『Let it be』
「死人に口無し」と人は言うが、はたして本当にそうだろうか。
死者は本当になにも口にしないのか?
人間は死んでしまえばお終いと、そう思っているのは僕達だけで、人が死んだ後どうなるかなんて、きっと誰にも分からない。
だから僕は思うのだ。死人だって、言いたい事を言う権利はあると。
そして、人間には、その言葉を聞く権利があると。
だから――
1.
十月も半ばを過ぎ、夏の残暑も秋風に吹かれて飛んでいってしまった、ある日の朝。僕が何時もの様に惰眠を貪っていると、部屋の扉が乱暴に開いて、涼子が僕の部屋へと入って来た。
彼女は家主の了承も無く部屋に押し入ると、寝ている僕の布団の上に思いっきり拳を叩きつける。
「げぅっ」
潰れた蛙の様な声が、僕の口から漏れた。何の言葉もなくいの一番に暴力とは、最近涼子の奴、僕に対する遠慮が無くなってきている気がする。
「何時まで寝てんの? ほら、起きた起きた。さっさと起きないと遅刻しちゃうよ?」
まるで漫画の幼馴染の様な台詞を口にする涼子は、二件隣の間藤さん家の一人娘で、正真正銘、僕の幼馴染だ。茶色掛かったショートヘアーに整った顔立ち。引き締まっていながらも、女らしさを感じさせる肢体。健康的な魅力を持った十年来の友人は、起き上がる僕を見ながら腰に手をやって息を吐いた。
「はあ……寝不足? また何時もみたいに引きこもって本ばかり読んでたんでしょ」
「そんなんじゃないよ……」
欠伸をして背筋を伸ばすが、いまいち意識が覚醒しない。消えない睡魔に瞼を擦りながら、僕は再び、ベッドに身体を横たえた。
「――ってこらぁあ! 当たり前の様に二度寝しようとすんな! おーきーろー!」
「いたいいたいいたいいたい」
ばすばすばす。布団の上から涼子の拳の雨が降る。実際には大して痛くもないのに、痛いと口にしてしまうのは何故だろう。そんな事を考えながらも、僕は布団に包まり、その攻撃を受け流す。
「ええい往生際の悪い奴め! 君、出席日数ヤバいんだからちゃんとする! どっせぇい!」
年頃の女の子とは思えない様な影声と共に、涼子が勢い良く掛け布団をベッドの下に落とした。僕はといえば、京都の花魁のように回転しながら身ぐるみを剥がされ、ベッドから落ちる。冷たい床は、夏なら心地よかったかもしれないが、この季節じゃあ睡魔を削ぐのにぴったりだった。
無言で顔を上げると、目の前には腕を組んで微笑む幼馴染の姿。彼女は僕の前で仁王立ちをしている。僕は床に這いつくばっている。となると、自然、制服姿の彼女を見上げる事になるわけで。
「…………白」
「――――っ!?」
背中を思いっきり踏みつぶされる。痛い。
「酷くない?」
「どっちがだ!」
言いながら、彼女は僕からそそくさと距離を取る。その瞳は、まるで変質者を見る様な態度で。少しだけ傷付きながらも、僕は動かない右手を無視し、左腕の力で身体を起こし、身体に付いた埃を払う。既に眠気はとれていた。それでもいまいち調子が悪いのは、昨夜もずっと姉さんと話をしていたからだ。
「ようやく起きたか……それじゃあ、さっさと準備してよね。わたし、家の前で待ってるから」
「待っているって、何を?」
「決まってるでしょ。学校。行かないと」
「……………………」
……ああ。そういえば、今日は平日だったな。と、今になって思い返した。ここ最近、日付の感覚がおかしくて、今日が何曜日なのか分からなくなる事が多々ある。
「――止めとく。今日は調子が悪いからね」
「またぁ?」
涼子があからさまに顔を顰めた。彼女とは長い付き合いだけど、ここ最近は、涼子のこんな顔ばかり見ている気がする。その事に幾分心苦しい思いをしながらも、僕はああと首を縦に振る。
「……何度も言うけど。出席日数、本当にヤバいよ? このままじゃ留年しちゃうよ? それでも良いの?」
「さあ……まあ、良いんじゃないかな」
「なんでよ。敬、あの高校に行きたがってたじゃん! どうして今になって、そんな……」
――だって。もう行く理由が無くなってしまったから。そんな事を説明した所で、彼女はきっと、理解してくれないだろう。涼子はこれで、かなり理知的だ。感情論で話を進める事を良しとしない。だから、僕の理由も、涼子には分からない。
「なんでもなにも。そういうこと。だから、行くなら一人で行くと良いよ。ほら、遅刻しそうなんだろ?」
「……………………」
黙する涼子に肩を竦めて踵を返す。これ以上彼女と話をしても、双方にとって徳にならない。時間の無駄だ。
「……また、尊さんの部屋に行くの?」
部屋を出ようとする僕の背中に、涼子の言葉が掛かる。それは確認というよりも、否定して欲しいという願望が込められた、微かな祈りの様で。
「…………うん」
僕は振り向きもせず、涼子の願いを打ち砕くと、何も言わない彼女を背に、部屋を出た。
♪
僕には姉が居る。姉というからには当然僕と同じ家に住んでいて、姉さんの部屋は僕の部屋の隣にある。
姉さんの部屋は窓側を含めた4面全てに本棚が設置されていて、その棚全てを書籍が埋め尽くしている。無茶苦茶な乱読家である彼女の本棚は、そんな彼女の嗜好通りありとあらゆるジャンルの本が詰め込まれている。その数と種類たるや、調べ物がしたければ図書館に行くよりも姉の部屋に行った方が早い程だ。
