scene.2 糸口
紗藍は、暫くの間、そこに佇んでいた。
頭がひどく混乱して、身体を動かすことができない。
今、遠ざかっていく背中の主は、何と言ったのか。
(……確か……)
そうだ。
進藤正巳――彼が、自分達母子の生活費を賄っていたと。
一体、どういうことだろう。
父が、正巳の娘――つまり、今の妻である美友紀に、謂わば略奪される形で母と離婚したのを知ったのは、九つの時だ。
聞けば、正巳は愛娘の願いを叶える為、父には病院内での権力をちらつかせ、母に対しては相当な金を積んだらしい。
この金をやるから、父と別れろ。そして、二度と関わるなと。要するに手切れ金だ。けれど、母はそれを受け取らなかった筈だ。
その代わり、父からたっぷり慰謝料と、紗藍が成人するまでの月々の養育費をふんだくることには成功している。
それなのに、何故そこに正巳が絡んでくるのかが分からない。
そして、室橋総合病院の副院長の座と、父の血を引く娘が必要だという理屈が繋がる理由も分からない。
分からないことだらけで頭がパンクしそうだ。分かっているのは、このままではいずれあのいけ好かないナルシストと結婚させられるということだけだった。
***
「……それで今まで授業サボってたの?」
「だって……」
訪ねて来た里奈が、呆れたように言ったのは、英治と遭遇した三日後だった。
紗藍はと言えば、カーテンを閉め切った自室で、ベッド脇の床で膝を抱え、俯いてボソボソと答える。
「外に出たらまた何かあるんじゃないかって怖いんだもん」
あの後、紗藍は衝動的に、母が医療事務員として勤める病院を訪ね、英治の言っていたことの子細を質した。
結論から言えば、英治の話は正しかった。
『……英治さんの言う通りよ。お父さんからの養育費の他に、進藤院長からも手切れ金代わりに毎月お金を入れて貰ってたの』
正確には、過去形ではなく今現在進行形で振り込まれているらしい。
『何でそんなコトしたの!?』
『母さんが欲しいって言った訳じゃなく、向こうから受け取るようにって毎月振り込む口座を渡されて……くれるって言うんだから貰っといてもいいかと思って』
『だからって……! 最初の手切れ金は受け取らなかったクセに!?』
『時間が経ったら、当然の報いだって思えるようになって……勿論、あの人達にとっての、だけど』
金ででも何でも、一生涯償い続ければいい、と思ったのだと、母は言った。
しかし、父を売り払って得るような金なんて、汚いと思わなかったのだろうか。どうせ向こうは、これで札束ビンタすれば大金に縁のない一般人は何でも言うことを聞くと、味を占めただけに違いないのに。
呆れて言葉を失う紗藍に、あろうことか母は更なる追い討ちを掛けた。
『実はね……あなたの大学の諸費用も全部そこから出してたの』
『嘘でしょ!?』
反射で出た言葉は、少しの間という条件で使わせて貰っていた、規模の小さいカンファレンス・ルーム内を飛び跳ねた。
『ごめんなさい。この結婚がどうしてもイヤなら、あんたの好きにしていいわ。卒業までくらいならお父さんにも相談して、どうにかなるようにしておくし、来月から引き落とし口座を変えるように大学に申し込んでおくから……』
当たり前だ! と叫ぶなり、紗藍はその場を辞して来た。
そんな金で今まで学んで来たのかと思うと、吐き気がする。大学は出たいが、このまま通い続けるのは何とも複雑だ。
しかも、母はああ言ったが、現実的な問題として、英治との結婚を受け入れなければ、どうなるかは読めない。
高校卒業後の進路を決める際には、紗藍はもう母に対してわだかまりを持っていた。故に、少し困らせてやろうと思ったのが、音大に進んだ動機の四割程を占めている。
だが、あっさり音大行きを許してくれた時には拍子抜けした。国公立か私立かで差はあるが、音大となれば母子家庭にはそれなりに痛い筈だ。しかし、母は反対するどころか、躊躇する素振りも見せなかった。
とは言え、どういう動機であれ、残りの六割は、得意分野を極めたいと単純に思ったのだ。受験勉強は中々苦しかったが、合格した時は素直に嬉しかったし、授業も楽しく受けている。
だというのに、思わぬ横やりが入った格好になって、紗藍の脳内はとうにパンクを通り越しフリーズ状態だった。
