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scene.13 宴の跡

 ――“必ず助ける 凪”


 少し癖のあるその字を見た時、何事が起きたのかと思った。訳が分からなかった。

 自分はもう、あの男と結婚して、愛のない結婚生活を送ることになる筈だと、半ば覚悟を決めていたのに。

 荷物に同梱されていたその手紙には、午後六時四十五分頃着くようにイングヴァル・ホテルに行って、レストランに入る前に一階化粧室へ寄れ、とだけ書いてあった。その締めの文章が、“必ず助ける”だった。

 まだ諦めなくていいのかも知れない。そう思うと、自然に涙が溢れた。


***


「ごめんね。無理言って」

「いや。ちょうど、開店準備しようと思ってたところだし」

 誰もいない店内は、貸し切り状態で広く感じる。BGMも流れていない所為か、声がよく響いた。

 これも、声楽科の生徒の(さが)なのか、こういうよく声が響く所に来ると、一声出したい衝動に駆られる。しかし、この場ではそれをどうにか思い留まった。


 ダイニングに案内してくれようとした緋凪に、店に通して欲しいと頼むと、訝しげに首を傾げながらも、彼は何も訊かずに紗藍を店へ(いざな)ってくれた。

 とは言え、まだ店側の看板は『臨時休業中』になっている筈だ。何故なら、店のドアの鍵を開けた様子がない。


 五月二十日からちょうど十日後の今日。

 紗藍は、不破家を訪ねた。


 あの翌日、鷹森家に「英治の件は全て解決した」という簡単な連絡があって以降、紗藍はここを訪ねる余裕が全くなかったからだ。

 更にその次の日、つまり五月二十二日に、外川と名乗る刑事が訪ねて来てからほぼ一週間、紗藍は学業とバイトの合間を縫って、所轄の警察署に通い、事情聴取を受ける日々が続いていた。

 儀保慈の件について、遺体発見時の聴取では、緋凪が『紗藍の母親がいきなり解雇されたので、その理由を知りたくて、彼女の上司である儀保慈を訪ねた』という説明しかしていなかった。

 その為、もう少し詳しく事情を知りたい、という外川の求めに応じて、ずっと警察署に通っていたのだ。

 緋凪がどこで録音したのか、あのピアノ練習室での里奈とのやり取りを提出していた為、里奈のことまで訊かれ、結局、ことの発端である見合いのことから延々と事細かく話をする羽目になった。

 そのことで、多分里奈の件も調査が入ることになる。だから、彼女に直接聞いた訳ではないけれど、もう彼女も大丈夫だろう。

 緋凪の姿も、署で何度か見掛けたが、本当にただ『見た』だけで、彼とは話をする隙もなかった。


「……それにしても、あの時はホントびっくりしたー。これが噂のドッペルゲンガーかって思ったくらいだもん」

 二十日の午後六時四十五分きっかりに、イングヴァル・ホテルを訪れた紗藍は、事前に指示されていた通り、一階化粧室に向かった。その手前では、清掃員に変装した朝霞が待っていて、掃除中立ち入り禁止の立て札の奥へ行くよう促した。

 (いざな)われるまま奥へ入ると、自分と同じ顔をした緋凪が待ち構えており、何がなんだか分からないまま服を交換させられ、朝霞と共に家へとんぼ返りする仕儀になった。

「知り合いに、特殊メイクのプロがいるからな。ソイツに協力仰いだだけだ」

 肩を竦めた緋凪は、出会った日と同じように、白と黒の上下に、黒いソムリエ・エプロンを身に着け、店にいるついでとばかりに、開店準備をしている。

 その彼は、あの日紗藍の顔をしていた面影など微塵もなく、いつも通り、桁違いの美人に戻っていた。

 こんなに目鼻立ちのはっきりした彼を、紗藍と同じ顔にできるなんて、相当腕の立つ特殊メイク師だ。そんな知り合いがいるというだけで、紗藍から見れば凄いことのような気がする。

「でも、何で化粧室だったの?」

 誰かに入るところでも見られていたら、紗藍はともかく緋凪は――などと思い掛けて、その心配は地の顔でもないな、と気付く。

 ふと顔を上げると、考えたことを読まれたのか、緋凪の双眸が、咎めるように細くなった。

 やや温度の下がった瞳から目を逸らすように俯くと、溜息に乗せたような声が降って来る。

「あそこしかなかっただろ。あんたには、家も学校の行き帰りも尾行が張り付いてる可能性高かったし、学校の化粧室じゃ、他の学生に見られた時に事情も説明し辛いしな。その点、ホテルの化粧室なら、意外と誰もいない瞬間が多い。その隙にああやって掃除中の看板立てて、人払いするって方法も使えなくはないからさ」

