第1章:孤独死の部屋
1990年代半ばから2000年代前半にかけて、日本は「就職氷河期」と呼ばれる未曾有の就職難の時代を迎えました。バブル崩壊後の経済低迷により、多くの若者が希望する職に就けず、将来への不安を抱えながら日々を過ごしていました。
Chuko
私自身もその時代を生きた一人です。新卒での就職活動では100社以上の企業から不採用通知を受け取り、1年間の失業期間を経験しました。幸運にもその後、現在の会社に就職することができましたが、もしこの機会を得られなかったら、今の自分はなかったかもしれません。
当時、社会では「自己責任論」が蔓延し、就職できないのは個人の努力不足とされる風潮がありました。しかし、実際には経済状況や雇用環境など、個人の力ではどうにもならない要因が多く存在していました。この「世間の常識」と「私たちのリアル」との間にある違和感は、言葉にし難いものでした。
本書では、この違和感をどのように伝えるかを模索しながら執筆しました。就職氷河期を経験した者として、当時のリアルな状況や感じたことを共有することで、読者の皆様に少しでも当時の現実を感じていただければ幸いです。
東京の地下鉄のホームを降り、真由は緊張感を胸に抱えたまま南千住駅から外へと踏み出した。真昼の強烈な陽射しが彼女の視界を一瞬奪う。
目の前には見慣れた東京の景色とは異なる世界が広がっていた。狭い路地に密集した古びた建物群、色褪せた看板、そして街に染みついたような重い空気が肌にまとわりつく。
真由の心拍が徐々に速まる。ジャケットの襟を掴みながら地図を確認すると、目的地である簡易宿泊所、通称「ドヤ」はすぐそこだ。彼女は自分に言い聞かせるようにして足を踏み出した。
曲がり角を折れ、山谷地区の中心部へと近づくにつれて、景色はさらに濃密さを増した。道端に腰を下ろした高齢の男性が虚ろな目で煙草をくゆらせ、視線をゆっくりと真由へ向けた。その目線を感じた真由の背筋がゾクッとした。
「失礼します……」小さく呟きながら早足で通り過ぎようとするが、心は次第に揺れる。ここが「社会の隙間」だと、強烈に実感する。彼らの姿は自分が普段歩く東京のどこにも存在しなかった。
目的の宿泊所が見えた瞬間、彼女の足が止まった。古びた四階建ての建物。外壁の塗装はところどころ剥がれ、錆びた鉄の階段が不気味な影を作り出している。ドアには擦りガラスがはめられ、その奥はぼんやりとしか見えない。
深呼吸を一つして、真由はドアを開けた。
内部の空気は一層重く、湿った臭いが鼻を刺す。廊下の奥からラジオのノイズが聞こえ、その合間にかすかにうめき声のような音が混じる。
「誰かいますか……?」声を震わせながら呼びかけると、奥からゆっくりと足音が響いてきた。現れたのは年配の管理人と思しき男性だった。彼は不審そうな表情で真由を見つめる。
「新聞社の井川と申します。先日、こちらで亡くなられた大谷さんのことで取材を……」言葉を選びながら告げると、男性の眉間に深い皺が寄った。
「ああ……あの人か」低い声で呟くように言うと、管理人は真由を廊下の奥の一室へと案内した。
部屋のドアを開ける瞬間、真由は心臓が一際大きく鳴るのを感じた。小さな六畳間にはベッドと簡素な机があるだけ。空気はよどみ、窓のカーテンは閉め切られている。
部屋の隅に積まれた小さな段ボール箱を目にした時、真由は初めてその場の空気がどれほど重く悲しいものかを実感した。大谷章という男性がここで、たった一人で息絶えたのだ。
床に目を落とすと、彼が残したと思われるノートが目に入った。手を伸ばし、ページをめくると震える筆跡で記された最後の日記が目に飛び込んできた。
"誰にも知られずに、このまま消えてしまうのだろうか"
ノートを握りしめながら、真由はその場に立ち尽くした。喉が熱く、涙がじわりと滲む。
彼女は決意を胸に刻んだ。
「私が伝えなければ、この人の存在は本当に消えてしまう……」
真由は静かにノートを閉じると、再び暗い廊下を進み、現実に戻るように外の光の中へと足早に歩き出した。
真由は、暗い廊下を抜けて外の光の中へと足早に歩き出した。外の眩しい陽射しが一瞬、彼女の視界を白く染める。深呼吸をし、心を落ち着けようとするが、胸の内には先ほどの部屋で感じた重苦しさが残っていた。
