scene.3 カフェ・不破古書店
「やっと出て来たね」
一歩門扉を出た途端、そう声を掛けられ、紗藍は凍り付いた。
「連絡が取れなくなるし、お祖父さんとお祖母さんも取り次いでくれないし、心配したよ」
微笑して言う英治の顔が、もう最高に気持ち悪いとしか思えない。
紗藍は、里奈の腕にしがみ付くようにして、英治の視線から逃れようとした。
「悪いけど、これから出掛けるんだ。話はまた今度にして欲しいな」
正文が、里奈・紗藍と英治の間に、滑り込むようにして立ちはだかる。
年下の少年に庇われるなんて、どうにも情けないような気もするが、紗藍の脳内はまたもやフリーズしていて、自分から何かアクションを起こせる状態ではなかった。
「おや、君は……」
「進藤将司の長男です。久し振りっすね」
わざとらしく目を瞬いた英治に、正文がおざなりな敬語で答える。
「そうだそうだ。進藤副院長のご長男だ。ってコトは、近い将来、僕の義弟になる訳だね。悪いが、そこを退いてくれないかい? 未来の義弟君」
「あんたの義弟になるなんて、考えるだけで虫唾が走るね。あんたこそ、聞いてなかったのか? これから出掛けるって言ったんだけど」
早くも喧嘩腰の正文は、英治から見えない角度にある手でしきりに何かを合図している。『行け』ということだろうか。
それを理解するのは、里奈の方が早かった。
「行くわよ」
紗藍にだけ聞こえるように囁いた里奈は、紗藍の手を取って素早く一度家の中へ引っ込んだ。
「え、ちょっと、出掛けるんじゃないの――」
未練がましく追い掛けてくる英治の声が、ドアに遮られて途切れる。
一方、出掛けると言って出て行った紗藍達が、早々に逆戻りして来たのを見た祖母は、目を丸くしていた。
「ごめん、お祖母ちゃん。裏から出さして」
口早に言いながら自身の靴を手に室内に上がり込む里奈に倣い、紗藍も靴を持って庭の方へ向かった。
***
庭先のブロック塀を越え、玄関に面した道からできるだけ離れるように進路を採った二人は、やや遠回りして表通りに出た。
正文が渡してくれたメモによると、『カフェ・不破古書店』は、清澄白河駅が最寄りだ。
紗藍の自宅は、別の沿線駅が最寄りで、電車を使わないと移動は少々厳しい。
車が尾行して来ないか、神経を尖らせながら最寄り駅まで移動し、線を乗り継いで清澄白河で下車した。
カフェ・不破古書店は、非常に分かり辛い所にあった。
最終的には、スマートフォンで地図を出して、どうにか辿り着いた。
紗藍は、自分の端末を自宅へ置いて来ていたので、スマートフォンを持った里奈が一緒でなければ、到底探せなかっただろう。或いは、辿り着く頃には今日の営業は終了していた可能性もある。
本当に商売する気があるのか、と訊きたくなる目的の店は、路地裏に居を構える店舗と店舗の隙間にある路地が出入り口だった。こぢんまりとした立て看板が、辛うじてカフェの場所を道行く人に教えている。
厄介なことを何も抱えていない時に通り掛かれば、ちょっと秘密の匂いがする立地に、胸が高鳴っただろう。
だが、今はそんな感慨に浸る気分ではない。人がようやくすれ違えるくらいの細い通路を抜けると、開けた場所に出た。
広さとしては、縦幅三メートル、横幅五メートル程だろうか。
明るい時分なら、そこがオープンカフェとして使用されているらしい庭には、全部で五組の丸テーブルと椅子のセットが並んでいる。
その奥に、その本店舗であろう建物が、ひっそりと建っていた。
もう薄暗くなり始めた時間帯の所為か、庭のカフェを利用している客はいない。内部がどうなっているのか、詳細は分からないが、外側は昼間限定なのだろう。
建物は、レトロという言葉がピッタリなデザインだ。壁は石造りで、蔦が生い茂っており、窓をも覆い隠さんばかりに張り付いている。だが、手入れが行き届いていないとは映らない。寧ろ、趣があっていい。
分厚そうなドアは木製で、上部にポツンと取り付けられた明かり取りの磨り硝子が、オレンジ色の明かりを映し出している。しかし、そこから中を伺うことはできなかった。
