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scene.9 灰色の朝

 翌日、意識が浮上したのは、いつもよりも早い時間帯だった。

 周囲はまだ薄暗かったが、朝の気配がする。

 隣で横たわる朝霞の眠りを妨げないように気を付けながら、そっと身体を起こし、用足しに出た。その帰りに、時計のあるリビングへ足を向ける。

 正確な時間を調べようにも、朝霞の部屋に目覚まし時計はなく、携帯端末は相変わらず祖父母宅にあった。もう充電は切れた頃だろうか。

 どっち道、この件が落着したら、あの携帯は解約して、新しいものを契約し直さなければならない。あの英治に番号が割れてるような端末など、もう恐ろしくて使えたものではない、などと脳内で独りごちながら、そっとリビングに顔を覗かせた。

 不破家の居住空間の構造は、大多数の家とは違い、二階にダイニングキッチンと洗面所、バスルームがある。一階部分に、やや狭めのリビングと、朝霞と緋凪、各々の私室があり、時計はリビングとダイニングにあった。ちなみに、手洗いは一階と二階、両方にある。

 不破家に滞在するようになってから、紗藍は朝霞の私室で、彼女と共に寝起きしていた。

 音を立てないようにそっと扉を開けると、ソファで緋凪が横になっているのが目に入る。

 戻ってたのか、と思うと、知らず安堵の息が漏れた。

 昨日、夕食後――九時半頃だったろうか――に出掛けた緋凪は、結局紗藍の就寝前に戻ることはなかった。それでも気になって、一時間くらいは眠れずに寝返りを打っていたと思ったが、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

 チラと壁に掛かった時計に目をやると、時刻は朝の五時を少し過ぎていた。

 目線を戻した先には、普段見るより少しあどけない顔をした緋凪が、小さく寝息を立てている。

 足音を忍ばせてソファに歩み寄ると、上から見下ろし、またそっと息を吐いた。

(……よく考えたら、文君と同い年だもんなぁ)

 紗藍は、久し振りに一番上の異母弟を思い浮かべた。もっとも、あれから一週間も経っていない筈だが、その短い間に色んなことが起きた為か、彼と最後に会ったのがずっと前のような気もする。

 ともあれ、正文もかなり聡い方だとは思うが、正直緋凪には(かな)わない。頭の回転の速さも()りながら、醸し出す空気そのものが、正文と比べると大人びている感じがする。それどころか、紗藍よりも年上じゃないのかと思えることもしばしばだ。

 けれども、寝顔は年相応で、こう言ったら怒られそうだが、どこか可愛らしい。

(睫毛、長いんだなぁ……寝てても綺麗だし)

 何だか悔しくて、落書きでもしたくなってくる。

 その時、ふとソファの上で器用に寝返りを打った緋凪の身体から、掛け布団が滑り落ちた。初夏とは言っても、朝晩はまだ冷える。自然、冷気が身体をなぞったのか、緋凪は微かに呻いて身を縮めた。

 思わず吹き出しそうになりながら、落ちた夏掛けをそっと掛け直してやる。

 彼にも私室がある筈なのに、リビングで寝ているということは、そこまで持たずにここへ倒れ込んだのだろう。夏掛けが掛けてあるところを見ると、朝霞は彼が戻るまで起きていたのだろうか。

 そう思うと、居候の分際でさっさと寝入ってしまったのが、やはり申し訳ない気持ちになる。

 しかし、それはそれとして。

(やっぱり、何か可愛い)

 ふふっ、と思わず笑いが漏れた口を慌てて押さえる。そのタイミングで緋凪が眉根を寄せたものだから、起こしてしまったかと一瞬慌てた。

「ッ……!」

 だが彼は、目を閉じたまま呻いて身動(みじろ)ぎする。起こした訳ではないようだとすぐに気付いたが、様子がおかしい。

「……め、だ」

(何? 寝言?)

 そう思う間もあらばこそ。二の腕を掴まれて、紗藍は反射的に身体を引いた。

「行くな、(すい)っ……!」

 肘を突いて、上半身だけ半端に起き上がらせて叫んだ緋凪は、両目を見開いて紗藍を見た。

(あ、れ……?)

