scene.12 呉越同舟
うまくいった。何もかも。
そう思いながら、英治はほくそ笑んでいた。
薄闇に沈むレストラン内には、上品なクラシック音楽が微かに流れている。
フォークとナイフ、空のワイングラスが並べられた丸テーブルに肘を突いた英治の視線は、自然、そのすぐ横に置いてある、青いベルベットの布地で包まれた小箱に落ちた。
中身は、この三日の間に、都内の高級アクセサリーブランド店で注文した、婚約指輪だ。
もうじき彼女が来る。
自分が室橋総合病院の副院長になる為の、大事な駒――鷹森紗藍が。
別に、今のところは彼女に愛情を感じてはいないが、見目は悪くない。どうしても縁戚関係を結ばねばならない相手の容姿は、まずラッキーだったと言わねばなるまい。
そして、自分の見目も悪くはないことも、英治は充分に自覚していた。容姿はそこそこ端麗で、金もある。そして、結婚後も束縛するつもりはなく、夫の金で遊んでもいいと公言している。
こんなにも好条件の男との結婚を、何故か強烈に嫌がった彼女は、彼女自身でコトを大きくしてしまった。
彼女が駆け込んだ便利屋は、思っていたよりも優秀で、室橋病院の裏まで嗅ぎ付けたらしい。が、向こうに籠絡された裏切り者の証人は始末したし、彼女を説得する為の手段として使った儀保慈の口も封じた。里奈のボディガードをしていた連中も、見つからないように葬ってある。
ここまですれば、英治にできないことなどないのを、彼女もようやく理解したらしい。
まだ解って貰えなかったらどうしようかと思っていたが、これで全てが上手く回り出すだろう。彼女も直に、英治と結婚したのは間違いでなかったと気付く筈だ。
クスッと独りでに漏れた笑いと共に、ワイングラスを指先で弾く。
ピン、と透明な音が響いた時、レストランのボーイが、一人の女性を伴って近付いて来た。
「室橋様。お連れ様がお見えになりました」
「ありがとう」
ボーイが座るように促し、引いた椅子に腰掛けたのは、待ち人であった鷹森紗藍だ。
腰まで届く、緩い天然ウェーブらしい髪の毛を、今日は両サイドを捻るようにして後ろに束ねた彼女は、あの初対面の見合いの日と同じように薄化粧を施している。
彼女が身に着けているのは、今日の為にと英治が贈った、膝丈のパーティードレスだった。高級レストランに見合うようなドレスは持っていないだろうという配慮からだ。
レストランの照明は暗いので少し分かり難いが、深い青のワンピースだ。ウェストをリボン帯で絞り、スカート部分がフレアになるデザインのものである。ノースリーブの上からライトブルーのボレロを着る仕様になっていた。
胸元には、ドレスに合わせた真珠のネックレスが光り、チラと目に入った足下の靴も、英治が贈ったピンヒールのパンプスだ。
「よく似合ってる。嬉しいよ、着て来てくれたんだね」
紗藍は、チラリと英治を見上げると、すぐにフイと視線を逸らした。しかし、英治は構わずに続ける。
「今晩は君の為のフルコース料理だ。気に入ってくれると思うけど」
紗藍の返事を待たずに、ボーイに視線を向け、調理を始めてくれるように促す。ボーイは、軽い会釈と共に一度その場を辞した。
「食前酒は?」
「……未成年よ」
固い声で短く言った紗藍は、やはり英治とは目を合わせない。だが、英治は特に気にしなかった。
彼女と籍さえ入れて事実上の夫婦となれれば、彼女との夫婦仲はあまり関係ない。
「そうだっけ。じゃあ、僕だけ遠慮なく」
テーブルに元々あったワインボトルを開けて、自分のグラスにワインを注ぎ入れる。
「しかし、ここまで来るのに随分掛かったよねぇ。どこまで理解力がないのかってちょっと不安になったけど」
沈黙を返す紗藍に目を向け、ワインの入ったグラスをクルリと回した。
