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scene.1 抜き打ち見合い

「お嬢さんは、今何をしていらっしゃるの?」

「音大生です。声楽科を専攻しています」

「まあ。でも、英治(えいじ)の妻になったら、音楽家の道は諦めて頂かないとね」

「分かっています。本人も承知の上ですよ」


 違う。全然承知なんてしてない。

 そもそも、目の前で繰り広げられているのは、一体どういう冗談なのだろう。


 自分の父親を名乗る男が口にした台詞に、彼を()め付ける鷹森(たかもり)紗藍(さらん)は、とてもではないがテーブルに並んだコース料理を口に運ぶ気分ではなかった。


〈今度、家族で食事がしたいの〉


 今を去ること、一ヶ月前。

 珍しく、母からメールではなく電話でそう言われた時、何かおかしいと気付くべきだった。


『“家族”って……あたしとお母さんでってコト?』

 訝しく思いながらも、そう訊ねた記憶が、どこか遠い。

〈ううん。その……別れたお父さんとよ。紗藍はあまりいい気分じゃないだろうけど〉

 歯切れ悪く答える母に、『本っ当に気分悪いわよ』と素直に切り返した。

 両親が、紗藍からすれば今時有り得ない理由で別れたと知った時から、母との折り合いも悪くなった。両親を許す理由として、“血の繋がり”だけではどうしても根拠が薄かったのだ。

 そういう訳で、紗藍は小四の頃から母方の祖父母の家で育った。よって、祖父母が養父母のようなもので、今も彼らの家から大学に通っている。

 直球で返された所為か、母も一瞬鼻白(はなじろ)んだように黙り込んだ末に、〈……とにかく〉と言葉を継いだ。

〈今度の日曜日なんだけど、空けておいて貰える?〉

『無理』

 紗藍は即答した。その日はバイトが入っている。

『あたしはお母さんの都合良く動けるお人形じゃないの。急に言われても無理。あたしにだって生活も予定もあるの』

 冷たくあしらうも、珍しく母は食い下がった。

〈予定って何?〉

 どうやら、断る口実と思ったらしい。

『バイト。言っておくけど、その次も無理よ。土日祝日が書き入れ時なの。悪いけど“将司サン”にもそう言っておいて』

 わざと“お父さん”と呼ばず、名前で嫌みったらしく強調してやり、母が何か言い返す前に通話を切った。

 だが、敵もさる者、というやつだろうか。

 平日、授業が早く終わる日をまるで狙ったように(というより、まるでも何も狙ったのだろうが)、父と母が揃って校門前で待ち構えていた。

『どうしても話したいことがあるんだ。今日、時間いいかな?』

 口を切ったのは父だったが、紗藍は不快感も露わに吐き捨てた。

『あたしにはありません。学校にまで押し掛けて来ないで下さい。はっきり言ってメーワクです』

 ここでもわざと敬語で言って、足早にその場を去ろうとした。

 すると、父の声が背に追い縋って来た。

『じゃあ、明日も来るよ。本当に大事な用なんだ。紗藍が一緒に来てくれるまで、毎日でも通うから』

 その日は無視したが、両親は翌日から本当に毎日放課後、校門前で待ち構えるようになった。

 堪り兼ねて、いくら両親でもストーカー被害の届けを出す、と訴えると、翌日には校門に両親の姿はなかった。――と思いきや、祖父母の家前にその姿はあった。

『いい加減にして! 本っ当に訴えるから!!』

 癇癪を起こして叫ぶと、意外にも父は『いいよ』と答えた。

『但し、僕達の頼みを聞いてくれたら、だ。大きくなった娘と外食したいっていう(ささ)やかな頼みさえ、聞き入れて貰えないのかい?』

『何が細やかよ! そんなの今更じゃない!! あんたが勝手な理由であたしとお母さんを捨てたのを、知らないとでも思ってんの!?』

 痛いところを突いたのは間違いなかった。

 父は瞬時、ばつの悪そうな顔をして目を逸らしたが、『頼むよ』と恥知らずにも繰り返した。

『これが最後の頼みだ。最後に食事してくれさえすれば、僕はもう二度と君の前に現れない。父とも名乗らない。だから……お願いだよ』

『紗藍』

 縋るように名を呼んだ母を一瞥して、『嫌!』と鋭く言い捨てると、自宅に入ろうとした。ところが、卑怯な両親は後から有無を言わせず入って来て、祖父母を味方に付けたのだ。