「――まあ、あんたも器用じゃないもんねぇ……」
吐息混じりに言った里奈は、ベッド脇の床に座る紗藍の横に腰を下ろす。
よしよし、と頭を撫でてくれる里奈の手の温もりに、涙が出そうになった。
流石に彼女も付き合いが長いだけあって、紗藍の性分を心得ている。
良く言えば真っ直ぐ一途、悪く言えば猪突猛進。一つのことに夢中になればいい方向へ力を発揮することもあるが、時に周囲が見えなくなるタイプだ。
裏返せば、器用にあれもこれもと、複数のことを同時にこなせる性格ではない。キャパを越えるとパニックを起こすと言い換えてもいい。
周囲が全員敵に等しいこの状況では、もうどうしたらいいか分からない。祖父母も、心情的には恐らく紗藍の味方をしてはくれるだろうが、食事会を了承した経緯からすると、いつ何時、両親の肩を持つか分からないところがある。
何もかも、先行き不透明だ。だから紗藍は、スマートフォンの電源をオフにし、自宅へ閉じ籠もることしかできなかった。
連絡が取れなかったからこそ、里奈もここを訪ねて来たのだろう。
「……そう言えば、弟君とはあの後会ったの?」
「ううん。それどころじゃなくなったし……」
具合が悪くなったから早々に家へ戻る、とだけメールで告げて、正文との約束はキャンセルした。
その後、彼から返信があったかどうかは知らない。母に会った後、正文にそのメールを送り、すぐに電源をオフにしたからだ。
いつ、あのナルシストから連絡が来るかと思うと、気が気ではなかった。
里奈にも、紗藍の頭を撫でるより他にできることがなかったのだろう。互いに無言になった室内に、沈黙が落ちた。
それが、どのくらい続いただろうか。不意に部屋をノックする音がして、祖母が顔を出した。
「紗藍ちゃん。あの、正文君が来てるんだけど、通していいかな?」
「え」
目を瞬いた直後には、いいも悪いも言わないのに、正文が祖母の後ろからやや強引に部屋に滑り込んで来た。
「紗藍姉」
「文君……何で」
学校帰りにここへ寄ったのだろう。開襟シャツの上にベストと、スラックスという制服姿の正文は、そこにいた里奈には目もくれず、紗藍に近付く。
何事かと、里奈も紗藍に倣うように正文を見上げた。
すると、彼は折り畳んだメモのようなものを紗藍に差し出した。紙の大きさは、A7サイズの半分くらいだろうか。紗藍は、正文とメモとを見比べるようにして視線をウロウロさせる。
代わりにメモを受け取って開いた里奈が、それを紗藍にも見せた。
そこには、『カフェ・不破古書店』の文字と、住所、略地図、電話番号と何か文章が記されている。文字は、パソコンの印刷文字のようだ。
「……これ、何?」
唐突にカフェを紹介される意味が、そもそも分からなかった。
余談ながら、紗藍の趣味は読書だし、カフェ巡りも好きだ。それを、正文にも話したことがあるかも知れないが、分からないのは何故今このカフェを紹介されたのか、だ。
捻りも何もなく疑問を投げると、正文はその場へどっかりと腰を下ろして口を開く。
「紗藍姉の役に立つんじゃないかと思って」
「え?」
「こないだは、それを話そうと思って放課後会う約束したのに、紗藍姉、一方的にキャンセルしたろ」
「あ、ああ、うん……」
怒っているのだろうか。
連絡した直後にはもう、こちらに連絡が取れなくなっていたら、正文でなくても気分を害するだろうけれど。
だが正文は、顔色から読んだと言わんばかりに、苦笑を浮かべて「別に怒ってる訳じゃないよ」と言った。
「事情は大体知ってる。多分、紗藍姉以外であそこにいた人は全員」
そこで正文は、チラッと里奈に視線を投げた。
鷹森の祖母はともかく、彼にとって初対面の里奈は、血筋の上でも部外者だし、警戒したのだろう。
「いいの。彼女も大体知ってるから」
「そう」
なら、とばかりに正文は先を続ける。
「紗藍姉が英治のコト嫌ってるのも知ってる。俺も、個人的にはこの結婚にはって言うより、紗藍姉の相手としてアイツは反対だ。紗藍姉が不幸になるくらいなら、アイツを殺したっていいと思ってる」
「文君」
名を呼ぶ声に、若干彼の発言を咎める色が滲んだ。たとえ冗談でも、どんな人間が相手でも、“殺す”なんて口にしては駄目だ。
