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scene.10 露呈されたモノは

 この日、朝霞が呼び出しを受けたのは、東京都と言っても郊外にある洋館だった。

 進藤家の本宅で、今は引退した正巳氏と、その妻・みな美、そして、何人かの執事とメイドが生活しているらしい。

(もっとも、メイドの何人かは、正巳の愛人だって話だけど……)

 サイテーね、エロクソ爺。

 そう脳裏で独りごちながら、進藤邸門前に付けた自家用車から降り、呼び鈴を鳴らした。

『はい。どちら様でしょうか』

「恐れ入ります。わたくし、今日正巳氏と面接の予約させて頂いた、不破朝霞と申します」

『お待ち下さいませ』

 程なく開いた門の内に進む。

 駆け寄って来たフットマンと思しき男性の誘導に従い、敷地内にある駐車場へ車を停めた。

 ただの駐車場の筈なのに、その広さはまるで別宅だった。朝霞が経営するカフェと居住区を足しても多少の余裕がありそうだ。

 全く、これだから金持ちって人種は。

 内心で舌打ちするも、表面上はポーカーフェイスを装って、フットマンについて外へ出る。

 幾何学模様に刈り込まれた植え込みのある庭園を抜け、階段を登った先がやっとエントランスだった。玄関ホールを入って、すぐ右手の大客間へ案内される。その大客間だけでも、不破家のリビングより広い。

 席を勧められるが、朝霞は立ったままで進藤正巳が来るのを待った。

 フローリングの客間には、木目調の丸テーブルを中心に、布張りの椅子が四脚、奥にソファが一脚並んでいる。その下には、白茶色と白の縞模様で小さいサイズのカーペットが敷かれ、正面には広めの出窓が設えられていた。

「お待たせしましたな」

 部屋を観察していると、ドアを開く音がした。振り返ると、一人の老人を先頭に、ティーセットを載せたワゴンを押した男性と、若い女性が室内へ入って来る。

「どうぞ、お掛け下さい」

 改めて席を勧めたのは、細身の男性だ。

 輪郭は楕円に近く、鉤鼻で、目尻は垂れている。一見人好きのしそうな容貌に見えるが、目の奥が濁って感情が読めない印象を受けた。

「失礼します」

 朝霞は、会釈してようやく腰を下ろす。

 若い男女は、それぞれにテーブルにティーセットを並べ、仕事を終えると、一礼して静かに退出した。

「さて……不破朝霞さん、だったかな」

「はい。本日は、お時間割いて頂き、ありがとうございました」

 朝霞は、内心の軽蔑は綺麗に包み込み、名刺を差し出す。

 正巳は、それを受け取りながら鷹揚に頷いた。

「何、とうに隠居した身で、株価のチェック以外にすることはありませんからな。お気になさらず」

 受け取った名刺をティーカップの横へ置いた彼は、それで、と言いながら砂糖壷から角砂糖を二つ、匙で拾い上げた。

「早速ですが、お話とやらを伺いましょうか」

「それでは、お言葉に甘えて、単刀直入に申し上げます」

 彼の紅茶に、角砂糖が投入されるのを見ながら、朝霞は口を開く。

「鷹森紗智子さんへの恫喝行為を、即時止めて頂きたいのです」

「ほう?」

 正巳は、面白がるように眉尻を跳ね上げた。

「恫喝……と申されましたか?」

「ええ。もしも今回、鷹森紗藍さんと、室橋英治さんの婚姻が成立しなければ、これまで払い込んだ慰謝料を全額返金するよう迫ったそうじゃありませんか」

「ああ。あのことですか」

 クス、と小さく笑いながら、正巳の皺だらけになった手が、紅茶を掻き混ぜる。

「あれなら正当な要請でしょう。あちらがウチの娘に夫だった将司をくれる見返りを求めたからお支払いしていましたが、今回こちらの要望を聞いていただけないのなら、当然の報いだ」