 悔しいかな、今や育ての両親となった祖父母に頼まれれば嫌とは言えなくなってしまった。授業が早仕舞いの平日、まんまと夕食会に参加させられる仕儀になり――


 そして今、両親のみならず、初めて会う人間が数人も、何故か夕食を共にしている。


「ところで、英治さんは、やはりお医者なんですよね?」

 父が訊ねると、英治、と呼ばれた青年は頷いた。

「はい」

「失礼ですが、お幾つかな」

「二十四になります」

「ほう。じゃあ、ちょうど年齢も釣り合いますね」

 父が言うと、父と同じ年代と思われる男性が鷹揚に首肯する。

「若輩ですが、今度理事会に(はか)って、副院長に就任する予定ですよ」

 英治の父だと自己紹介した人物だ。確か、室橋(むろはし)敏晴(としはる)と言ったか。

 縦長の輪郭に長くてごつい鼻筋が印象的で、目元口元には既に皺が刻まれ始めている。

「しかし、今二十四と言うことは……」

「飛び級で卒業しましてね。こう言うと親ばかと思われるかも知れませんが、英治は非常に出来がいい」

 テーブルが笑いに包まれるが、紗藍だけはやはり笑う気分ではなかった。というより、とっくに我慢の限界を通り越している。

 俯くと、ここへ来る前に美容室でセットさせられた、天然パーマの髪先が一筋、視界に流れた。リップを薄く引いた唇を噛み締めていないと、訳の分からない言葉を叫び出しそうだ。

 そんな紗藍が、食事に手を着けていないのに目敏く気付いたのか、父の現在の妻である美友紀が声を掛けてきた。

「あら、紗藍ちゃん、どうしたの? 全然お食事進んでないみたいだけど」

「まあ。具合でも悪いの? 紗藍」

 取って付けたような母の声に、遂に堪忍袋の尾が切れた。

「悪い! 思いっ切り悪いわよ!!」

 立ち上がるなり、紗藍は膝に掛けていたナプキンを掴んで、テーブルの上に叩き付けた。

 唐突に叫んだ紗藍に、一同が呆気に取られたようにこちらを見上げている。

「紗藍、一体どうし」

「どうした、じゃないわよ! 何なの、これ!」

「何って……」

「お見合いでしょ?」

 父が取り繕おうとするように言い掛けた声に被せるように、美友紀がズバリと率直に答えた。

「まあ、見合いって言うより、決まった結婚話の顔合わせに近いよね」

 クス、と笑ったのは、見合い相手の英治だ。

「決まった結婚ってどういう意味?」

 一通り叫んで荒くなった呼吸を整えながら、紗藍は顎を引いて低い声で英治を問い詰めた。

「どういうって……物分かりの悪い人だなぁ。こんな女性が妻になるかと思うと眩暈がするよ」

「こっちの台詞よ! 第一、見合いだの決まった結婚だのって、聞いてないわよ! あたしはただ将司サンが親子三人で最後の晩餐がしたいって泣いて頼むから、仕方なく来てやったのよ!?」

