To be next case…
この日、珍しくカフェ・不破古書店は盛況だった。
とは言え、殆どの客は学生で、稀にその保護者が一緒にいるといった年齢層の内訳ではある。
店内のBGMは、微かに流れるクラシックではなく、朗々としたソプラノだ。ピアノはないので、携帯用キーボードを持ち込んだ伴奏者が弾く疑似ピアノの旋律に乗せて、紗藍は最後の一音を歌い上げる。
ステージ用に新調したドレスの裾を持って一礼すると、拍手がその場を満たした。
「凄い、凄いわ、紗藍ちゃん! 大したコトないなんて、ホント謙遜ね」
壇上代わりの場所からカウンター席に移動した紗藍に、お疲れ様、と朝霞がレモネードを差し出す。そのグラスを受け取って、紗藍はありがとうございます、と笑顔を返した。
「本当に大したコトはないんですよ。あたしより技術が上で、海外から声が掛かってる人は大勢いますから」
「でも、留学するんでしょう?」
「いえ、厳密には違うんですけど」
程良いさざめきのような話し声が戻った店内で、紗藍は肩を竦める。
来月、海外で開催される国際コンクールの声楽部門に、紗藍はエントリーしていた。
早い者なら、高校生の時分から有名コンクールにはエントリーするものだが、紗藍の場合は家庭環境のゴタゴタで、今まで考える余裕はなかった。
しかし、最近本格的に海外に逃亡する必要に迫られた為、折角だからと担当教師に相談したところ、諸手を上げて賛成してくれた。
このコンクールに優勝、もしくは入賞すれば、学費免除・生活費援助の待遇で、海外の音楽学校に留学する権利が与えられる。ジャンルは違うが、ローザンヌ国際バレエコンクールの音楽版とも言われるコンクールだ。
「ま、良かったんじゃね? 俺には音楽のコトはよく分からないけど、少なくとも耳障りとは思わなかったし」
気軽に摘めるタイプのクッキーをトレイごと差し出した緋凪は、今日もあっさりしたウェイターの衣装に身を包んでいる。
「ありがと。緋凪君のそれは、褒め言葉と受け取っとくわ」
うるせぇ、と憎まれ口一つ残して踵を返す緋凪の後ろ姿は、やはり艶やかだ。
本当は、海外に行く前にまた会う口実が欲しかった、なんて言ったらどうなるだろう。勿論、朝霞と緋凪、二人に金銭以外のお礼をしたかった、というのも嘘ではないのだが。
事件からひと月程経って、祖父母と母の引っ越しも落ち着くと、やはりどうしても二人に何かお礼がしたい気持ちが大きくなった。
あれだけのことをしておいて貰って、お礼一つ言うだけでは、どうにも釣り合いが取れないというものだ。しかし、最初に宣言された以上、金銭の類は受け取ってくれないだろう。
なら、ミニコンサートを開いてみれば、助言してくれたのは、大学の友人だった。念の為に言うと、里奈ではない。あれほど仲が良かったのに、彼女とはあれきりだ。
ただ、同じ声楽科の友人に、世間話の一つで簡単に漏らしたことがあった。とても恩を受けた人がいるのだけど、金銭以外でお礼の気持ちを表すとしたら、どうしたらいいだろう、と。
『なら、歌でも歌ってみれば?』
その友人は、あっさり言った。
自分達にできることなんて、歌を歌うくらいだ。なら、心を込めた歌を贈ってみたらどうか、と言われて、紗藍はカフェ・不破古書店の声の響きの良さを思い出した。
あそこで、手慰みでも声を出してみたい、という誘惑に駆られたことがある。その時点で、既にコンクールまで一ヶ月半を切っていたこともあって、紗藍は珍しく即座に行動に移した。
始めは戸惑っていたものの、最後には受け入れてくれた朝霞とスケジュールを調整して、今日のミニコンサート実現の運びとなったのだ。
ミニコンサートは、主に校内と、カフェ・不破古書店内限定の告知だったが、思いの外人が集まり、間接的に売り上げにまで貢献することになった。
何曲目かの紗藍の演奏が終わった今、店内はちょっとした立食パーティーの様相だ。内装はいつもと違い、椅子の類は全て片付けられ、テーブルに簡単な軽食がバイキング形式で並んでいる。扉も開け放たれ、店内と前庭を自由に行き来できるようになっていた。
ホストの役割を担った朝霞と緋凪は、客の合間を縫うように歩いて彼らの要求に応えていた。
「当分は、このお店も忙しくなるかしらね」
クスッと小さく笑いながら、朝霞が呟く。
「結構じゃないですか。こんな穴場っぽいお店、皆に知って貰った方がいいですよ。あたし個人としては、ちょっと残念なような、複雑な気持ちですけど」
「隠れ家が知られたみたいで?」
「そうですね」
苦笑して肩を竦めた時、ぱっとスポットライトが紗藍を照らす。こういう演出は、全て音楽学科の友人が担当していた。
「行ってらっしゃい。アンコールでしょ」
割れんばかりの拍手に負けまいとする朝霞に声を掛けられ、紗藍は小さく頷いて踵を返す。
この時、店内へ一人の客が入って来たのを、紗藍は知らなかった。
静かに流れ出した、アメージング・グレイスの旋律に聴衆が耳を傾ける中、明らかにその歌は耳に入っていない人物が一人いた。
今日は、何事が起きているのだろうと思いながら、それでもその人物は店員らしき姿を探す。
やがて、ウェイターの衣服に身を包んだ少年を見付けたその人物は、図抜けた美貌に圧倒されながらも、歌の邪魔にならないようひそめた声で訊ねた。
“理不尽な困り事、っていう本、置いてませんか?”
微かに目を見開いた少年は、口元に皮肉っぽい笑みを浮かべて、店の奥へその人物を誘う。
裏稼業録の、新たな案件が幕を開ける――。
【了】
読了、ありがとうございました。