それも、顔に出たのだろう。正文は眉尻を下げて苦笑する。
「ごめん。でも、それくらいしなきゃ、アイツは止まんないってコト。進藤の家には別にメリットも何もない結婚話だけど、室橋の家は必死だからさ」
「どういう意味?」
「今度、東雲総合病院と室橋総合病院が合併するって話が進んでるのは、当然知らないよな?」
初耳だ。
その意を込めて首肯すると、正文は小さく頷き返した。
「東雲の方が室橋より立場が上――つまり、室橋が吸収合併される形になるのは決まってるんだ」
紗藍が目を見開く間にも、正文は言葉を継ぐ。
「でも、当然室橋はそれじゃ面白くなかった。それで、ウチの祖父さんに交渉したらしいんだ。どうにか室橋の名を残して、敏晴のおっさんが院長で居続けられる――まあ、つまり表向きは合併なんかなかったように見えるようにできないかってね」
そこで、進藤正巳は、結婚によって縁続きになれれば、という条件を出したらしい。
「けど、知っての通り、親父と母さんの間には息子しかいない。向こうにも適齢期の人間は英治の奴一人だった。祖父さんには、最初っから敏晴のおっさんの要求を呑むつもりなんてなかったから、そんな条件出したんだろうけど」
焦った室橋敏晴は、一度進藤一族について徹底的に情報を集め、父に紗藍という娘がいることを突き止めたという。
「この際、親父の血を引いてれば、進藤の血が入ってるかは不問にしてくれって、かなり必死に食い下がったらしいぜ」
「でも、それじゃ、おかしくない?」
もう一杯一杯の紗藍に代わって、里奈が口を開いた。
「何が」
「だって、君……えーっと、進藤の家には何のメリットもない結婚話だって言ったわよね?」
「ああ」
「進藤の方が立場が上で、吸収合併するコトが決まってるから、つまり進藤家にとっては、この結婚自体は無理に進める必要ない、とも言ったわよね?」
「言ったよ」
「じゃあ、何で今更、紗藍のお母さんがあなたのお祖父様に脅し掛けられなきゃなんない訳?」
「脅し?」
そこで初めて正文が、眉根を寄せて首を傾げる。
その辺りは、正文も知らないようだ。そう気付いて里奈の方を見るが、里奈は構わず続けた。
「そうよ。紗藍のご両親が離婚してから、あなたのお祖父様も紗藍のお母さんに金銭的な援助をしてたそうよ。もし、この結婚が破談になったら、今まで支払った援助金を全額返金するようにって要求があったって」
あちゃ、と紗藍は首を竦めた。
本来、この結婚話は正文には何の責任もないことだ。だのに、こんな話をしたら、また何をやらかすか分からない。
何しろ、自分の母親が奪略婚で父を得たことを気に病んで、腹違いの姉の所在と電話番号をわざわざ調べて謝罪に来るような少年なのだ。要するに、変なところで正義感と責任感が発達していて、しかも、周囲の大人に一切知られることなく、自身が決めたことをやって除けられる能力を持っている。
恐る恐る正文に視線を戻すと、案の定、彼は表情を強張らせている。しかし、それも一瞬で、「あンのクソ爺のやりそうなこったな」と溜息に乗せて吐き出した。
「……どういう意味?」
「あのヤロー、プライドだけは高いんだよ。一度は自分も認めたコトを、外部的な要因でなかったコトにされるのが我慢ならないってトコだと思う。まあ、言い出したら取り消さないだろうな」
正文は言いながら、苛立ったように側頭部を掻き毟る。唇を噛み締め、瞬時目を伏せたかと思うと、居住まいを正した。
「ごめん」
頭を下げられ、紗藍はどこか時間を逆行したような錯覚に陥った。
『ごめんなさい』
初めて会った時も、やはり正文はこうやって出し抜けに頭を下げていた。
「ちょっ、ちょっと! 何で文君が謝るのよ」
紗藍は慌てて腰を浮かせる。
「今回の結婚話は、文君の責任じゃないでしょ」
「……だって、俺には何もできないから」
殺していた息を吐き出すように言いながら、正文は頭だけを上げた。まだ、視線を逸らすように伏せている顔は、苦々しい表情を刻んでいる。
「今日だって紗藍姉を助けに来たつもりだったのに……根本的な解決の為に俺ができるコトはないんだ」
