scene.11 決行前夜
儀保慈水死事件から二日後に当たる、五月十九日の午前十時。
外川忠広警部は、千明緋凪から受け取った名刺を頼りに、カフェ・不破古書店を訪れていた。
(……あンのクソガキ……ここに連絡しろって言うから連絡したのに、いっくら電話しても出やがらねぇ)
仕方がないから、こちらから出向くことにしたのだ。
ったく、これで居留守でも使ってみろ。出張料、請求するぞ。
などという脳内の独り言を、そこに一緒にいる滝沢響警部補にでも聞かれた日には、「そんな権限はありません」とツッコまれそうだが、そもそも外川はそんなこととは露知らない。
元々、共に引き連れて来たのは、儀保慈水死事件担当補佐を務める山県友之という若い刑事だった。
つまり、響とはこのカフェの前で行き合っただけなのである。
店の前のオープンスペースには誰もおらず、扉には臨時休業のお知らせの札が下がったままだ。かと言って、緋凪に渡された名刺には、ここ以外の住所が書かれていない。
無駄とは思いつつ、何度か店の番号に電話を掛けたり、カフェのドアノブを借金取りよろしくガタガタ回したりしていたが、やはり誰も出て来ない。
粘ること三十分、出直そうかと思い始めた頃、響の端末が着信を告げた。
「はい、滝沢です。……ああ、緋凪君?」
途端、外川は自分の耳が一回り大きくなったような錯覚を覚えた。
緋凪? 千明緋凪のことか?
「うん。……あー、ごめん。お店の方の玄関かと……」
外川が聞き耳を立てていることなど知る由もない響は、相槌を打っている。
「うん、分かった。あ、それと、外川警部が来てるんだけど……うん、そう、外川元警部補ね。今は彼、警部なんだ」
どうやら昇進を知らなかったらしい緋凪に、今の階級を丁寧に教えてやり、二、三言やり取りすると、響は通話を切った。
「じゃあ、行きましょっか、警部」
「何だと?」
「居住区の方です。今、朝霞さんと緋凪君が戻ったみたいなので」
丸顔に近い輪郭の中で、満面の笑顔を浮かべた響は、外川の返事を待たずに踵を返した。
渋面になりながら山県を促し、彼の後に続く。
一度、カフェのある裏通りから表通りに出て、その隣の路地へ左折し暫く行くと、表札のない古びた家があった。ちょうど、カフェの裏手に当たる場所のようだ。
門扉の前には、二日前に会った緋凪と、元は刑事だったという不破朝霞が並んで立っていた。いや、正確には、朝霞が緋凪に肩を借りる形で立っている。
「うわー。朝霞さん、大丈夫なんですかぁ?」
「んー、何とかね」
外傷は見当たらないが、どこか痛めているのだろうか。肩を竦めようとした彼女が、微かに顔を歪める。
それから、朝霞は外川に視線を移して会釈した。
「外川警部ですか?」
「あ、ああ」
戸惑いつつも頷くと、朝霞はそのまま挨拶した。
「初めまして。元警視庁捜査一課に所属しておりました、不破朝霞と申します。辞めるまでお会いすることはありませんでしたから、初めてでこんなご挨拶で申し訳ありません。どうも、お恥ずかしいことに、一人事故で全身鞭打ち症でしてね。ご勘弁下さい」
眉尻を下げた彼女は、困ったような微笑を浮かべる。
その彼女を支える緋凪はと言えば、外川に冷ややかな流し目をくれていた。彼にしてみれば、自分の心証は良かろう筈はないが、自業自得というものだ。
「じゃあ、皆さんどうぞ」
朝霞が手で、家の内へ入るように示す。
緋凪が無言で響に家の鍵を渡し、響が、勝手知ったる何とやらを実行するように鍵を開ける。
少し躊躇ったが、外川は山県を伴い、その後に続き、家主である筈の朝霞と緋凪が最後に門扉を通って家に入った。
