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interval 新宿歌舞伎町にて

 五月十七日、午後十一時前。

 新宿歌舞伎町の雑居ビル内にあるネットカフェで、パソコンと睨めっこしていた仁志紫(にしむら)桐哉(とうや)は、天井に向けて大きく伸びをした。


 裏の世界で情報屋をしている彼には、特に決まった就業時間というものはない。口コミで接触してくる客の相手をして、毎日を過ごしている。

 相手とのコミュニケーションの仕方は様々だ。メールでデータをやり取りするだけの者もいれば、直接会ってデータを渡す者もいる。

 浮き沈みの激しい商売で、他に日雇い労働で凌ぐ時もなくはない。もっとも、そんな日は、やはり自分も父の息子だなと思う。父は飲んだくれで、日雇いで食い繋ぎ、たまの纏まった稼ぎは酒代か賭事に消えていた。

 吐息と共に回想をシャットアウトする。パソコンの時計表示に目をやると、日付が変わるまで後一時間を切っていた。

 桐哉はその日に集めた情報をUSBメモリへ保存し、電源を落とすと、立ち上がった。強張った首を回し、肩をほぐす。

 一口にネットカフェと言っても、店内のレイアウトは店によって異なる。この店のブースは、平均的な成人男子が立ち上がっても隣が見えず、良心価格の割にはプライバシーが守られている。

 ワンブース三畳程の広さがあり、奥まった場所に設えられたカウンターの上にデスクトップ型のパソコンが置かれている。桐哉の個室と化しているその部屋の壁には、少ない衣服が掛かり、ここに転がり込んでから持ち込んだ寝具が片隅にわだかまっていた。

 加えて共用ではあるが、洗面所・トイレ・風呂も完備されている。ちょっとリッチなホームレスが、半ば格安アパート代わりに利用するケースも多いらしい。

 その内の一人である桐哉が、自身のブースの外へ出ようとドアに手を掛けた所で、そのドアがコトコトと小さく音を立てた。

 依頼人だろうか、と思うが、即座に打ち消した。

 桐哉の商売の内容を知っていて、且つこんな所まで直接訪ねて来る者は、ごく限られている。

 引き戸になっているドアを開けると、見慣れた美貌が目に飛び込んで来た。

「よ」

 右手を小さく上げた、図抜けた美貌の持ち主は、百八十センチある桐哉からはかなり見下ろす位置にその顔がある。体付きも引き締まってはいるものの華奢で、どう見ても少女にしか見えないが、(れっき)とした少年だ。

 腰まで届く鮮やかな緋色の髪を無造作にうなじの辺りで纏めた彼は、薄手の黒いジャケットを羽織り、その下は白いTシャツと黒いボトムにスニーカーという出で立ちだ。手にはハーフミットの黒手袋を填め、左肩にゴルフバッグのような縦に長いショルダーバッグを背負っている。