営業中、なのだろうか。
正文から貰った情報に拠れば、宣伝の大看板を掲げている訳ではなく、今時珍しくPRの為のホームページもないという。ネット上では、本当に営業しているのかさえ甚だ怪しい、という意見もあるらしい。
里奈の方を窺うと、彼女も戸惑っているようだ。
しかし、いつまた英治の奇襲を受けるかと思うと、ここでグズグズしている訳にもいかない。
深呼吸一つして、紗藍が足を踏み出すのと同時に、木製の扉が前触れなく開いた。
中から現れたのは、闇目にも分かる程、ずば抜けた美貌の持ち主だった。どこか日本人離れしている顔立ちにも思えるから、ハーフかも知れない。
身長は、紗藍とあまり変わらない。
シャープな卵形の輪郭の中に、切れ上がった目元と綺麗な鼻筋、薄く引き締まった唇が品良く絶妙な配置に収まっている。腰まで届く長い髪は、うなじの辺りで無造作に纏められていた。
あの英治も、相当整った造作の部類に入るだろうが、今目の前にいる人物と比べると見劣りするのは明らかだ。
スタッフなのだろうか。恐らく黒かそれに近い色だろうソムリエ・エプロンを着けた美貌の主は、白に見えるワイシャツと黒っぽいスラックスを、均整の取れたほっそりとした身体に纏っている。
相手も、扉を開けると同時に紗藍達に気付いたのか、一瞬瞠目した後に、「いらっしゃいませ」と言った。
声変わりの来ていない少年のモノとも、低めの女性のモノとも付かないその声音は、一応敬語ではあったが、客商売には不向きな程無愛想だ。
「二名様ですか?」
「あ、いえ、あの……」
カフェに来ておいて『客じゃない』と告げるのもどうだろうか。
その逡巡が、紗藍の挙動を不審にさせる。
「はい、二名です」
すると、しどろもどろになった紗藍を助けるように、里奈が口を開いた。
「あの……ここってカフェなんですよね。まだ営業中ですか?」
続けて訊ねた里奈に、スタッフと思しき美貌の主は、小さく頷いて店内へ入るよう身振りで促した。
中は、中世ヨーロッパ辺りの、領主の館のような内装だった。照明が絞られた店内は、外から見えた通り、淡いオレンジ色に沈んでいるように思える。
その店内にも、どうやら二人以外の客はいないようだった。
入ってすぐの壁際には、ロマネスク風の暖炉があるが、時節柄、火は入っていない。もっとも、シーズンになったからと言って、本当に火を入れることがあるかは分からなかった。単なる飾りかも知れない。
手前フロアには、バーカウンター席と、壁に沿ってソファだけが設えられ、右手奥に申し訳程度にテーブルセットが二組置かれている。
その更に奥の部屋が、書庫のような造りになっており、どうやらそこに古本が陳列してあるらしい。二階席は吹き抜けになっていて、その向こうにも本棚が見えた。
美貌のスタッフ――紗藍はまだ性別を判別し兼ねていたが、恐らく女性だろう――は、二人をテーブル席の一つに案内して、メニューを置いただけで素っ気なくその場を辞した。
彼女の動きを、追うともなしに目で追うと、束ねられた髪が彼女の動作に合わせて舞う。それだけのことが、ひどく艶やかに見えた。
メニューに目を落とすと、ここは軽食も提供しているらしいことが分かる。やはりお茶を飲むような気分ではないけれども、客だと言って入ってしまった以上、何も注文しない訳にもいかないだろう。
散々迷った末に、紗藍はアップルティーを、里奈はカフェオレをオーダーした。
やがて、運ばれて来た品を、紗藍達は話もせずに黙々と飲み下した。いきなり来て、一言の会話もせずにただ飲み物を片付ける客はさぞ滑稽だろう。
それとも、例の噂通りだとしたら、スタッフは特殊な客だと気付いただろうか。
紗藍は、美貌のスタッフの方にチラリと視線を向けた。客が紗藍達だけで、特にやることもないのか、彼女は堂々とサボり――基、ブック・エリアで読書に勤しんでいる。
「……ねぇ、本当にココ、お悩み相談みたいなの、やってるのかな?」