姉の部屋に入ると、姉さんは部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台に頭を突っ伏して寝ていた。彼女の部屋にはベッドがない為、寝る時は何時もちゃぶ台の横に敷かれたクッションと毛布に包まって寝ている。だから、これは何時も通りだ。
僕は部屋の扉を閉めて姉さんの向かいに腰を下ろす。すると、彼女は僅かにうめき声を上げるとゆっくりと身体を起こした。柔らかく長い黒髪が陶磁の様に白い彼女の顔にかかる。その様は、身内である僕から見ても艶やかだ。睫毛の長い切れ長の瞳が開いて僕を見つめる。
「……やあ。おはよう、敬。……いや、今はこんばんはかな。どっちだい?」
「おはようであってるよ。姉さん」
この部屋は前述のとおり窓側まで本棚が埋め尽くしているので、昼間でも薄暗い。唯一の外との繋がりである扉を除けば、視界をぐるりと埋め尽くす書籍の山は、まるで本の牢獄のようだ。
そして、その牢獄に捕らわれたお姫様。それが御園尊という名の、僕の姉である。腰まで伸ばした絹の様な黒髪に、雪よりも白い肌。睫毛の長い吊り目がちな瞳に整った顔立ち。華奢な身体は儚いというよりも病的で、だが、その不安定さこそが彼女の魅力に思える。
不健康な艶やかさ。理知的で、何処か浮世離れした雰囲気。涼子とは何処までも対称的な印象だ。
「そうか……それじゃあ、おはよう。敬」
言って、姉さんは肩に掛かった髪を手で払う。
「君は、今日もこの部屋で過ごすのかい?」
「駄目かな?」
問うと、姉さんはいいやと首を振って答えた。
「駄目だとは言わないよ。でも、君、今日は平日じゃないのかい? 学校はどうしたの?」
「姉さんの居ない学校なんて、行った所で意味がないよ」
僕が今通っている高校を選んだのは、ひとえに姉さんもそこに通っていたからだ。だから、姉さんがこの部屋から出てこなくなった今、あの高校に行く必要性を感じない。
我ながらどうしようもないシスコンだとは思うが、実際そうなのだから仕方がない。僕の心の半分以上は、姉さんに支配されている。それを嫌だと思った事もない。両親や涼子には気味悪がられているが、そんな瑣事を気にするつもりもない。
「それとも、やっぱり僕がここに居ると邪魔?」
「そんなつもりで言ったのではないよ。……そうだね。私は寂しい人間だから、敬の来てくれる事を喜んでいる。だから、どうして度々来てくれるのかと聞いたのさ」
彼女の台詞に、僕は既知感を感じた。だが、それがなんなのか分からない。恐らくは何かの本の引用なのだろうけど。
「今のは私の尊敬する『先生』の言葉だよ。君だって読んだだろう?」
「ああ……」
どうやら今のは、夏目漱石の『こころ』に出てくる先生の台詞らしい。姉さんが『尊敬する先生』と呼ぶのは、それ以外あり得ない。
姉さんには、書籍の一節を引用して喋る癖がある。でも、僕だって『こころ』は何度も読み返したけれど、そんな台詞の一つ一つまでは記憶していない。改めて、姉さんの凄さに感服しながらも、これこそが姉さんだと胸の内で納得した。
「まあ、君がそれで良いと言うなら、いくらでもここに居るといい。今の私は無気力で、猜疑心に満ちて、役立たずな気分だ。君をわざわざ追い出すような真似はしないよ。それに、さっきも言ったけれど、ここから出られない私としては、君がここに居てくれた方が嬉しい」
くすり。と、妖艶な笑みを浮かべて、姉さんはごろんとクッションに身体を横たえた。そうして、僕が昨日まで読んでいたSF小説に手を付ける。
彼女の服装は昨日と同じ、黒い大きめのシャツが一枚だけだ。裾から覗くほっそりとした両足が酷く扇情的で、実の姉といえども目のやり場に困った僕は、逃げるように立ち上がって近くの本棚へと向かうと、読んだことのない本へと左手を伸ばす。
姉さんの本に手を付けるようになって3年が立つが、僕の読書速度が遅い所為か、姉さんの所蔵量が桁違いな所為か、未だに全体の半分しか読み終えていない。姉さんはここにある本全てに目を通しているのだから、何時か僕も読破しなければいけない。恐らくは、そうして初めて、姉さんをこの部屋から解放することが出来るのだと思う。
「……それまでは、何時だってこの部屋に来るよ」
囚われの姫は、僕の台詞に耳も貸さず、本に目を落としている。
この部屋は、僕が来た時から、何一つ変わっていない。ある意味、完結した世界だ。全ての英知が詰まっている。僕達は少し手を動かすだけで、その一介に触れることが出来る。ここは牢獄でありながら、一方で神さまの住処でもあった。全てを知るが、何もしない。その在り方はまさに全能者のそれだ。
「それは違うよ。敬」
と、僕の思考を遮って、姉さんが口を開く。
「私は神さまなんかじゃない。全てを知るからと言って、何かが出来るわけじゃないんだ。どれだけ知識を得た所で、私自身はこの世で最も無力な人間のまま。だから私達は全能なわけじゃない。単に客観的なだけだよ」
「客観的……?」
「そう。つまるところ――私はこの星で唯一の客観的な人間なのさ」
シニカルな笑みを浮かべる姉さんの姿は、まさしく姉さんそのものだった。
2.