「大谷さん……」彼の名を口にすると、その存在がより鮮明に思い浮かぶ。彼の人生を伝えることで、社会の見えない部分に光を当てることができるかもしれない。そう自分に言い聞かせ、真由は歩みを進めた。
次に向かったのは、山谷地区で長年生活困窮者の支援を行っているNPO法人の事務所だった。古びたビルの一室にあるその事務所は、質素ながらも温かみのある空間だった。ドアをノックすると、中から若い男性の声が聞こえた。
「どうぞ」
ドアを開けると、そこにはNPO職員の柴田陽太がいた。彼は28歳という若さでありながら、この地域での支援活動に情熱を注いでいる人物だ。彼の目には強い意志が宿っていた。
「初めまして、井川真由と申します。大谷章さんの件でお話を伺いたくて」
「ああ、大谷さんのことですか……」柴田の表情が一瞬曇る。「彼とは何度かお会いしました。静かで物静かな方でしたが、心の中には多くの思いを抱えていたように感じます」
「彼について、何か覚えていることがあれば教えていただけますか?」
柴田は少し考え込んだ後、ゆっくりと話し始めた。「大谷さんは、かつてITエンジニアとして働いていたと聞いています。しかし、リーマンショックの影響で職を失い、その後は非正規の仕事を転々としていたようです。家族とも疎遠になり、最終的にはこの山谷地区に辿り着いたと」
「そうだったんですね……」真由はメモを取りながら、彼の言葉に耳を傾ける。
「彼のような方は、この地域には少なくありません。社会の中で居場所を失い、ここに流れ着く。でも、彼ら一人ひとりにはそれぞれの物語があるんです」
真由はその言葉に深く頷いた。「だからこそ、彼らの声を伝えることが必要なんですね」
「ええ。私たち支援者だけでなく、メディアの力も大きいと思います。井川さんのような記者の方が、彼らの声を拾い上げてくれることを期待しています」
真由は柴田の言葉に背中を押されるような気持ちになった。「ありがとうございます。私にできることを精一杯やってみます」
事務所を後にした真由は、再び山谷の街を歩き始めた。古びた建物や狭い路地、そしてそこに暮らす人々の姿が、これまでとは違った意味を持って彼女の目に映る。一人ひとりの背後にある物語を想像しながら、真由は取材を続ける決意を新たにした。
以下の流れを主題にした続きを書き進めます。
真由は、取材ノートを片手に、東京駅前の大きなオフィスビル群を見上げていた。目の前には、多くの企業がひしめくIT産業の中心地が広がっている。これが、大谷章という男がかつて身を置いていた世界だった。
ビルの間を行き交う若いスーツ姿の男女を眺めながら、真由は大谷が生きた現実と、今彼女が目の前にしている世界との距離感を肌で感じた。
その時、携帯電話が震えた。
「もしもし、井川です」
「真由さん、お疲れさまです。柴田です。大谷さんの元同僚の方からお話を聞けそうです。明日の午後はいかがでしょう?」
「ありがとうございます、ぜひお願いします」
翌日、待ち合わせの喫茶店で柴田が紹介してくれたのは、眼鏡をかけた初老の男性だった。名を安西という。かつて大谷と同じプロジェクトで働いていた元ITエンジニアだという。
コーヒーを一口飲んだ安西は、静かに語り始めた。
「大谷君は優秀なエンジニアでした。けれど、私たちの時代は『ITバブル』が崩壊して、多くのエンジニアが仕事を失いました。大谷君も例外ではありませんでした」
安西の語る言葉からは、自身が感じてきた無念さと、同僚たちへの思いやりが滲んでいた。
「彼は派遣という不安定な立場で、あちこちのプロジェクトを渡り歩きました。それでも頑張っていたのですが、リーマンショックの影響で仕事が激減してしまった。大谷君も40代後半に差し掛かっていましたから、新たな仕事を探すのは容易ではなかったんです」
真由は静かにメモを取り続けた。
「最後に彼と会ったのは数年前、偶然街ででした。彼は自信を失ったような様子で、次の仕事が見つからないと言っていました。家庭も失い、貯蓄も底をつきかけていると。その後、彼の消息を知ることはありませんでした」
安西の言葉に、柴田が小さく息を吐いた。
「派遣という働き方は、本人の能力や努力だけでは乗り越えられない壁があるんです。特に年齢が上がるほど再就職は困難になりますから……」
