神よ、祈りを
「娘は十五を少し過ぎたくらいだったか? 身体のつくりが大きく、尻や脚は十分発達しておったが、顔のつくりは目の悪い彫刻家の作のようにぼんやりしていた。なんということもない娘だ。大勢いる召使のひとりに過ぎぬ。だが、この娘はあまりにも無作法で不器用だった。絨毯を蝋燭で焦がし、壺を割り、わしの上等な上着にパイをひっくり返した。罰を与えないわけにはいかぬであろう。一度目は鞭で打ち、二度目は、一晩裸で屋敷の外に閉めだした。三度目は、わしの部屋に呼び、教え諭してやった。血の巡りの悪い娘だった。わしのいうことの半分も理解してはおらなんだ。そのくせ身体の方はすぐに慣れて、すぐに自分からわしのところへくるようになった。
むろん、それはわしの望むところではない。気を利かせた女中頭が、今までの分の賃金を渡して田舎に帰したと言った。あの仕事ぶりでは無理なからぬことであろう、とわしは頷いてやった。
しばらくして、町を走るわしの馬車に近づく者があった。小汚くなっていたが、それは確かにあの娘だった。娘は故郷に戻らずに、町にとどまっていたのだと言った。
理由は一目瞭然だった。娘の腹は膨れていた。
わしは娘を馬車に乗せた。娘は喜びで涙を流しながらこれからの生活を夢想しておった。娘は、自分がわしの妻になり、裕福な生活を送れると信じて疑わなかった。わしのことを愛しているとすら言った。生まれて初めて優しくしてくれたのがわしだと言った。
わしは娘を町の外の別荘へ連れだした。隠れ家のように森の中にあるその屋敷の存在を知るのは、長年わしに仕える御者のみだった。屋敷の世話をする老婆は何も見ず、何も聞かず、何も言わず、決して屋敷を出ることもない。
わしは娘を熱い風呂に入れ、たらふく飯を食わせた。
口実は忘れてしまったよ。また娘がドジを踏んだのかもしれない。とにかくわしは激高し、娘の服を剥ぎ取って、屋敷の外に追い出した。前回、娘は屋敷の生け垣に一晩中身をひそめて震えていたが、この夜はそれを許さなかった。テラスから弓を構え、娘の足元を射た。娘は泡を食って逃げ出した。わしは笑いながら追いかけ、矢を射かけた。腹の大きな娘は愚鈍でいい的だったが、ぎりぎりで外れるように狙った。それは当てるよりも難しかった。やがて娘の左足に矢が刺さった。娘は倒れず、足を引きずりながら森の奥に向かった。わしはいっそう笑った。
わしはその白い背に狙いを定めた。
この狩りをするのは、このときが初めてではなかった。何度となく、真夜中の狩りを繰り返してきた。
金欠の娼婦、愚かな家出娘、淫乱な奥方――。柔らかな下生えの中に横たわる白い死体を夢想する。死体は野生動物に貪られ、うじがわき、白い骨になる。それは心安らかな想像だった。
ただ、夢想にふける時間は、少しばかり長すぎた。
娘の白い背中がふと闇に消えた。指から弦が離れ、ヒュッと音を立てて矢がその後を追った。
物音はなかった。
わしはしばらくそこに佇んでいた。
それ以上追いかける価値を娘に感じなかった。どのみち、あの足では遠くにはいけまいと思った。待っているのは、凍死か、オオカミにでも食われるかだ。
なぜわしがここに来るかわかるかね? わしは恐ろしいのだ。下劣な女どもが、またわしを誘惑するのが……。
奴らは悪魔だ。悪魔を弓で射殺すときだけ、わしの心は救われる。だが、すぐに次の悪魔がわしの前に現れる……。
だからわしは祈っているのだ。
神よ、悪魔をわしに近づけさせないでくれ、と」