「……何だ、お前かよ」

「何だはねぇだろ。今ちょっといいか」

 ボソボソと話していると、レジカウンターに立つスタッフの冷たい目線が投げられる。

 訳ありの客が集まる場所とは言え、基本的なルールは表の世界とあまり変わるものではない。『図書館では静かに』と言われるのと、まあ似たようなものだ。

 桐哉は肩を一つ竦めると、ブースの中からタバコの箱を取って、訪ねて来た少年――千明緋凪を非常口の方へ(いざな)った。


***


 非常階段を上がり、屋上まで登り切ると、桐哉は施錠されているその扉を難なく開けた。

 ピッキングは、育ての親だったホームレスの男から教わった。

 緋凪も、何事も見なかったように、開かれた扉から桐哉の後に続く。彼もこういったことは茶飯事なのだろう。

 普段、施錠されている所為か、滅多に人も来ないここは、内緒話には最適だ。

「……久し振りだな。何の用だ、こんな時間に」

 言いながら、桐哉は屋上の半ばまで来て、持っていた小箱から、タバコを一本口先でくわえて引っ張り出す。

 この屋上には手摺りがないので、あまり端まで行くと、望んでもない転落死体になる確率が極めて高い。

「調べて欲しいコトがあるからに決まってんだろ」

 言いながら音もなく肉薄した緋凪が、火を着ける直前のタバコを素早く奪い取った。

「おい」

「あんた未成年だろってトコはまあ目ぇ瞑ってやるケド、俺のいるトコで吸うんじゃねぇよ。あんたが肺ガンで寿命縮めるのは勝手だけど、巻き込まれるのは御免だね」

 遠回しにあんたと心中なんかしたくねぇし、と続けながら、緋凪はそのタバコをどこへともなく放った。

 下まで落ちたのでないとしても、この暗さでは探せない。探そうと思ったら朝まで待つしかないだろう。

「一箱いくらすると思ってんだよ。吸ってねぇ一本その辺に捨てるとか、信じられねぇ」

 反射で沸いた苛立ちそのままに言い放つと、

「いい機会だから禁煙しろよ」

 と返って来て、黙り込むしかなかった。

「次に俺がいる所で吸おうとしやがったら、箱ごとトイレに流してやるからな」

「……分かった、分かったよ。それで? ご用件は何ですか、お姫様」

 肩を竦めながら吐き捨てると、緋凪の手が素早く動く。

「今すぐ転落死体にされたくなきゃ、減らず口閉じやがれ」

 ショルダーバッグから、鞘に納められたままの刀が滑り出し、刃の部分が首筋にヒタリと当てられた。

「……スイマセン」

 ホールドアップであっさり降参の意を示すと、ふん、と鼻先を鳴らした緋凪は元通りバッグに刀を納める。

 女性と間違われたくなければ、その髪を切るなり、他にいくらでも方法がありそうだ。だが、以前そう進言したら、「理由があって伸ばしてんだよ」と返って来た。

 願掛けかと訊ねたら、そんなようなモンだ、と言っていた。

 事情は、彼の双子の姉に関係するものかも知れない、と桐哉は思っているが、それを本人に質したことはない。

 以前から、彼に長期で依頼されている情報収集の過程で、彼の双子の姉の写真を見たことがある。一卵性双生児かと言いたくなる程に、彼女は緋凪と瓜二つだった。その辺りが理由だとは思うが、その推測が正解かどうかは、結局彼本人にしか分からないことだ。