 何が、“当然の報い”だ。

 鸚鵡返しに脳裏で呟いて、朝霞は正巳を見据えた。

 紗藍の両親が別れる原因は、この正巳の娘・美友紀が作ったのだ。当然の報いを受けるべきは彼女と、それを手助けした正巳の方だろう。

 しかし、今はそれを議論しに来た訳ではない。相手に気取られないよう軽く深呼吸し、朝霞は口を開く。

「紗智子さんからは、一方的にあなたから押し付けられたと伺っております」

「それはおかしいですな。こちらには証文もありますよ。なんでしたら、お見せしますが」

 朝霞は、内心で舌打ちした。どうやら、相手に時間を与え過ぎた。紗藍を預かってすぐ様踏み込んでいれば、と思うが、最早刑事ではない自分には法的な権限もない。

「それは、法的に力を持つ書類と思って構いませんか?」

 動揺はあくまで仮面の下へ押し込んで、静かに訊ねる。

 すると、正巳はやはり鷹揚に笑って頷いた。

「ええ。少々お待ちを」

 正巳は、ボトムのポケットから携帯端末を取り出し、耳に当てた。

「……私だ。例の書類をここへ」

 短く言って、通信を終えた正巳が、端末をしまうと、数分してノックの音が響く。入って来た執事らしき男性は、A4サイズの封筒を正巳に手渡し、一礼してその場を辞去した。

 彼が退出するのを見届けることなく、正巳が朝霞に書類を手渡す。

「どうぞ。中をお(あらた)め下さい」

「……拝見します」

 封筒を受け取った朝霞は、書類を引っ張り出した。

 それは、文章だけが記された簡単なものではあったが、顧問弁護士の連名もある、確かに正式なものだった。だが、真実この日付――十八年前の九月二十五日に記された書類かどうかは分からない。

「……この書類、お預かりしても宜しいでしょうか」

 民間の科捜研にツテはある。調べれば、この書類がいつ書かれたのかを鑑定することもできるだろう。

 しかし、それを見越したのか。

「お断り致します」

 考えていることの読めない微笑を浮かべて、正巳が拒絶の意を告げる。

「何故です。真実、この書類が作成されたのが十八年前でしたら、私に預けても不都合はない筈ですが」

「では、逆に伺いますが、その権限があなたにおありですか?」

 朝霞は、グッと言葉に詰まる。彼の言う通りだ。法的権限を無視していいのなら、始めから不法に踏み込んで、とっくにこちらがこの男を恫喝している。

「ない、ということでしたら、それはこちらに返してお引き取り下さい」

 一つ息を吐いて、朝霞は書類を封筒に戻し、正巳に差し出す。

「まだお話は済んでいません。紗智子さんに金銭の返還を迫るのを一切止めて下さい。その代わり、彼女もこれ以上の金銭を望んでいません」

「その要求も、お受け致し兼ねますな」

「紗藍さんと英治氏の婚姻、進藤家には何のメリットもないのに、ですか。あなたが、そこまで二人の結婚に固執する理由は何です? 本当に、プライドの為だけですか」

 正巳の眉尻が、またピクリと跳ね上がる。

 奥の見えない濁った瞳を、朝霞は逸らさず睨み据えた。

 ヒリ付くような沈黙が続いたのが、数秒だったのか、それとも一瞬だったのか。

「……メリットは、あるんですよ」

 クスリ、と小さく笑うと、正巳は重々しく吐き出すように言葉を落とす。

「何ですって?」

「メリットはあります。それを得る為に、ある程度はあちらの要求も呑んでやらないと。……いや、正しくは、呑むフリをしてやらないといけません。人を飼い慣らすコツをご存じですかな」

 朝霞は、沈黙を返した。知りたくもない、そんなおぞましいコツは。

 けれども、正巳は構わず続けた。

「繰り返しますが、少しの要求は呑むフリをしてやるんです。勿論、あちらの弱みを押さえた上でね。あなたはご存じないかも知れんが、私は室橋の弱みを握っている」

「それで充分ではないのですか。一人の女性の人生を、彼女自身が望まない結婚で台無しにする権利が、あなたにおありだとでも?」

「彼女も私の人生の一部だ。構うことはないし、私の知ったことではない。それに、一方的に弱みを握っていると、窮鼠猫を噛むの喩えもあります。程々、撫で回して押さえるべきは押さえるのがいい」

 楽しげに言うと、正巳は話は済んだとばかりに端末を取り出した。

「……私だ。ああ、お客様がお帰りだ。車庫まで案内して差し上げなさい」


***


(収穫なし、か)