「森には近づくな、というのが、大人たちの脅し文句だった。恐ろしい女の魔女が森をうろついて、子供を食らうから。
森なんて興味がないから、いつも聞き流していた。
わたしとは別の意味で、たぶんセタもそう。
彼は暇があれば森に通い葉っぱだらけになって帰ってきた。森は彼の庭のようなものだった。森なんてドレスが汚れるし日中でも薄暗いし、何が面白いのかわからなかったけれど、初めてセタに森に行こうと誘われたときは、待ち合わせ場所にスキップしていくくらい舞い上がっていたわ。わたしたちはもう子供じゃなかったから、ふたりきりで森に行くということが何を意味するかしらないわけじゃなかった。わたしは有頂天になっていたけれど、内心複雑だった。
セタはお姫様の従者のようにうやうやしく手を引いて、わたしを森の奥にある小さな湖畔に案内した。ドレスが汚れないように、敷き布をひいてわたしを座らせてくれた。そんな卒のない彼の態度は、他の粗野な男の子たちと違うところだったのよ。心臓がドキドキして、セタに聞こえないか不安だった。不自然な沈黙がふたりの間におりて、自然に身体の距離が近くなる。
わたしたちは親公認の仲で、お似合いのカップルで、そう遠くない未来に結婚することが決まっていた。だからこんなところで、こんなことをする必要なんてなかったの。でも、拒む理由もなかった。わたしには奥ゆかしく初夜を待つのも、秘密の行為も、どちらも同じくらいロマンチックに思えた。
そのとき、セタが急に顔を上げた。わたしもそちらを見た。魔女だ、とセタのつぶやきが聞こえた。
そんなのいるわけないじゃない。わたしはカラカラ笑ったけど、セタはつられなかった。森の暗がりを睨んで、立ち上がる。
ちょっと様子を見てくる。すぐ戻るよ。
セタは上の空でいうなり、歩き出した。
今ならはっきりとわかる。わたしは泣いても引きずられても、セタを引き止めるべきだった。
何もなかった、と言って、日が暮れる頃になってようやく戻ったセタは、初めて会ったかのような、まるで見知らぬ男の顔をしていた。
魔女なんていない。わたしは森にいたもののの姿をはっきりと見ていた。あれは魔女なんかじゃなかった。ただの女だ。ただの裸の女だった。
その小屋は森の中にあった。
わたしは道中で拳よりも一回り大きな石を拾い、エプロンのポケットに入れた。扉が閉まっていたら、それで破壊しようと思った。でも、扉は開いていた。
小屋の中は狭くて、必要最低限のものしかなかった。家具も、小屋そのものも、粗っぽくてところどころ稚拙で、誰かが長い時間をかけて手作りしたものだとわかった。
セタの背後には黒髪の女がいて、女の腕の中には歩き始めたばかりの赤子がいた。
説明させてくれ、とセタは言った。
何も説明することなんてない。わたしは首を振った。何も意外なものなんてなかった。すべてわかってたわ。
誤解だよ、とセタは言ったけど、誤解は何もなかった。わたしは何もかも正しく理解してる。
夫婦となり、子供が生まれても、彼には決して明かそうとしない秘密があったし、わたしは密かにそれに気づいて、知らないふりをしていた。貞淑な妻の姿は、母親から存分に学んでいたから、そういうふうに振る舞うことに疑問はなかった。
でも、なぜかわからない。急に我慢ができなくなって、わたしは乳飲み子の娘を家に置き去りにして、セタの後をつけたのよ。
戻って、セタ。わたしと一緒に。
わたしは娘をひとりにした罪悪感で泣いていた。
彼らには助けが必要だ。ぼくは、ただ助けたいだけだ。
どうしてあなたが助けなきゃいけないの?