***
「断っとくが、茶は出ねぇぞ。人の税金で無駄に食ってる奴に出すような茶は、ウチにはねぇもんでな」
リビングに入ると共に、投げ付けられた文句は、その美貌とは如何にも不釣り合いだ。などということを客観的に思う間もなく、外川も反射で切り返している。
「ふん。俺だって、執行猶予中の犯罪者から恵んで貰う茶なんて、こっちから願い下げだ」
「外川警部」
すると、意外なところから物言いが入った。
「どうぞ、お掛け下さい」
まず席を勧められたので、話の腰を折られた格好になった外川は、返す言葉も見つけられないまま、仕方なくソファに腰を下ろした。
続いて、その隣に山県が小さくなって座り、直角に設えられた一人掛けのソファに朝霞が腰を落ち着ける。ソファはそれで定員一杯になり、余った緋凪と響は、それぞれ思い思いの場所に立ったままだ。
「お話を伺う前に、一つ宜しいでしょうか」
口を開いた朝霞に、無表情にヒタと見据えられて、外川はやや居心地の悪さを覚えながら答える。
「何だ」
「先程の発言は、撤回して頂けますか」
「先程の、とは?」
「凪君が、“執行猶予中の犯罪者”だという発言です」
言われて、外川は朝霞を見つめ返した。
「執行猶予中の犯罪者をそう呼んで何が悪い」
「お言葉ですが、それは名誉毀損に当たるかと」
外川はグッと言葉に詰まるも、必死で反論を探す。
「……だが、この場合は事実だから、不可罰が成立する筈だ」
「不可罰イコール有罪でない、とでも?」
クスリ、と漏れた朝霞の笑いには、明らかに嘲りが含まれている。
「いいよ、朝姉。俺はもうケーサツに無実を信じて貰おうとは思ってねぇ」
見兼ねたのか、口を挟んだ緋凪の声音も、朝霞の微笑と同じ程の冷ややかさがあった。
「だから、真犯人は自分で見つける。ケーサツは目に見える証拠しか見ないから、状況証拠をコロッと信じ込むんだよな。それでしっかり仕事したつもりになってるような組織だから、基本的には宛にしちゃいけない。それを教えてくれたコトだけには、感謝してるけど」
投げるように言った緋凪は、外川と山県に、応分に心底からの侮蔑を込めた流し目をくれる。
緋凪とは初対面の山県は、蛇に睨まれた蛙のようになって、元々縮めていた身体を益々小さくした。
朝霞と響はと言えば、それぞれに申し訳なさと自身の不甲斐なさへの憤りを複雑に秘めた表情で緋凪を見つめている。それを、外川は敢えて見ない振りで視線を外した。
朝霞は、チラリと外川に目を向け、一つ息を吐く。
「……いいでしょう。凪君本人がこう言っていることですし、名誉毀損罪は親告罪ですから、この場では不問に付します。……失礼ですが、そちらの……」
朝霞に視線を向けられた山県は、何故かビシッと背筋を伸ばした。
「はっ、はいっ! 山県友之巡査であります!」
「山県さん。あなたも、ここで見聞きしたコトは、一切他言無用にお願いします」
「……と言われましても……」
ここへは捜査に来たのだから、それは無茶振りだ、と続けたげな表情で、山県が折角伸ばした背を、再度縮める。
「では、言い方を変えましょうか。先刻の外川警部が凪君に仰ったコトは、事実無根です。どうぞ、お忘れ下さい」
「いいや、事実だ」
だからこそコイツは執行猶予が付いてるんだ、と続けようとした外川を、朝霞が底冷えするような目で睨んだ。
「外川警部。彼の名誉を傷付けにいらしたのでしたら、即刻お引き取り下さい。出口はあちらです。響君。警部はお帰りになるそうだから、ご案内、頼んでもいいかしら?」
「喜んで」
水を向けられた響が、おどけるように一礼した。
「ちょっと待て、お前は誰の部下だっっ!」