「それじゃあ、死体について考察してみようか」
そういって、僕の親愛なる姉こと御園尊は、黒い髪を掻き上げながらくすりと笑った。
「死体。それは文字通り死人の身体だ。死体とは、『生命活動の停止した身体』の事を差す。生命活動というのはいわゆる、心臓が動いているか否か、脳が活動しているか否かなのだけど、最近じゃあ、この定義は中々難しい。どうしてだと思う? 敬」
姉さんが目を細めて、試す様に僕に問う。どこか蟲惑的な表情に、僕は姉さんから視線を逸らして、小さく答える。
「どうしてって、それは……えっと、脳が死んでいても、身体が生きている事があるから?」
「正解だ」
にっこりと笑顔を浮かべる姉さん。姉さんは、普段は理知的で大人びた雰囲気を持つくせに、笑うと凄く可愛らしい。そういうところも、彼女の魅力なのだろう。
「古来、人間の死とは心臓の停止とイコールだった。心臓が止まってしまえば、脳や全身に血液が行かず、結局全身が死亡してしまうからね。だが、最近では医療機関の発達により、仮に脳の心臓を司る機能が停止しても、人工的に肉体だけを生かしておく技術が生まれた。脳は死んでいるのに身体は生きている。一般的に、この状態を脳死と呼ぶんだが、この定義は意外に難しい」
言いながら、姉さんは右手の人差し指を立てて自分の頭を二、三回軽く小突く。
「脳死というのは、その名の通り脳が死んでいる状態だ。逆を言えば、脳以外の器官は生きている。コレが厄介なんだ。そんな状態の人体を、果たして死体と呼んでいいのか? 呼吸もしている。心臓も動いている。未だ暖かい。ただ、目覚める事がないだけだ。生きている死体……ではなくて、死んでいる生者とでも呼ぼうかな。感覚としてはまさにそれ。だから、脳死患者の身内がそれを死体と判断するのは難しい。だって、目の前のそれは、生きているのだから。故に、日本では臓器移植の場合を除き、脳死を死とは認めていない」
姉さんが、黒いシャツの隙間から伸びる脚を組みかえる。
「人の生死というのはね、本人が判断するものではないんだ。何故なら、判断する時には当人はもう死んでいるのだから。同じ様に、その人が生きているかどうかも、本人が判断するものではない。人間は周囲からの影響に対する反応によってはじめて世界を認識する生き物だからだ。もしもこの世界が何もない、光さえない世界だったら、私達には生死という概念すらなかっただろう。自分が生まれてきた事にすら気付かぬまま死に至る。そんな無意味な世界」
或いは、世界という存在すらなかったかもしれない。なにもないと言う事は、そういう事だから。姉さんはそういって、一度言葉を切る。
「この世界は、人間が居てはじめて世界という意味を成す。それも二人以上の人間だ。何故なら、一人だけの人間ではそれが世界とイコールになってしまう。世界は世界を定義しえない。人間は他者が居て、他者の反応があって、初めて自分のアイデンティティを確立する。生まれてから誰にも話しかけられなかった赤子は、それを確立出来ずに死んでいく。どういうことかわかる? 簡単に言えば、君がここに居るのも、誰か他者が君を観測して初めて存在するということだ。人は主観だけでは存在できない。君の主観は君の世界とイコールだが、それは君の存在を証明するものではない。君は、他の誰かによって『君がここに居る』と定義され、初めてこの世界に存在するんだ。私が、君によって定義されているのと同じように」
他人が居なければ、人は居ないのと同じ事。姉さんはそういった。それじゃあ、姉さんは? ずっとこの牢獄に捕らわれている姉さんを観測しているのは、僕だけだ。
「人間の生死も同じ事だ。君が死んでいようがいまいが、私が死んでいようがいまいが、それを判断するのは周囲の人間だ。だから、脳死は生きていると判断される。死んでいるのに生きている。この矛盾を曖昧なまま置いておいて」
「……でも、それって」
言葉に詰まる。何か、胸に引っ掛かるものがあるが、僕の脳は自動でそれに歯止めを掛けた。それは多分、御園敬が認めてはいけないものだ。
「人の生死は曖昧なモノだよ。敬。死んでいるのに生きている。生きているのに死んでいる。どちらもあり得る。『死体をして自らに語りしめよ』私に言えるのはね、敬。死者は決して沈黙なんてしていないということだ。むしろ、生者よりもよっぽどおしゃべりかもしれない。例えば本。例えば手紙。人が人でなくとも意思を伝える方法は沢山ある。遺書なんてのはその典型だ。当人は既に死亡しているのに、意思だけが文字として残っている。それは、きっと、何よりも他者に死者の想いを伝えるだろう。その死者が沈黙した時。つまり、人の記憶から忘れられた時。その時こそ、死者が死ぬ時なんだろうね」
そこまで語り終えて姉さんは満足したのか、再びクッションへと横になった。この人は、時折こうして他人に満足行くまで語り始める事がある。その内容は大抵ちんぷんかんぷんなのだが、この時の姉さんは大抵、単に自分が語りたいだけで、他人の意見までは求めていない。それでも僕は、姉さんの無意味な哲学を聞くのが好きだったが、今日はこの後用事が入っていたので、時間までに終わって助かった。
「よいしょ」
立ち上がって身体を伸ばす。と、クッションに横たわったまま、姉さんが僕を見上げて問う。
「敬、何処かに行くのかい?」
「ちょっとね。涼子にお願いされて……」
僕は、少しだけ言い淀んだが、結局その続きを口にした。
「雨竜さんの、ところまで」
ぴくりと、姉さんの身体が反応する。
「――へえ、雨竜くんか。それはまた」
羨ましいなぁ。と、理性的な姉さんにしては珍しく本心からの感情に、少しだけ胸が痛んだ。
雨竜さんというのは、姉さんが高校に通っていた頃の部活の友人で――姉さんの、元恋人だ。元。ということは、つまりそういうことで。今では彼と彼女に繋がりは全く無い。
「雨竜くん……か。そういえば、随分と会って居ないね。まあ、今の私じゃ、会える筈もないのだけれど……それで、その雨竜くんがどうして君に? 君と雨竜くんは何時の間にそんなに仲良くなったんだい?」
「僕が仲良くなったんじゃないよ。ただ、一時期雨竜さんが家に良く来てたじゃない? その時、どうも涼子と知り合いになったらしくて……」