 見張りがいたとしても、手洗いなら余程でなければ遠慮してくれる。

 そう付け加えた彼の手が、カチャン、と小さく音を立てて、食器の洗い籠に皿を置く。それだけの動きが、緋凪のしなやかな手で行われるだけでやはり(あで)やかに見えるのは何故だろう。

「……あ、のさ。ところで、その……」

 カウンター内で洗い物を始めた彼を上目遣いに見ながら、カウンター席に陣取った紗藍は、テーブルの上で組んだ指先を、もじもじと動かす。

「……あの……ごめんね。あたしの代わりに、その……あの人に……」

 あの三日後くらいから、室橋英治は、東京都青少年健全育成条例違反の容疑者として、テレビで名前が流れるようになっていた。容疑の内容は、『十七歳の少年に乱暴しようとした』というモノだ。

 つまり、紗藍の考えている通りのことが起きようとしていたのか、それとも起きてしまったのか。気になるような、知りたくないような――どうにも複雑な葛藤で言葉が出なくなる。

 すると、緋凪はその双眸を、呆れたように再度細めた。

「何か楽しい勘違いしてるトコ、ヒジョーに恐縮だけどな。俺が大人しく最後までヤられるとでも思ってんのか?」

「う、……思ってない……っていうか、思えないっていうか……」

 余程何か弱みでも握られてるならともかく――いや、緋凪ならそれでも返り討ちにしそうだ。この見た目通りの、か弱い少年だと思っていたら、痛い目を見るのは相手のような気がする。

「ま、あーいう手段使ったのも、俺がギリギリ十八歳未満だったからだけどな。十八過ぎてたら、最初っから遠慮なくボコボコにしてやったのに」

 本気で残念だぜ、と鼻息と共に吐き捨てる緋凪に、紗藍は何と返して良いのか分からなくなる。彼が言うと、冗談に聞こえないから怖い。

「何か食うか?」

 唐突にそう言われて、紗藍は目を瞬く。

「……え……いいの?」

「代金は貰うけど、それでよければ。何せ、朝姉の怪我さしてくれた原因がどうも責任逃れそうなんでな。病院代、せっせと稼がなきゃならねーんだ」

 ちゃっかりしているように聞こえるが、その表情は真面目だった。

 紗藍も、ここで知人割引を要求する程図々しくはない。それくらいなら喜んで寄付する、と半ば本気で言うと、彼は苦笑しながらメニューを差し出した。

「嬉しーい。実はゆっくり食事してみたかったんだ。初めて来た時は、全然そんな気持ちの余裕なかったし……あ、後でブック・スペースも見ていい?」

 えへへ、と照れ笑いしながら、メニューの陰から目だけを出して伺うと、どうぞ、と素っ気ない返事が返ってくる。

 その態度が、別段機嫌を損ねた訳ではないと分かる程には、彼との付き合いも長くなっていた。厳密には、一緒にいたのは一週間にも満たない筈だが、もうずっと前から彼を知っているような錯覚に陥る。それほど、彼と過ごした時間は、ある意味で濃密だった。

 どちらにしろ、彼の機嫌の機微がが分かるようになった自分が何となく嬉しくて、紗藍は浮き立った気持ちでメニューを開いた。

 あの時は、メニューの内容しか目に入らなかったが、装丁も可愛らしい。

 ミルクティーの色を背景にしたメニューは、飲み物、スイーツ、軽食、といったカテゴリーごとにリボンのラインで囲われている。写真も何点か配置されたレイアウトが、可愛らしさを損なわない程度にスタイリッシュだ。

 時刻は午後一時半に差し掛かろうという頃合いで、調理の時間を考えると、ボリューミーなものを頼むと夕食に響きそうだった。散々悩んだ末、紗藍は、あの日よく味わえなかったアップルティーと、チョコチップ入りスコーンをオーダーした。

「生地から作るんで、二時間くらい掛かるけど、時間平気か?」

「うん、大丈夫。ってゆーか、緋凪君が作るの?」

「意外か?」

「う、……まあ、その……」

 緋凪が、という個人特定でなく、彼くらいの男の子が調理そのものを(たしな)むというところが、そもそも意外だ。彼と同い年の異母弟・正文も、菓子作りでさえするとは聞いたことがない。