既に空になったティーカップを、手持ち無沙汰にもてあそびながら、紗藍は口を開いた。クラシックの音色が静かに流れる以外に音のしない店内では、声量を低く押さえても、その声は響いているような錯覚に陥る。
「さあねぇ。弟君に電話してみたら?」
やはり囁き声で応じる里奈のコーヒーカップも、とうに空になっていた。彼女は、自身の端末を差し出したが、紗藍は首を振る。
「無理。番号なんか覚えてないもん」
まさかこんな事態になるとは予想だにしていなかったから、正文のもののみならず、自宅以外の番号など記憶していない。
里奈も、そうだよねと言って肩を竦めると、端末を引っ込めた。
「じゃあ、やっぱり鍵はコレね」
彼女は、正文から受け取ったメモを取り出し、住所・電話番号・略図の下に書かれた一文を指した。
里奈の指の先にあった一文は、『“理不尽な悩み事”、探しています』だ。
「……どういう意味かなぁ」
「もう訊いた方が早いわよ。すいませーん!」
中に入って、大体の様子を見たからだろう。いつもの調子に戻りつつある里奈は、紗藍が意を決するのを待たずに手を挙げて美貌のスタッフを呼んだ。
「何でしょうか?」
本を書棚に戻し、隙のない身のこなしでテーブルに歩を進めた彼女は、やはり無愛想に言った。
美人の無表情は、自分に疚しいことがなくてもどこか恐ろしい。
しかし、内心身を縮める紗藍とは対照的に、里奈は持ち前の物怖じしない性格をいかんなく発揮している。
「コレ、どういう意味かお訊きしたいんです」
やんわり、とか、遠回し、という単語は、里奈の辞書にはなさそうだ。
彼女は直球に、メモに記されていた最後の一文を指で示してスタッフに見せた。
確かに、紗藍の抱えているのは『理不尽な悩み』に他ならない。けれども、果たしてこの文言が、このカフェとどう関係するのか。
何かの間違いだったらどうしよう、と今更ながら慌て始める紗藍の前で、美貌のスタッフの方は、切れ長の目元に縁取られた瞳に、数瞬険しいものを宿らせた。
やがて彼女は、里奈と紗藍を応分に見下ろした後、「こちらへどうぞ」と言って顎をしゃくった。
***
戸惑いながらも席を立った二人を無視する形で、美貌のスタッフは出入り口へ歩きながら携帯端末を操作した。
「――あ、朝姉? 裏の客が来たから、表一旦閉めるわ。……うん、他の客はいねぇから」
裏の客?
内心で思い切り眉根を寄せた紗藍は、またしても追うともなく彼女の動きを見守る。
やはり隙のない足運びでこちらへ近付いた彼女は、紗藍の視線に気付いたのか、目を上げた。
視線が噛み合い、ドキリとする。これだけの美貌に、無表情に見つめられたら、同性でも落ち着かない。
「あんた達さぁ」
ドギマギする紗藍に目線を据えたまま、美人が口を開く。
「念の為に訊くけど、冷やかしじゃねぇよな?」
「……は?」
冷やかし?
紗藍は、今度は現実に首を傾げた。どういう意味だろう。
「さっき、あんたらはメモを指してどういう意味かって訊いた。だから、本当は困り事なんかない、ただの好奇心じゃねぇかと思ってよ」
「なっ」
見た目は極上の美貌だというのに、言葉遣いは非常に残念なチンピラだ。その上、失礼だ。
「最近、時々いるんだよな。ネットで噂が飛んでるからどういう商売してるのか見に来た、とかさ」
肩を竦めて両腕を広げながら踵を返す美人に、流石に里奈もムッとしているようだ。
里奈と二人、唖然としてその背を見送っていると、ついて来ない気配に気付いたのか、美人が顔だけこちらに向けた。
「それで?」
「え?」
それで、って何だ。
思う様顔を顰めた紗藍に、美貌の主は流し目をくれながら形の良い唇を開く。
「もう一度訊くぜ。あんた達は冷やかしか? それとも、何か厄介事を解決したくてここへ来たのか?」
咄嗟に、言葉を返せなかった。
確かに物言いは失礼だが、その瞳は恐ろしい程に真剣だったからだ。
カラカラになった喉に唾液を流し込んで、
「こ、後者です」
と、どうにか答える。
黙ってこちらを見つめている瞳に、どこか追い立てられるような気分になった紗藍は、とにかく何か言わなくてはとまた口を開く。