「まあ、そんなに心配しなくてもいいよ。最初に言った通り、僕は結婚後、君が何をしようと束縛するつもりだけは一切ないから。あらゆる意味に於いて、ね」
流石に、今夜は人目があるので、これ以上のことは言わない。
グラスの三分の一程の量を注いだワインが空になった頃、前菜がテーブルに並べられる。
「ああ、済まない。彼女にはソフトドリンクを。未成年だったの忘れていたよ」
「畏まりました」
ボーイは一度下がり、戻って来て彼女のグラスにもソフトドリンクを注ぎ入れると、再び辞去して行く。
その間に、英治は自身のグラスに代わりのワインを注ぎ足した。
「それじゃ、乾杯しようか。僕らの未来に」
彼女は瞬時、英治の目を睨み据えたが、逆らえば何があるか分からないところは学んだらしい。黙ってグラスに手を伸ばし、英治の前に差し出した。
英治は、軽くグラスを彼女のそれに当てると、また一口ワインに口を付け、前菜に手を着ける。
彼女も、ソフトドリンクを一口飲み込むと、目の前の食事を片付け始めた。
どれもこれも、一般庶民である彼女が普段食べたこともないものの筈だが、彼女は運ばれてくる料理を口に運ぶだけで、感想は言わなかった。
食器が擦れる金属的な音と、店内のBGMだけが聴こえる。しかし、こういう店では喧しく話をする方がマナー違反だ。
デザートをあらかた平らげ、食後のコーヒーが運ばれて来た後、英治は用意していた小箱を紗藍に差し出した。
「受け取って」
目を上げた彼女に、目一杯優しく微笑む。
この笑顔で落ちなかった女は、これまでにいない。――唯一人の例外を除いては。
しかし、彼女は記念すべき(と言うより唾棄すべき)例外二人目のようだ。差し出された小箱を、まるで親の仇でもあるかのように睨み付け、受け取ろうとしない。
「ねぇ、いいの? 素直に受け取らないと、大~事な友達の里奈チャンのお母さんがまず大変なコトになるんじゃない?」
声をひそめて言うと、紗藍は唇を噛むようにして俯く。
英治は、クス、と小さく笑うと、静かに立ち上がり、小箱を開けた。中身を取り出して、彼女の左手薬指にそっとはめる。リングに小さなダイヤが光る、シンプルなものだ。
彼女は、ビクリと一瞬手を震わせたが、逃げようとはしなかった。
「僕と、結婚するよね?」
世間一般的なプロポーズとは懸け離れているこの台詞に、彼女は頷かなかった。だが、良しとしよう。ここへ来たということは、そのつもりだということに他ならないのだから。
英治は満足げに彼女の手の甲に口吻けを落とし、立ち上がる。
「そろそろ出ようか。安心して、ちゃんと送っていくから」
手を取って立ち上がらせると、彼女は抗うことなく従った。
***
駐車場に行く、と言って、英治はエレベーター内に彼女を誘った。蹌踉とした足取りで英治の後をついて歩く彼女は、俯いたままエレベーターに乗り込んだ。
その為、英治が上へ行くボタンを押したのに、エレベーターが動き始めてから気付いたらしい。
ハッとしたように顔を上げた彼女は、訝しげに英治を見上げた。帰るんじゃなかったの、と顔全体が言っている。
だが、英治は知らぬ振りで、天井に視線を投げた。
まだ言う訳にはいかない。
ここまで来るのに、相当な策を弄さなければならななかったのだ。またぞろ、しかもこんな所で抵抗されたら興醒めである。
(まあ、それを宥めるのも面白いかも知れないけどねぇ)
クス、とまた小さく笑いながら階数の表示灯を眺める。ポン、と小さな音と共に、最上階でエレベーターが止まった。
オープンのボタンを押して、彼女に出るように促す。
しかし、彼女は警戒しているのか、隅の壁に背を付けて動こうとしない。
「ねえ、まだ学習しないの?」
ふう、と溜息と共に言うと、彼女はビクリと身体を震わせる。