 ハンドルを握りながら、朝霞は溜息を吐く。

 刑事時代にも、この手のことはよくあった。だが、刑事時代と違うのは、朝霞にはもう法的権限が一切ないことだ。

 こんな時、刑事なら、それでもジリジリとでも、確実に核心に迫れるのに。

 だが、覚悟の上で刑事を辞めたのは、時に、組織にいることで個人の正義が制限されてしまうからだ。警察にいては、自由に動けない。

 今動けば助けられるのに助けられない、というジレンマは、嫌という程経験して来た。それが、我慢の限界に達したのは“彼”を失った時だ。

 もっと早く動けていたら、彼を失わずに済んだのに――

 瞬時、脳裏に彼の笑顔が過ぎる。しかし、朝霞は雑念を追い払うように首を振った。

 過去を憂えるより、失った権限を取り戻そうとするより、大事なことがある。今、目の前の事態をどうするのかを考えなければ。

 蛇行する道のカーブに差し掛かって、ハンドルを切りながら、減速しようとする。ブレーキの手応えがまるで感じられないのに気付いたのは、その時だ。

(――やられた!)

 朝霞は痛烈な舌打ちを漏らした。

 向こうにも情報屋がいるなら、いずれこちらが正巳に接触するということは、室橋敏晴か英治から伝わっただろう。

 こちらの動きを封じる為なら、向こうは何でもする。たとえ、違法手段でも躊躇うまい。自分が行った犯罪を握り潰す(ちから)も、向こうは持っているのだから。

 分かっていた筈なのに、馬鹿正直に一人で出向いた迂闊さを呪っても始まらない。

 刑事時代にも修羅場は何度も潜っているが、今回は流石にヤバい。

 蛇行した下り坂でブレーキが利かない、となれば、結果は推して知るべし、だ。朝霞は歯を食い縛るようにして、懸命にハンドルを切った。

 死に際に、思い出が走馬燈のように浮かぶ、なんて誰が言い出したのか。今の朝霞にはそんな余裕はない。

 今頭に浮かぶのは、この金属の固まりと化した車に、どうにかして止まれ! と念じる言葉だけだ。

 利かないブレーキに足を乗せて、それを目一杯踏み込みながら、何か止まれる手立てがないかを必死で探す。

 走らせた視線の先に、山肌が露出した路肩が見えた。ただ、それは対向車線側だ。だが幸い、東京都内と思えない程この辺りは田舎で、対向車も滅多にない。

 一か八か。朝霞は思い切りハンドルを回して、車体をスピンさせる。

 ブン、と振り回されるような浮遊感の後の衝撃に備えて、朝霞は身を硬くした。


***


 その日は一日、何となく落ち着かなかった。

 教室にいれば二人っきりということはない。だが、普段よりも緋凪の視線を感じるような気がしていた。

 或いは今朝、彼が柄にもなく動揺した姿を見せたから、紗藍の方が必要以上に意識しているだけなのかも知れないが。

 終業の鐘が鳴り、テキスト類を仕舞っていると、前方の出入り口から紗藍を呼ぶ声がした。

「……里奈?」

 そこで小さく手を振っているのは、紛れもなく渡瀬里奈、その人だ。

 一体、何の用だろう。コトが終息するまでは、不用意な接触は控えるよう朝霞から言われて、彼女も納得していた筈だ。

 端末を手放しているから、連絡も取っておらず、彼女とも随分久し振りのような気がする。

 瞬時、後方数列後ろの席にいた緋凪に視線を投げると、緋凪は頷いて立ち上がった。

 彼が来るのを待ち、連れ立って里奈の元へ行く。

「久し振りね。どうしたの?」

「う……ん、ちょっと」

 歯切れ悪く言った里奈は、チラッと緋凪の方へ視線を向けた。

「緋凪君に話?」

「う、ううん、そうじゃなくて、ただ」

 ウロウロと泳がせた視線を再び緋凪に投げると、里奈は目を伏せる。

 緋凪は何かに気付いたのか、一つ肩を竦めると、彼女を押し退けるようにして教室の外へ歩を踏み出した。

「ひ、緋凪君?」

 紗藍が慌てて呼び止めると、彼は早く来いと言うように、無言で顎をしゃくった。

 だが、里奈をこのままにしておくことはできない。紗藍は里奈と緋凪の間で視線を彷徨わせた。

 すると、緋凪が「あんたもだよ、里奈」と、若干苛立ったように声を掛ける。どうやら、一緒に来い、ということだったらしい。

 里奈と目を見交わした後、紗藍は急いで彼の後を追った。


 今日の最後の授業は、一般科目だった為、授業を受けたのも一般棟の一つだった。

 校舎の中程まで行くと、オープンスペースがあり、幾つかのテーブルと椅子が設えられている。飲食店などはないが、飲料の自動販売機は何台か設置されており、そこで自分が持ち込んだ弁当などを食べてもいいスペースだ。