「な、悩みって言うか……事態は凄く深刻で……あ、あの、人に聞いて、ここに来れば解決するかも知れないって言われて、だから」
順序立てることも忘れて矢継ぎ早に言葉を紡ぐと、美貌の主は手を挙げてそれを制した。
「分かったよ。こっちだ」
挙げた手は、そのまま招くようにクイと動く。
二人を誘った美貌のスタッフは、フロアの奥へ進んだ。
フロアからパッと見ただけでは分からなかったが、奥の書棚エリアはかなり入り組んでいる。思ったより蔵書は多そうだ。紗藍は、瞬時状況も忘れて、ゆっくり見たい衝動に駆られた。
その最奥の、書棚と壁との間に隙間がある場所へ、スタッフは滑り込んで行った。
後を追うと、更にその奥には扉が一つある。ノブを引いたスタッフは、扉を身体で押さえて、二人に先に行くよう促した。
お邪魔します、と小さく言いながら、何故か身を縮めてスタッフの脇を通り過ぎ、内側へ進む。次の間は、横に細長くて狭かった。バックヤードとして使用しているのか、余ったテーブルや椅子が乱雑に置かれ、小さな食器棚もある。
その向こうの部屋へ行くためのドアは、開けっ放しだった。なので、室内の様子がすぐ見えるかと思ったが、意に反してそこは薄暗い。
足を止めていると、スタッフは次の間に明かりを灯し、二人を追い抜いて扉の向こう側の明かりのスイッチを入れた。
紗藍の位置から見えたのは、手摺りだった。
そのまま何も言わずに扉の向こうへ消えたスタッフの背中を、小走りで追い掛けると、上りの階段が現れる。
踊り場を一つ経由して登り切った先は、細い通路になっていた。向かって右手の壁には、申し訳程度に窓も設えられているが、生憎数メートル向こうには店舗が立ち塞がり、景観を遮っている。
迷いのない足取りで通路を進んだ美貌の主は、奥にある向かって左手の扉をノックした。内側からの返事を待つことなく、美貌の主は扉を開ける。
「朝姉。いいか?」
「うん。丁度賄いが出来て呼ぶとこだったから。お二人さんも一緒にどお?」
はつらつとした声の主は、ストレートボブヘアの、こちらは一目瞭然で女性だった。
年齢は見ただけでははっきりしないが、三十には届かないだろう。
中肉中背で、目鼻立ちもはっきりしている。パッチリとした大きな瞳が印象的だが、それが彼女の年齢を余計分かり難くしていた。
室内は、どうやら居住スペースのダイニング・キッチンのようだ。戸口入ってすぐの場所には広めのテーブル・セットが置かれ、やや離れた場所にはカウンターを挟んでキッチンがある。
今日の賄いはカレーらしいというのは、匂いで分かった。
それはそれとして、客として来たのに、こんなプライベートの空間まで足を踏み入れていいものだろうか。
里奈の方へ視線を向けると、どうやら同じことを考えたらしい彼女と目が合った。
「座れよ」
スタッフに声を掛けられて、反射でそちらを見た紗藍は、危うく声を上げそうになった。
カフェの方はやや暗かったので、そこで見た時には分からなかったが、美貌の主の毛髪は、鮮やかな緋色をしていた。
目の色も、明らかに日本人のそれではない。左目が髪と同じ緋色で、右目は極上のエメラルドと見紛うばかりの翡翠色をしている。
その容姿とも相俟って、街など、外を歩く際には相当目立つだろう。
「何だよ。この髪と目の色が珍しいのか?」
紗藍の視線に気付いたのか、スタッフの唇の端が皮肉っぽく吊り上がる。クス、と漏れた笑いは、嘲りを含んでいた。
「あ、いえ」
言われて紗藍は、慌てて目を逸らす。
良いにしろ悪いにしろ、この美貌の主は、これまでにも散々好奇の視線に晒されて来たのだろうことは、想像に難くない。人は自分と違うものを、何故か奇異の目で見てしまう生き物だ。
「凪くーん。これそっちに運んでー」
直後、気まずい沈黙が落ちたところに投げ入れられた声が、陰鬱になり掛けた空気を一掃する。
凪、と呼ばれたスタッフは、肩を竦めてカウンターキッチンに歩を進めた。
「ねぇ、あなた達、夕食は?」
次いで訊かれて、紗藍と里奈はもう一度顔を見合わせる。
「あ、あの、あたし達は……」