「君が言うコト聞かなかったら、痛い目見るのは君じゃない。君の周りの人間だ。そこんトコ、いい加減理解しなよ。どうする? 降りる? それとも降りずに里奈チャンのお母さんを――」
そこまで言うと、一瞬彼女はギロリと英治を睨め上げたものの、怒ったような足取りで箱から降りた。
英治は、何度目かで小さく笑いながら、彼女に続いてエレベーターを出る。
「安心しなよ。別に怖いコトをする訳じゃない。君だって初めてじゃないんだろう?」
エレベーターホールには二人きりなのをいいことに、英治はそっと彼女を背後から抱き竦める。
「や」
「それに、取ってあるのはスイートだ。夜景の美しさも保証するよ」
今夜は素敵な夜になる。
そう付け加えて、彼女を所謂お姫様抱っこにすると、有無を言わさず押さえていた947号室へ歩を進めた。
部屋のカードキーを取り出し、扉を開けると、彼女の腰を抱えて部屋へ連れ込む。オートロックのドアは、閉じてしまえば外からは開かない。
ドア近くの壁へ彼女を押し付け、唇を奪おうとすると、彼女は身を捩って口吻けを逃れた。
流石に苛立った英治は、耳元へ唇を付けるようにして囁く。
「あまり抵抗しない方がいい。合図一つで、里奈チャンのお母さんに安らかな死を与えるよう指示してあるんだ。つまり、里奈チャンのお母さんの命は君が握ってる。さ、どうする?」
ギクリと身体を硬くさせた紗藍は、決まり文句のようになった脅しに、取り敢えず抵抗するのを止めたらしい。
「ん、いい子だね」
言うや、英治は彼女の唇に軽く啄むようなキスをした。
何度目かで怯えるように震えた彼女を抱き上げると、器用に彼女の着ているボレロを脱がせて、ウェストの帯を取り去りベッドへ横たえる。
愛情がないのと、ベッドで夫婦生活を営むのとは、英治の中ではまた別問題だった。籍が入っていても彼女を束縛するつもりがないのは変わらないが、かと言って夫婦生活を疎かにするつもりも更々ない。
折角夫婦という名でこれから過ごすのだから、文字通りの仮面夫婦も詰まらないだろう。
首筋に唇を落とし、そこをきつく吸い上げると、それまでの抵抗が嘘だったかのように、彼女が英治の首筋に腕を回した。
ようやくその気になってくれたか、と思ったのは早計だった。流れが変わったのは、その後だ。
首筋に回った腕に、睦言の最中にはそぐわない程、徐々に力が込められていく。
「……さ、紗藍?」
息苦しさを感じたところで、英治は恐る恐る名を呼んだ。
「なあ、知ってるか?」
耳元に低く答えたのは、紗藍とは似ても似つかない声音だった。
「東京都青少年健全育成条例・第十八条の六では、青少年と淫らな行為をするコトを禁止してるんだぜ。ま、相愛の場合は別らしいけど」
「何、を……」
貴様一体、と言い掛けるが、締め上げる腕に更に力が籠もって何も言えなくなる。
「ついでだから解説してやると、青少年ってのは、十八歳未満の人間を指すんだ。そいで俺は十七だから、ギリギリ十八歳未満。ちなみに、条例に拠れば対象は男女問わず。……で、確認するのもおぞましいケド、さっきあんたは俺にキスしたよな」
うっえ気持ち悪、と挟んで、高さを残した少年のものとも、低い女性の声とも付かないそれが続ける。
「でもって、首筋にキスしてばっちりキスマークも付いてる。って訳で、証拠は充分――おい!」
ギリギリと油断なく英治の首を締め上げながら、相手は耳元で大声を上げた。
「そろそろ出て来いよ! 絞め殺しちまうぞ!」
直後、室内にパッと明かりが灯り、背後から聞き覚えのない男の声が降って来た。
「おいおい。これじゃコイツを淫行条例違反の現行犯で逮捕すべきか、お前さんを暴行罪でふん縛るべきか、迷うなぁ」
「何言ってやがる。正当防衛だっつの!」