 放課後とあって、そこそこ席が埋まっているその場所まで来て、緋凪は足を止めた。

「それで? コトが終わるまで接触するなって言われてんのに声掛けて来たってコトは、よっぽどなんだろうな」

 テーブルセットから少し離れた壁に背を預けて、緋凪が色の違う双眸で、里奈を見据える。その視線は、ぞっとする程冷ややかだ。

 単刀直入に問い詰められて、里奈は目を伏せたままビクリと身体を震わせた。

「あ、あの……」

 そう言ったきり、数秒間黙っていた里奈は、出し抜けに紗藍の手首だけを握って踵を返した。

「え、あの、里奈!?」

 混乱しつつも紗藍は、里奈に付いて歩いた。というより、殆ど小走りだ。百七十八センチの長身の彼女が大股で歩くと、彼女よりも二十センチ近く低い紗藍は、必然彼女よりコンパスも短い為、そうなってしまう。

 緋凪が付いてきているかの確認もできず、紗藍は必死で走った。

 彼女が向かったのは、ピアノ科の練習棟だった。

 防音設備が整っているとは言え、扉の向こうから各々の練習している曲が、微かに漏れ聞こえて来る。

 やがて里奈は、彼女自身が押さえてあっただろう練習室に、紗藍と共に入ると鍵を掛けた。

「え、ちょっと、里奈?」

 閉じられた扉に付けられた小窓に飛び付いて外を見るも、緋凪の姿は見えない。完全に撒いてしまったようだ。

「どうしたの、急に」

 彼女に振り返って訊ねると、里奈はグランドピアノに寄り掛かるようにして俯いている。

「ね、ねぇ、里奈。どこか具合でも」

「助けて、紗藍!」

 覗き込もうとして近付いたところで、両方の上腕部をがっしりと掴まれた。

「お願い、助けて……アイツが……アイツが」

「え、アイツって」

 誰、と言おうとして、一人の男の顔が浮かぶ。

「まさか……室橋英治?」

「そうよ! アイツが何か不良みたいな男二人引き連れて、ウチまで来たの! 今日中に紗藍を実家に……鷹森のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのいる家に戻さなかったら、母を……母を、殺すって――」

 顔を上げた里奈の顔は、既に濡れている。

 普段、気丈な彼女が泣くなんて余程のことだ。しかし。

「そ……んな、まさか、単なるハッタリか脅しじゃ」

「目の前で母は刺されたわ!」

 落ち着かせようと言ったことで、彼女が余計興奮したように叫ぶ。

「……う、腕を……二十針縫ったの。今は母の容態も落ち着いてるけど、にゅ、入院してるのが、アイツの病院で……あたしが言う通りにしなかったら、は、母の容態は、急変するっ、て……」

 もう、ここまで来ると紗藍の結婚話がどうこうで済むことではない。

「警察に行こ」

 即座に言うと、里奈は尚のこと取り乱して、懸命に首を振った。

「ダメよ! 警察に言ってもすぐ急変するって言われたわ!」

「だって、こんなの本当に脅迫じゃない! それも、暴力だわ!」

「盗聴されてるの!」

「……え?」

「これ、見て」

 目をパチクリさせる紗藍の前に、里奈は耳から何かを外して見せた。

 一見、普通のイヤリングのように見えるパールの飾りの付いたそれが、どうやら通信機のようだ。

「こっちからも話せるけど、今日は主にあたしを見張るために持たされてるの。もし……あたしと一緒にあんたが実家に戻らなかったら、それが判明したら、……は、母が……」

 もうダメ、と言わんばかりに里奈はその場に崩折れてオイオイと泣き出した。

 紗藍は紗藍で、頭が真っ白になっている。自身の母が、職場を解雇されたと聞かされた時と同じだ。

 すーっと意識が遠退きそうになるが、必死で現実に踏み留まる。けれど、立ってはいられなくて、ピアノ室の壁に背を預け、その場に座り込んでしまう。

(……どうしたらいいの)