 微かに朝陽の射すリビングで透かし見た彼の両目は、共に緋色をしている。彼の右目は、綺麗な翡翠色をしていた筈なのに。

「……え……あ……」

 一方、緋凪はまだ現実と夢の狭間が定かでないのか、目をパチパチと瞬いている。

「緋凪君……?」

 ソロリと伺うように名を呼ぶと、彼は荒くなった呼吸をそのままに、食い入るように紗藍を見つめていた。更に数秒経って、ノロノロと掴んでいた紗藍の上腕部から手を離す。

「あー……悪、い……」

 ハアッと重い溜息とも取れる息を吐いて、緋凪は枕代わりのクッションに逆戻りするように顔を埋めた。

「……大丈夫?」

 声を掛けると、彼は無言で小さく頷いたが、顔を腕で隠すようにして起き上がろうとしない。

 どうしようか、散々迷った末に、紗藍はそっと彼の肩に掌を乗せた。緋凪は、肩を小さく震わせたものの、振り払おうとはしなかった。

 大丈夫だよ、と声を掛けていいのかどうか、紗藍には分からない。今この瞬間だけは、どうしたことか、その言葉が却って空々しく響くような気がした。

 訊きたいことも増えてしまった。

 例えば、瞳の色は何故いつもと違うのか。“スイ”とは誰のことなのか。

 けれども、その全ては、口にした途端、何かが壊れてしまうように思える。

 自身の腕に顔を埋めた緋凪は、それ以上微動だにしなかった。けれども、彼が泣いているような気がして傍を離れることもできず、紗藍は朝霞が起き出してくるまで、そこで彼の肩をゆっくりと(さす)る動作を止めることができなかった。


***


「あらー、随分のんびりなシャワーだったわねぇ。のぼせてぶっ倒れてたらどうしようかと思ってたトコよ?」

 長い髪を纏め上げたままダイニングに入って来た緋凪に、朝食の準備中だった朝霞が、どこか無神経とも思える言葉を掛けた。

 とは言え、リビングに入るなり、紗藍を朝霞の自室に、緋凪をバスルームに追い立てたのは、彼女自身だ。それに、彼がバスルームに籠もっていたのは、ものの三十分程度である。

「……うっせーよ」

 いつもより弱々しく反論した緋凪の右目は、もういつも通りの綺麗な翡翠色だった。どうやら、緋色の瞳が自前で、翡翠色はカラーコンタクトらしいと分かったが、何故わざわざそんなことをしているのかは相変わらず不明だ。

(スイって人に関係あるのかな……)

 そうは思うが、訊けない。

 人の心には、それぞれ踏み込んではいけない領域があるのは分かっている。紗藍自身もそうだ。踏み込んで欲しくないことは、やはりある。だが、不破家の二人に限って言えば、それが人よりやや広いらしい、というところは、紗藍にも呑み込めて来た。

 特に、緋凪のそれは広範に渡り過ぎている上に、昏くて深そうだ。覗き込んだら、吸い込まれて堕ちてしまいそうな、底なしの谷のような印象を受けるが、共に堕ちるのが怖いとは思わない。寧ろ、彼が望むなら、一緒に堕ちてもいいとも思える。

 けれども、迂闊にそこへ踏み込んだら、何か――うまく表現する言葉が見つからないが、彼自身の心の、無防備な部分を傷付けてしまうような気がして怖かった。

「……何、人の顔ジロジロ見てんだよ」

 しかし、考え込んでいる間、緋凪の顔ばかり見ていたらしい。ふと気付くと、至近距離まで近付いた彼が、胡乱な目でこちらを見下ろしていた。

「べっ、別にっ!? 何でもないっ」

「嘘吐け。声ひっくり返ってんぞ」

「本当に何でもないってば」

 それに、訊いたら、きっと傷付けるから。そう内心で付け加えて、紗藍は上目遣いに緋凪を見つめ返す。

 直後、朝霞が「紗藍ちゃーん。悪いんだけど、お箸並べてくれる?」と声を掛けたので、紗藍は助かったとばかりに返事をしながら、彼に背を向けた。

 その後、食器を並べてテーブルにつく間も、緋凪は納得がいかないという表情で暫く紗藍に視線を向けていた。不破家のダイニングにテレビはなく、落ちた沈黙が気まずい(もっとも、そう思っていたのは紗藍だけかも知れないが)。