「ははぁ。何時までも学校に行こうとしない君の説得を、彼に頼んだということだね。なるほど。確かにその手の口手八丁は、彼の十八番だ」
言って、姉さんは目を細めた。姉さんにとっては懐かしむ相手なのかもしれないが、今から現実で会ってくる僕としては溜まったものじゃない。
「ん? そんなに心配なのかい? 気にしなくても、彼は君に危害を加えたりはしないよ。基本的に優しい人だからね」
それは知っている。だが、僕が心配しているのはそんなことじゃない。雨竜さんは優しい。ひょっとしたら、僕を今の状況から救ってくれるかもしれない。
それが問題なんだ。救われたら、困る。
「Let it be」
と、姉さんは、古臭い唄の名前を口にした。
「成すがままに。ってね。今日も世に事は無し。何事も成るようにしかならないさ。大丈夫。もしも本当にどうしようもなくなったら、きっとマリア様が瞼の裏に出てきてくれるよ」
「……………………」
ケラケラと楽しげに笑う姉さんから踵を返し、僕は部屋の外へと向かった。残念ながら、僕のマリア様はいまいち役立ちそうにない。
♪
雨竜さんに呼び出されたのは、家の近くにある喫茶店だった。服を着替えて店に入ると、窓際の禁煙席に座っていた雨竜さんが手を上げて僕を呼ぶ。僕が彼の近くまでよると、彼は僕ににこやかな笑みを浮かべて着席を促した。
「こんにちは。敬くん。久しぶりだね」
「…………どうも」
椅子に座りながら、無愛想に答えると、彼は形の良い眉を顰めて困った様に苦笑する。雨竜さんは、柔らかい黒髪と端正な顔立ちを持つ美青年で、今は最寄りの大学に通っている、僕よりも四つ年上のお兄さんだ。高校在学中に姉さんと知り合って、当時小学生だった僕から見ても、まさに美男美女といった感じのお似合いのカップルだった。だが、それももう破局している。今ではしっかり無関係な筈なのに、何故か僕だけはこうして彼と会う機会がある。
正直言って、雨竜さんの事は苦手だ。彼の人を喰ったような雰囲気や、全てを見透かすような瞳を見ていると、自分ですら気が付いていない真実を暴かれる様な気がして、落ち着かなくなる。性別こそ違えど、彼は姉さんに酷似していた。
「それで、話ってなんですか?」
「性急だね。それよりも何か頼まない? 丁度昼食時だ。奢ってあげるよ?」
「要りません。そんなに長居するつもりはありませんから」
「それは残念。実は、君が来たら一緒に頼もうと待っていたから、お腹が減っているんだけど」
「……………………」
頭を抱える。この人のこういう所が、僕は苦手だ。右腕が酷く痛む。結局、雨竜さんと同じ、紅茶とサンドイッチを頼むことにした。
「ま、とりあえず元気そうでなによりだよ。涼子ちゃんが随分と心配していたからさ。もう少し酷い事になっていると思ったけれど」
「酷い事って、なんですか」
涼子の事を親しげに話す雨竜さんを見ていると、落ち着かなくなる。姉さんが雨竜さんを紹介した時と同じ気分だ。あまりにもムシャクシャするので、左手で頼んだサンドイッチに思いっきりパクついていると、彼は口元に手をやって含み笑いを溢す。
「……なんですか」
「いいや。なんだ、案外希望はあるじゃないかと思ってね。予想していたよりも絶望的ではなかったから、嬉しくなっただけだよ」
……良く意味が分からなかった。姉もそうだが、彼は何時も遠まわしな表現を多用する。姉さんはともかく、雨竜さんの話なんて長々と聞く気はない。さっさと切り上げる為に僕が続きを促すと、雨竜さんはそうだねと頷いてコーヒーを啜る。
「せっかちなんだな、君は。それじゃあ本題に入るけど、敬君、君、学校に行ってないんだって?」
「…………」
来たか。予想通りの質問に、僕は一度息を吐いた。涼子が、僕の事で雨竜さんに相談する理由なんて、他にない。
「行ってませんけど、なにか?」
「駄目だよ。学校はちゃんと行かないと。将来の為に」
彼は、きっと彼も信じていない様な一般論を口にする。
「まあ、それは置いておいても。学校にはいっておいた方が良い。為になるかは別として、保険にはなるからね。それで、君はどうして、学校に行かないんだい?」
「そんなの決まってるじゃないですか。もうあの学校に姉さんは居ない。だったら、学校に行く必要なんてない。姉さんは今だってあの部屋に居る。だから僕も、姉さんの部屋に居る。それだけの事です」
「……………………」
雨竜さんが苦笑を洩らしながら、コーヒーカップへと角砂糖を入れていく。
「なるほど。相変わらずのシスコンぶりだね。逆に安心したよ。うんうん。実に君らしい理由で何よりだ」
「……非難しないんですか?」
「別に。僕は涼子ちゃんと違ってロマンチストだからね。まあ、そういうこともあるだろうさ。……それに、御園先輩の事は、僕にも責任があるし」
言いながら視線を逸らす雨竜さんの表情は、何処か儚げで。彼にしては珍しく、悔やんでいるような、そんな顔だった。
「……失礼。僕の事は関係無かったね。今は君の話だった。それで、君は学校に行かず、御園先輩の部屋に入り浸っていると」
「はい」
「それで、御園先輩と一日中話をしていると。涼子ちゃんから聞いたけど」
「はい」
「なるほど……二度と御園先輩に会えない僕としては、羨ましい限りだよ。……でも、なるほどね。これは少し、骨が折れるかもしれないな」
はぁ。と息を吐いて、雨竜さんは砂糖を入れたコーヒーを啜る。
「話しは終わりですか? それじゃあ、僕はもう帰りたいのですが」
「ん? ああ、良いよ。ここで話をしていても何の解決にもならないと分かったし。時間を取らせてごめんね」
なら、未だここに留まっている理由はない。僕は自分の前に置かれたコーヒーを一気飲みして、席を立った。そのまま踵を返して店の出口へと向かうと、ふと、思い出したように、雨竜さんが口を開く。
「そういえば。君は、ちゃんと理解しているのかな?」
「何をですか?」
「御園先輩が、とっくに死んでいる事を」
――何かと思えば。それは、酷く下らない、当たり前の問い掛けだった。
「ええ。姉さんは3年前に死にました。それが何か?」
「……いいや。一応、確認しておきたかっただけなんだ。悪かったね。引きとめて。それと、ポストなら向こうの路地にあるよ」
「……………………」
ひらひらと手を振る雨竜さんから視線を逸らし、僕は、姉さんの待つ部屋へと帰路に付いた。
3.