 向こうは次から次へと新手を繰り出してくる。反撃の手段を考える暇など与えないとでも言わんばかりだ。

 三日の猶予は、考える時間を与えられた訳ではなく、その間に、こっちをとことん追い詰めるつもりなのだとはっきり分かった。

 力の入らなくなった足をどうにか動かして扉まで這い、ノブに縋るようにして立ち上がる。

 小窓からもう一度緋凪が追い付いてきていないか確認するのと同時に、彼の顔が覗いた。どういう手段でか、ここを特定したらしい。

 紗藍は、咄嗟に鍵を開けようとした。だが。

「嫌ぁ、止めて!」

 悲鳴のように上がった叫びに、その動きを止めざるを得なかった。

「お願い、止めて! その子にバレたら……室橋英治に、その子に相談したのがバレたら、お母さんが死ぬの! 殺されるの! お願い、紗藍、止めて……!」

 背後から縋り付かれて、紗藍はそちらへ視線を巡らせる。

「お願い、もう大人しく家に戻って! あの人と結婚して……! あんたが『うん』って言えば全て解決するの……あたしの家族まで見殺しにする権利が、あんたにあるの!?」

 里奈は、顔中を涙と鼻水で濡らしながら、半狂乱で捲し立てた。

“お金なんかで紗藍を売り渡す程安い友情じゃないから”

 そうきっぱりと言って除けた彼女は、もうどこにもいない。

 紗藍は、それを力なく感じるしかなかった。

 けれど、里奈を責める気持ちにはなれない。立場が違えば、紗藍とて、血の繋がらない相手との友情よりも家族の命を取るかも知れないのだから。

 唇を噛み締めた時、外側から苛立ったようなノックの音と、端末の着信音が同時に上がった。

 紗藍は端末を持っていない。ならば、里奈の端末だ。

 鳴り続ける端末を震える手で操作し、耳に当てた里奈は、しゃくり上げながら無言で紗藍に端末を差し出した。

『――やあ。そろそろ、本当に考え直してくれる気になったかな?』

 耳元へ流れたのは、あの忌々しい英治の声だ。

「卑怯者……!」

『何とでも? って言うか、僕は君と籍さえ入れられればそれでいいって言ったのに、君が意固地になるから悪いんじゃない?』

「そういう問題じゃない! 結婚は一生のことなのよ!?」

『それは君の価値観だ。僕に押し付けないで欲しいね。とにかく、もう大人しく鷹森の家に帰るのか否か。この場で返事を聞かせてくれ。でないと、まず彼女のお母さんがあの世往きになるよ?』

 紗藍は、息を呑んだ。

 この男は、やると言ったら本当にやる。紗藍の母の件が、いい例だ。

『さあ、どうするんだい? 後五秒で答えないと、彼女のお母さんの点滴に筋弛緩剤でも投入しちゃうよ? 五、四』

 容赦のない秒読みが始まる。

『三、二……』

「止めてっ!」

『一』

「戻るわよ!」

 紗藍は反射的に叫んで、自身の言葉にまた息を呑む。

『……本当だね?』

「……本当よ」

 深呼吸して、静かに吐息に乗せて答える。

「その代わり、里奈のお母さんを今すぐ解放して。今すぐよ。でないと、あたしは家に戻らないわ」

『それ、言う資格あると思ってんの? 周りを無傷で済ませる機会が、今までにいくらでもあったのに。今こんなコトになってんのは、君が可愛気のないコトするからでしょ?』

 クスクスと楽しげに笑いながら言う本人の顔に、心底平手打ちしたい気分だった。それを堪えるように、拳を握り締める。

『それに、それじゃあ取引は成立しない。彼女のお母さんを今この場で助ける代わりに、君が家に帰る。それで一つ取引は成立してる。君の“里奈チャンのお母さんの解放”っていう要求を僕が呑むとしたら、こっちの新しい頼みも聞いてくれるのが筋でしょ?』