「そうです。あの……悩み相談に来ただけだし」
「て言っても、もう六時半回っちゃってるよ? お話聞いてたら遅くなると思うし……あなた達、家はどの辺?」
そう言われて、女性の視線に釣られるように壁に目を向けると、そこに掛かった丸い文字盤を持つ時計の針は、確かに六時半過ぎを指している。
「ここまでどのくらい掛かったっけ」
里奈に訊かれて、紗藍は口をへの字に曲げた。
「んー……出た時間見てなかったからなぁ……五時くらいだったと思うけど……」
あの不気味ナルシストに追い立てられるように家を出た為、確認していなかったのだ。
(でも、出直すとなるとまたいつアイツの妨害に遭うか分からないし……)
出来れば解決の道筋は、早い内に付けておきたいのが正直なところだ。
「食べていらっしゃいよ。あ、その前に二人共、ご家族にはきちんと連絡してね。帰りは送ってくから」
「え、そんな」
「そこまでお世話になる訳には……」
里奈と紗藍は、揃って胸元辺りで両手を振る。
ただの遠慮でないと明後日の方向に解釈したのか、見兼ねたらしい“凪”が口を挟んだ。
「安心しとけよ。朝姉ならおかしなコトにはならねぇから。何てったって元刑事だし」
え、と口を開けて、里奈と紗藍はまたも同じタイミングで“朝姉”と呼ばれている女性を見る。
「もう十年くらい前に辞めたけどねぇ」
あはは、と軽く笑いながらテーブルに歩を進める彼女の両手には、カレーライスの乗った皿があった。
「ね、食べてって。話はお食事しながらゆっくり聞きましょ」
***
二人はそれぞれ、ストレートボブヘアの方が不破朝霞、緋色の髪の方が千明緋凪と自己紹介した。
名前からすると、朝霞の方が店主で、緋凪はスタッフだろう。バイトか正社員かは区別が付かなかったが。そもそも、緋凪の方も年齢がよく分からない。
仕事を共にしているということは、彼女らはそれなりに親しい間柄なのだろう。しかし、正確にはどういう関係なのかと、紗藍は訝った。
苗字が違うのと、緋凪が使う朝霞の呼び名から、親子という訳ではなさそうだ。姉妹という推測も成り立たない。顔の造りそのものが全く違う。
「……ふーん。大体の事情は分かったわ」
紗藍の脳内の詮索を余所に、そう朝霞が言う頃には、彼女の皿はカレー、付け合わせのサラダ共、空になっていた。里奈も、ほぼ食べ終わっている。
当事者の紗藍は、殆ど喋りっ放しだった為、まだカレーが半分程残っていた。
ちなみに、緋凪は二杯目のカレーに口を付けている。あの細い身体のどこに、そんなに食べ物が詰め込めるのかは謎だ。
「それで、最終的にはどうしたいの?」
「……え?」
緋凪が意外に大食らいだということに、内心度肝を抜かれていた為、朝霞が続けてそう言ったのに、紗藍は一拍反応が遅れた。
「え、じゃねぇよ。自分のコトだろ。俺らにどうして欲しくてココに来たのかって訊いてんだよ」
当の緋凪にそう言われて、少しムッとする。
先刻は、その美貌ばかりに気を取られていたが、明るい光の下でよく見れば、彼女は正文とそう年の変わらない少女に見える。だのに、どうしてこう言葉遣いが乱暴なのだろう。言い回しも失礼だし、第一、一人称が『俺』だなんて、どこまでも残念な子だ。
「何見てんだよ。俺の顔見たって答え書いてねぇぞ」
半眼で紗藍を見た緋凪は、酒でも呷るようにして、実際には水の入ったグラスを傾ける。
「その前に、一ついいですか?」
堪り兼ねた紗藍は、つい口に乗せていた。
「何」
自分が発言したと気付いたのは、緋凪が相変わらず無愛想にそう返した時だったが、言ってしまったモノは今更なかったことにはできない。
「あのですね。失礼ですけど、千明さん、今お幾つ?」
「はあ?」
緋凪には脈絡のない質問に思えたのだろう。思い切りその眉間に皺が寄ったが、彼女は特にそれ以上反駁せずに答えた。
「っとに失礼だな。十七だよ。それが何」
十七、という年齢を聞いて、年下だと分かった途端、紗藍の口調は砕けたものになった。