「つーか、お前も相変わらずだよな。銃刀法違反」

 彼が背負い直しているバッグに視線を向けて、桐哉はさり気なく話題を転じた。

 執行猶予中の身でそんなものを持ち歩いているのが警察にでも知れた日には、檻の中へ逆戻りだ。そう言いたげな視線に気付いたのだろう。

「別に。無能なケーサツがそんな法律(モン)振り翳したって、従う気なんざねぇよ」

 てゆーか俺無実なんだけど、と吐き捨てた緋凪は、苛立ったように髪を一つ掻き上げると、桐哉に視線を向けた。

「それより、そろそろ本題に入ってもいいか」

「へいへい」

 余計な雑談を引き延ばしたのは緋凪のような気もするが、敢えて口にはしない。口にすればした分だけ、雑談は恐らく更に長くなるだろう。

 自分もいい加減血の気が多いという自覚はあるけれど、緋凪もその見た目に反して、中々の瞬間湯沸かし器だ。

「室橋総合病院に関する黒い噂って、あんた知ってるか?」

「ああ」

 言われて、桐哉は即座に頷いた。

 職業柄、裏社会の情報収集は基本だ。いつどんな情報を求められても出せるようにしておけ、というのも、育ての親の教えだった為、アンテナを立てることは怠っていない。

 室橋総合病院と言えば、表向きにはまあまあの大病院で、そこそこ繁盛している。だが、あの病院は、病院と言えないような裏の顔を持っていた。

 癒着している暴力団組織や顧客の情報も、いくつかはストックしてある。

 そう告げると、

「裏は取れてんのか」

 と至極真面目に、重ねて問われる。

「当たり前だろ。オレを誰だと思ってんだ」

「分かった。言い値で引き取る」

「毎度あり」

 肩先の高さに掌を掲げると、透かさず緋凪の掌が打ち合わされる。パチン、という小気味よい音が、深夜の屋上に霧散した。

「それと、もう一つ」

「分かってる。例の件の定時報告、だろ」

「ああ。どうなってる」

 明るい場所で見れば緋色と翡翠に見える筈のその瞳と、暫し視線が交錯する。

 気温の下がり辛いコンクリートジャングルで、それでも未だ冷たい夜風が、二人の間を通過し、緋凪の長い髪の毛を撫で上げた。


***


 小一時間程もした頃、ようやく待ち人が雑居ビルの裏手から姿を現した。

 眠らない街と言われる新宿歌舞伎町は、深夜に近い時間帯だというのに、昼間のように明るい。

 男の前を行く人物の髪は、ネオンの洪水を(はじ)いて鮮やかな緋色だとはっきり分かる。

 緋色の髪の後を追うのは、ヒョロリとした長身が特徴的な、年齢不詳の男だ。


 男が東京を訪れたのは、久し振りのことだった。


 四年程前にあったとある商談で、男は日本を離れ、中国某所に飛んでいた。客は人体収集家で、商品は確か一対の眼球だった。

 それを自宅に飾りたがる神経は、男には分からない。ただ、そういうものを好む、変わった趣味の人間が一部いることは確かだ。だからこそ、男のようなブローカーの商売も成り立っている。

 そして、念の為、そのほとぼりが冷めるまで、ということで、男は先日まで中国から移動した韓国に滞在していた。

 古巣に戻り、商売を再開しようとした矢先、前を行く人物が歩いているのが目に入ったのだ。

(……しかし……まさか)

 男は脳裏で呟きながら、緋色の髪の人物の後を、一定の距離を保って尾行する。

 その一対の眼球の持ち主は、一人の美しい少女だった。

 写真をセットに、という注文が付いたのは、恐らくそれが一人の人間から摘出されたものだということを証明する為だろう。彼女の瞳は、世にも珍しい緋色と翡翠のオッドアイだった。それが、客の興味を引いたらしい。

 写真の少女は、確かに色違いの双眸の持ち主であり、その双眸は客の手に渡った筈だ。引き渡したのは他でもない、男自身なのだから。


 しかし、今数メートル先を行く人物は、その少女と瓜二つだった。


 髪の鮮やかな色合いは、あの少女そのものだ。顔かたちもそっくりだったが、目の色だけはネオンの明かりだけでは確認できない。

 後を尾行(つけ)て、自分はどうするつもりなのだろう、と男は自問する。

 だが、あの美貌が二つもこの世にあるなんて、思ってもみなかった。彼女は、双子だったのだろうか。一卵性双生児なら、説明が付く。

 男は仲買人故に、『商品』のプロフィールまで気にしたことはない。けれども、彼女が双子だとしたら、と考えると、何となく損をしたような気分だった。

 もう一つ同じ商品があれば、似たような嗜好の客を見つけるか、以前の客にもう一つ売り付けることも可能だっただろう。

 男の脳内では、いつの間にか算盤勘定が始まっている。

 彼女を――以前の商品と双子なら、恐らく前を行く人物も少女だ――捕らえてその目を摘出するか、或いは美貌だけでも使い道はいくらでもある。

 男の目の前を歩く少女は、不意に狭い路地へ消えた。

 慌ててその距離を詰め、角に張り付き、一呼吸置いてから壁の陰からそっと路地を覗き込む。瞬間、胸倉を掴まれ地面へ叩き付けられた。景色が回って、肺から空気が叩き出される感覚が襲う。