組み敷いている相手が、言い捨てるなり、下腹部に衝撃が来て室内の景色が回る。下から突き上げるように思い切り蹴り上げられ、ベッドの下へ落とされたと理解したのは、視界に見知らぬ若い男の顔が映って、もう一度視界が反転した後だ。
「いっ、痛い痛い! ゲホ、ゲホッ……何するんだよっ!」
背後に左手を根本から捩じ上げられた英治は、喉元が自由になった反動と、腹部を蹴られた衝撃で咳込みながらも、自由な右手でバンバンと床を叩く。が、締め付けは緩まない。
必死の抗議を無視するように、今度はのんびりとした男の声が告げた。
「えーっと、五月二十日、午後八時十分。東京都青少年育成条例第十八条の六違反の現行犯で逮捕っと」
最初の声とは違うものだ。恐らく、地面へ縫い止められる直前に見た、若い男。
ガチャ、ギリリ、という音が連続したかと思うと、手首にヒンヤリとした硬質な感触が触れる。手錠か、と脳裏で呟くと同時に、自由だった右手も背後に回され、同じように音がして、完全に後ろ手に拘束された。
「ちょっ……一体全体、何な訳!? 僕が何したってんだよ!!」
「見苦しいぜ、変態ナルシスト」
グイッと背後に引き起こされ、ようやく視界の天地が正常に戻る。瞬間、何かがスレスレで顔の前を通過したような気がしたが、よくは分からない。
そこにいたのは、やはり紗藍としか思えない――少なくとも、見た目は紗藍に見える少女だ。だが、髪の毛は鮮やかな、どこかで見た覚えのある緋色になっており、その左手には黒い毛の固まりに思えるものが握られている。察するにヘア・ウィッグだろう。
「ふう、危なーい。緋凪君、気を付けて。それ以上やると、君も一緒に連れてかなきゃなんなくなるよ」
「ソイツがアホな発言するからだろ。とにかく早くシャワー浴びたいぜ、あーっ、きっしょく悪ィ! 口も拭いていいか?」
緋凪、と呼ばれた紗藍もどきは、思う様唇を曲げている。そして、よくよく見れば、その右足が、つい今まで英治の頭部があった場所を蹴り上げたように上がっていた。
同時に、つい先刻目の前を過ぎったのは、この爪先だったのだと悟る。
「ごめん、まだ我慢して。すぐ鑑識さん呼ぶから。唾液とか付着物取って貰ったらね」
「止めろ、具体的に言うなっ! 尚更シャワー浴びたいわ、今すぐっっ!!」
「彼をちょっとの間でも牢にぶち込みたかったら、悪いけど本気で全力で我慢して。ああ、ちょっと警部、ボッとしてないでパトカー手配して下さいよ」
「仕切るな、指揮官はおれだっ! それにもう手配したぞ、パトカーと鑑識」
「それは失礼しました。ありがとうございます。って訳だから緋凪君、後ちょっとの辛抱だよ」
「ちょっとってどんくらいだよ」
「ねぇ、君達、僕抜きで話進めないでくれるっ!?」
目の前で繰り広げられるやり取りに、堪り兼ねた英治が叫ぶと、三人はパタリと話を止めて、英治を注目した。
「……抜きで話してたか?」
緋凪が確認すると、背後の男がのんびりと言う。
「入れて話しても、結果は変わらないけどねぇ。現行犯だし」
「しっかし、高級スイートってのは本当に嫌みな広さだな」
僻み剥き出しで言ったのは、中年の男だ。
「ま、おかげで隠れるトコは沢山あったろ」
緋凪が、紗藍と同じ顔で不敵な笑みを浮かべる。
「……君達、何? 緋凪ってのは、……確か、便利屋だよな」
今やっと思い出した。紗藍と一緒にいた、見た目だけが図抜けて良い美貌の持ち主で――確か、少年だ。と思うと、本当に癪だが、英治自身も口を洗いたくなる気持ちはよく分かった。
「他の二人は、警察?」
「おう」
中年男が懐から警察手帳を取り出す。
「所轄署の外川だ」
「同じく、滝沢です」
背後の男が名乗る。
「君達、こんなコトしてタダで済むとか思ってんの?」
すると、またしても一瞬三人は沈黙した後、顔を見合わせた。