「そーゆーの、一種の男女差別だぞ。それより、その間にブック・スペース見たらどうだ?」

「ん、ごめん。そうね。ありがとう、そうする」

 緋凪が調理場に引っ込んだのを見送って、紗藍はカウンター席を離れた。

 店の奥のブック・スペースにそろそろと近付く。そこは、照明と関係なく、本棚で光が遮られているような空間だった。

 茶色で統一されたブック・スペースは、古びた書庫のような趣で、理由もなくワクワクする。

 ブック・カフェにも色々あるが、カフェ・不破古書店は、カフェの空間と本のそれが完全に分けられ、各々独立していた。

 本棚の狭間にいると、カフェが地続きの場所にあることを忘れる。

 ブラブラと気の向くままに本棚の間をそぞろ歩き、二階のブック・スペースも堪能する。続きが気になっていた恋愛小説の続刊を発見して、それは買って帰ろうと手に持ち、気になった本を立ち読みする内に、一時間はあっという間に経過した。

 文庫本を三冊手に、一度カウンター席へ戻ると、緋凪もちょうど作業の区切りが良かったのか、エプロンで手を拭きながらカウンターへ戻って来た。

「まだ時間あるぞ」

「うん、いいの。掘り出し物も見付けたしね」

 手にした本を掲げると、「買ってくれるのか?」と苦笑のような顔で首を傾げる。

「会計は纏めてお願いするわ」

「りょーかい」

 短く言うと、緋凪は再度引っ込んで数分でカウンターへ戻る行動を何度か繰り返した。

 その姿をじっと見ていると、また「何」と訊かれ、紗藍は肩を竦めた。

「別に。何となく見てるだけだから、気にしないで」

「視線が気になる。言いたいコトでもあるのか」

 紗藍は、一瞬沈黙して、そうね、と少し重くなった口を開く。

「……話してもいい?」

「何を」

「今日はね。……本当は、お礼に来たの」

 紗藍は、スツールの上で居住まいを正すと、落ちないように気を付けながら、小さく頭を下げた。

「ありがとう。今回のコト……本当に、色々」

 思い切って言うと、緋凪が作業の手を止めて、紗藍を見る。彼の視線を感じながら、紗藍は頭を上げたものの、目を伏せたまま続けた、

「特に、最後の方は……あたし自身が諦めたのに、緋凪君も朝霞さんも、最後までしてくれて……本当に感謝してるの」

 殊に、今ニュースで流れていることは――もし、その場にいたのが紗藍本人だったら、恐らくあらゆる意味で抵抗できず、大切にすべき初体験は、あの碌でもない男とする羽目になっていた。それを思うと、やはり彼らには、ひたすら感謝するしかない。

「ありがとう、ございました」

 心から言って、再び頭を下げる。

 その時、ピピピピッ、と雰囲気を台無しにするタイマーの音が響き渡る。

 数瞬置いて、緋凪は小さく吹き出し、紗藍は肩に顔を埋めるようにして小さくなる。何故だか、顔に熱が(のぼ)るのが自覚できて、顔を上げられずにいると、落とした視線の先に、スコーンと紅茶の乗ったトレイが差し出された。

「お待たせしました。チョコチップスコーンとアップルティーでございます」

 棒読みの敬語に、紗藍も軽く吹き出しながら、頂きますと両手を合わせる。

 あの日は味も感じなかった筈のアップルティーは、林檎の香りと共に喉を滑り降りていく。出来立てのチョコチップスコーンは、中までサックリと仕上がり、口に入れると、チョコチップが程良い甘みが舌先でとろけた。