3年前、姉が死んだ。当時の僕は14歳の中学2年生で、当時の姉は20歳引きこもりだった。理知的で、何処か浮世離れした姉は、その雰囲気のとおり孤高で、その印象のとおり孤独だった。聡明であるが故に社会から爪弾きにされた彼女は、何時だって独りで生きてきて、そして最後まで孤独のまま、自ら命を経った。
今思えば、それは酷く彼女らしい終わり方だったように思う。だけど、僕はそれを認めることが出来ず、姉が死んだ後、彼女の痕跡を狂った様に求め続けた。姉の部屋に入り浸り、本を読むようになったのもその一環だ。今の高校に入ったのも、昔姉が通っていた高校だからという、ただその一点だけである。姉は在校中、文芸部に属していた様だから、僕もそこに入部しようと思ったのだけど、残念ながら、文芸部はとっくに無くなっていた。
この3年の間、僕は姉さんの事ばかり考えていた。それは本当に、365日、24時間ずっと。彼女の趣味は読書と、自分の哲学を他人に論じることだ。当時の僕にはちんぷんかんぷんだったけれど、彼女の蔵書を一冊読むごとに、その内容を理解する事が出来た。
一冊読むごとに、彼女が何を考えて生きていたのか、分かるような気がした。
一冊読むごとに、彼女が近づいてくる気がした。
その内、一つの状況に対して、彼女が何を考え、何を感じ、どのように行動するのか、自然と想像できるようになっていた。
ようやく本棚の内の一片を読破した頃だろうか。気付けば、僕の目の前には姉さんが居た。姉さんは生前と同じ姿で、生前と同じ様に本を読み、生前と同じ様に言葉を語る。それが唯の妄想、幻覚だということくらい、僕だって理解していたが、それでも、目の前に居る彼女は、確かに姉さんだった。姉さんも言っていた事だ。人の存在を証明するには、他者が定義しなければならない。僕は彼女を、生きていると定義した。その時から、彼女は『死んでいるのに生きている』という曖昧な存在としてここにいる。
彼女が明確な形をもって存在できるのは、この部屋の中だけだ。それは多分、僕の中では姉がこの部屋に居た時のイメージが強いからだろう。他の場所に居る時でも、彼女の反応を想像する事は出来るが、それはやはり想像の域を出ない。ここに居る彼女は、僕とは違う思考を持って存在する人格だ。ある種の二重人格に近い。だが、どうしても彼女をこの部屋の外に連れ出す事が出来ない。彼女は彼女であるが故に、彼女が居ても不自然でない所にしか存在出来ないのだろう。
だが、それも今だけだ。いずれ、この部屋の蔵書を全て読み切れば、僕の中の彼女は完成する。その時こそ、僕は姉さんを、この牢獄から外に連れ出す事が出来るだろう。
♪
「――――――――」
目が覚める。気分は悪い。どうしてだろうと思考して、恐らくは昨日、雨竜さんに出会ったりしたからだろうと思い立つ。両親や涼子など、僕の現状を非難する人は他にも居るが、僕を不快にさせる人は彼意外に居ない。重い頭を振って意識を覚醒させる。このまま二度寝しても良いが、今の心境では悪い夢を見そうだった。見れば、時間は普段の起床時間よりも10分ほど早い。今の内に姉さんの部屋に逃げておくのも良いだろう。さもなくば……。
「おーい……って珍しくもう起きてるじゃん。良きかな良きかな。ようやく学校行く気になったかな?」
「……………………」
こうして、甲斐甲斐しく起こしてくれる、親愛なる幼馴染様がやってきてしまうわけで。折角の気力を初っ端に折られた無力感を感じつつ、僕は息を吐いた。
「……涼子、君も飽きないね」
「飽きるも何も。習慣だし」
えへん。と腰に手をやって胸を張る涼子に、肩を落として視線を逸らす。
「あのさ。今日は本当に気分が悪いんだ。だから僕の事は放っておいてくれる?」
「それって、普段は対して気分が悪くないって言ってるようなもんだよね。……というか、調子が悪いっていうなら尚更放っておけないよ。どうかしたの?」
「いいや別に。悪いのは気分であって、調子ではないよ。……大体、君がそれを言うかな」
「え、あたし?」
涼子が首を傾げる。どうやら、本当に心辺りがないらしい。僕としては、今の気分の半分は彼女の所為であるので、その辺は是非とも認識して欲しいのだけど。
「昨日。雨竜さん」
説明するのもうんざりなので、片言でキーワードだけ並べると、彼女はああと得心したように手を叩く。
「雨竜さんの呼びだし、ちゃんと行ってくれたんだ。無視されたらどうしようかと思っちゃった」
「そうしたら、あの人の事だから家まで乗り込んでくるだろうし」
それは、困る。個人的にも、あの男を二度とこの家に上げたくない。だから渋々会いに行ったわけだけど、やはり無視しておけばよかったとつくづく思う。
「そっか。でも、やっぱり敬は変わらないんだね」
「それはそうさ。僕は僕だからね。ほら、早く学校に行かないと遅刻するだろ? 僕の事は放っておいてさ、君は高校に行くといい」
ひらひらと手を振って、彼女を部屋の外へと追い出そうとする。だけど、涼子は顔を伏せると、ぼそりと呟く。
「……もう、あたしも学校を休んじゃおうかな」
「…………何言ってるんだ」
思わぬ言葉に、僕は一瞬だけ、どう対応して良いのか分からなくなった。
「だって、敬が行かないなら、あたしだって行っても意味無いもん」
「馬鹿。そんな事で学校行かないでどうするんだ。ちゃんと行けよ」
胸の内に動揺を抱えたまま言い返すと、顔を上げた涼子が、真剣な眼差しを僕に向けて、言う。
「あのさ、敬。今あたしが言った言葉、敬がやってる事と同じだって、気付いてる?」
「――――それは」
言葉に、詰まった。何も言えなくなる僕を見つめながら、涼子は更に言葉を続ける。
「敬さ……本当は分かってるんでしょ? 今のままじゃ駄目だって。でも、それを認められないから、敬はずっと逃げてるんだ……」