 ギッと音がしそうな勢いで父を睨み付け、紗藍は再び沸騰したままに怒鳴り続ける。

 割に上流のレストランではあるが、個室なので、他の客の目を気にしなくていいのが、いいのか悪いのか。

「なのに、何これ! 騙し討ちみたいにお見合いの席が準備されてるなんて、呆れてモノも言えないわ!」

「言ってるじゃない」

「うるさい! 揚げ足取らないで!!」

 のんびりした英治の声音に、尚更腹が立つ。

「あたしはこんな男と結婚なんかしないわよ! 誰の差し金!?」

「それは、」

「どういう意味かな、進藤(しんどう)副院長」

 紗藍に何度目かでギリギリと睨み付けられた父が、弁解しようとしたところに透かさず確認を取ったのは敏晴だ。

「てっきり娘さんもご納得されているのかと思っていたが」

「いえその」

「誰が誰の娘よ、信じられない!」

 紗藍は、ショルダーバッグを手に、足音も荒くその場を後にしようとする。

「紗藍、待ちなさい!」

 追い掛けてくる母の声も、心底煩わしい。

「紗藍」

「放して!」

 肩に手を掛けられ、紗藍は反射的に振り払った。パン、と甲高い音が室内に響き、母が驚いた顔をしている。だが、そのどれも気にならなかった。

「お母さんも知ってたの」

「紗藍」

「ひどい。サイテーね。あんたなんかもう母親と思わないわ。あんたもよ、将司サン。もっとも、あんたの場合、最初っから父親と思ったコトなんてなかったけど」

 父と母を応分に睨み付けながら、尚も言葉を継ぐ。

「あんた達、もし今度あたしに会いに来たら、今度こそストーカー被害で訴えるから、忘れないで!」

 きっぱりと最後通牒を突き付けると、紗藍は今度こそその場を後にした。


***


「うわー……そりゃ、何て言うか……災難だったねぇ」

 ペットボトルのお茶を片手に言ったのは、親友の渡瀬(わたせ)里奈(りな)だった。

 シャギーにカットされたセミロングの髪を、頭頂部で纏め上げている彼女は、勝ち気で活発そうに見えるが、一応これでもピアノ科専攻の生徒である。


 あれから三日経っていた。


 直後に帰宅してからも祖父母に延々と愚痴を零したが、簡単に気持ちの整理の付くものではない。

 ようやく鎮静し掛けていた怒りは、昼休みに入ろうかという頃になってたまたま出くわした里奈に話したことで、再燃してしまった。

「そうなのよ! 大体おかしいわよ。“あんな理由”であたし達を捨てたクセに、今頃になって父親(ヅラ)して会いに来て、結婚しろとか有り得ないでしょ」

「有り得ないね。ホント同感」

「そー言ってくれるの、里奈だけだよぅ」

 くーっと彼女の胸元に泣き付く仕草をすると、彼女もよしよしと頭を撫でる。

 中庭のベンチで身を寄せ合う彼女達は、端から見るとやや滑稽だ。

 紗藍達が座ったベンチの背中に当たる場所には、大きな桜の木があった。入学式の前後には、満開になった桃色の花を付けていた枝には、今は緑色の葉が茂り、強くなっていく日射しを上手に遮っている。

 初夏の時分で、まだ外でランチと洒落込むのも悪くはない。

 里奈の胸元から顔を上げた紗藍は、緑の隙間から零れる木漏れ日をぼんやりと眺めた。

 目の前の風景は平和過ぎて、あの夜の修羅場が嘘のようだ。

「――で、その後、ご両親から何か連絡あったの?」

「ある訳ないじゃない」

 訊かれて、紗藍は溜息と共に言うと、手にしたサンドイッチにかぶりつく。

「まあ、訪ねてきたら警察に通報する、とは言ったけど、考えてみたら電話は言ってないから……用事があれば連絡してくるだろうけど」

 出来れば暫くはそっとしておいて欲しい。と言うより、もう当分口も利きたくない。

「鷹森のお祖父(じい)ちゃん達は何て?」

 里奈は、紗藍の家――正確には母方の祖父母の家だが、その近所に住んでいる。紗藍が祖父母宅に引き取られて来た直後辺りからは家族ぐるみの付き合いの所為か、里奈も紗藍の祖父母を“お祖父ちゃん”“お祖母(ばあ)ちゃん”と呼んでいた。