「やだなぁ、警部。僕は昔から、朝霞さんの下僕ですよ」
笑ってウィンクする様が、何故か妙に様になっている。
「だーっ! そうじゃない、属している組織はどこだと訊いてるんだっっ!!」
「いつでもクビになる覚悟はできてます」
肩を竦めて言う彼の、その微笑もまた怖い。
やだもう、コイツら、日本語が通じない。
外川は、内心で泣きそうになりながら、威厳を取り戻そうと咳払いを一つする。
「分かった。ソイツのコトは、ここでは敢えて追及しない。今日ここに来たのは、ソイツからも聞いてると思うが、先日、主婦が風呂桶で溺死する事件があってな」
「遺体発見の経緯は話しただろ」
またしても投げ出すように言った緋凪を睨み上げながら、外川は言葉を続ける。
「だが、現場にはお前さん達……正確に言えば、お前さんとあの鷹森紗藍とかいうお嬢さん、それに住人である被害者・儀保慈と被害者の娘・奈々枝の指紋しか検出されなかった。儀保慈の死亡推定時刻に、お前さんがその場にいなかったというのが事実だという証拠は?」
直後、冷ややかに外川を睨み返した緋凪は、朝霞に視線を向けた。
「朝姉、悪い。俺、席外してもいいか」
「いいわよ。警部の用事が済んだら呼ぶから」
「ちょっと待て。お前さんに話を聞きに来たんだろうが」
すると緋凪は、色の違う双眸を半眼にして外川を見下ろした。その瞳の温度が、ツンドラ地帯も斯くやという程に冷え切っているのは流石に感じ取れる。
「俺は確かに、あんたらに無実を信じて貰おうとはもう思ってない。二年前のあの件に関しては、分かって貰おうとするだけ無駄だってコトは、嫌って程理解したからな。けど、未来永劫、別の件でも疑われるのを我慢できるって意味でもねぇんだ、勘違いするな。このままここにいたら、今度こそ本当に殺人犯しそうだからな。それとも、あんたはそれが望みか?」
「だっから、そうは言ってないだろうが!」
「そうとしか聞こえねーんだよ。そーゆーの、誘導尋問って言うんじゃなかったっけ?」
厳密には違う、と言ったところで、最早聞く耳は持って貰えなさそうだ。
緋凪は素気なく踵を返すと、リビングの外へ姿を消した。
仕方ない。今日はこのまま引き上げて、また日を改めるか。
そう思っていると、程なく彼は戻って来た。
そして、ソファの前の低いテーブルの上に、無造作に何かを放る。コン、と小さく音を立ててバウンドした後、そこに転がったのは、SDカードを纏めて納めるケースだった。大きさは、A7サイズのメモ帳くらいだろうか。中には勿論SDカードが、三枚程納められている。
「何だこれ」
捻りもなく疑問を投げ、緋凪を見上げる。
「見て分かんねーの? SDカード」
「内容を訊いてるんだが」
「あんたがお疑いの、儀保慈が死んだ日一日の俺らの行動全記録」
「何っ!?」
外川は、思わずテーブルにしがみ付くようにして、ケースを覗き込んだ。
「それは本当か!? どこでこんなモノを」
「酔狂にもその日一日、俺らをストーキングしてたメーワク野郎がいたんでな。ソイツから巻き上げたんだよ。ドライブレコーダーの記録だから、逐一映ってる訳じゃねぇけど」
巻き上げた方法は、敢えて問うまい。
「ま、それにそのSDはコピーだけどな。オリジナルくれてやる程、俺ケーサツ信用してねーんで」
「……で? どうやらSDカードが複数あるようだが、他のモノは何のデータだ?」
「他のも全部コピーだけど、一枚噛むつもりがあるなら渡す。とある脅迫現場の録音記録」
「とある脅迫現場だと?」
「ああ。あながち、無関係じゃねぇと思うぜ。儀保慈の死亡事件と」