「なにを……」
「尊さんは、もう死んだんだよ……っ!?」
涼子の声は、驚くほど大きかった。
「分かってる。敬がずっと、尊さんの後を追ってきたってことぐらい……でも、……このままじゃ、敬まで、尊さんみたいに、自殺しちゃいそうで……そんなの、あたし嫌だよ……敬を失いたくないよ……ねえ、敬……これ以上、向こうに行かないでよ……」
「……………………」
「…………ねえ、敬」
「……姉さんの部屋に、行ってくる」
――その時の彼女の顔を、僕は忘れたくても忘れられないだろう。
右手が、酷く痛む。僕は、涼子の顔を見ないようにしながら、立ち尽くす彼女の横を通り過ぎて、部屋を出た。
♪
「おはよう。敬」
「おはよう姉さん」
左手で扉を開くと、何時もの通り机に座った姉さんが本を読んでいた。彼女が読んでいる本は、僕が昨日読んでいたものだ。基本的に姉さんは、僕が読んだことのある本しか読めない。未読の本は僕の知識に無いので、当然と言えば当然だ。僕は無言で彼女の向かいに座る。本を読むべきなのだろうが、今は何となくそんな気分じゃなかった。と、彼女は僕の心境を察したのか、開いた本に口元を隠して、くすりと笑う。
「大きな声だったね。この部屋まで聞こえてきたよ」
……実際には、彼女はこの部屋に居るわけじゃない。彼女は僕の記憶から、彼女が取っても不自然じゃない態度を取っているだけだ。だが、僕はそれに気付かないふりをしながら、彼女と話す。
「……どうして涼子は、あんなにも僕の事を気にするんだろう」
「それを、よりにもよって私に聞くかい?」
けらけらけら。笑う姉さんは、とても楽しげだ。
「……だって、本当に分からないんだ」
「そうかい。まあ、君は私に似ているからね。仕方がないと言えば仕方がないか」
姉さんは一度言葉を切ると、視線を遠くへと向ける。
「彼女は心配なのだろうさ。君と言う存在が、何処かに行ってしまうのじゃないかと。かつて私であったモノ。私の元になった御園尊という少女は、自ら命を経った。そして君は今、その妄念に取り憑かれている。彼女からしてみれば、私は君を惑わす悪霊に他ならない。事実、君は私が存在することで、社会的幸福を手放してしまった。敬、人間関係というのはね、一生懸命頑張るモノなんだ。だけど君はそれを手放して、妄想の世界に入り込もうとしている」
「……………………」
「私としては、君が本当に全てを捨ててしまえるなら、こちら側に来ても構わないと思っている。歓迎はしないけれど、止めたりもしない。私にそんな資格はないだろうから。……でもね、敬。ここにいる私と、あそこに居る彼女。君が大切なのは一体どちらなんだい?」
――不意に、それまで明確だった姉さんの姿が、薄く歪んで見えた。幻覚だと言いきるのは簡単だ。だが、彼女に対してそれを言うのは、そのまま彼女の存在を否定する事になる。彼女の姿が歪んで見えるという事は、僕の中の彼女の像が、歪んでいると言う事で……。その事を考えたら、右手が、ズキリと傷んだ。
「……答えられないか。まあ、良いさ。こういうのは、いつもあまりにむずかしく、あまりにつかみどころがないからね」
ふっと息を吐いて、姉さんが僕から視線を逸らす。途端、歪んでいた彼女の像が、再び元に戻った。
「ねえ、敬。私は、寂しい人間だよ」
そして、呟く。
「私は誰にも求められない人間。この世に生きていてはいけない人間だ。だから、御園尊は自ら命を経った。……でもね、敬。君は、多分違う。他人に求められる人間は、自分勝手に死んではいけないんだ。それは残された人間を悲しませる事になるから」
「……止めてよ」
「ねえ、敬。君は涼子ちゃんの事を大切に思っている筈だ。だからあの時、君は彼女の言葉を否定した。それは大切なことだよ。誰かを求めると言う事は、君には未だ、そちらに未練があるということだ。敬。君が本当に大切なのは、私じゃなくて、涼子ちゃんなんじゃないのかな」
「止めてったら……!」
姉さんは、止めてくれない。彼女は僕の妄想だが、彼女は御園尊だ。生前の姉さんそのままの虚像であって、僕が望む理想像ではない。だから、僕の言う事を全て聞いてくれるわけではない。
「だったら、君はこの牢獄から出ていくべきだ。私を置いて。君が生きるべきはここじゃない。君は外の世界、ちゃんとした現実で、流れゆく時の中で死に向かうのが正しいと、私は思う」
「僕は……姉さんを見捨てないよ」
「……その言葉が本心なら、私も嬉しいんだけどね」
はっと、苦笑を洩らし、姉さんは軽く肩を竦めた。
「……私は、寂しい人間だよ」
そうして再び、同じ言葉を、口癖の様に繰り替えす。
「君は私の事が大切なんじゃない。辛い現実から逃げたいだけなんだろう。でも、私にはそれを止める術がない。我ながら、こんなにも無力で役立たずな気分になるのは久しぶりだ。……まあ、私に出来る事なんてこの世にありはしないか。成すがままに。その内誰かが解決してくれるさ」
「誰かって、誰だよ」
「決まっているだろう? 囚われのヒロインを開放して、物語を終わらせるのは、他ならぬヒーローの役目だよ」
そこまで言って彼女は言葉を切ると、その場にごろんと横たわった。
「私は寝るよ。そこに居ても良いけれど、起こしたりはしないでくれ。……まあ、少し一人で冷静に考えてみることだ。君が本当に大切なものは何かを」
一瞬、視界が揺らいだかと思えば、あっという間に、視界から姉さんの姿が消えていた。暗く静かな、本に囲まれた牢獄に、僕だけが残される。
……いや、違う。初めから、この部屋には僕一人しか居なかったんだ。僕はずっとこの部屋で一人思考を巡らしていただけなんだ。
――なら、この牢獄に囚われているのは、本当は誰なのだろう?