わたしは泣きじゃくっていて、セタは青白い顔で首を振った。
きみが好きだよ。一番愛してるんだ。でもどうして、誰かに優しくしちゃいけないんだ。
そのときのセタはまるで懇願するようだった。
ダメよ。絶対にダメなのよ。
わたしは彼を押しのけた。
そのあとの記憶は、手の感触だけが残ってる。
わたしは赤子の泣き声で我に返った。
赤子は両手に血を付けて、母親にすがりついていた。長い黒髪を振り乱して倒れた母親は、ぴくりとも動かない。彼女の頭の横には、赤く染まった石が転がっていた。
セタは消えた。
赤子はセタの子供ではないのかもしれない。成長するほどわかる。あの子は彼に似ていない。それでもわたしは誤解などしていなかったし、だからこそセタは消えた。
わたしは彼を傷つけてしまった。取り返しのつかないくらいに。
そのときから、わたしはずっと祈り続けている。償いならいくらでもする。
神よ、どうかセタを返してください」
「あたし、良くないことをしちゃったの。こんなことになるなんて、思ってなかった。
あの子の家が貧乏なのは知ってた。いつもぼろぼろの服を着て、近寄ると少し嫌な匂いがした。男の子たちはいつもあの子をいじめてたけど、あたしはそこに加わったりはしなかった。いつも庇ってあげてたのよ。ママの口癖なの。ミカ、みんなに優しくしなさいって。だからそうしてたの。でも心の中では大嫌いだった。それがあの子にもわかっていたのかしら? あの子はあたしに感謝してくれたことなんてなかった。だから、ますます嫌いになったんだと思う。
あの子があたしをたまにこわい目で見ているの、知ってた。嫉妬してるのよ。食べ物にも着る服にも困ったことなんてないし、おじいさまはお金をたくさん持っていたから、大人でもあたしを丁重に扱ってくれるの。あの子だけよ、面と向かってあたしに冷たいのは。
だから嫌い? ……違うと思う。
あの子が両親と仲良さそうにしているのを見たから。あの子の父親は、出稼ぎに出ていて、一年に一度しか帰ってこないのに。あの子が誰に見せたこともないような笑顔で町の外に走って出迎えていたから。あたしは父親の顔も知らないのに。
そうだ、あの日の話をしなきゃ。
大人たちは森には魔女がいるから行っちゃだめだって言うけど、あたしたちは嘘だって知ってた。森に行かなくても魔女は町にやってくるの。ときどきね。あの日もそう。
それは魔女っていうより、ただの――。
動きがゆっくりしていて、言葉もしゃべれないの。ただ家々の扉の前を回って、食べ物を恵んでもらって、そろそろと森へ帰っていくだけ。大人たちは、いつもそれから目を逸らさせようとするくせに、それに食べ物を分け与えるのはやめなかった。
あの日……。町に入り込んできたそれに、男の子たちは大人の目を盗んで石を投げてた。あたしはやめなさいよ、って言った。あの子のいじめを止めるときとは違って、なんだか本当に不気味だったからだと思う。男の子たちも、べつに本気じゃなかったわ。石を投げてたけど、ほんのちいさな小石ばかりだったし、当てないようにしてた。それでも、それはこの世の終わりみたいに怯えるから、面白がっていただけ。わたしが叱ったら、男の子たちはつまらなそうな顔をして散っていった。いつもそれで終わり。
そのはずだった。
離れてすぐに、それのいた方角から、恐ろしい声が聞こえた。あたしは恐る恐る道を引き返した。それは、道の真ん中で倒れてた。近くに、大きな石が落ちてて、頭からは血が流れてた。
あたし、見ていたの。そこから走り去ったのが、誰だったのかも。
あとになって、あの子の父親が遠い土地で命を落としたってきいたわ。
ねぇ、神様。あたしのせいかしら。
あたしがあの子の父親もいなくなればいいって、願ったから?
あたし、誰にも言わない。今度は本当に、優しくしようと思うの、あの子に。
神様、お願い、あの子を許してあげて。
だから、あたしのことも、お願いよ……」
注意してみなければ気づかないくらいの、ささやかで、小さな光。
近づいてみると、それは一本の蝋燭であることがわかる。
揺れるほむらに、内部を照らしだすだけの光量はない。崩れ落ちた天井から射しこむはずの月明かりは雲に遮られ、人影すら判別は困難だ。ただ息遣いに揺れる炎が、そこにいる人物の気配を感じさせるだけ。
やがて、声が聞こえてくる。
それがいつもの手順だった。
誰にむけた言葉か、なんのための言葉かわからない。こんな夜中に、誰もいない廃墟で、なぜ人の声がするのか。一体、なんのために?