「……美味しい。お世辞抜きで」

「そりゃ、どうも」

 かなり素っ気ないようだが、彼の場合、これも別に怒っている訳ではない。

 ただ、本当に美味しいよ、と付け加えるのは止めておいた。照れ屋なので、言い過ぎると、本気でヘソを曲げてしまうタイプの少年なのだ。

 フォークを入れるだけでサクサクと美味しそうな音を立てるスコーンと、アップルティーは、ゆっくり味わおうとする紗藍の胃の中に、見る間に消えていった。

「ごちそうさま! ホントに美味しかった」

 思わず言うと、お粗末様でした、と返ってくる。

「飲み物、もう一杯いるか? これはサービスだ」

「ホント? じゃあね……」

 再度差し出されたメニューと睨めっこし、アイス抹茶ラテをオーダーした。

 グラスで出て来た抹茶ラテをストローでチビチビ啜りながら、紗藍は上目遣いに緋凪を見る。

「あのさ、緋凪君」

「ん」

「お店、開けなくていいの?」

 時刻は、そろそろ夕方の四時に差し掛かる。開店準備をしていたのではないのだろうか。いくら何でも、こんなに長いこと貸し切り状態というのも気が引ける。

 すると、緋凪は何度目かでその双眸を細めた。

「正確には明日からで、今日は仕込みだけのつもりだったんだ。今までちゃんと店回してなかったからな。いきなり開けたら、今あんたにしたみたいに待たせるだろ?」

「あ」

 そっか、と思うと同時に、申し訳ない気持ちになる。

 今日まで店を回せなかったのは、明らかに紗藍の所為なのだ。だが、顔色を読んだようなタイミングで緋凪は口を開く。

「何度も言うようだけど、あんたの責任じゃねぇよ。こっちは言ってみりゃ好きでこーゆーコトやってんだからな」

「う、ん……」

 そう言われると、謝罪もできなくなって俯くしかない。ストローに口を付け、吸い上げた抹茶を飲み下しながら、紗藍はまた居住まいを正した。

「緋凪君」

「今度は何」

「あの……」

 どうして便利屋やってるのか、訊いてもいい?

 ――という問いは、喉を通り越して口の中まで出掛かったが、どうしても外までは出せなかった。

 それは、彼が右目にわざと翡翠色のカラーコンタクトを入れていること、髪を伸ばしていることと無関係ではないかも知れない。そんな気がしたのだ。

 それに。


 ――“行くな、(すい)っ……!”


 苦しげに唸って、絞り出したあの一言とも。

 他人が土足で踏み込んでいい場所じゃない。外川が言っていた、執行猶予という言葉も気になるが、それを質すのも、緋凪には恐らく同じことだ。

 まして、紗藍と緋凪は、一時依頼を通して知り合っただけで、本当に赤の他人である。

 もっとも、紗藍としては、緋凪は『赤の他人』では既にない。友人――というのも烏滸がましいかも知れないが、それに近い感情を持っている。しかし、彼にとっては、紗藍は依頼人以上でも以下でもないだろう。

 百歩譲って親しい友人だとしても、そういったことはデリケートな話題だ。不用意に訊けば、きっと何かを傷付けてしまう。彼の中の、脆い部分を抉ってしまう。

 ダメだ、訊けない。という結論に至るまでは、少々長過ぎたらしい。

「おい、紗藍?」

 思い切り訝しげに促されてしまった。

「どうしたんだよ。何言おうとしたか忘れた、とか言わねぇだろうな」

「あー……」

 ああうん、そうみたい。

 眉尻を下げてヘラッと笑って見せると、マヌケだな、と返って来た。

「ところで、あんたんトコのお袋さん、どうしてる?」

「え?」

 目を瞬くと、とうに空になっていた皿とティーカップを下げながら、緋凪が続ける。

「ホラ、不当に解雇されて、その後上司の筈の儀保慈が死んじまって、お袋さんのコトはうやむやになってたからな。気になってはいたんだけど」

「ああ……」

 そのこと、と紗藍は言ってまた一つストローをくわえる。

「あの後、勤めてた病院の院長先生に直談判したら、何かあっさり解雇は撤回されたみたい。よくよく訊いたら、オフレコ扱いで頼むって……まあ、実際はこうしてあたしや緋凪君には伝わるコトになったけど、元々は室橋英治からの圧力だったらしいのよね」

「やっぱりか」

「うん。だけど、今や室橋英治なんて悪名高き犯罪者じゃない。お母さんが辞表を提出してなかったのも手伝って、どうにか復帰できるコトになったらしいの。だから、大丈夫よ」

「そっか」

 洗った食器を籠に置いた緋凪は、短く言うと手を拭いながら言葉を継ぐ。

「じゃあ、後は進藤の爺さんからの脅迫の件だな……何だったら、追加で依頼受けてもいいぞ」

「ありがと。でも、そっちも大丈夫。室橋英治があんなコトになって、関わるのも嫌になったのか、対等な立場での合併はなかったコトになったらしいの。この十日の間に、文君が教えてくれたんだけどね」

