なろうのメッセージ機能から想う、言葉のやり取り
いくつかのレビューや感想を書き始めて、ほんの数日。
エッセイをひとつ書いたのが昨日。
正直に言って、「そんなに反応ないだろうなー」と思っていました。
いやあ、作者のみなさんの愛を甘くみておりました。
まずメッセージボックスに、なにやら届いていることに気づきました。
のぞいてみると、たくさんの方々から感想返信通知を頂けているではありませんか! あれ、エッセイへの感想もある! なんかメッセージまで届いている!?
登録したてで、あれこれホーム画面をいじっていた最中だったので驚きました。
私のたった一言の感想にも、あふれるほどの想いで応えてくださったこと、本当にうれしいとしか言いようがありません。
ところがです。
頂いた言葉に返信しようとしたら、できない!
もう「え、なんで?」って感じです。
まあ、よく見てみたら答えはわかりました。
「ユーザ登録後、7日間はメッセージの送信は行えません。」
ええー、困る……。
相手の作品の感想欄にまたお邪魔するのか? 活動報告のコメントに書くような内容でもないよね? レビューになんかなるわけないし、どうにかならないかな?
いろんな想いがぐるぐると頭の中をめぐります。しかし運営様からのご注意には、こんな続きが。
「メッセージ機能を利用しての営利目的の活動は禁止しております。」
ユーザ登録をするだけして、あれこれとした方がいらっしゃったのですか……。
つまりこの悩みは、仕様なのですね。
うーん、それでも感謝は伝えたい。よし、ならば文章にして投稿しましょう。
【ご感想ありがとうございます。メッセージは返せないので、この場を借りて御礼申し上げます。】
ふう、よし。――と、これだけではいけません。
これは投稿というボタンを押すことで、サイトに送り出した作品です。ならば、かようなメッセージのためだけで終わっては不十分でしょう。
まあその他という分類もありますが、どうせならエッセイ、創作活動のひとつとしたいところです。
■なろうで行なえる言葉のやり取りって、どんなものだろう?
考えてみればこの体験は、「小説家になろう」というサイト上で行われたコミュニケーションにかかわっていることのはず。ここでは言葉のやり取りについて、もう少し考えてみましょう。
今回の出来事を振り返ると、
・どのような機能を使って、
・私の〈とある〉何かを、
・誰に送るのか?
ということを考えていました。
これらの私の考えを、ひとまず形式的に書いてみます。
・レビューという機能は、私の〈おすすめしたい〉何かを、読者に送る。
・感想欄という機能は、私の〈読後感〉の何かを、作者に送る。
・活動報告のコメントという機能は、私の〈報告や作者に感じた〉何かを、作者に送る。
・メッセージという機能は、私の〈作者や作品に感じた〉何かを、作者だけに送る。
こうしてみるとメッセージ以外は、私の言葉が作者以外の第三者の目にも入っているように思います。ある意味で投稿という機能も同様ですね。
ということは、レビュー・感想・コメント・投稿で送る言葉は、衆目にさらされるのが前提になるということです。
逆にメッセージがあくまでも個人間のものなら、運営様として一律でなんとかするしかないのもわかります。一対一の関係で営業活動などされても、なかなか断れませんものね。
それはさておきこの衆目、第三者の目というもの。
レビューと投稿は、第三者の目をその作品や作者に向けてもらう文章と考えて、別としましょう。
少なくとも私にとって問題になりそうなのは、感想とコメントです。
私はわりあい作者に向けてそれらを送ると思うので、衆目はそのまま第三者に位置づくことになります。
見方を変えれば第三者は、作者さんとの関係を通じて同じところに集った者同士ではあるのでしょう。
しかし顔も見えない他人同士でもあるので、お互いなにを思っているかなんてわからない。
……うーん。
私としては、作者さんの想いに合わせて送ったつもりの言葉が、はた目からみたらなーんかずれていることを書いているように思えるって、ありそうです。
あまつさえ作者批判みたいなものが繰り広げられると思えてしまったら、第三者としてはたまったものではないでしょう。
これは逆に、第三者から見られるということが薬になれば、私はうかつな発言に気をつけようと思うでしょう。
しかしもしそのことが毒になったら?
作品が見られないのはいい。いやよくありませんが、この際横に置いておきます。
この言葉が、どこかの誰かを傷つけないか、そして自分が傷つけられないか?
どこか感想やコメントをつけることが怖くなってきそうです。
しまいには自分の言葉自体に自信がなくなるかもしれません。
作者さん自身へメッセージを送るボタンを押すことも怖くなってしまったり、こんなエッセイを書くことも怖くなったりして――
いやあ、よくないですね、こういうのは。
このようにストレスを感じていると、文字でコミュニケーションするにもなかなか難しいものがあります。
少なくとも衆目にさらされるならば、不愉快になりづらい表現が必要なようです。
たとえば私にとってはどうでしょう。
人が隠しておきたいものを暴くのは愉快ではないですね。
正論ではあっても、あまりにも鋭く痛かったりする言葉も悲しくなります。
江戸時代の川柳に「その通り だから余計に 腹が立ち」というのがあるそうですが、その通りだと思います。
とはいえ、こうした表現を避けることは、私としては話の前提のようなものです。
先ほどの形式的な考え方を踏まえるなら、もし周りから誤解などを受けそうで、それでも作者さんに伝えたければ、メッセージ機能を使おうということになりますね。まあ今は私、使えないんですが。ええ。別に悲しくないです。
うん、むしろ嬉しいですね。
たくさんの感想を返していただいたことで、新たなコミュニケーションができました。メッセージ機能から始まって、いろいろと考えてみることもできました。
ネット上ではその場限り、他人同士の関係から始まることがほとんどでしょうが、袖振り合うも他生の縁ともいいます。多少の意見のすれ違いくらいは、それもご縁あってのことと納得してもいいのかもしれません。
一回しかチャンスがないわけでもなく、また何かの折に新たなつながりが生まれることもあるでしょう。
そういえば、前回のエッセイで私、こんなことを書いていました。
「何か作者さんに言葉を送るときは、言葉を贈る気持ちで書けているかどうか。」
贈り物が気に入られるかは、そりゃあ気にはなります。
とはいえ、私の言葉は自分から生まれたものであっても、相手に贈ればそれはもう相手のもの。
それなのにどう受け止められるか気に病んでいては、あげたつもりの贈り物を、いつまでも自分の手でぎゅっと握っているようなものかもしれません。
すっと手放せるように、贈りたい言葉の表現や、それに適したサイトの機能を考えてみようと思います。