最初にこの光を見つけたとき、見てはいけないものを見てしまった気がして、建物の外で息を潜めて盗み聞いた。男の声。一体何の話をしているのか、まるで意味がわからなかった。
次の闇夜にもまた、光が灯った。今度は別の声。目的が見えないまま、ケハカは盗み聞きを続けた。彼らは一見、とりとめのない話をした。聴き手はいるのかいないのかわからないが、少なくとも返答も相槌もなかった。ただ語るだけだ。そして、日が昇る前には話は終わり、ケハカの知らない抜け道でもあるのか、いつの間にか語り手は姿を消している。
ケハカにとって、それは新鮮な体験だった。語られるのは、町の人間の、彼の知らない人生の話だ。生まれながらに排除されてきた生活が、そこにはあった。ケハカは話を通じて、森からただ眺めるしかなかったものごとの意味を知った。
ケハカは次第に光が現れるのを心待ちにするようになった。話をきくほどに、すべてが敵でしかなかった世界が色分けされ、複雑になっていく。それは喜びと同時に苦しみをもたらした。ケハカは自分の人生が酷く辛いものであることを改めて思い知らされた。そして、彼らの話もまた苦しみに満ちていることに気づいた。
彼らの話に唯一共通することがあるとすれば、それは悔恨についての話ということだろう。それは懺悔のようであり、罪の告白のようでもあった。
ある夜、ケハカはその声を聞いた。自分と同じくらいの年齢と思しき少女の声だった。ケハカは彼女の声に耳を澄ませながら、自分の中に衝動が湧き上がるのを感じた。
――自分もここで語りたい。
あの少女のようにここで語りたい。そして、許しを乞いたい。
どれだけ頭を巡らせても、この夜の語りがどういう規則で行われているのか、ついに理解できなかった。ケハカは結局排除されているのだ。それでも、語りたいと思った。いつもは唸り声程度しか上げることのない声で、必死にしゃべる練習をした。
そして次の闇夜がやってきた。ケハカは自分で、燭台に火を灯した。
「お、おれは……」
一言目を発したあと、ケハカは緊張に身体を強張らせながら闇に目を凝らした。暗黙の了解を破った罪でつまみ出されるか、あるいは別の語り手から割り込みを咎められるのではないかと身構えていたが、何も起こらなかった。あるのは沈黙と闇だけ。
本当に誰も聞いていないのかもしれない。
それでもよかった。
ケハカはツバを飲み込んで話始めた。
「おれは……森で暮らしてる。母親は……頭がおかしい。ずっとそうなんだ。頭がおかしいくせに、額が凹んでるのを気にして、長い髪でいつも隠してた。たぶん、頭がおかしいのはそのせいだ。おれでも話が通じなかった。いつもそのへんをうろついて、物乞いをしていた。町のやつらは、おれにも食い物をよこしたけど、おれはいつも投げ返してやったよ。おれは必要があれば盗むようにしている。どのみち、母親はおれのぶんも用意してくれたから。それに、あの女がいた。あの無愛想でいい匂いのする女が、何日かに一度は、食い物をもってきた。頭のおかしい母親の代わりに、おれを育てたのは、たぶんあの女なんだ。なんとなく覚えてる。抱き上げて、乳をくれたのも、身体を洗ってくれたのも、あの女だ。でも、あの女はいつもおれを冷たい目で見るし、口も利いてくれない。そのくせ、食事をもってくることは忘れない。おれたちを憎んでるくせに、生かそうとしてるみたいだ。むかつくけど、あの女の施しだけは受けてもいいと思ってる……。
おれたちは透明な存在だった。町には疎まれたり、いじめられたりするやつもいるが、おれたちにはそれすらなかった。誰もがれたちのことを無視する。まるで見えない存在みたいに。素通りして、口をつぐむ。見えるのは、施しを与えるときだけ。おれが家の壁に糞を塗りつけて歩いても、連中は何も言わなかったよ。
ただあいつだけは別だった。
会話の成立しない母親はともかくとして、おれと話をしてくれるのは彼だけだった。町はずれの大きな建物にいつもいる男だ。変わった黒い服を着ていて、おかしなことを言うやつだ。自分の足で歩き回れるようになってもろくに言葉を話すことができなかったおれに言葉を教えてくれたのは彼だ。
彼はおれが悪事をするたびに悲しそうな顔をした。
そして辛抱強く言葉を教えた。やがておれは退屈なときは建物の壁に背中を押し付け、窓から漏れ聞こえる男の声を聞くようになった。彼はときおり、町の人々を集めて長い話をしていた。内容は、覚えてない。ただ、声をきいてると心が落ち着く気がした。
……あの日、母親が死んだ。