 咳にもなり切れない咳をして上を見上げる頃には、ビルとビルの狭間に覗く夜空と、それを背景にした美貌が視界を埋めていた。

「よぉ。何か用か? おっさん」

 美貌の主は、少女と思えぬチンピラ口調でいきなり問いを投げる。その顔に浮かんだ笑みは、どこか冷ややかだ。

 起き上がろうとするも、首しか持ち上がらず、視線の先には胸部に張り付いた足が見える。

「べ、つに……」

 用と言えば用かも知れなかったが、そもそも自分は彼女を最初から明確な商品として考えていた訳ではなかった。

「たまたまこちらへ来ただけだよ。足を退けてはくれないか?」

 見た目通り大人しげな少女が相手なら、これで解放される筈だった。けれど、そもそも見掛け通りの少女なら、男は今、硬いコンクリートの上で無様に引っ繰り返ってはいないだろう。

「それにしちゃ、随分長いコト後くっついて来てたよな。用事があるんでなきゃ何なんだ?」

 クス、とどこか嘲るような笑いが漏れて、男は舌打ちしたい気分になる。

「……まさか、気付いていながら放置していたというコトか。君こそ、何か理由があってそうしていたのではないのか?」

 反問すると、少女はまたクスリと笑う。

「さてね。駅降りてからすぐくっついて来て、しかも店から出て来るまで律儀に待ってるような奴だから、流石に気になったんだ。そんなに俺に興味があるなら、ちょっとお話でもしてやろうかと思ってさ」

 しかし、体勢的には『ちょっとお話』という雰囲気ではとてもない。

「もう一度訊くぜ。あんたは何の用で俺を尾行てた?」

 男は唇を引き結んだ。相手は見掛け通りの少女ではない、と改めて思う。この界隈で、こんな時間に平気で、しかも一人でそぞろ歩くような人間だ。

 正直に商売の内容など、口にしたらどうなるやら分からない。

(ならば)

 情けは無用だろう。

 男は、先手必勝、とばかりに、胸部に乗っていた彼女の足に手を伸ばす。こんな世界で生きている以上、男も腕に自信はあった。しかし、少女の挙動の方が一瞬早い。

 掴みに掛かった男の手を、腹部に乗せていた足で蹴飛ばし、そのまま前腕部に体重を掛けた。

「ぐぁ!」

 鈍い音がして、激痛が走る。みっともなく悲鳴を上げる男に、少女はとことん容赦なく伸し掛かる。空いた足の膝で男の鳩尾を押さえ、いつの間にか手にしていた棒のようなもので喉元を圧迫する。

 男の無事な方の腕を空いた手で押さえ込みながら、少女は酷薄な無表情で男を見下ろした。

「最後の警告だ」

 冷え切った双眸が、男を見据える。まるで、あの写真の少女が抜け出たようだ、と今更ながらに思う。

「何故、俺を尾行していた? 返答によっちゃ、このまま警察に突き出すぜ」

「……ば、かな」

 圧迫された喉から、どうにか声を絞り出す。

「こ、んな……状態の私を突き出したところで、君も、困ったコトに、なる、んじゃない、のか。こういう、時は、暴行罪で、訴える、コトが、できる」

 加えて、腕の痛みで、不自然な場所で言葉が切れる。骨が折れたかも知れない。だが、こうなれば少女の方が確実に不利だ。

 けれども、少女は鼻先で笑った。

「暴行罪? 言える立場なのかよ。あんた、叩いたらホコリがいっくらでも出て来そうなニオイがするけど?」

 断っとくけど俺は全然困らない、と付け加えて、少女は再び無表情に戻る。

「こういう時は、正当防衛って便利な言葉があるんだ。このままあんたをぶん殴って気絶させといて、警察を呼んで、無理矢理押し倒されたから抵抗したって証言する。そうすると、どういうコトになると思う?」

