を犠牲にして他者を生かすような優しさを持っていた。だが、その優しさこそが、競争社会では「弱さ」としてつけ込まれ、彼自身を殺すやいばになってしまったのではないか。


「それから、彼とは疎遠になりました」  安西は眼鏡をかけ直し、自分自身に言い聞かせるように語った。 「怖かったんです。連絡を取れば、『お前が生き残って、俺が死ぬのは不公平だ』と責められる気がして。……いや、違いますね。彼が落ちぶれていく姿を見るのが怖かった。そして、彼を犠牲にしてのうのうと生きている自分の卑怯さを、直視したくなかったんです」  安西は顔を上げた。その目には、薄い涙の膜が張っていた。 「私が殺したようなものです。彼を見捨てて、見ないふりをして……。あのアパートで彼が一人で息絶えた時、私も共犯者だったんです」


 店内に、閉店を告げる「蛍の光」が流れ始めた。  もの悲しいメロディが、煙草の煙と共に漂う。  安西は伝票を掴み、立ち上がった。その背中は、最初に出会った時よりもさらに小さく、もろく見えた。 「井川さん。書いてやってください」  去り際に、彼は言った。 「彼は、負けたんじゃない。優しすぎただけなんだと。……それだけが、私の願いです」


パート5:システムのエラー


 喫茶店『琥珀』を出ると、再び秋葉原の熱気が二人を襲った。  だが、今の真由には、その熱さが心地よいものには感じられなかった。  駅の改札前で、安西と別れた。  彼は自動改札にSuicaをタッチし、疲れたサラリーマンの群れに紛れて消えていった。彼もまた、いつ「不要」の烙印を押されるか分からない恐怖に怯えながら、薄氷の上を歩き続けているのだ。  生き残った者もまた、地獄の中にいる。


 帰りの山手線。  真由は吊り革に掴まり、流れる車窓の風景を眺めていた。  林立するビル群。その中には、大谷たちが作ったシステムによって動いている企業が無数にあるはずだ。  銀行の送金、電車の運行、携帯電話の通信。  この巨大な都市は、無数のプログラム=論理によって支えられている。  プログラムには、必ず「エラー処理」が組み込まれている。予期せぬ事態が起きても、システム全体がダウンしないように、例外を安全に処理する仕組みだ。  だが、人間社会というシステムには、それがない。  一度レールから外れた人間エラーは、修正されることも、救済されることもなく、ただ「ログ(記録)」すら残さずに破棄される。  大谷章は、バグだったのか?  違う。  バグなのは、人を使い捨ての部品としてしか認識できない、この社会の構造そのものだ。


(まだ、終わりじゃない)  真由はバッグの中のノートを確かめた。  安西の話で、大谷の「技術者としての死」の経緯は分かった。  だが、彼にはまだ別の顔があったはずだ。  夫としての顔。父としての顔。  安西は言った。「安西さんには家族がいるから」と大谷が言ったと。  それは裏を返せば、大谷自身がすでに「家族」というセーフティネットを失っていたことを意味する。  なぜ、彼は一人になったのか。  なぜ、最期の瞬間に誰の名前も呼ばなかったのか。


 真由はスマートフォンを取り出し、次の取材先リストを表示させた。  『大谷美佐子(元妻) 埼玉県所沢市』  その文字を見つめる真由の目に、迷いはなかった。  過去を掘れば掘るほど、胸が痛む。だが、その痛みの数だけ、大谷章という人間が輪郭を取り戻していく。  電車がトンネルに入り、窓の外が闇に包まれた。  ガラスに映った自分の顔は、取材を始めた頃よりも少しだけ、険しく、そして覚悟に満ちた表情をしていた。

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