 静寂に食器が擦れる音だけが続いた後、やがて朝霞が口を開いた。

「紗藍ちゃん、今日も一応学校行くでしょ?」

「えっ? あっ、はい!」

 出し抜けにそう問われて、紗藍は挙動不審になりながらも頷いた。

(そうだ、学校あったんだ)

 昨日一日でもかなり色々あった為、紗藍はすっかり非日常の中にいるような錯覚に陥っていた。が、英治が指定した五月二十日の午後七時まで、まだ丸二日と少しある。

 二十日の七時に指定された店に行きさえすれば、(返事はどうであれ)この丸二日強をどう過ごそうが紗藍の自由の筈だ。

 勿論、あの男の求婚に応じるつもりなど、更々ない。けれど、それも朝霞と緋凪の仕事の成果次第だ。などと言うと上から目線で、二人を顎で使っているような気がして申し訳ないが、紗藍の心情としては、この二人だけが頼りだった。

「じゃあ、凪君はいつも通り紗藍ちゃんと学校ね」

「ああ」

 伏し目がちに頷きながら、目玉焼きを口に放り込む緋凪に、紗藍はまだ少しわだかまりを感じていた。今日も二人で過ごすのか、と思うと、やはり気まずい。

 けれど、緋凪が同行しないとなると、それはそれで不安だ。

「あたしも今日は出掛けるから。十時から、正巳氏と約束があって、その後、響君と会う予定なの。まあ、コトによっちゃ戻れないかも知れないから、夕食は二人適当に済ませて頂戴」

「了解」

「帰れないってなったら、また連絡入れるから」

「分かってる、ごっそーさん」

 ガチャガチャとやや派手な音を立てて食器を流しへ持って行った緋凪は、その足でダイニングを出て行く。

 身支度を済ませる為だろう。

 こんな時、せめて朝霞とは何でも話せればいいのだろうけど、朝霞もボーダーラインは厳しく敷いているので、迂闊に何か訊くことはできない。

「紗藍ちゃん、時間へーき?」

「え、あ」

 考え込んでぼんやりしていた紗藍は、反射的に壁時計を見上げた。その針は、六時半を指している。

「まだ……大丈夫です」

 不破家からだと、学校までは普通列車で駅六つ分で三十分。プラス、歩きで十五分で、今日の始業は九時だ。

 今日に限って全体的に朝が早かったお陰で、まだかなりの余裕がある。

「そう。じゃあ、あたし先にお手洗い、いいかしら」

「はい」

 肩を竦めるようにして頷くと、朝霞は自身も食べ終えた食器を流しへ運び、ダイニングを後にする。

 気まずくない沈黙が戻って、紗藍はホッと息を吐きながら、ココアを口に運んだ。


***


 五月十八日、午前九時。

 授業はとうに始まっている時間だったが、里奈はとても母の傍を離れる気にはなれなかった。

 母の負傷は左腕に刺し傷が一箇所のみ。よく考えれば、相手は腐っても医師なのだから、死なせない程度に派手な傷を負わせる方法を知っていてもおかしくはない。

 だが、里奈は母の血を見ただけですっかり動転してしまった。里奈のみならず、大抵の人はそうだろう。相手が知らない人間だとしても、目の前で流血を伴う怪我をしていれば、動転しない方がおかしい。それが近しい人間なら、尚更だ。