「……………………」
身体を後ろに倒す。板の間は冷たい。窓の開かないこの部屋は、少し埃っぽくて、紙の匂いがした。
4.
3年前、姉が死んだ。それ以来僕の現実は、酷く歪んだものになってしまった。
現実と虚構の区別が付かない。妄想が酷くリアルに見えてしまう。何処か薄っぺらい、映画の様な現実。
僕が一番怖かったのは、姉が死んだ事では無くて、死んでしまった姉が、現実から消えていく事だった。皆が、姉の死を乗り越えていく。姉が死んだ事を当たり前の様に対処していく。元々、引きこもりがちで友人も少なかった姉さんの死が、『過去のモノ』として扱われるようになるのは、酷く早かった。それが、僕は嫌だったんだ。
「だから君は、御園尊を作りだした。君の中の思い出と記憶を元に、生前の彼女を模倣した虚像を、現実に投影した」
そうして生まれた姉さんは、まさしく、生きていた頃の彼女そのものだった。
「君はそれを歓喜して、益々妄想の世界に逃げるようになってしまった」
僕の現実は涼子が居る世界では無く、姉のいるこの部屋の中になった。この部屋には、全てがあった。少し指を動かすだけで、世界の英知を知れた。まるで、全能の神にでもなった様な気分で。だから僕には、外の現実なんて要らなかった。
「それは違うよ。敬。私達は全能の神なんかじゃない。単に客観的なだけだ。むしろ、私達は世界で一番無力な人間だ」
……それでも良かった。日々摩耗していく現実を見せつけられるよりは。なにも変わらない世界で永遠を過ごす方が良い。この世界は、僕が望む限り何も変わらない。姉さんだって、現実の姉さんと違い、歳も取らない。何時までもこの姿で居られるのだから。
「……それは、永遠じゃなくて滞留だよ。死者が変わらないのは当たり前の事だ。死人に未来は無い。だから死者は何時までも同じ姿で存在し続ける。だけどそれも永遠じゃない。生者に忘れ去られた時、その時こそ、死者が本当に死ぬ時だ」
だけど、僕は忘れない。僕は僕が死ぬまで、姉さんの事を見続けている。
「それは無理だよ。敬。現実は日々流動する。君がどれだけ留まる事を望んでも、君が生きている限り、先に進むしかないんだ。成すがままに。過去を置いて、先へと進む」
…………それでも、僕は、変わりゆく現実なんて欲しくない。永遠に過去の思い出に浸って居たい。
「……やれやれ。強情だね。君は」
はぁ。と、誰かは息を吐いた。
「さっきも言ったけれど、無駄な足掻きというものだよ。既に賽は投げられた。彼が私の記憶通りの人間なら、君を放っておく筈がないからね。……覚悟するなら、今の内だと思うけど。君は、それを拒むのか」
……………………。
「……仕方がないね。何も出来ないし何もしない。それが、私の在り方だから。だから私は、君の邪魔もしないけれど……君を救うことだって、出来ない。私は最後まで、私で居るしかない。でも、一つだけ言わせてもらうとね?」
…………?
