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さっきまで犬だった僕に、演技力はなかった

目が覚めると、部屋の中で仰向(あおむ)けになっていた。


高野はどんな雨の日も僕を室内には入れなかったので、人間の建物の中に入るのはペットショップで売られていた時以来であり、本能的に警戒心が高まっていく。

周囲の状況を調べようと考えるより早く、反射的に空気を鼻で吸い込んで、匂いを感じようとした。


だが、どういうわけか、匂いがわからない。

犬である僕が匂いがわからないということは、何もわからないと同義だ。

不安がどんどん膨らむ。


僕と一緒にペットショップで売られていたゴールデンレトリーバーのタケシの言葉を思い出す。僕の親友で、要領がよく器用だったタケシは、よく「触覚に集中しろ」と教えてくれた。「俺たち犬は匂いに頼りすぎている」と。


匂いがわからない今こそ彼のアドバイスを実行すべき時なのかもしれない、と思い立った僕は、意識を皮膚に集めてみた。

すると、今寝ている床が今までの犬生で経験したことがない柔らかさであることに、気づいた。


さっきまで高野にリンチされていた冷たい土とは全く異なる、フカフカした人工物の肌触りを背中に感じる。


虐待現場を通りがかった誰か優しい人間に保護されたのか、と始めは思った。しかし、それにしては様子がおかしい。やわらかい布の肌触りを背中いがいの全身に感じている。


自分は、服を着ていた。


もちろん僕を犬として見ていない高野が僕に犬用の服を着せることはなかったが、愛されている犬は服を着せられることがあるのは、知識としては知っている。見たことがある。

でも、僕と言う初対面の犬を保護してくれた人がいたとして、わざわざ服を着せるものだろうか。


この不可解な状態に違和感が膨らんでいき、立ち上がってここから出ようと決意したとき、僕はやっと「異常事態」に気づき、悲鳴をあげた。

足が長い。


首を曲げて頭を起こすと、視界の奥に、胴体ほどの長さの僕の足がまっすぐに伸びているのが見える。

信じられない事だが、僕の体は、今、人間の形をしていた。


衝撃的過ぎてパニックになることすらできず呆然とする僕の耳に、ピロピロという電子音が飛び込んできた。けたたましいその音は平べったい箱状の物体から聞こえていた。


人間がスマホとよんでいる、板だ。


僕は無意識のうちに「手」を伸ばし、「スマホ」の表面を色々な方向に撫でた。もちろん、どういうルールに基づいてどういう操作をしたのか、僕自身わからない。なのに正しく扱えているらしいのが不気味だ。


僕の頭じゃなく、人間の形をしたこの体が、覚えているらしい。


複雑な手順の果てに、スマホの表面の色が変わり、1人の人間が映し出された。若い女の人間だ。


その少女は、後ずさりしそうになるほどに、力強い目をしていた。スマホの画面ごしでも威圧感を感じるほどに大きい瞳は、整った顔つきと言えるのだろうが、可愛い子というより周囲を拒絶する美人という雰囲気だ。


美容室でかけられたようなカールがかかった艶のある黒髪。右横につけられた高級そうな布でできた黒いリボンの髪飾り。僕が知っている美少女である水野瀬名と比べると、親しみやすさはないが、凛とした美しさを感じる。


「こんにちは。私は松浦伶花です」少女は挨拶した。「芸能事務所からこの電話番号を知りました。単刀直入にききます。高橋さん、水野瀬名さんに何をしましたか?水野瀬名さんをどう思ってますか?」


タカハシタクミ。ゲイノウジムショ。質問内容が、さっきまで犬だった僕にとって、難しすぎる。この体の本来の持ち主であるタカハシタクミという人物の電話番号がゲイノウジムショなる所にあった、ということなのだろうか。


でも、水野瀬名について聞かれたことだけはわかる。


水野瀬名。

僕に優しさを向けてくれた唯一の人。松浦伶花の言葉がトリガーとなって、彼女との思い出が意識にのぼってきて、僕の心は強烈な寂しさで、かき乱された。


「…僕は水野瀬名に何もしてません。僕は、水野瀬名に会いたいですよ」息を絞り出すような口調で、正直に答えた。さっきまで犬だった僕の感情を、この体についた人間の口が、自動的に言語に変えてくれた。


だが僕の素直な思いの吐露は、松浦さんの気にさわってしまったらしい。

「あのね」松浦さんは、殺気を漂わせながら息を吐いた。「水野さんを殺したあなたが挙動不審なのは見てわかるから。しらを切っても、無駄。そこで待ってなさい」

松浦さんの脅しの言葉を最後に、スマホは沈黙した。


マズい。僕を水野瀬名殺人犯か何かだと勘違いしているらしい松浦さんが、ここに来てしまう。しかも彼女は水野瀬名が大好きらしいので、怒りにかられた松浦さんが僕に何をするか想像もつかない。逃げなければ。


部屋から出ようとして、僕がドアに向かって歩き出そうとした瞬間、ドンドンとドアが振動した。


「拓海ぃ?何してるの?入るよ?」


ドアの向こうから、年配の女性が呼びかけている。心底相手を心配している声色。この体の元の持ち主の母親なのだ、と直観的にわかった。で、それがわかったところで、どうすればいいのだろう。「自分でも何故かわからないのですが、僕はお宅の息子の体を乗っ取っている犬なのです」と正直に自己紹介できるわけない。


かといって母親を相手に、息子のフリをする演技力など僕にはない。


焦燥感を抱きながらも、何もできない僕の目前で、ゆっくりとドアが開いていった。

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