安西は深く頷きながら続けた。
「ITの世界は進化が速すぎて、少しでもブランクがあると取り残されます。大谷君はその流れの中で徐々に社会から排除されていったんだと思います」
真由はふと、大谷の部屋で見つけた日記の一文を思い出した。
――『誰にも知られずに、このまま消えてしまうのだろうか』
その言葉が、安西の話と重なっていく。
取材を終え喫茶店を出ると、柴田が静かに口を開いた。
「大谷さんのような人は山谷に少なくないです。かつては一流企業で働いていた人たちが、社会の変化や経済の波に飲み込まれ、孤立していく。真由さん、大谷さんを通じて社会に問いかけたいことは何ですか?」
真由は柴田の問いに、一瞬沈黙した後、確信を持って答えた。
「大谷さんの人生が示しているのは、決して個人の失敗ではなく、社会の構造的な問題です。この社会が人を簡単に排除し、そして見捨てていく。私たちがその現実から目を逸らし続ければ、問題はさらに深刻になります。だから、伝えなければならないんです」
柴田は真由の目をじっと見つめ、深く頷いた。
「ええ、その通りだと思います。だからこそ僕たちも、一人ひとりの人生を見過ごさないために活動を続けているんです」
二人の間には静かな共感が流れた。
その夜、真由は帰宅後、すぐにパソコンに向かった。大谷の人生を描き出すために、ひたすら言葉を綴った。キーボードの音が深夜の部屋に響く。
書きながら真由は気づいていた。これは単に「記事を書く」という作業ではない。大谷章という人物の人生を通じて、社会が抱える問題を深く掘り下げ、伝える責任があるのだと。
夜が明ける頃、窓の外が薄明るくなったとき、真由は最後の一行を書き終えた。
真由は次に、大谷章の元妻である美佐子を訪ねた。埼玉県の郊外、閑静な住宅街にその家はあった。インターホンを押すと、静かな声が応じた。
「井川と申します。新聞記者です。お忙しいところ、申し訳ありません」
しばらくしてドアがゆっくりと開き、60歳ほどの女性が控えめに顔を出した。落ち着いた佇まいだが、どこか疲れを感じさせる表情だった。
「お話を聞かせていただき、ありがとうございます」と真由が頭を下げると、美佐子は小さく頷いた。
二人はリビングのソファに座った。真由は慎重に言葉を選びながら質問を始めた。
「章さんのことですが、失業された頃の状況をお聞かせいただけますか?」
美佐子は少し間を置き、静かに語り始めた。
「あの頃、夫は派遣のエンジニアとして何とかやっていました。でも、ある日突然、プロジェクトが打ち切られてしまったんです。2008年、リーマンショックの直後でした」
「それからは、仕事を探しても探しても、次が見つからなかった?」
美佐子は唇を噛んだ。
「ええ。毎日のようにパソコンで求人を調べて、何十件も応募しました。でも、面接にすら進めなくて……。年齢も年齢ですからね、49歳でしたし……」
美佐子は言葉を止め、一瞬視線を落とした。彼女の手は微かに震えていた。
「夫はプライドが高い人でした。最初のうちは『きっとまた見つかる』って言っていましたが、日を追うごとに口数が少なくなっていって……。夜中に一人で起きて、リビングのソファで座っていることが増えていきました」
真由はじっと聞き入った。美佐子の言葉から伝わってくるのは、大谷章という人間が抱えた孤独と無力感だった。
「家計も苦しくなりました。私もパートを増やしましたが、それでも追いつかなくて。貯蓄がどんどん減っていく恐怖が毎日ありました」
「その頃、章さんとの関係にも変化が?」
美佐子は小さく頷き、胸元で指を組んだ。
「夫は焦りや不安を私に見せないようにしていましたが、やはり精神的に参っていました。些細なことで言い争いになり、最後には私の方から耐えられなくなって離婚を申し出ました」
真由はゆっくりと深呼吸をした。
「章さんは、その後どうされましたか?」
美佐子は悲しげに頭を振った。
「離婚した後、夫とはほとんど連絡を取っていません。最後に来たメールには、『申し訳ない。自分はもう終わりだ』と書かれていました……」
その言葉に、真由の胸がぎゅっと締め付けられた。
「夫はIT業界で長年働いていましたから、自分の価値が社会から完全に否定されたように感じていたと思います。私にはどうしてあげることもできませんでした……」