「今、コイツ、何てった?」
「うーん。確か『タダで済むと思ってるのか』って」
「おいおい。淫行条例違反の現行犯で逮捕されといて言う台詞か?」
しかし、英治は動じない。
「だって、その程度ならお金で解決できるし。これで紗藍と僕の結婚を阻止できたと思ってるなら甘いね」
実際、そうやって解決した事案がいくつもある。
相手が何故か自殺してしまった件もあった。あれが、紗藍以外の例外女性だったが、その件も、金で握り潰した。正確に言えば、父が握り潰してくれた。恐らく、今回もそうなるだろう。
今回、少しばかり相手が上手で、結局あの時の二の舞を演じる羽目になったのは怒られるだろうが、自分はベストを尽くしたのだ。結果を咎めても仕方がないのは、父も分かってくれるに違いない。
しかし、薄ら笑いを浮かべる英治に怯えるどころか、底冷えのする温度の視線を向けた緋凪が口を開く。
「……なぁ、響。やっぱりコイツ、もう二、三発殴っていいか?」
黒いウィッグを投げ捨てた緋凪が、ポキポキと指を鳴らす。しかし、滝沢と名乗った背後の男は「だーめ」とのんびりとしているようで断固とした口調を崩さない。
「君がやらなくたって、後でたっぷり署でお灸据えて貰うんだから。無駄に手を汚す必要ないと思うよ?」
チッ、と思う様舌打ちした緋凪は、拳を作った右手を左掌に苛立ったように打ち付けたが、取り敢えず滝沢の忠告に従うことにしたようだ。
「だから、すぐ出られるって言ってるのに……紗藍の周りは理解力のない人間ばかりなんだなぁ」
はあ、と呆れて溜息を吐く英治の前で、「あ、そうだ」と思い出したように緋凪がスカートの裾を探った。
「ホラよ。おっさん」
「ん」
緋凪が外川に差し出したのは、小型のICレコーダーだ。
「あんたが紗藍と思い込んだ俺をネチネチ脅してる音声、がっつり記録されてんぜ。声紋照合すればバッチリ一致するから、まあコッテリ絞られろよ」
それにしても、いつバレるか冷や冷やしたけどな、と続けて緋凪は肩を竦める。すると、滝沢が「バレるって何が?」と問うた。
「ん? 正体もそうだけど、ICレコーダーの存在。ソイツが鈍くて助かったけど」
「正体は服剥かれない限りバレないでしょ。“彼女”の特殊メイクの腕は抜群だもの」
「ったって、胸は上げ底のニセモノだし、声色変えるとか難しいモンよ。なるべく喋らねぇようにしたけど、誤魔化すのも一苦労だったっつーか……」
喉元を押さえて首を捻る緋凪は、滝沢の言う通り、やはり紗藍にしか見えない。加えて、紗藍との接触回数自体がそもそも少なかった所為で、彼女の声をよく覚えていなかった。
見た目の先入観が、声色を疑うということを英治にさせなかったのは確かだ。“彼女”とやらが何者かは、未だ英治には分からない。けれども、確かにその特殊メイクの技術にだけは感嘆せざるを得ないようだ。――が。
「……随分手の込んだコトしてくれて、ご苦労様だけど、その苦労もすぐ水の泡になるよ」
クスッと嘲るように笑った直後、着信音が響く。
「はい、外川」
どうやら彼の端末だったらしい。二、三言、電話の相手とやり取りした外川は、通話を切って英治の方へ顔を向けた。
「お喋りの時間は終わりのようだぞ、お坊ちゃん。署までドライブと洒落込もうじゃないか」
「君みたいなおじさんとドライブなんて気が乗らないね。どうせなら、美しい女性刑事が一緒なら良かったのに」
「はいはい。それじゃ、取調室にはウチの綺麗どころを揃えますから、暫しご辛抱頂けますかね、殿下」
はい、ご起立願いまーす、とおどけるように言った滝沢が、拘束した後ろ手を引っ張り上げるようにして、それまで膝で床に立っていた英治を正常な立ち方にさせる。
「おい、おっさん。鑑識はまだかよ。そろそろ我慢の限界なんだけど」