 さし当たって準強姦罪、といったところだろうか。

「実行しない、とか思ってるなら甘いぜ。早く決めろよ。俺の質問に答えるのか、それとも――」

「わっ、分かった! 実は、以前に仲介した、商品に、似ていたんで……つい」

 駆け引きは完全に少女の勝ちだった。相変わらず圧迫された喉から、懸命に声を絞り出すと、少女の双眸が剣呑な光を帯びる。

「商品、だと?」

「あ、ああ、そうだ。オッドアイの眼球を、中国の、好事家に、引き渡す仕事を、して、その、眼球、の持ち主、だという写真が」

「俺に似てた?」

「ああ、そっくり、だった。眼球を、摘出、されたなら、本人、はもう生きちゃ、いない、だろうが――」

「その眼球」

 グイ、と身を乗り出した少女の膝が、益々鳩尾に食い込んで、男は呻きと共に背を仰け反らせた。

「どういう代物だったかと、出所を詳しく話せ。そうすれば今回は何もせずにあんたを解放してやる」

「……話さな、ければ?」

「いっそ殺してくれって泣いて頼むような拷問してでも吐かせるぜ。誰も来ない場所の心当たりはいくつかある。叫んでも助けは来ないと思えよ」

 ドスの利いたものでもないその声音は、心底から震えが来る程恐ろしい。

「わっ、分かった、言うよっ! 緋色と翡翠のオッドアイの目だ! 出所なんて、私も、知らない! 私は、ただ、渡され、た、商品リスト、を客、に紹介する、だけの、ブローカーだ。商品の、生前の、コト、なんて気にした、コトもない! 本当だ!」

 少女が無言で、ヒタと男の目を見据える。

 男も負けじと少女の目を睨み返した。掛け値なしに本当のことを言っているのに、この上疑われたり、拷問に掛けられたりしては割に合わない。

 やがて、は、と息を吐くと、少女が再び口を開く。

「じゃあ、最後の質問だ。あんた、名前は?」

「な、まえ?」

「そ。言っとくケド慎重に本名を答えろよ。でないとどうなるかくらい想像付くよな?」

「わ、分かった、私は――」

 名を告げた、直後。鳩尾に衝撃が来て、男は何がなんだか分からないまま意識を手放した。


***


「あのさー、緋凪君。青少年健全育成条例・第十五条の4に何が書いてあるか、知ってる?」

 気を失った男に手錠を掛けながらぼやく滝沢(たきざわ)(ひびき)の頭上から、声変わりの来ない少年のものとも、低めの女性のものとも付かない声音が、あっさり「知ってる」と返す。

「十八歳未満の午後十一時から午前四時までの外出禁止、だろ」

「そー。分かってるなら、何で僕を呼ぶの」

 珍しく苛立ちを露わにしながら、「ちょっと足持って」と緋凪に指示した響は、男の脇の下から手を入れて、自身が乗って来た車の後部座席へ運んだ。

「僕の仕事が何かも知ってるよね?」

「ケーカンだろ」

 運転席に乗り込みながら訊くと、それにもあっさり答えが返って、響は脱力を覚えた。

「この分だと、君も条例違反で補導しなきゃなんないんだケド?」

「だからあんたに連絡したんだろ。朝姉呼んで、一度(ウチ)にコイツ監禁したとしても、どうせケーサツに連絡しなきゃなんないし」

 コイツ、と言って立てた親指で後部座席に伸びている男を示すと、当然のように助手席へ乗り込んだ緋凪は言葉を継ぐ。

「第一、偽りを真実にするのが公権力だろ。こんな時使わねぇでいつ使う気だ?」

 それは違う、という反論は口に出さずに、響はエンジンを掛ける。ギアを切り替えてアクセルを踏み込みながら、溜息を吐いた。

 緋凪の言い分に上手く反駁する言葉が、響には思い付けない。いい年をして、しかも本職の警官でありながら情けないとは思うが、正しく、『偽りを真実にされた』結果、殺人の冤罪を着せられた彼の前には、正論など何程の意味を成そうか。