沈黙が訪れた。美佐子の目には、薄く涙が滲んでいる。
「私、後悔しています。彼を支えられなかったこと。もっと理解してあげるべきだったって……」
美佐子の声は途切れ途切れになった。真由は静かにメモ帳を閉じ、慎重に口を開いた。
真由は立ち上がり、美佐子に深々と頭を下げた。
「貴重なお時間を頂きまして、お辛い話をありがとうございました。」
玄関を出ると、静かにドアが閉まった。
後日、真由は再び柴田の協力を得て、大谷が派遣社員として最初に勤めていたIT関連の派遣会社で彼の担当だった人物と連絡を取ることができた。
待ち合わせ場所は駅前のファミレス。相手は当時の派遣会社でコーディネーターを務めていたという40代の男性、田島という人物だった。
コーヒーが運ばれてくると、真由は早速、質問を始めた。
「大谷章さんが派遣で働き始めた頃の様子をお聞かせいただけますか?」
田島は頷きながら記憶を辿る。
「あの頃、大谷さんはまだ前向きで、『とにかく仕事がしたい』という意欲を感じました。IT業界に長くいたので、スキルは十分あった。ただ、ブランクが半年近くあったので、紹介できる仕事が限定されていましたね」
真由はメモを取りながら聞いた。
「仕事は順調に進んでいましたか?」
田島はやや口ごもった。
「最初は問題なかったんです。ただ、業務内容が徐々に高度化して、最新の技術が求められるようになると、彼も苦労したようです。業界の流れに取り残されることへの焦りがあったんでしょうね」
「その時、彼の様子に変化はありましたか?」
田島はコーヒーをひと口飲んで、小さくため息をついた。
「次第に口数が減り、勤務態度も消極的になっていきましたね。本人からは『この年で新しい技術を身につけるのは大変だ』と何度か聞かされました。最終的に、契約が更新されなかった時は、申し訳ない気持ちになりましたよ」
真由はじっと聞き入りながら、その苦しさや焦りを想像していた。
「派遣という働き方の難しさを感じられますか?」
「ええ。特に40代以上の方はスキルや経験があっても、社会や技術が急速に変化すると、それに対応できずに取り残されることが多いんです。それに40代以降は正社員スキルという見えないスキルがもとめられます。年上の部下を持ちたくない上司も増えます。派遣という立場上、何かあれば最初に切られてしまう。本人の努力だけではどうにもならないことが多々あります」
田島の言葉は重く響いた。真由は礼を述べ、ファミレスを後にした。
外に出ると、街の喧騒が不思議と遠く感じられた。大谷章という一人の人間が、社会の流れに翻弄されながら孤立し、見えない貧困に陥っていった過程を、真由は改めて痛感していた。
次に真由が訪れたのは、大谷が二社目の派遣労働をしていた、物流センターを運営する企業だった。取材を受けてくれたのは、大谷が勤めていた頃の現場責任者を務めていた女性社員、岩崎だった。
物流センターの休憩室で、真由は岩崎と向き合った。
「大谷さんがこちらで働いていた頃、どんな様子でしたか?」
岩崎は少し考え込んだあと、静かに話し始めた。
「真面目で黙々と仕事をする方でした。ただ、IT業界からこちらへ来られたので、当初は体力的にかなり大変そうでしたね。彼にとっては慣れない肉体労働で、戸惑いもあったように思います」
「仕事の内容は具体的にどんなものでしたか?」
「倉庫内での荷物の仕分けやピッキングです。一日中立ちっぱなしで、重い荷物も多いので体力勝負の仕事でした。大谷さんのように、元はオフィスワークの方には特にきつかったと思います」
岩崎は小さくため息をつき、続けた。
「でも、大谷さんはとにかく仕事がほしかったんだと思います。周りとも距離を取っていて、自分から話しかけることもなく、孤立気味でした。だんだんと疲れが目立ち、体調を崩しがちになっていました」
真由はペンを止め、質問を続けた。
「最終的に、なぜこちらの仕事を辞められたのでしょうか?」
岩崎は表情を曇らせながら答えた。
「ある日、腰を痛めてしまいまして。それをきっかけに欠勤が増えました。無理してでも出勤しようとされましたが、やはり身体がついてこなかったようです。それで契約の更新は難しいと判断されました。私としても申し訳ない気持ちでしたが、派遣という立場ではどうしようもありませんでした」
