医務室へ
石塀がぼやけたように、近くにも遠くにも見える。ひな子を襲う脱水症状の一つだが、水を飲むには町にたどり着く必要がある。
彼女がさしたる危険もなく町に近づけたことは幸運だが、その前に人とすれ違わなかったことは不運だった。
「……は、は……着いた……」
安心して膝から力が抜けてしまう。その場にへなへなと座り込む妙な服を着た少女を、警備兵は多少警戒しつつも助け起こした。
『おい、どうした?』
「お水を……」
『なんだって?』
目の前で話す男の言葉がまったく聞き取れず、ひな子はいよいよ自分の中の疑惑を確信に変えた。
よく聞く英語どころか、ドイツ語などほとんど耳にしたことのない言語と比べても、金髪の警備兵が口にした音に聞き覚えがなかったからだ。
「ヤバい……」
視界が歪んだと思った瞬間、少女は気を失った。
『行き倒れか? 困ったな、何か身分がわかる物はないか……』
助けてあげたいのは山々だが、最低限町に危害を加えないことがわからないと、運び込むのも職務上問題がある。
手早くカバンの中身を改めると、教科書が出てきた。しかしこの世界にはない日本語を見て、警備兵は更に混乱した。
『とりあえず誰か呼んで、医務室に運ぼう。身元はその後だな』
カバンに教科書を戻して、少女の背中をそっと壁にもたれさせると、同僚を急ぎ呼んで医務室に運び込んだ。
『変な服を着た少女が行き倒れていた?』
『はい、今は気を失っているので医務室に運びました。念のため部屋の中と外に、二人見張りをつけています』
『ふむ、対応はそれで良いが、他に何かわからないのか? 何人だ?』
発見者である警備兵に視線を鋭く向けるのは、この町の警備隊を預かる男だ。近隣国との関係が緊張している今、誰彼構わず助けてしまうのは迂闊な行動である。
『それが……軽く荷物を改めましたが、およそ見たことがない文字で書かれた本を持っており、髪が黒であることから少なくともベトラーズの者ではないと判断。救助を優先して、隊長にご報告に参りました』
『……よくわかった。最初に発見したお前が責任を持って少女に当たれ。もちろん報告は欠かさないように。行ってよし』
『はっ、失礼します!』
部下が去った後、彼の頭には一つの疑念が浮かんだ。“妙な服”と“言葉が通じない”それによく似た話を、最近聞いたばかりであった。万が一のため、彼も自身の上司へと報告を行うことにした。
行き倒れの少女を任された警備兵、キースは真っ直ぐに医務室へ向かった。入り口に立つ同僚へ挨拶して、少女はまだ気を失っていることを聞く。
『なんでも脱水じゃないかって。命に別状はないが、起きたらまず水を飲ませるように言われた』
『ありがとな、隊長から俺が見ているように言われた。交代するよ』
少女の横たわるベッドに座り、先ほど調べ切れなかったカバンを再び開ける。すべての物を取り出して、何か少しでも情報がないかと探り出した。
『わっかんねぇな……なんだ、この文字? それに紙なのにツルツルしてるな……』
バサバサと本を捲るが、やはりサッパリわからない。諦めつつも、一応最後まで確認をしようとノートを手に取った時、白い封筒が床に落ちた。
『手紙か……悪い気はするが、どうせ読めないんだから良いか』
『――しんあいなるりゅうきしさまへ、』彼の目に見慣れた文字が飛び込んできた。
『よっしゃ! 何かわかるかもしれないぞ!』
喜び勇んで文字を追うが、丁寧に書いてあるのに何故か単語が使われていない。補助記号もほとんどなく、まるで字がきれいな五歳くらいの貴族の子供が書いたような文章で、かなり読みにくかった。
ちらりと彼女を見ると、少女と呼ぶに相応しい十二歳くらいの子供に見える。まだ習い始めたばかりなのだろう。
『……ディルバート様……竜騎士でディルバートと言ったら、王都のペトゥラノス様のことに違いない!』
『わたしはディルバートさまをこころからおしたいしております。』
文章の意味をほとんど考えずに読んでいた彼は、最後の文章を読んでようやくこれが恋文であることに気が付いた。
慌てて四つ折りにして元の封筒へ戻す。……できれば手紙を読まなかったことにしたいが、場合によってはこの手紙が話に上るだろう。
しかし、少女の恋文を暴くのがいかにデリカシーのない行いかは、妹が二人いるキースにはわかり過ぎるほどわかっていた。もし話さずに済むのなら、読まなかったことにしようと決めた。
『……隊長に訊かれたら嘘は吐けないもんなぁ』
「ん……うっ」
ひな子が目を覚ました時、頭の中には“水が欲しい”という強烈な欲求しかなかった。
そして起き上がれば手が届く場所に、木のコップが差し出された。本能がそのコップを掴み取り、一気に水をあおる。
ゴキュゴキュと喉が鳴り、あっという間に水を飲み干した。唇を手の甲で拭ってひと息吐くと、ひな子の最後の記憶にあった金髪の男性が、同情的な目を向けていた。
『おかわりは?』
何を言っているかはわからなかったが、水挿しを指しているのでひな子は大人しくコップを彼に差し出した。
「お水ください……」
物欲しげな顔が面白かったのか、笑いをかみ殺しつつ木の水挿しから並々と水をついであげる。