そこまで言われては噛まない訳にはいかない。ありがたく貰って帰ろうと手を伸ばすと、ケースが独りでにすっと下がった。――と思ったのは錯覚で、しなやかな指先がケースを押さえている。
その指の主を辿ると、極上の美貌に行き当たった。
「……何だ。この期に及んで渡さないとか言うつもりか?」
「まだ返事聞いてねーんだけど。噛むのか、噛まないのか?」
「……貰って帰るというコトは、噛むという返事とイコールかと思ったが?」
緋凪は、半眼で見下すように外川を見据えると、手を離す。
「そりゃ、悪かったな。ちゃんと言葉で聞かないと、ケーサツって人種はとことん信用できねーんで」
ふん、と鼻息と共に、外川は今度こそケースを取り上げて懐に仕舞った。
「ところで、あのお嬢さんはどこだ? 当分一緒にいるとか言ってただろ」
「今はもう一緒じゃない。急に予定が変更になったんだ。今は家か学校じゃねーかな」
緋凪はあっさりと言うと、鷹森紗藍の住所と、所属の学校を教えてくれた。
「……渦濱大学、だと?」
「ああ。それが何」
「……いや」
長男と同じ大学だったので、少し驚いただけだ。しかし、それは口に出さずに、外川は立ち上がる。
山県がメモを取り終えるのを見計らって、行くぞ、と彼に声を掛けた。
「おい、おっさん。捜査状況くらい教えていけよ」
不破家のリビングを辞そうとする外川を、緋凪が呼び止める。外川はジロリと緋凪を睨め付けた。
「第一発見者とは言え、お前さんは部外者だろうが。詳細を答える義務はない」
「あっそ。じゃあ、犯人に繋がりそうな情報は要らないんだな」
「何だと?」
身体ごと向き直る外川を無視するように、緋凪は響に視線を向け、唇の端を吊り上げた。
「良かったな、響。おっさんはご親切にお手柄を全部あんたに譲ってくれるそうだ」
「あれ、そういうコトなの? いや、悪いですねぇ、警部」
満面の笑顔を向けて言う響に、外川はこの不破家に来て何度目かでブチ切れた。
「だっから、質問に答えろ、千明緋凪! お前さんは犯人を知っているのか!?」
すると、数瞬の沈黙を挟んだ緋凪は、スイッチを切り替えたかのように表情を消した。状況は一切抜きにして、美人の無表情はやはりどこか怖い。
「ただの推測だよ。もっとも、状況証拠だけで俺を犯人扱いした挙げ句に、刑期と執行猶予を確定させちまったケーサツなら、ソイツを犯人に祭り上げてくれるかも知れないとは思うけど」
「……冤罪を作る手助けならしないぞ」
「よく言うぜ。ここに冤罪で殺人犯にされた人間がいるってのに。あんただってそれに荷担した筈だ。忘れたとは言わせねぇ」
クッ、と漏れた笑いは、嘲りでも侮蔑でもない、底なしの昏さを滲ませている。
「それこそ名誉毀損だな、千明緋凪」
腹部に力を入れて、低く声を落とす。
ドスの利いたその重低音は、署内でも恐れられている。その辺の不良少年程度なら震え上がって、一部ではやってもいない罪でも白状するとまで噂されていた。が、一見儚げに見えるこの美貌の少年は動じない。
「何とでも? どーせ俺はもう、世間的には前科者だ。名誉毀損罪くらいでビビるような可愛らしい神経なんて、とっくに磨耗しちまってるよ」
色味の違う双眸が、声音と同じ昏さを持って外川を見据える。
二年前は、確かその双眸は同じ緋色をしていた筈だ、とぼんやりと思う。強いて言えば、彼の亡くなった双子の姉が、翡翠と緋のオッドアイの瞳を持っていた。だが、今は追及するところではない。
「……まあ、取り敢えず今はいいや。こうやってあんたを責めたところで、時間は巻き戻らないし、今俺の無実が証明されたからってケーサツからの謝罪も期待できねーしな」