悔しいよ、と呟いて、膝に突いた拳を握り締める姿は、十七という年齢よりずっと幼く見えた。
「――で、話戻すけど」
瞬時、落ちた沈黙を破ったのは、やはり里奈だった。ある意味当事者でない分、彼女はこの場にいる誰よりもいくらかは冷静だ。
「君……文君、でいいの?」
「あ、ああ」
里奈に確認されて、彼女の方へ顔を向けた正文に、里奈は彼の持っていたメモを翳した。
「文君が持ってきたこのメモが、事態打開の糸口になるんじゃないの?」
あ、という顔をして、正文が目を瞬く。
「この店が、どう紗藍の助けになるの?」
助けになるかも知れない。確かにそう、堂々と言って差し出した割に、正文は躊躇するように口を閉ざした。
「どうしたの?」
促すように紗藍が訊くと、更に逡巡して目線をウロウロと彷徨わせた正文は、またしても「ごめん」と言った。
「正直、どこまで助けになるかは分からないんだ。あやふやな都市伝説みたいな話だから」
そう前置きして正文が語ったのは、ネット上のある掲示板で、まことしやかに囁かれている噂だった。
***
正文の趣味の一つに、ネット遊びがある。
要するにネットサーフィンだが、正文のそれは“普通”の規範を遙かに越えていた。彼自身の言に拠れば、かなり危険な場所にも出入りするらしい。通称でアンダーネットと呼ばれる類の場所だと聞かされた時は目眩を覚えたが、彼の無謀を咎めるのは取り敢えず後回しにした。
しかし、彼がその“噂”を拾ったのは、意外にも“普通”に閲覧できる掲示板だった。
大手検索サイトの、所謂、質問掲示板の類だそうだ。
何でも、『友達に援助交際させられて、どうしたらいいか悩んでる。警察にも行けない事情がある』とか何とかいう、それこそ紗藍には遠い世界の相談の回答欄に、『ダメ元で訪ねてみれば』と書かれていたのが、正文が差し出したメモの店だった。
アンダーネットへ出入りする彼も、噂の真偽を確かめることはネット上だけではできなかったという。ただ、相当数の噂が飛び交っていたのも、ネット上ならではだったらしい。
「――とにかく、店が実在するのは確かだよ。住所まで行って、一応確認したから」
一通り話を、正文はそう結んだ。
「それで、この店に行ったら、何かしてくれる訳?」
里奈が、指に挟んだメモをヒラヒラさせながら、若干呆れたような声音で返す。本当に雲を掴むような話だったからだろう。
「カフェやら古本屋やらがどうにかできる話とは思えないケド」
「そう言われちゃ、身も蓋もないよ。けど、何もしなきゃ、紗藍姉はアイツの奥さんになるしかないんだぜ。こんなコト、それこそ家族間の話で、警察とか法律だって介入してくれる訳ないし……紗藍姉はこのままアイツと結婚したいの?」
正文の真摯な視線に、紗藍はブンブンと首を振る。
あんなナルシストな上に、自己中な上から目線男の妻になるくらいなら、死んだ方が遙かにマシというものだ。
「じゃあ、それこそダメ元で行ってみようよ」
正文の方が、縋るように紗藍の手を握る。
「善は急げって言うだろ。できれば今すぐ」
紗藍は、困ったような表情で正文を見、次いで里奈に視線を移した。彼女も迷うような顔をしてはいたが、やがて頷く。祖母の方を見ると、彼女は微妙な表情だった。
「紗藍ちゃん。取り敢えず、お店自体は怪しいモノじゃなさそうだし、行くだけ行ってくれば? 息抜きにはなるわよ」
流石に、この中では一番人生経験が長いだけあって、全てを即座に鵜呑みにはしない。だが、やはり閉じ籠もり切りになっている紗藍を案じていたようだ。
外出するにしても、正文と里奈が付いていてくれるなら、心強いと思ったのだろう。
最終的に、祖母の一言に背中を押される形で、紗藍は一つ頷いて立ち上がった。
初夏とは言え、今はまだ朝晩は寒い。
はっきり言えば、近年は砂漠気候と思えるような気温パターンだ。
もう夕刻に近かった為、紗藍は一応薄手の上着を引っ掛け、財布などを持った上で、里奈、正文と共に玄関を出た。
門扉のすぐ脇に、どこのヤーさんかと訊きたくなるような黒塗りの高級車が停まっているのに気付いたのは、直後のことだった。
運転手も、紗藍達に気付いたのだろう。
開いたドアの向こうから顔を見せたのは、いけ好かないナルシスト――基、室橋英治だった。