「流石に頭に来てたのか呆れてたのか……あたしの携帯は母親からのは通話もメールも着拒にしたし、家に連絡して来たのも取り次がないでくれてるけど」

 祖父母にしてみれば、血の繋がった娘だ。紗藍程、嫌気を覚えていない分、いつまた母に理解を示すかは分からない。

「もう家出ちゃうとか」

「うーん……」

 遠くない将来には、そうしなければならないだろう。

 そもそもは、両親の離婚理由に、紗藍が子供ながら荒れ始めたのを見兼ねて、祖父母は手を差し伸べてくれたのだ。だが、紗藍も来年には成人を迎える。

 二人は、大学を卒業するまではいるように言ってくれているが、それもそう長いことではない。

 だが、口で言う程簡単でもなかった。今時は、きちんと大学を出たところで、就職の保証などない世の中だ。

 音大を出たところで、余程有名なコンクールを総嘗(そうな)めにでもしない限りは、オーケストラやらオペラ団やらの演奏だけで食べていける保証は尚更ない。

 今やっているアルバイトも、正直なところ、ちょっとリッチな小遣い程度の稼ぎで、祖父母宅に世話になっていなかったら、とてもじゃないが衣食住まともには賄えないだろう(ちなみに、結婚式場の生演奏のバイトだ)。

「もうちょっと、稼ぎがどうにかならないとなぁ……」

 家を出る、というのは当面、現実的な案ではないと思う。

 ペットボトルの紅茶で、最後のサンドイッチの欠片を流し込んで溜息を吐いた。

 時間を見ようと取り出したスマートフォンが、そのタイミングで震える。画面に映し出された名前は、“文君(ふみくん)”だった。

「……誰?」

 里奈も横から覗き込んでいたのか、眉根を寄せて訊ねる。

「……弟」

 短く答えて、紗藍は画面をタップした。


***


 進藤(しんどう)正文(まさふみ)は、正確に言えば異母弟だ。

 父が母と離婚し、今の妻であり、東雲(しののめ)総合病院院長の一人娘である美友紀と再婚してから生まれた長男である。


 昼休みにあった連絡は、『放課後会えないか』というものだった。


 そもそも、彼と初めて会ったのは、紗藍が中三の頃に遡る。

 向こうが、かなり無謀にも、母の出里である鷹森家へ電話して来て、『会いたい』と言ったのだ。

 その時は、紗藍一人だけで出すのを不安がった祖母が一緒にくっついて来た。初めて会う異母弟の、正文の方は十三歳・中学一年生で、まだ多分に幼さを残した顔立ちは父に似て、整っていた。彼の二つ下の彼の弟(つまり紗藍のもう一人の異母弟)・正久(まさひさ)も一緒だった。ちなみに、彼らは子供だけで来たらしかった。