「――それで。君が『真実』にしたい『偽り』は何なの」

「流石、響。話が早くて助かるぜ」

 何が『流石』だよ、と脳内でツッコむ響に構わず、緋凪は後を続ける。

「まあ、至ってシンプルな話だよ。コイツにちょっと脅し付けられてあんな時間まで引きずり回された挙げ句に、人気(ひとけ)も監視カメラもない通路にうまーく誘導されて襲われ掛けたってコトで。まあ、そいつの腕一本イっちゃってるケド、正当防衛で片付くだろ」

 人気も監視カメラもない通路にうまーく誘導したのは君でしょ、というツッコミは、口にも出せずに響は唖然とするしかない。

 しかし、そう言いたげなのは空気で分かったのか。

「だって常識で考えろよ。そいつの身長、軽く見積もっても百八十はあるぜ。対して俺は百六十五しかない小柄で華奢で儚げで、ついでに幼気(いたいけ)なガキだ。無我夢中で抵抗すればまあ、こーゆーコトになっても無理ねぇだろ」

 華奢で儚げが聞いて呆れる、と普段の緋凪を知る人間なら皆が口を揃えて言うだろう。

「てゆーか、現実には君、執行猶予中なの分かってる? 前科なしの子がやるならともかく、君だとちょっとその言い訳は厳しいかも知れないよ」

 勿論、実際のところは君は何もしてないって僕は知ってるけどね、と挟んだ響は、ウィンカーを出してハンドルを切る。

「万が一、被害者の証言が欲しいって言われたら、どうするつもり?」

「そうならないよーに持ってくのがあんたのお勤めだろ。頑張れよ」

「頑張れよって」

「名前は聞き出しといた。本名かは定かじゃねぇし、前科持ちかは分からねぇけど、ブローカーだって口走ってたし、眼球なんか売りさばいてるんじゃまずマトモじゃねぇ。留置所で目覚めても、訊かれなきゃ俺のコトは黙り通すと思うぜ」

 それまで冗談めかしていた口調が、急に冷えたものになって、響は思わず助手席の方へ顔を向けそうになった。

「……どういう意味だい?」

 すんででそれを思い留まり、前方を見据えたまま問う。

「そいつは(すい)の死に何らかの形で関わってる」

 緋凪が一度言葉を切ったタイミングで、信号が赤に変わり、響は車をスローダウンさせる。

「俺とそっくりの女の眼球を売り払ったって言ってた。だから、警察でほじくり返す内にそいつの裏側が明るみに出るかも知れない。もし出なかったり、警察の方で揉み消されるようなコトになっても、やれるトコまで聞き出して貰えると助かる」

 チラリと視線を横に投げると、整った横顔は酷薄な色を湛えて、目を伏せている。

「……分かった。やれるだけのコトはやってみるよ」

 吐息に乗せて言った時、信号が青に変わり、響はアクセルを踏んだ。

「……悪いな」

「いいよ。本当は君のお父さんの方もちゃんと捜査しなきゃいけないのに、有耶無耶にしちゃったのは警察(こっち)だしね。組織にいる以上限界はあるけど、僕個人としては、できるコトはするつもりだから。でも――」

 勢いで言い掛けて口を噤むと、緋凪が「何」と苛立ったように先を促す。

「いや……珍しいなと思って」

「何が」

「だって君なら警察には頼らずに、自分でも拷問でも何でもして真実に迫って行きそうじゃない」

「余程じゃなきゃやるなって朝姉に釘刺されてるからな。ケーサツは全然全くさっぱり信用できねぇけど」

 しつこく『信用できない』を強調した彼が、溜息を吐くのが聞こえる。

「じゃあ、今夜僕を頼ってくれたのはどうして? 僕だってケーサツだよ?」

 君の大嫌いな、と意地悪く付け加えると、瞬時息を呑むような沈黙を挟んだ緋凪は、ポツリと言った。

「……朝姉が、信用してるから」

 走行中ではあったが、チラリとまた助手席を見ると、彼は思い切りそっぽを向いている。周囲が明るければ、その耳が目一杯赤くなっているのが分かったかも知れない。

 覚えず苦笑を漏らすと、響はカフェ・不破古書店へ向けて車を走らせた。

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