 何を、勝手なコトを。

 そう言いたかったが、言えばまた無茶な要求をしてくる気がして、怖くて声が出ない。

『そういう訳だ。君の要求は今後一切呑めない。君が最初からこの結婚を素直に受け入れれば、こんなコトにならずに済んだのにねぇ』

 相変わらず楽しげに笑う声と共に、拒絶が返された。

『さ、そうと決まれば君はまっすぐ家に戻るんだよ? 五分以内にそこを出なかったら、里奈チャンのお母さんが死ぬ。ああ、里奈チャンに渡しておいた通信機、今度会うまで君が持ってて。大事な婚約者の動向は把握しておきたいからね』

 じゃ、と言って通信を切り掛けた英治は、『ああ、そうだ』ともう一言付け足した。

『そこにいる厄介な押し掛けボディガード君にこのコト知れても、同じ結果になると思いなね? あくまで君は君の意思で僕と結婚するんだ。でないと、後々面倒なコトになるから』

「……どういう意味」

『ホントーに理解力低いねぇ。大体、僕らが里奈チャンに接触できたのはどうしてだと思ってるの?』

 瞬時、眉根を寄せた直後、ハッとした。

 最初に緋凪達を頼った時、彼らはこういう事態を予測していなかったか。


 ――“ここまで関わったなら、今更遅いかも知れねぇけどな”

 ――“里奈ちゃんの身辺警護も徹底して貰うようにするから”