「ゲンキンな爺さんだな」

 はっ、と吐き捨てるように言った緋凪に、紗藍は思わず吹き出す。

「ただね。室橋英治って室橋病院の御曹司でしょ。病院が傾いたら、結局そこでお世話してる患者さん、どこかが受け持たないといけないから、合併の話自体は進んでるらしいの。進藤正巳さんが元気でいる限り、また何があるか分かんないし、お母さんはこれに懲りて、もう正巳さんからの援助を一切断るって。直接内容証明か何かで、正巳さんにもそう通告したらしいんだけど、多分、あのお爺さんの性分からすると、まともに言っても取り合って貰えないからって、お母さんがやったコト、何だと思う?」

「面白いコトやりそうだよな、あんたのお袋さん」

「そうなの。現時点で残ってた預金は貰うコトにして、新しく作った預金口座に全額移して、今までの振込口座は解約したんだって。貰った口座の名義はお母さんのモノだったから、解約権限もお母さんにあったのよ。あたしの留学経費もそれで賄うコトにしたの。ちょっと癪だけど、ここまで引っ掻き回してくれたんだから、それくらいの賠償はして貰わないとね」

「そりゃ、来月分、もし爺さんが振り込むようなコトがあったら、顔が見物(みもの)だろうな。(じか)に拝めないのが残念だぜ」

 暫くその場は、二人の笑い声で満たされた。

 一頻り笑って、静寂が落ちた後に、緋凪の声がポツリと落ちる。

「ところでさ」

「ん?」

「あんた……留学、するのか」

「え、あ」

 何で緋凪がそれを知っているんだろう、と一瞬思うが、すぐに先刻口を滑らせていたことに気付く。

 うん、と小さく頷いて、グラスを両手で包むようにしながら言葉を継いだ。

「あの人……今はああやってテレビでも騒がれてるし、暫くは牢獄にいると思うけど、いつかまた外に出てくるんでしょ?」

「さあな。室橋病院の裏の商売が表沙汰になれば、懲役も十年じゃ利かねぇとは思うけど」

「うん、でも……念の為に、鷹森のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんも、住居を移るコトにしたの。お母さんもね」

「じゃあ、お袋さん、仕事は?」

「こればっかりは流石に弁護士さんに間に入って貰うしかなかったんだけど……一時とは言え不当解雇されて路頭に迷い掛けたから、責任持って、次の職場の紹介して貰うコトになったらしいの。言いたくないけど、もうお母さんも転職が簡単にできる年じゃないし……それに今後は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと一緒に暮らすって。あたしも、今回の結婚話が持ち上がる前から、実は海外留学の話はあったのよ。こう見えて優秀だから」

「自分で言うかよ」

 ははっ、と笑った緋凪の顔は、初めて見る、屈託のないそれだった。

「笑ってなさいよ。その内、あたしが世界的オペラ歌手になったら、後悔するんだから」

「俺が?」

「そうよ。友達だったら、タダで招待してあげるのに」

「そんなの、他に価値の分かる奴、招待してやれよ。俺なんか誘ったって、船漕ぐだけで、席が一つ無駄になる」

「でしょうね。一緒にガッコ行ってた時も、教室で船漕いでたもの」

 ふふっと笑うと、緋凪が唇の端をへの字に曲げた。

「うるせぇよ。あんなん、子守歌じゃねーか」

「緋凪君にとってはね。まあ、海外留学の話があったって言うのは冗談だけど……真面目に考えたの。あの人が外に出て来た時、簡単に見つからないようにするにはどうしたらいいかって」