『周りの大人に言ったら、絶対止められるから』

 と言うのがその理由だった。

 正文は、その三年程前に、ふとした弾みで、自分の母親が略奪婚だったことを知ったらしい。

『意味分かって言ってる?』

 訊いた紗藍に、正文はこましゃっくれた口調で淡々と、

『奥さんがいる男の人を横取りするコト』

 と答えた。

 そんな母親と、権力・財力に根負けするような紗藍の父との間に生まれた割には、それが非常識だと感じるモラルは当時からあったようだ。

『俺、母さんに育てられてないんだよね。(ひさ)もそうなんだけど』

 と言いながら、彼がオーダーしたジュースのストローをくわえていたのを、昨日のことのように思い出せる。

 初めて話をしたのは、確か大型ショッピングモールにあるオープンカフェだった。

 聞けば、彼らは今時の一般家庭には珍しく、乳母に育てられたという。

『まあ、俺らの環境で“一般家庭”、なんて言うのも外れてる気がするケド』

 欲しいと言えば何でも手に入る。そういう環境は“普通”ではない、と常々乳母から言われていたことが、幸いにも彼らに一般常識を植え付けたのだろう。

『……それで? あたしに何の用? わざわざ鷹森の家まで電話して来て』

 紗藍はあくまで普通に訊ねたつもりだったが、正文にはそれが(なじ)るように聞こえたようだ。恐らく、正久にも。

 言った途端、正文はジュースのカップから手を離し、正久も兄に倣った。

 膝に置いた手を暫し睨むように視線を下げていた正文は、やがて深々と頭を下げた。

『……ごめんなさい』

『ご、ごめんなさいっ』

 兄に続いてピョコンと頭を下げた正久は、直後にゴンと派手な音を立ててテーブルに頭をぶつけ、悲鳴を上げていた。

 それはともかく、はっきり言って、面食らった。紗藍には、二人が脈絡なく謝罪したように見えたのだ。

『ちょっ、ちょっと待ってよ。いきなり、何?』

 すると、鈍い動作で頭を上げた正文は、視線を下げたまま『だって』と口を開いた。

『ウチの母さんの所為で、その……紗藍……サンが、不幸になったって俺知ってる。紗藍サンの母さんも』

 だから、詫びに来たのだと挟んで、正文は続けた。

『母さんは絶対、お詫びなんかしない。だって、悪いと思ってないんだ。だから……ごめん。母さんの代わりに謝る』

 謝れば許される、と当時は思っていたというのは、割と最近になって彼本人に聞かされた。

『ガキで、バカだったよな』

 当時の自分をそう評した彼は勿論、当時の彼らもどこか微笑ましく、紗藍は弟達を憎む気持ちには到底なれなかった。


 なれないまま、彼らに請われて、それからも時々会っている。

 勿論、正文達はやはり周囲の大人には内密にしているらしい。


 会ってするのはごく他愛ない話だった。その日あったことや、学校の出来事。勉強で分からないところを訊ねられる時もあった。

 けれども、今日の正文の用事は、先日の見合いのことだろうというのは、容易に想像が付いた。

 その席に、他でもない正文達兄弟もいたのだから。


 その見合いの席で、紗藍は初めて彼らの末の弟、正高(まさたか)に出会ったのだが、上の二人と違って彼は相当小生意気そうだった。

 あの場に出席したということは、紗藍とはどういう関係か聞かされていた筈だが、正高の目は“姉”か年上の女性を見る目ではなかった。どちらかと言えば、自分より下の立場の人間を見下すような、そんな目をしていた。彼は兄達と違って、生母の手で育てられたのかも知れない。

 紗藍としても、年齢は関係なく、正高は付き合いたくない人間だと思えた。

 余談だが、紗藍は幼い頃から不思議と初対面の人間でも、雰囲気で大体の人物像を想像できた。そして、その直感は今のところハズレはない。付き合いたくない人種というのは、あまり言葉を交わさずとも、自ずと分かる。

 勿論、“あの”室橋英治もその種の人間だろう。

 そう思いながら、校門に差し掛かった時、正面にその英治の顔が見えて、紗藍は思い切り顔を顰めた。

(何でここにいるのよ!?)

 校門からは優に三メートルは離れていたが、紗藍は即座に回れ右をした。

 校門と言っても、ここは声楽科の棟から一番近い門だというだけで、出入りできる場所は一つではない。いざとなったら、教員用の裏門を通るという選択肢もある。

 足早にそこを離れ始めたが、向こうも紗藍に気付いたのか駆け足で追って来て肩先を掴んだ。

「何すっ……!」

「シィッ、騒がない方がいい。この場で僕の婚約者だって公表されたくなければね」

 学術的に頭がいいというのは、どうやら伊達ではない。

 こちらが確実に口を噤む脅し文句を耳元に落として、まんまと紗藍を沈黙させた英治は、紗藍を手近な木陰(こかげ)(いざな)った。

「……何しに来たのよ、しかも学校(こんなところ)まで」

 っていうか何であたしの学校知ってるのよ、という文句は呑み込んだが、それも読んだかのように英治は唇の端を吊り上げた。

「言ったろ。君とは結婚の決まった顔合わせだったって。妻になる女性のプロフィールなんだから、当然こっちにも公開されてるさ」

 クス、と小さく笑って自身の唇に人差し指を当てる仕草は、悔しいが思い切り様になっている。

 目算百七十センチくらいだろうか。長身で、百六十三センチの紗藍は、見上げなければ彼の顔を確認できないが、黙っていれば所謂“イケメン”の部類に入るだろう。

 面長の輪郭は、彼の父である敏晴が、若かりし頃はちょうどこんな感じであっただろうことを思わせる。切れ長の目元と長い鼻筋が、それはもう憎らしいくらいにいいバランスで配置されていた。