 彼らの言葉が、フラッシュバックする。

「……里奈の……ボディガードを……」

 まさか、と口から零れた途端、うずくまっていた里奈が、ビクリと身体を震わせる。

『思い当たった? だとしたら、多分それ正解だよ。まあ、詳しくは彼女に直接訊けば?』

 じゃあ、今から五分以内だからね、と告げると、英治は今度こそ通話を切った。

 紗藍は、ノロノロと端末を耳から外し、次いで視線を手の中の通信機に向ける。そのまま、改めて里奈を見た。

「里奈……正直に答えて。あなたの……ボディガードに付いてた人は……どうしたの?」

「……ッ、う……っ」

 里奈は答えようと口を動かしたが、嗚咽が邪魔して言葉にならないようだ。やがて、ただ激しく首を振りながら、再度床へ突っ伏した。

 だが、恐らくそれが何よりの答えだろう。

 殺された、という文章は形にしたくもないのに、独りでに脳裏に浮かんで消える。

 ドン、と背にドアが当たり、へたり込みそうになる。けれども、今ここで倒れている訳にはいかない。

 今度、自分が彼に逆らったら、死ぬのは里奈の母親だ。

「……ッ!」

 唇を噛んで、腹部に力を入れる。声楽科の生徒の(さが)なのか、これが気合いを入れるには一番いい方法なのだ。

「……里奈。立って……立てる?」

 とにかく、帰らなければ。里奈はコクリと頷いて、俯いたまま紗藍の差し出した手に縋り、どうにか立ち上がった。

 タオルハンカチを出して、彼女に渡すと、彼女は無言で受け取って涙を拭い、鼻をかんだ。

 その音を背に、紗藍は鍵を開ける。

 外へ出ると、緋凪が腕組みして隣の扉との間に背を預けて立っていた。出て来た紗藍の方へ流し目をくれると、何があった、と小さく訊ねる。

 すう、と息を吸って口を開いた。

「何でもないわ。それより、緋凪君。あなたの仕事は終了よ」

「は?」

 眉根を寄せる彼に、付け入る隙を与えないように言葉を重ねる。

「もうボディガードしてくれなくていいって言ったの。あたし、今から家に帰るから」

「自分の家にって意味か?」

「そうよ。こんなに周り巻き込んで、意地を通す気がなくなったの。あの人と結婚するわ」

 目を伏せたまま告げる。声が震えなかった自信はないが、意外にも緋凪はそれ以上食い下がらなかった。

 そうか、と言って肩を竦めると、あっさりと踵を返す。

 あ、と小さく漏らして、思わず彼の腕を掴みそうになったが、寸前で堪える。彼の遠ざかる背中が、涙のヴェールの向こうで滲んだ。


***


 珍しく血相を変えた緋凪が、朝霞の病室に駆け込んできたのは、担ぎ込まれてから半日程経った頃のことだ。

「朝姉っ……!」

 六人部屋だったが、この時は朝霞の独占状態だった。

 大股で部屋を突っ切って、一番奥のベッドで身体を起こしていた朝霞に、飛び付かんばかりの勢いで歩を進めた緋凪は、今にも泣き出しそうに顔を歪めている。

「あーあー、大丈夫よ。ちょっと鞭打ちっぽくなってるだけ! ホントだから」

 よしよし、とベッド脇へ来た彼の頭をやや乱暴に撫で回した。

「一晩入院するだけだって。心配ないわよ」

 重ねて言うと、緋凪は唇を噛むようにして押し黙る。納得したとは言い難い表情だったが、無言でベッド脇の椅子に腰を落とし、朝霞の腿の辺りに倒れ込むように頭部を乗せた。

「っていうか、あたし連絡入れてないのに、どうして知ってるの」

「……用事があって、朝姉の携帯に連絡入れたんだよ。そしたら、響が出て……」

「あー……うん。先に彼に連絡したのよね」

 それが不服だと言わんばかりに、緋凪は膝に突っ伏した状態から朝霞を睨め上げると、プイと反対側を向いてしまった。

「ごめんてば。響君に先に連絡したのは、彼が警察関係者だったからで」

 正巳のとの面談の後、会う約束をしていたから、ということもある。

「……何があったんだよ」

 ボソボソと、やはり泣き出す寸前のような低い声が問い質す。

「別に。ただ、進藤家本宅でブレーキオイル抜かれただけよ」

「……サラッと言ったけど、大事(オオゴト)だぞ?」

「そうね。でも、このくらいのコト、刑事時代も散々経験してるから」

 半分は嘘だ。流石に今回程のピンチは初めてだった。けれど、それを正直に言う訳にはいかない。

「下手したら死んでるじゃねぇか」

「……まあ、否定できないけど……」

 車をスピンさせて山肌に助手席側を突っ込み、強引に停止させる――なんて真似は、一人だったからできたことだ。他に誰か乗せていたら、自分は死んでいたかも知れない。

 後は、とにかくパーキングにギア入れしてサイドブレーキを引き、素早く鍵を抜いた。それから急いで必要な荷物だけ持って車から離れて――取り敢えず、一市民の勤めとして110番、プラス119番をプッシュし、自分で警察と救急車を呼んだ。響に連絡したのはその後のことだった。

「……反省してる。ちょっと油断したわ」

「ちょっとかよ」

「ちょっとよ」

 緋凪が黙り込むと、病室内に沈黙が落ちる。

 その沈黙の中、そっぽを向いてしまった緋凪の髪を梳くように、朝霞は彼の頭を優しく撫で続けた。

 普段は、年の割に怜悧で冷徹な少年だが、身内に危害が及ぶと途端にその面は崩れてしまう。こういう時、年齢以上に幼く脆い部分が露呈されるのは、彼の持つ、それこそ年齢にそぐわない苛酷な過去故だろう。

 暫くして、彼が落ち着いた頃合いを見計らうと、朝霞は口を開く。

「……凪君」

 話し掛けるも、返事がない。

「……凪君?」

 寝ちゃった? と覗き込もうとすると、横に向いた顔の中で、瞳だけがこちらを見た。

「何だよ」

「あ、ううん。寝ちゃったかと思って」

「ちゃんと聞いてるよ。で、何」

「あ、ああ、うん……凪君の用事って」

 何だったの、と続けようとした朝霞は、何かが足りないことにこの時ようやく気付く。

「ね、ねぇ。紗藍ちゃんは?」

「ああ……朝姉に言おうとしてた用事とあながち無関係でもねぇよ」

 緋凪はおもむろに身体を起こすと、外出時に携えている縦に長い、ゴルフクラブを入れるバッグに見えるそれの、サイドポケットに手を伸ばした。

 しなやかな指先が、ポケットから引っ張り出したのは、一見、掌サイズの携帯ラジオに思える小さな機械だ。

 緋凪は機械に繋がったイヤホンの片方を自分の耳に入れると、二股に分かれたもう片方を朝霞に差し出す。受け取ったそれを耳に入れる前に彼は再生ボタンを押したが、暫く早送りしてどこかの音を探しているらしかった。