肩を一つ竦めて、緋凪は言葉を継ぐ。
「儀保慈を殺害したのは、恐らく室橋英治だ。それか、ソイツに命令された誰か」
「……ムロハシエイジ?」
慌ててまた山県がメモ帳を取り出す横で、外川は耳慣れない名前を鸚鵡返しに呟く。
「室橋総合病院の御曹司で、近々副院長に就任する予定の男だよ。ただ、その条件として提示されてるのが、あの鷹森紗藍との結婚」
「今時、政略結婚か? しかし、何でまた、あのお嬢さんと」
「アイツは今、進藤総合病院の副院長やってる、進藤将司の娘なんだよ。まあ、色々家庭環境がフクザツらしいぜ。その辺はそっちで調べてくれや。ついでに、室橋・進藤の両病院を徹底的に洗うコトをお勧めするね」
「……お前さんの証言だけで捜査対象にはでき兼ねるな。今のところ、その病院はお前さんの口から出たってだけで、儀保慈殺害の捜査線上には名前も浮かんじゃいない」
「そこまでは俺の知ったこっちゃねぇよ。あんただって、それでもプロなんだろ。何かしら抜け道がいくらでもあるんじゃねぇの? 例えば」
緋凪は、意味ありげに言葉を切ると、外川の懐辺りに視線を据えた。
「さっきあんたに渡したデータ……とかさ」
「このデータがどう関連する?」
「音声データに室橋英治のモンも入ってる。声紋照合すれば、ばっちり一致する筈だぜ」
腕組みしたその美貌に、不敵な笑みが浮かぶ。
「しかし……」
百歩譲って緋凪の証言を信じるとしても、どうやってその男を取り調べできるように関連付けるのかというのは、中々難問だ。
音声データだけでは、前科持ちでないことには口実としては弱いだろう。
「あの儀保慈の住んでたマンションって、防犯カメラ付いてねぇのか?」
出し抜けに問われ、外川はつい訊ねられるまま答えを口に乗せる。
「いや、設置されている。だが、あの日、マンションの住人と管理人以外で映っていたのはお前さん達と鷹森紗智子……あの御嬢さんのお袋さんだけだな」
念の為、その前日と翌日に掛けても調べたが、怪しげな人物の出入りはなかった筈だ。
「……どういうコトかしら」
それまで黙っていた朝霞が、口を開く。
「ま、情報屋雇うような奴だからな。どっかから手ぇ回して映像差し替えとかやったんじゃねぇの?」
はあ、と息を吐きながら、緋凪はその緋色の前髪を掻き上げた。
「だから一枚噛まねぇか、って訊いたんだよ」
「どういう意味だ」
彼の腕の横に見える緋色の目が、外川を見据える。
「おっさんを目撃者にしてやるってコトだよ。現行犯で嫌でも逮捕できるようにな」
薄い、形の良い唇が、不遜な笑みを刻んだ。
***
不破家を辞去した外川は、山県と共に、響と緋凪の乗った車が遠ざかるのを見送った。
彼ら二人は、どうやら鷹森紗藍の自宅を訪問するらしい。
取り調べの為に、自身も出向くつもりだった外川は、同行を申し出たが、あっさり断られてしまった。
『多分、奴は紗藍の自宅付近にも見張りを配置してる筈だ。ケーサツが来たと知れたら、彼女の友達の母親が死ぬ。それを知ってて彼女の家にあんたが行くのは容認できねーかんな』
詳しく知りたきゃ、データを調べろ。
そう言い捨てて、緋凪は外川達に真っ直ぐ帰るように念押しした。作戦の内容も、詳しくは教えてくれなかった。
『イングヴァル・ホテルって知ってるだろ。そこに明日の午後七時半頃来てくれ。詳しいところは、響に訊けばいい』
と短く言っただけだ。
彼の言うこと全てを信じる訳ではないが、万が一にも一般人に危害が及ぶとしたら、自分が姿を見せる訳にもいかない。
「……警部。本当にいいんですか?」
緋凪達の乗った車が消えたのとは、反対方向へ歩き出した外川の後について来る山県が、怖ず怖ずと訊ねる。