 ただ、直感的に言えば恐らく彼は“観賞用”だ。そう思いながら、紗藍は彼からできるだけ離れようとしつつ口を開く。

「何の用? あたし、急いでるんだけど」

「勿論、デートのお誘いさ。君がこの結婚に乗り気じゃないのは分かった。だけど、僕を知って欲しい。僕を知れば、きっと君も夢中になる筈だから」

 “観賞用”決定。紗藍は脳内でそう断じた。中身は最悪なナルシストだ。

「自分中心にしか考えられない男って嫌いなの。言ったでしょ、急いでるって」

「じゃあ、僕を見るなり回れ右したのは何で? 急いでる割に遠回りしようとする辺り、矛盾してない?」

「こうやってあんたに絡まれたら遅くなるから遠回りしようと思ったの。急がば回れって(ことわざ)、知らないの?」

 瞬時、英治が息を呑んだように見えた。言い返さない彼の手を、紗藍は振り解いて踵を返す。

 しかし、英治は紗藍の手を再び掴んだ。

「放してくれない? 警察呼ぶわよ」

「呼べば? 僕の婚約者は照れ屋でね、って来た警察官に納得させる自信はあるよ」

 変態ナルシストの顔がイヤらしく歪んで見えて、内心ゾッと背筋を震わせた。

 けれども、こういう手合いは、こちらが怯えると却って増長する。紗藍は、下腹部に力を入れるようにして英治を睨み上げた。

「何であたしなんかに構うのよ。頭の回転の鈍い女は嫌いじゃなかったの?」

「生憎、選ぶ権利はないんだ。僕も君も、お互いにね」

「何ですって?」

 眉根を寄せた紗藍の腰に、英治の手が回る。否応なく抱き寄せられ、キスできそうな距離に顔が近付いて、紗藍は今度こそ悲鳴を上げそうになった。

「や、」

「僕はどうしても、室橋総合病院の副院長の座が欲しい。その為には、進藤副院長の血を引く女が必要なんだ。君だって拒む権利はない筈だ。今までの生活費は誰に賄って貰ってたと思うんだい?」

「あんたに関係ないでしょ、放してよ、気色悪い!」

 紗藍はもう人目を気にする余裕などなく、彼の顔から少しでも離れようと暴れる。だが、男に力で(かな)う筈もなく、彼の腕はビクともしない。

「進藤院長だよ」

 紗藍の抵抗をモノともせずに耳元へ唇を移動させた英治は、ポソリと言った。

「院長……?」

 院長、と言えば、父の義父に当たる進藤正巳だ。紗藍とは一滴の血の繋がりもない人間が、どうして紗藍と母の生活費を援助するのだろう。

「もし、今回の結婚話を蹴るのなら、これまで払った生活費は全額返金して貰う。そういう風に君のお母さんにも話が行ってる筈だ」

 そこまで言うと、英治はようやく紗藍を解放した。

 透かさず彼と距離を取りながらも、紗藍は唖然として英治を見上げる。

「どういう、意味よ」

「呑み込みが悪いのか、それとも分からない振りをしてるのか……どっちにしろ、僕もくじ運が良くないらしいな」

 今度は苦笑を落としながら、英治は肩を竦めた。

「でも、安心していいよ。母さんはああ言ったけど、僕は君の音楽活動を阻むつもりはない。僕との結婚さえ受け入れてくれれば、君がどこで何をしようと気にしないし、夫の金で音楽活動したって構わない。最悪、浮気したっていいと思ってる。大学卒業まで結婚を待つくらいの寛大さだって、持ち合わせてるつもりだよ?」

 にっこりと笑った英治は、紗藍の肩にポンと手を置いて踵を返す。

「じゃあ、僕はこれで。アポなしで来たのは、確かにちょっと礼儀がなってなかったよね。今度はちゃんとアポイント取ってからにするよ」

 またね、と重ねて言うと、見た目だけは爽やかに立ち去って行く。

 確かに、彼は観賞用なのだろう。

 門までに擦れ違う女学生が、目をハートにせんばかりの表情で、英治を見送っていた。

 紗藍も、彼女達と同様、彼の背を見送った。但し、彼女達と違って、途方に暮れた表情だった。まるで、世界の終わりが来たかのように。

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