頭から血を流して。半分割れていた頭を、ついに本当に割られて。いつかこういう日がくるんじゃないかとおれはずっと思っていたし、内心ほっとしてた。おれは母親を哀れみたくなかった。
おれは死体を引きずって森に埋めた。町に行って、やったやつを探しだそうかとも思ったけど、やめた。町の連中の顔はみたくなかった。母親の匂いの染み付いた家にもいたくなかった。どのくらいの間、森をさまよっていたのかわからない。
しばらくして、おれは母親の死を誰にも伝えていないことに気づいた。
だからあの男のところに行った。おれはいつものように、建物の窓の下で彼のまわりから人が消えるのを待った。
その日は偶然、人が集まる日だったらしい。建物の中には入りきらないほどの人がいた。老人も子供も、男も女も。取り巻きを連れたいい身なりの中年男がいたかと思えば、ぼろきれを着た今にも死にそうな浮浪者もいる。それにあの女もいた。あの女も、母親の死を伝えなければならない一人だということをおれは思い出した。そしておれはあの女が連れた子供に目を引かれた。
利発そうな少女だった。あの女によく似ている。あの女と違って、表情が豊かだ。あの女は、相変わらず陰鬱な表情で、娘の肩に手をおいていた。そこに、彼が近づいてきた。
ふたりは何かを話をしていた。そして何かが起こった。何かの魔法みたいなことが。
あの女の表情が変わったんだ。
冷たい彫像のような顔に赤みが指して、唇が動き、頬を柔らかく押し上げた。
あの女はずっとあの表情なのだと思い込んでた。でも、違ったんだ。
あの女はおれの前だからあんな顔をしていただけだった。
知らないうちに、おれは泣いていたのかもしれない。三人は、まるで家族のように見えた。父親と、母親と、子供と。
心が痛いくらいざわついて、おれはその場にいられなかった。
今なら、その意味がわかるよ。
嫉妬だ。
おれは建物の入り口に置かれたランタンを扉の前にぶちまけた。糞を投げつけるのとはわけがちがった。火は見る間に燃え上がり、悲鳴が響いた。おれは森の中に駆け戻った。
その日から、彼に会ってない。あの女にも。
悪いことをしたって、わかってる。彼に会って謝りたい。神だかなんだか知らないけど、祈ったら叶えてくれるのか? だったら、そうしてくれよ。謝らせてくれ……!」
夢中でしゃべり、そこで、言葉が思いつかなくなった。話は終わったのだ。
口を閉じて、ケハカは耳を澄ませた。心臓がどきどきしていた。いつもと同じように、何も起こらなかった。それでもケハカは満足していた。
できることなら、この間の晩にここで話していた少女にも会いたいと思ったが、それは言わなかった。彼女なら――彼女が自分の話を聴いてくれたなら――この気持ちをわかってくれる気がした。
彼女は誰なのだろう。町の人間には違いない。探そう。探して、話をしてみよう、そう思った。
じっとしているうちに、東の空が白み始めた。
日が登るにつれて、廃墟の様子が明らかになる。焼け焦げ、崩れかけた壁。炭化した木材が散らばる床。崩れ落ちた天井。
「ケハカか……?」
声をかけられて、ケハカははっとした。振り返ると彼がいた。いつもと同じ黒い服で、なぜか首に布を巻いて顔半分を覆っている。
瞬間、願いが通じたのだと思った。だが、駆け寄ろうとしたケハカを、強い口調が遮った。
「なぜ戻ってきた」
聞いたことがないほど厳しい声に、ケハカは動揺した。彼はいままでケハカを邪険に扱ったことなどなかった。
「なぜって、おれ……謝りにきたんだよ」
男は険しい顔で首を振った。
「誰かに見つかる前に、ここを立ち去るんだ」
男の腕がケハカに向かって伸ばされる。反射的に、ケハカは後退ってかわした。男の顔が苦悩するように歪んだ。異様な空気を感じて、逃げ出すべきか逡巡する。だが、ケハカは諦めきれずに訊いた。
「……女の子を知らないか? そうだ、名前はミカって言ってた。ここで話してたんだ。おれと同じように父親がいない子なんだ」
「ケハカ……なぜいまさらあの子の話なんかする?」
男の声に苛立ちが滲む。
「どこにいるんだ。……教えてくれ」
「あの子は死んだよ」
「嘘だ! おれはあの子の声を聞いた。ここで。数日前に……」
男は崩れ落ちるように跪いた。よくよくみれば、そこは建物が焼け落ちる前、いつも彼が祈りを捧げている場所だった。
「わたしは、救えなかった。みなを救いたかったのに。みんな燃えてしまったんだよ。ケハカ……!」
男は首の布を取った。その下の皮膚は赤く焼けただれていた。
「神よ、お許しください。許すことのできない私を……。私はおまえを許せない。許せないんだ」
ケハカは、男の手が燃え残った木材を手にするのを見た。