「仕方ないだろう。本当に脅迫があったとしたら、このデータから何らかの証拠を掴まないコトには、礼状も取れんしな」
はあ、と溜息を吐いた外川に、山県は質問を重ねる。
「あの……一つ、訊いてもいいでしょうか?」
「何だ」
「あの綺麗な子は、一体何者なんです? 警部は、確か前科者と仰ってましたけど……」
「ああ。二年前に、親父さんを殺しちまったんだよ」
彼は、彼の父親である千明陽緋の遺体の傍にいるところを、血塗れで発見された。殆ど現行犯で、凶器となったサバイバル・ナイフの柄にも、付いていた指紋・掌紋は彼のものだけだった。彼の身体に付着していた血液も陽緋のもので、殺害する際に浴びた返り血と見られている。
遺体発見現場となったホテルの部屋にも、陽緋以外に彼の部屋に出入りした者は息子の緋凪だけで、彼以外の容疑者がいない状況だった。
緋凪自身は無実を主張したが、裁判でも有期刑が確定した。ただ、当時十五歳という年齢と、初犯であることが考慮され、五年の執行猶予が付いた。
証拠固めに動いていた外川が、緋凪本人の取り調べに関わったのは、殆ど最後の方だった。その頃には、緋凪は頑なになっており、自身の主張が入れられないと悟っていたのか、裁判終了まで徹底して黙秘を貫いた。
「……その信念は、ガキながら天晴れってトコだけどな。全ての証拠は、犯人はアイツしかいないって示していた。俺は今でも、アイツが犯人で間違いないと思ってるよ」
だから、外川個人としては、彼が何と言おうが、逆恨みしようが構わないし仕方がないと思っている。ただ、この先を、自身の罪を悔いて生きてくれれば。
そう続けると、山県が「……大人、なんですね。警部」と感嘆しきりと言った顔で頷いた。
「どこがだよ。ただ、同年代の息子がいる身としてはどうも、自分の息子と重ねちまうっていうか……」
普段、緋凪の態度があまりにも反抗的なので、ついこちらも大人げなく言い返してしまうことに、外川はいつも自己嫌悪を覚えていた。
だが、子が父親を殺す、なんて余程のことだ。
今時は、虐待事件なども頻繁に聞く。窮鼠猫を噛むの喩え通り、虐待された子供が正当防衛、もしくは度重なる親の暴力に耐え兼ねて、ということがないとは言えない。
であればこそ、外川としては余計に息子と重ねてしまう。重ねるが故に、つい言い方がきつくなってしまうのだ。それが時に、周囲の反感を買うのも分かっているが、どうしようもない。
どうしてやるのが正しかったのか、外川は未だに図り兼ねていた。せめて、真実を語って欲しかった、とも思うが、詮無いことだ。
刑と執行猶予が確定した後、彼は地方の児童養護施設へ預けられたと聞いている。それが、どういう経緯で、あの不破朝霞の養子となったのかまでは外川も知らない。
父方の親戚は誰も緋凪を引き取ろうとしなかったらしい。母方の親戚は海外で、母親は彼の拘束中に事故で亡くなっている。双子の姉は、父親に先んじて変死していた。
もっとも、姉の方も、署内ではちょっとした札付きとして有名だった。
何がどうなっていたのか、万引きの常習犯だったのだ。
大抵、彼女の言い分としては『自分じゃない、やってない』の一点張りか、でなければ『やらされた』だった。周囲にいた友人達は、彼女を決して見捨てなかったのに、彼女は変死するまで遂に心を入れ替えることはなかった。
「へー、息子……」
山県が、ふとぼんやりと呟いた声が、緋凪に纏わることについ考え耽っていた外川を現実に引き戻す。
「て、ちょっと待って下さい」
「何をだ」
「あの子、……いや、まさかですよね」
「だから何がだ」