「一緒に来たそうだ。直に上がってくる」
そんな彼らの会話を背に、滝沢に連行された英治は、スイートを出た。その口元には、やはり懲りない薄ら笑いが浮かんでいる。
こんな罠に僕を嵌めて、よくもまあ、恥掻かせてくれて……釈放されたら、次はどうやって君をいたぶろうかな。ねぇ、紗藍――。
***
『――では、次のニュースです。先週の五月二十日、イングヴァル・ホテルで、十七歳の少年に暴行しようとしたとして青少年健全育成条例違反で逮捕された室橋英治容疑者・二十四歳ですが、その後の警視庁の調べで、別の殺人事件にも関与していることが判明しました。警視庁は、更に余罪があるモノとして、引き続き同容疑者を追及する方針です……』
「じっくり攻めれば、その内裏の商売も露見するわね」
英治をお縄にした一件から、十日後の昼下がり。
リビングにあるテレビのニュースを、ソファに座って見ていた朝霞は、「ザマミロ」とテレビ画面に映っている英治に向かって舌を突き出した。
これまでに散々、父親の財力とコネで罪の追及を逃れて来たらしい英治だが、今回は現行犯で即逮捕されたこと、事前に、不確定ながらある程度証拠が揃っていたことが、彼にとってマイナスに働いたと言える。
加えて、実質の被害者役となった緋凪が、被害届を出すのを躊躇わなかった上に、英治の父である室橋敏晴の差し出した袖の下を手酷く跳ね付けたことが追い討ちとなった。
更に、手土産という名の口止め料を持った敏晴が不破家を訪れた時、彼にとっては正に間の悪いことに、現職の刑事である響も不破家にいた。
厳密に言えば、口止め料を渡すこと自体は違法ではない。弁護士が間に入れば、正式な和解金として扱われることもある。
だが、響が英治を現行犯で捕らえた刑事だと知ると、流石にその目の前ではごり押しし兼ねたのか、敏晴はほうほうの体で退散した。
「お陰でいい迷惑だけどな、こっちは」
はあ、と溜息と共にトレイに乗ったティーカップが差し出される。
見上げると、普段通り髪をうなじの辺りで束ねた緋凪が、若干疲れた顔で立っていた。
ありがと、と短く礼を述べて、ソーサーごとティーカップを受け取る。
「今日もこれから聴取?」
「いや、俺の方はもう終わり。根掘り葉掘り聴かれるのにちょっとうんざりしてただけ。まあ、覚悟はしてたけど……『執行猶予中に何があって女装癖に走っちゃったんだ?』とか『執行猶予中、ゲイ・バーのスタッフになっちゃいけない規則はないが』とか」
果ては、その容姿じゃ洒落にならん、とか、ヤケを起こすな、などというちょっとズレた方向にすっ飛んだ刑事までいたらしい。
「危うく机引っ繰り返すトコだったぜ」
「あはは」
顔を顰めて言った緋凪に、朝霞は乾いた笑いを返した。
被害状況と、緋凪の容姿では、そう問われても仕方がないかも知れないが。
「ま、幸い今回は響も一緒だったし、それが囮作戦だったってトコは何とか納得して貰ったっつーか」
「それにしても、仮にも一般人巻き込んだってコトで、響君には迷惑掛けちゃったかもなぁ……」
ふう、と溜息と共に、朝霞は紅茶に息を吹き掛ける。
「いいんじゃね? アイツもケーサツだし、税金分は働いて貰わにゃ」
投げるように言って、緋凪は肩を竦めた。
あなたもとことん警察嫌いが徹底してるわね、と言うのは、脳内で呟くに留めた。
彼が警察不信になったのは、無理もない。理由が理由だし、それ自体が彼のトラウマの一部なのだから、根の深い不信感は、簡単には拭えないだろう。
「それに、ああでもしねぇと、室橋病院の裏までメスが入らなかったと思うぜ」
「そうね……」
室橋病院の裏――それは、医療を司る者としては勿論のこと、人としても決して冒してはならない領域だった。