 やがて、目的の場所を捜し当てたのか、「ここからだ」と言った後に聞こえてきたのは、二人の女性のものと思えるやり取りだ。

『お願い、助けて……アイツが……アイツが』

『え、アイツって――まさか……室橋英治?』

『そうよ! アイツが何か不良みたいな男二人引き連れて、ウチまで来たの! 今日中に紗藍を実家に……鷹森のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのいる家に戻さなかったら、母を……母を、殺すって――』

 朝霞は目を見開いた。

「これって……まさか里奈ちゃん?」

「ああ」

 緋凪が頷くのを視界に入れながら、続きに耳を傾ける。

 里奈は相当酷く脅されたのか、半狂乱だった。

 一度だけ会ったことのある彼女は、はつらつとして、面倒見の良さそうな明るい女性というイメージだったが、もう見る影もないのが声だけで分かる。髪を振り乱さんばかりになっているのが、手に取るようだ。

 彼女に護衛を付けたことで安心していたが、その護衛もどうやらあちらの手で片付けられたらしい。

 それは、録音の終盤、紗藍が独り言を言っているように聞こえる場所から知れた。

「……これ、どうやって録ったの」

 最後まで聞き終えて、耳から抜いたイヤホンを緋凪に返しながら問うと、「盗聴器くらい仕掛けてあるさ」とあっさり返ってきた。

「でも、これだけじゃ物証としては弱いわね」

「分かってる。流石に、電話や通信機の向こうの音までは拾えねぇからな」

 けど、と挟んで、緋凪は唇の端を不敵に吊り上げて見せる。

「一つだけ、奴の音声が録れてるモンも持ってる」

「ホントに?」

「ああ。警視庁の科捜研に持ち込んで、奴の声紋と照合すれば一致する筈だぜ。多分、脅迫罪で叩けるけど……」

 但し、脅迫罪では、牢に放り込めても最長で二年だ。相手の財力を考えると、罰金だけ支払って終わりということにもなり兼ねない。

「それじゃ罰としては不足だよな……拘束できて二年ってコトは、その先がどうなるか分からねぇし」

 自分で言っておいて、緋凪は軽く舌打ちした。

「それに、朝姉をそんな目に遭わせた分はまた別だ。だろ?」

「うん。響君が今、科捜研にウチの車持ち込んでくれてるけど……握り潰されても不思議はないわね、進藤家の財力なら」

 ならば、とにかく当初予定通り、紗藍と英治の結婚を永久に阻止することに力を向ける方が建設的だろう。

「ねぇ、紗藍ちゃんの荷物ってどうなってるの?」

「アイツ、真っ直ぐ家に帰ったんだ。だからそのまんま」

 再び沈黙が落ちた部屋で、緋凪と朝霞は目を見交わして、互いに不敵な笑みを浮かべた。

「今日の内に、“彼女”に声掛けとくわ」

「まーたアイツの世話になるのかー……」

 緋凪は唸ったが、“彼女”の腕の良さは彼もよく知っている筈だ。実際、特に異論を挟まなかったが、思い直したように言葉を継ぐ。

「……いや、連絡は俺がしとくよ。朝姉、動けないだろ?」

「そんなコトないけど」

「センセーに聞いてるぜ。今日はなるべく安静にしてろって言われてるんだろ」

 それは、問い掛けではなく確認だった。

 確かにその通りだったし、現実にあちこちが引き攣るように痛みを訴えているので、朝霞はぐうの音も出せずに黙り込むしかない。

「今日は俺もここ泊まるよ」

「それは流石に無理っぽくない?」

「もう向こうが常識通じねぇ相手だって割れてんのに、朝姉だけ置いて帰れるか」

 口調は、その美貌とギャップがあり過ぎる程ぶっきらぼうだが、瞳は真剣だ。

 もう、同じ後悔を繰り返したくない。その目は、全力でそう言っている。

 朝霞は、眉尻を下げて肩を竦めた。こういう顔をされると、彼には勝てそうにないと思う。

「……響君に手、回して貰いなさい」

 ある意味で彼を敵対視しているらしい緋凪には、逆効果かとも思ったが、一番宛になる公権力と言えば彼しかいない。

 それも分かっているのだろう。緋凪はあっさりと頷いて、必要な連絡を取る為、一度病室を辞した。

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