何を言いたいのか分からず、早くも苛立つ外川の表情は、山県の目には入っていないらしい。
「も、もしかして、あの千明緋凪って子、……ま、まさかと思いますけど」
「だから、何が言いたい。はっきりしろ」
「ま、まさか、男の子……だったりするんですかっ??」
ああ、そのことか。と溜息を吐きながら思う。
あの容姿で髪が長いものだから、言葉遣いがあれでも十人中十人が間違うのは無理もないだろう。
「……やっぱり、お前も間違ったか」
脱力と共に言った直後、山県の驚愕の叫びが、裏通りに響いた。
***
「ただいまぁ……」
あの室橋英治との会食を翌日に控え、紗藍は心の疲れと共に帰宅した。
朝霞の言う通り、あの男と婚約したら学校がどうなるか分からなかった為、とても授業を受ける気分ではなかったが、今日もとにかく学校へ行ったのだ。
自由を謳歌できる最終日――いや、正確には一日弱残っているが、もう残りは短い。自分が“自分”でいられる時は。
そう思うと、さっさと帰宅する気にもなれず、紗藍は放課後、久し振りに本屋とカフェ巡りをした。
だが、本屋を歩いていても、カフェでスイーツを食べていても、どうしても脳内は明日のことに向かってしまう。加えて、里奈の昨日の取り乱した様子も、フラッシュバックのように頭を過ぎる。
ほんの短い間に、紗藍の日常はすっかり非日常に冒されてしまった。まるで、サスペンス映画の中に放り込まれた気分だったが、生憎これは現実だ。
自由時間を心から楽しむこともできず、疲労だけを引き連れて自宅に戻ったのは、九時過ぎだった。
「お帰り」
玄関へ出迎えてくれた祖母の顔も、どこか疲れて見える。
昨日、帰宅した時に、祖父母には全て事情を話したから、何があったのかも知っているのだ。
「夕食は?」
「いい。外で食べたら何かお腹一杯になっちゃって」
連絡を入れなかったのは悪かったが、気を回す精神的余裕すらなかった。
(緋凪君達にも、悪いことしたな……折角あれこれ考えてくれて……それも、カフェのお仕事お休みしてまで、あたしの為に動いてくれてたのに)
別れ際の緋凪の背中が、頭から離れない。
涙が滲みそうになって、紗藍は足早に祖母の脇を通り過ぎようとした。
「あ、紗藍ちゃん」
呼び止められても足を止めることはできない。泣き顔だけは見られたくなくて、階段に足を掛けようとした紗藍の腕を、祖母がいつにない強引さで掴んで引き留める。
「紗藍ちゃんに、昼間荷物が届いたんだよ。悪いんだけど、自分で持って上がってくれるかい?」
声を出すと泣いてしまいそうだったので、顎を引いて是の意を告げると、祖母は手を離した。溢れそうになる涙を呑み込むように深呼吸して、顔中に力を入れると、「どこ?」と訊ねる。
祖母に示された階段下には、段ボール箱が一つ鎮座していた。持ち上げてみると、確かにやや重く、祖母が二階まで持って上がるのは少々厳しいようだ。
抱えて階段を上がり、自室へ入ると、改めて荷物に視線を落とす。宛名の差出人名は『不破朝霞』だった。
(……そうだ。泊まる時に持ってった荷物もそのままだったっけ)
わざわざ送ってくれたのだろうか。本当に悪いことをした。
後日、運送代は返しに行かなければ、と思いながら、蓋を開ける。
中身はやはり、紗藍が不破家に置いていった荷物のようだ。けれども、何よりも、その一番上にそっと置かれるように入れられていた封筒に、紗藍は目を奪われた。
特段、飾り気のないクリーム色の封筒を取り上げる。封はされていなかったそれから、中身を引っ張り出した。
文章を読み進む。
見る見る内に視界が曇り、手紙の上に透明の滴が落ちた。