真由は岩崎の言葉に、胸が締め付けられるような思いを抱いた。
真由は岩崎に切り込む。
「あの、岩崎さん。先ほどの大谷さんが腰を痛めて仕事が続けられなくなったとき、労災や何らかの補償などはなかったのでしょうか?」
岩崎は一瞬視線を逸らし、小さく首を横に振った。
「労災ですか……。実はその点については当時、問題がありました」
「問題、ですか?」
岩崎は言葉を選びつつ、慎重に語った。
「派遣労働者の場合、ケガや病気になっても自己責任のように扱われることが多いんです。正社員であれば当然労災を申請する状況でも、派遣社員は報告を躊躇することがあります。大谷さんも腰痛を『自分の責任』だと感じていたようで、労災の申請をしようとはしませんでした」
真由はメモを取りながら聞き続けた。
「会社側から労災の案内や支援などはなかったんでしょうか?」
岩崎は表情を曇らせた。
「正直に言うと、あまり積極的なサポートはありませんでした。派遣という形態では、企業側も労働者の健康問題に深入りしない傾向があります。手続きが複雑になるからです。私もその点で、無力さを感じていました」
真由は胸の内に、怒りにも似た感情が湧き上がるのを感じた。
「大谷さんが去った後、派遣会社やセンター側からその後のフォローはありましたか?」
岩崎はため息をついた。
「それもありませんでした。派遣契約が切れればそこで終わりというのが現実です。その後、彼がどうなったかを知る人はほとんどいないと思います」
取材を終えて礼を述べ、物流センターを出ると、真由は再び重い気持ちに包まれた。大谷章という一人の人間が、社会の隙間で追い詰められ、徐々に孤立していく過程を目の当たりにした気がした。
数日後、真由は再び柴田の協力を得て、山谷地区で活動するNPO法人『山谷会』を訪ねた。団体が運営する小さな相談室には、大谷の最期をよく知る相談員の女性、橋本が待っていた。
「お忙しいところすみません。井川と申します」
橋本は穏やかな表情で頷き、ゆっくりと話を始めた。
「大谷さんが初めてこちらに来られたのは、亡くなる数ヶ月前でした。生活に困って相談にいらっしゃったんです」
真由は頷きながらメモを取る。
「その時の様子を詳しく教えていただけますか?」
橋本は当時を思い出すように話し始めた。
「とても静かな方でした。淡々とご自分の状況を話されて、『もう働くこともできないし、誰も頼る人がいない』とおっしゃっていました。経済的にはぎりぎりの状態で、精神的にもかなり追い詰められているようでしたね」
「その時、具体的な支援は何かされましたか?」
「生活保護の申請や医療サポートを勧めましたが、彼は『もう少しだけ自分で頑張りたい』と頑なでした。その姿に、心の中では絶望しているのを感じました」
橋本は深いため息をついた。
「結局、数週間後に再び相談に来られましたが、体調がかなり悪そうで、ほとんど何も食べていない様子でした。その時は、やっと簡易宿泊所を紹介して、生活保護の申請も手伝ったんです。でも……」
橋本の言葉が止まった。真由がそっと促す。
「でも……?」
「最後に彼を見かけたのは宿泊所の近くの路上でした。いつもひとりで、誰とも話さずに歩いていて……。今思えば、それが最後の姿でしたね」
真由は胸が締めつけられる思いで、次の質問を口にした。
「彼が亡くなられたとき、どのような状況だったかお聞きしていますか?」
橋本はゆっくりと頷いた。
「宿泊所の管理人が見つけました。大谷さんは小さな部屋のベッドの上で、横たわるように亡くなっていたそうです。荷物はほとんどなく、小さな段ボール箱と手帳が残されていただけで……。孤独死という状況でした」
「発見された時、周囲の方の反応はどうでしたか?」
「管理人はショックを受けていました。私たちも彼のことをもっと早く気付いてあげられなかったことが、本当に悔やまれました。でも、あの地域では彼のような孤立した人は多く、なかなか手が回らない現実があります」
取材を終え、NPOの事務所を後にした真由は、重い足取りで山谷の街を歩きながら改めて考えた。大谷章というひとりの人間が、社会から静かに切り離され、誰にも気づかれずに消えていったこと。その現実が、彼女の胸に強く刻まれた。