 それに、もう里奈とも今まで通り付き合うのは難しい。

 学校内なら科が違うからどうにか避けられるが、家に帰れば筋向かいだ。どうしたって気まずい。

「ふーん」

 ふと落ちてきた緋凪の声に我に返る。

「……何よ」

 だが、その意味ありげな口調には引っ掛かるものを感じて、今度は紗藍の方が唇を尖らせた。すると、緋凪は面白がるような笑みを浮かべる。

「いや? 半月くらい前までおめでたいお嬢さんだったのが、随分意識改革したなって」

「……おめでたくて悪かったわね。あたしも学習くらいするの!」

 ぷう、と頬を膨らませると、また緋凪が笑う。

 不破家に滞在していた頃には見せたことのない、陰のない笑顔。ずっとそんな笑顔でいて欲しいと思うけれど、以前に感じた通り、彼の心の闇は深いのだろう。

 きっと、簡単ではない。せめて、自分が傍にいて癒せればと思うが、今のところ、彼はそれを望んでいないような気もした。

 少なくとも、彼が(みずか)らその闇を告白してくれない内は、きっとその相手は紗藍ではない。

 寂しい――どこか、胸にぽっかりと穴の空いたような気分で、紗藍は抹茶ラテを飲み終えた。


***


 通常の開店は、午前九時だ。


 明日の開店もそうするつもりで、大方の仕込みを終えた緋凪は、ガランとした店内を振り返った。

 先刻まで共にいた、黒髪の少女を思うと、胸に穴が空いたような虚無感を覚える。

 もう会うことはないのだと思うと、どこか寂しい気がした。

(……少し、似てたな)

 姉の、緋翠(ひすい)に。

 顔かたちではなく、空気のようなモノが。

 だから、一緒にいると、姉と共に過ごしているような気分になれたのは否めない。けれど、全ては幸せな妄想とイコールだ。

 緋凪は、感傷をシャットアウトすると、店内を見直す意味で一瞥して明かりを落とし、居住区へ歩を進めた。

 久し振りに、現実が戻る。その仮の平穏が、またいつまで続くものかは分からないが。

(仮の平穏、か)

 クス、と緋凪は自嘲気味に笑いながら、居住区二階に戻ると、洗面所のドアを開けた。

 洗面台の前に設えてある鏡に、左右で色の違う双眸を持つ少年が、自分を見つめ返している。しかしその姿は、生前の姉と瓜二つだ。

(――翠)

 いや、正確に言えば、姉が成長した姿だろうか。

 姉は、十三歳でこの世を去っている。あれから四年。双子の自分達は同い年だった筈なのに、緋凪は姉より四つも年上になってしまった。

 無意識に持ち上げた手を、そっと鏡の中の自分に伸ばせば、姉がその手を伸ばし返してくれたような錯覚に陥る。

 けれど、指先が触れても、それはヒヤリとした冷たい鏡の感触だ。

 姉はもういない。生まれる前から共にいた、半身だったのに。


 目を閉じれば今も目に浮かぶのは、彼女の最期の姿だ。

 泥塗れになったセーラー服。硬く閉じられた目。あらぬ方向へ折れ曲がった足。

 安らかとは言い難い死に様――


 唇を噛み締める。

 警察が碌に捜査をしなかった所為で、今も緋翠を死に追いやった犯人は見つかっていない。しかも、今後も捜査がされることはない。警察が、事故死で処理してしまったからだ。

 ジャーナリストだった父の(ツテ)で、辛うじて非公式に(おこな)うことができた遺体の鑑定結果は、無惨なものだった。

 緋翠は、輪姦された上で殺されたらしいことが分かった。しかも、遺体からは臓器と眼球が持ち去られていた。

 姉が、人体売買業者のリストに、売買対象として上がっていたと知ったのは、最近、朝霞についてこの仕事に携わるようになってからだ。特に、そのオッドアイの瞳が、裏社会の一部の好事家の間で目を付けられていたらしい。

 父も、姉の死について調べていたようだから、もしかしたら知っていたかも知れない。だが、父も亡くなった。他の誰でもない、緋凪自身の手によって殺害されたと偽装され、それをあっさり信じ込んだ無能な警察は、この事件も終わったものとして処理している。

 先日会って話した桐哉の方も、父と姉の死因についてはあまり進捗は思わしくないらしい。


(――ッくそ!)


 思わず、握った拳を鏡に叩き付けた。

 蜘蛛の巣状にヒビが走り、鏡の中の自分が歪む。その歪んだ自分自身を仇のように睨み据え、何度も誓った言葉を繰り返す。


「……必ず、見付けてやる……!」


 父を、姉を殺した真犯人を。

 その為にこそ、姉と瓜二つのこの容姿を生かさない手はない。父の生前には既に思い付いていたこの手段は、父の猛反対に合い、実行はできなかった。

 だが今、それを止める者はいない。

 姉と唯一違う緋の両目を片方カラーコンタクトで偽装して、裏社会に近いこの仕事を続けるのも、全部その為だ。


(忘れてないから――翠。父さん)


 鏡の欠片で傷付いた手から、血が伝う。

 歪んだ自分の虚像が、赤い涙を流した。

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