記念日
僕は兄さんが大好きだった。
頭も十人並みで体力も運動神経もないひ弱な僕に比べて
兄さんはとても魅力的で凄い人だ。
頭脳明晰で冷静沈着、運動神経も良くてどんなスポーツも苦も無くこなし、背も高く体格も良くて、人好きのする笑顔は爽やかで。
僕と比べたら、本当にスーパーマン。
そんな出来すぎの兄を持った僕がコンプレックスの塊にならなかったのは、一重に兄さんが優しかったからだ。
10歳違いの僕を疎ましがる事もなく、いつも優しく可愛がってくれた。
物覚えの悪い僕の勉強だって根気強く見てくれたし、近所の悪ガキに泣かされて帰って来たときは、頭を何度も撫でながら励ましてくれた。
色んな事を教えてくれたし、色んな所にも連れて行ってくれた。
優しくて憧れて、大好きだった兄さん。
僕の部屋の机の上には、いつでも兄さんの笑顔の写真が飾られている。
何年経とうと記憶は色あせる事無く、いつまでも大好きなんだ。
兄さんにあえなくなってから、もう…20年も経つんだね。
あの時は見上げるばかりだった僕の身長は、もうとっくに兄さんを追い越した。
決して届く事の無かった年齢も、あの時の兄さんを遥かに追い越した。
兄さんはどんなスポーツもそつなくこなす人だったけれども、特に好きだったのが登山。
大学を卒業したら、父さんの後を継ぐために医者になるのが決まっていたけれども、大学の最後の夏休み。
突然、僕の目の前から消えてしまった日を、今でも鮮明に覚えている。
足を滑らした友人を助けるためだったと、そう聞いている。
助けられたその人は、何度も泣きながら僕らに謝った。
そして、彼の勇気に感謝している、と―――
友人を助けた兄さんの体は、深いクレバスの中へ。
今でも、誰に見付かるでもなくひっそりと時を止めてしまった。
だから。
いつか、ひょっこりとあの時のままの姿で兄さんが戻ってくるんじゃないか、そんな事を期待しながらもう20年もの歳月が流れた。
「…ここが?」
「…そう。ここが、僕の大好きだった兄さんが眠る場所だよ」
海が見える小高い丘の上に積み上げた小さな石の上に、手にした小さな白い花束を置く。
「兄さんは、こういう見晴らしのいい場所が好きだった」
「…確かに、ここはきれいな場所だわ」
僕の隣りに佇む彼女が、そう言って小さく手を合わせ目を瞑る。
――兄さん。
僕は、もう32歳になった。
あれから、物凄く頑張ったけれども兄さんのように頭の出来が良くなかった僕は、医者になる事は出来なかった。
今では平凡なサラリーマンだけれども、僕はそれに満足している。
「…兄さん。聞いてくれ。僕は今日、この人と結婚した。兄さんの命日に結婚するなんて…って、父さんや母さんには叱られたけど…」
「……」
「でも、僕は後悔はしていない。僕はこれからも一生兄さんが好きだし、だからこそ、大事なこの日に結婚したんだ。彼女は優しくて素晴らしい人だよ。僕は、もう泣かないから…」
『ほら! 男の子がもう泣くな! 兄ちゃんがいい所に連れて行ってやるから。いつでも兄ちゃんはお前の味方だし、お前が泣いたら何処にいても直ぐに駆けつけてやるからな!』
「…だから、心配しないでくれ。僕はもう平気だから」
ついと、風下に向かって吹き抜けていた風が風上に流れる。
頬を撫でるその感触は、嘗ての兄の大きく温かい手のひらに似ていた。
『良かったな。頑張れよ! いつでもお前を見守っているぞ』
と、兄が語りかけているようだった。