 あれから三日。二十針も縫う大怪我だったが、今では母もベッドで身体を起こせるまでになっている。

 しかし、退院は許可されなかった。

『言った筈だよね。君がちゃんと紗藍を説得できれば、お母さんは帰してあげる。早くお家に連れて帰りたければ、紗藍を説得して来なよ』

 大丈夫、入院費はこっちで持ってあげるから。

 そう付け加えた英治の親切面(しんせつづら)は、心底怖いと思った。自分の思う通りにならなければ、癇癪を起こす子供と一緒――いや、それよりタチが悪い。

 それ故に、里奈は母から目を離せず、父にも一通りの事情を説明した上で、ずっと病院に泊まり込んでいた。

 もっとも、父は始め警察に通報するべきだと息巻いていたが、そんなことをすれば母は止めを刺され、今度は父が里奈への脅迫の材料に使われるだろう。

 用済みと判断すればすぐにあの男は母を殺す。それを事故死に見せ掛けるくらいやって退けられるだけの度胸と環境も、あの男にはある。そう苦労して説得し、最後は意識を回復した母に説得を頼んでようやく警察への通報を思い留まらせた。

 里奈にはもう一人の家族である姉もいるが、幸か不幸か今は地方の大学へ通う為、地元を離れて一人暮らしをしており、今回の騒動には巻き込まれずに済んでいる。だから、今回の件は、里奈は敢えて姉には連絡を取らなかった。両親にも黙っていてくれるようにと口止めしてある。


 今朝も母は運ばれてくる病院食を、里奈は病院付属のコンビニ弁当で朝食を済ませた後は、話をするでもなくただ二人で寄り添っていた。

 気が重い。

 自分達の保身の為に、自分はこれから親友の人生を犠牲にしようとしているのだ。

 二重の意味で、里奈は今身動きが取れなかった。

 学校へ行く気にもなれず、少しの小用の間さえこの場を離れたら、母に危害を加えられるのではと気が気ではない。

 はあ、と溜息を吐いた時、ノックの音が静寂を破った。

「やあ、おはよう。具合はどうかな」

 ハッと顔を上げると、そこには憎たらしい細面(ほそおもて)がある。

 里奈は慌てて立ち上がると、母との間に立ちはだかった。

「あれれ、まだ警戒してるの? 大丈夫だって。君が紗藍を説得しさえすればもう変な真似しないし」

 信用できない。そう思ったが、それを口に出せばまたどんな刺激になるかが読めなかった為、唇を引き結んで男を睨み上げる。

 それをどう取ったのか、英治はニコリと笑うと、里奈の耳元へ唇を近付けた。

「ただねぇ。そろそろ行動に移して欲しいなぁ。お母さんが回復して君が落ち着くまではと思ってたけど、もういいでしょ。今日学校に行って、すぐ彼女に家へ戻るように言って? でないと、今日中にもお母さんの容態は急変するかもよ?」

「嫌っ……!」

 里奈は思わず一歩下がって、母を背後に庇うようにベッドに腰を落とした。

「それはどっちの意味での“嫌”?」

 勿論、母に危害を加えられるのが嫌だという意味だ。だが、早くも零れ始めた涙と嗚咽に遮られて、首を振ることしかできない。

 英治は、トレードマークとも言える笑顔を、少し不機嫌そうに曇らせて、肩を竦めた。

「お母さんに元気でいて欲しかったら、早く行きなよ。今日一杯は待つから。それと、コレ」

 英治はその白衣のポケットから取り出したものを里奈に差し出す。彼の掌に乗っていたのは、小粒のパールがあしらわれたイヤリングだった。

「イヤリング型の通信機。君の同行は見張らせて貰うから、着けて出てね。わざと着けなかったら、問答無用でお母さんの容態は急変するからね。後、忘れたっていうのもそれに準ずるから気を付けて」

 じゃあ、と言って踵を返した英治を見送る間も惜しく、里奈は慌ててそのイヤリングを装着しようとする。

「ああ、それと」

 ふと思い出したと言わんばかりの声を上げて足を止め、英治はこちらに顔だけを振り向ける。

「あの便利屋……千明緋凪、だっけ? 彼には呉々も悟られないでね。彼に相談したりしてもちゃんと筒抜けだから、もしそういうコトしたらどうなるかは……分かるよね?」

 ニコリと笑って念押しすると、今度こそ笑顔の悪魔は病室を後にした。

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