暴力団との癒着、それによる麻酔薬の横流し、患者を故意に脳死状態にした上での臓器売買――口に出すのもおぞましいことに、室橋敏治は長い間手を染めていた。どういう経緯でかは朝霞も知らないが、どんな理由があっても許されることではない。
そして、敏治が癒着していた暴力団とは、彼の息子の英治も関係していたのは、英治が裏の情報屋や殺し屋を雇えたことからも明らかだ。それが、彼の増長を促したとも言えよう。
「ところで、朝姉の方はその後どうなってんだ?」
不意に話し掛けられて、朝霞は顔を上げた。
「ああ、うん……まだちょっと節々痛いのよね。完治まではもうちょっと掛かりそうかな」
「じゃなくて、進藤のクソ爺の処分だよ。逮捕できそうなのか?」
「あー……そっちね」
眉根を寄せて、朝霞は一つ紅茶を口に含み、飲み下す。
「響君に聞いたトコに拠ると、ちょっと難しいみたいなのよね」
朝霞は敢えて目を伏せたまま、答えを口に乗せる。見なくても、緋凪がどんな顔をしているかは、よく分かっていた。
「車庫の防犯カメラは、“あの日”“偶々修理中”で動いてなかったって言うの。あっちには都合のいい話だけど、確かに、あの時間帯の映像は残ってなかったらしいわ。車も調べたけど、勿論指紋は検出されず。あたし自身の整備不十分で、この怪我も自己責任扱いよ」
「ざっけんな! 朝姉は納得いくのかよ、それで! 殺され掛けたんだぞ!?」
早々に緋凪が激昂する。チラリと見上げた美貌は、予想通り険しく歪んでいた。
「……いくかいかないかで言えばいかないけど、命があっただけ儲けモンね。ちょっと時間は掛かりそうだけど、身体もどうやら元には戻りそうだし、今のとこ、日常生活も何とかやってるしね」
「その間の治療費、誰が出してくれるんだよ。やっぱり不条理じゃねぇか」
朝霞は今度はまともに彼の顔を見上げた。鞭打ちの後遺症か、まだ少し首を上に曲げる動きが厳しい。寝違えの重傷バージョンのようだ。
ソーサーをテーブルに置くと、チョイチョイと彼を手招きする。
緋凪は、眉根を寄せたまま、無言で朝霞に従う。膝を突いた彼の頭を、朝霞は無造作に抱き寄せた。
「ッ!」
緋凪が息を呑んだのが分かる。が、朝霞は構わずにその頭部に頬を寄せた。
「いい、とは言えない。あたしだって人間だもの。理不尽だ、納得できない、相手を滅茶苦茶にしたいと思う時もある。でもね――」
朝霞は、そこで一度言葉を切ると、目を伏せた。
理不尽な理由で失くした大事な男性が、脳裏を過ぎる。
彼を失ってから、暫くは自分が生きているのか、死んでいるのかも分からなかった。どうにか自分を取り戻した後も、もう職場に復帰しようとは思えなかった。何しろ、彼を失うきっかけを作ってくれたのは、他でもない、朝霞自身の職場だったのだから。
そして、彼の死から数年後に出会った、亡くなる数ヶ月前の彼と同じ瞳をした少年――
「……この生き方には、それなりに満足してるのよ。理不尽に対して怒ってくれる、優しい息子もいるしね」
「……バカヤロ」
怒っただけで事態は好転しねぇだろ。
そう続けて呟いた緋凪の頭を撫でながら、暫し訪れた沈黙に身を浸す。
そうして、彼の頭部に頬を埋めていたのが、どのくらいの間だったのか。やがて、彼がソロリと動いて立ち上がったので、朝霞も自然に彼の肩に回していた腕を解く。
「凪君?」
「……そろそろ……店開けるよ。ずっと臨休にしてたし……朝姉の治療費も稼がねぇとな」
珍しく眉尻を下げて言う彼に、小さく吹き出しながら、そうねと頷く。
「ところで、あれから紗藍ちゃんから何か連絡あった?」
「いや。アイツも事情聴取受けてたから、何回か顔見たことはあったけど」
まともには話してない、と彼が続けたその時、居住区の呼び鈴が静かに来客を告げた。