男が何も言わないので多少気まずく思いながらも、ひな子はありがたくもう一杯の水も飲み干した。
『落ち着いたかな?』
まだ水をくれるつもりだ、と勘違いしたひな子は否定するためにコップを両手で握りしめて首を振った。
そして、なんとも言えない微妙な間の後、男が紙を差し出した。
そこには『スフェラごがよめる?』と書かれていた。……スフェラ語で。
「! ……嘘、え? これ、夢なの?」
彼がスフェラ語の書かれた紙を出したということは、ここがスフェラ語を使う国だということ。……都合の良い夢か何かだと思っても無理はないだろう。
少女の混乱を察した男は、水挿しが置いてあるサイドテーブルで何かを書き付けてひな子に差し出した。
『おちついて。きみのなまえは?』
「う、そ……落ち着ける訳ない。ここは……シグマの世界なの?」
もちろん男には伝わらないし、誰も疑問には答えてくれない。それでも衝撃の大きさに耐えるため、何かを言わずにはいられない。
『大丈夫かい?』
シーツの上に影がかかり、控えめに肩に手が乗せられたことで、ひな子は顔を上げた。
「あ……そうだ、名前……」
意思疎通を図ってくれた人に答える為、ひな子はペンを持ったような手の形で手のひらに文字を書く動作をした。
何をしたいのかすぐにわかったらしく、頷いて紙とペンを渡される。コップをひっくり返して下敷きにすると、『なまえはヒナコ』と書いた。
やっと意思が伝わったことに、男は大げさなほどに安堵した。
『良かった……これでいくらか気が楽になったぞ』
ひな子とキースは紙を二枚埋め尽くすほどのやり取りをして、お互いの名前だけでなくひな子がどんな状況に置かれているのかを理解し合った。
『ヒナコちゃんのことを、えらいひとにおはなししてくるね』ひな子は彼が自分を実際の年齢よりかなり幼く見ている、と早くから気づいていたが、年齢はまだ聞かれていない。
『わかりました、キースさん』そう書いて微笑むと、キースは安心させるように満面の笑みを返した。
二人のやり取りを書いていた紙を持ってキースが出て行くと、一人きりになったひな子の頭にはいくつもの疑問が浮かんでは沈んだ。
(ここはスフェラ大陸のジナル王国……私はシグマみたいに異世界トリップをしたの? 日本に帰れるのかな? ジナルってディルバート様の故郷だ。もしかして……?)
長年想い続けて来たディルバートに会えるかもしれない、という考えはショックから立ち直り切れていない少女にとっては寄りどころになるものだった。
「もしかしたら、ディルバート様に会えるかもしれないんだ……」
原作の『異世界英雄シグマ』とどれだけ重なっている部分があるかもわからないが、希望を持つだけは自由だ。
ともすれば足元が崩れ去って、奈落に落ちて行くかのような絶望に飲み込まれるのを押し留めてくれる、大切な希望である。
「私がディルバート様の運命を変えることだって……できるかもしれない!」
この時、ひな子の中に“ディルバートが存在していたら、全身全霊で彼を運命から救う”という固い誓いが生まれた。
一方のキースは再び隊長の執務室を訪れていた。
『失礼します、隊長。キースです、行き倒れの少女に関するご報告に上がりました』
『入れ』
一度目の報告とは違い、進展が目覚ましいキースの表情は明るい。顎髭をたくわえた隊長はフッと笑って出迎えた。
『良い報告が期待できそうで何よりだ。報告したまえ、キース』
『はっ、少女の名前はヒナコ。自分がどこから来たのかは定かではなく、スフェラ語は話せませんが最低限の読み書きができます。医者の診察はまだですが、何か大きなショックを受けて失語症になったのでは、と疑っています』
『ふむ……その少女は何歳だ?』
『あ! 申し訳ありません、うっかりして年齢を訊ねるのを忘れてしまいました。身元は以前不明ではありますが、危険性はないと判断しても良いのではないでしょうか?』
『わかった。髪は黒だと聞いたが、瞳の色はどうだった?』
『瞳孔もかなり濃く、黒に近い焦げ茶色であります』
やはりと言うように頷く。
『そのヒナコという少女だが、身元確認のため明日にも着くであろう、王都の騎竜隊を率いるペトゥラノス殿に会わせようと思う』
『は!? ペトゥラノス様ですか……何故、わざわざ彼ほどの人物を……?』
キースはひな子の想い人であるディルバート・ペトゥラノスが突然やって来ると聞いて、思わず訊ね返した。
動揺に一瞬怪訝な顔をした隊長は、それでも害はないと考えて平然と答える。
『君はシグマという少年を知っているかね? まあ、この国で知らぬ者は居ないだろう。その彼が、ちょうどヒナコと同じような状態で発見されたのだよ。彼はシグマ殿と面識がある。だからいち早く彼女が“落とし子”であるのか確かめるためだ』
『なるほど……シグマ殿も黒髪に黒目だと聞きました。落とし子である可能性は高いのですね……』
まだひな子に手紙を読んでしまったことを言えていないキースは、表面的には平静さを取り戻していたが内心焦っていた。
『そう言うことだ。引き続き少女ヒナコに応対し、少しでも情報を引き出しておくように。もちろん平和的に、な』
『はっ、了解であります』
退室を促され、キースは頭を掻きながらひなこの居る医務室へと向かった。