「だったら、もう少し年上を敬ったらどうなの。それに、その言葉遣い、あんまり褒められたモンじゃないわよ。言葉遣いは百歩譲っても、一人称が“俺”なんて、美人が台無しじゃない」
緋凪は、瞬時唖然として紗藍を見た。口に運びかけたスプーンから、カレーとライスが皿の上に落ちそうになっている。
だが実際、落ちる前に、ガシャンと派手な音を立てて、彼女は皿にスプーンを戻した。同時にその顔が空いた手で覆われる。
何がどうしたのかと思った頃、彼女の肩が小刻みに震え出した。
え、何。もしかして、泣いてる? そんなにキツい言い方だったかしら。
そう思った途端、空気が抜けるような声が漏れ、直後にそれは大爆笑に変わった。
今度は、紗藍が唖然とする番だった。恐らく里奈も同じようにあんぐりと口を開いているのが、何となく想像できる。
朝霞は一人、我関せずとでも言いたげに、何事もなかったように立ち上がって、自身の使った食器を流し台に運び出した。
テレビも付いていないダイニングには、緋凪の笑い声だけが響いている。
「はっ……は、あはっ……あー……笑った笑ったー……ええー……何だっけ。誰を敬えって?」
だ、だから、年上には敬意を、と言いたかったが、あまりにも長いこと爆笑されていたので、まだ開いた口が塞がらない。
「そう言や、あんた達年上なんだっけ。大学生だもんなー。でも、悪いけど俺、無駄に年食うだけ食って尊敬に値しない大人、腐る程知ってるんでね。尊敬できるかどうかは人となりを見てからって決めてんだよ」
くっくっ、と笑いの残滓を引き摺りながら、それとも、と挟んで緋凪は続ける。
「敬語で話してれば即相手を尊敬してるコトになる訳? 形だけの尊敬が欲しけりゃ、いっくらでもくれてやりますよ、お姉様?」
彼女が言うと、いっそ嫌みに聞こえることに今更ながら気付いた。それでも何か巧い反論の言葉がないかと探す間に、緋凪は笑いすぎて涙の滲んだらしい目尻を擦りながら言葉を継ぐ。
「それに一人称まで口出される謂われはねぇな。“俺”じゃなかったら何て言えばいい訳?」
「だ、だから、“あたし”とか“私”とか」
わたくし、とまでは言わないから、と口に乗せる前に、緋凪は再度吹き出す。
「はっ、はっ、腹痛ー! 何あんた、俺を笑い死にさせる気?」
何がそんなにツボにハマってしまったのか、もう二杯目のカレーを放り出して肩を震わせる緋凪に、台所から戻った朝霞が顔を顰めた。
「凪君。お代わりしたならさっさと食べちゃってよね、片付かないから。あ、紗藍ちゃんと里奈ちゃん、食後のコーヒーとかいらない?」
「え」
里奈が目を瞬いて朝霞の方を向く。
紗藍の方は、笑いの発作と折り合いを付けるのに苦労しているらしい緋凪を、どうしていいか分からない目で見るしかない。
「あの……緋凪ちゃん?」
下から覗き込むようにして、テーブルの端の席――所謂、お誕生日席という位置――に座って背を丸めている緋凪の顔を見る。年下と分かったので、完全に砕けてチャン付けで呼び掛けた途端、緋凪は色の違う両目で紗藍を睨め付けた。
「――ちゃん、とか止めろ、キモいから。つーか、俺オネェになる気とかないし、その趣味もねぇし」
今の今まで爆笑していた人間が、瞬時に笑いを引っ込めて言った内容に、紗藍は一瞬目を瞠った。
今――彼女は何と言ったのだろう。
『オネェになる気がない』。そう、言わなかっただろうか。
思わず確認するように里奈の方を振り向くと、里奈も同様に目を見開いている。
「あのね、二人共。すっごい誤解してるみたいだから、一応訂正するけど」
朝霞もどこか苦笑を浮かべながら、既に空になっている里奈の食器を重ねる。
「凪君はね。正真正銘、男の子なのよ?」
オトコノコ。
その単語が、うまく頭に入って来ない。より正確に言うなら、『男の子』という単語と、目の前の美貌の人物が結び付かない。
たっぷり三十秒は考えた後で、ノロノロと里奈の方へ改めて視線を向ける。
里奈も大方、似たようなところだったらしい。
同じ程の速度でもう一度緋凪を見て、互いの顔を見合わせる動作を繰り返した二人は、うっそー! と合唱した。