「この世界は、御園尊にとって酷く生き辛いものだったけれど――それでも、最低と言いきるほど、悪いものでもなかったんだ」
……………………。
「そんな事、君だって気付いているんだろうけどね。だって、私は君だから。君が認められないだけで、私の考えは、そのまま君の考えなのだから。……そろそろ時間かな。さぁ、敬。おはようの時間だ。これ以上夢に留まっていると、遅刻してしまうからね――」
♪
――目が醒めてまず気付いたのは、部屋が真っ暗だということだった。
次に驚いたのは、背中が痛いということで、自分が寝ているのが板の間だと理解すると同時、この場所が姉さんの部屋だと理解する。
「――――――――」
……ああ、そうか。あのまま寝ちゃっていたのか。
身体を起こすと、姉さんは僕の目の前に居て、手に持った本から目を上げて僕を見つめた。
「やあ、おはよう敬」
「…………うん。おはよう。今、何時?」
「それを私に聞くのかい?」
そう言って、姉さんは何処か寂しげに笑った。……それもそうだと思案して、僕は自分の携帯を開く。時刻は十七時を回った所で、恐ろしい事に、僕はこの日中の殆どを寝て過ごしてしまったらしい。
「……そんなこともあるか」
どの道、時間なんて殆ど気にしない様な生活をしている人間だ。昼夜が逆転した所で、何の問題もない。そんな自分に自嘲気味な笑みを浮かべながら、ふと、先程まで見ていた夢の事を思い出した。
「ねえ、姉さん。今…………」
「ん、なんだい?」
もしも、今の夢について、姉さんに聞いたとして。彼女はどう答えるのだろう? 彼女が姉さんなら、きっと知らないと答える。確かに姉さんは浮世離れしていたが、流石にそこまで人間離れした事は出来なかった筈だ。だが、夢に出てきた姉さんは、間違い無く彼女だ。何故なら彼女は、僕の脳内に居座る存在なのだから。どちらを答えても嘘になる。なら、真実はどれだろう? それとも、真実なんてここには存在しないのだろうか。
……変な夢を見た所為で、思考が不味い方向に向かっている。これ以上の思索は危険だ。真実の探求は、時に悪いものを引き寄せる。
「……なんでもない。少し、悪夢を見ただけだよ」
「そうかい」
姉さんは、曖昧な笑みを浮かべて、再び本へと目を落とした。彼女はきっと、僕の問い掛けも、それに対する答えも知っている。その上で、こんな態度を取っているのだろう。普段なら、その態度の姉さんらしさに安心するのに、今はどうしてか、凄く不安だった。それもやっぱり、あの夢の所為だろうか。
「…………と」
急に僕のポケットが震えだす。左手を突っ込んでみると、携帯が光っていた。最近では、僕に電話を掛けてくる人も殆ど居なくなってしまったので、かなり珍しい事だ。待ち受け画面を開くと、案の定というべきか、涼子の名前が表示されていた。僕は一度、視線を姉さんの方へと向ける。
「…………」
「ん? ああ。私の事は気にしないで良いよ。どうぞ」
だそうなので、僕は通話ボタンを押して、携帯を耳に押しあてた。電話特有のくぐもった音の向こうで、聞き慣れた声がする。
『……もしもし。敬?』
「僕の携帯に掛けて、僕じゃない人が出たら、それは一大事だね」
『今どこに居るの?』
僕のちょっとした冗談は、彼女には通じなかった模様。小さく息を吐いて、僕は答える。
「……何時も通り。姉さんの部屋だよ」
『そう。……ねえ、敬。今から会えない?』
「どうして」
僕の問い掛けに、彼女は黙る。そして、僅かな沈黙の後、口を開いた。
『あたし……決めたんだ』
決意の籠った口調で、彼女は言葉を続ける。
『本当は、敬が自分でそれに気付くべきだと思ってた。でも、敬は何時までも、過去にしがみついている。このままじゃ、敬はきっと死んじゃう……だから、あたしは決めた。無理やりにでも、敬をそこから引っ張り出すって。敬を捕えてるものを引きちぎってでも、君を助けて見せるって』
「おい、涼子、何を……」
『敬……あたし、もしかしたら敬に酷い事をするかもしれない。……ううん。多分、敬はあたしを恨むと思う。でも、でもね。それでもあたしは――」
涼子の台詞の途中で、不意に音が途切れる。まるで、誰かに妨害されたかのように――
「涼子? 涼子……!? おい、どうした……!」
『……っと。こんにちは。敬くん。涼子ちゃんから聞いた感じだと、随分まいっていると思っていたんだけど。随分と元気だね』
思わず荒げた僕の声に答えたのは、涼子ではなく、忌々しい、あの男の声だった。
「…………雨竜、さん」
『うん。僕だよ』
「……どうして。どうして、貴方が涼子の電話に出るんですか」
右手が、傷む。雨竜さんに会った時から、ずっとズキズキと痛み続けている。
『そりゃあ、僕が涼子ちゃんの近くにいて、涼子ちゃんの電話を使っているからじゃないかな』
「そういう事じゃなくてですね……!」
……駄目だ、落ち着け。飄々とした、掴みどころのない態度。相手の調子を崩す会話の仕方こそ、彼の恐ろしい所だ。
「……すいませんが、僕は貴方と話しをする気はありません。涼子と変わってくれませんか」
『つれないね。その涼子ちゃんの頼みで、僕はここに居るっていうのに』
涼子の、頼み……?
「よく分かりませんが、僕は貴方と会話する気はありません。何か話しがあるというなら、涼子に変わってください」
『それは出来ない。何故なら僕は君と話をしたいんじゃない。会いに来たんだから』
――なん、だって?
『さて問題。僕達が今、何処に居ると思う?』
「…………っ!!」
雨竜さんの言いたい事を、即座に理解する。
『――今から君を救いに行く。君が嫌だと言っても、僕は君をその部屋から連れ出してみせる。涼子ちゃんに頼まれたから、だけじゃない。そこに居るであろう『彼女』を開放する為に。じゃあ、今から行くよ。待っていてね』
ぷつっという音と共に、電話が切れた。僕は咄嗟に立ち上がり、扉の方へと向かう。この部屋には、僕の部屋には無い鍵が付いている。姉さんが未だ思春期の少女だった頃、親がプライバシーにと付けたものだ。僕は、その鍵を掛けた。
「……………………」
これで大丈夫。これで雨竜さんはこの部屋に入ってこられない。これで誰も、この部屋に入ってくる事は出来ない。僕はまだ、この部屋に居る事が出来る。この部屋で永遠を手に入れることが出来る――!
「――ようやく来たか」
「――――え?」
暗い部屋の中、長い髪をたなびかせ、姉さんがゆっくりと立ち上がる。
「姉――さん――?」
「……やれやれ。これじゃあまるで、ヒーローというよりヒールだ。だけどまあ、少し遅れはしたけれど、概ねハッピーエンドというところか。うん。流石、私の選んだ男の子だ」
彼女は、僕の言葉に答えず、独り言を呟いた。
「ね、姉さん……!」
「……ねえ、敬。君は、本当に私を必要としていたわけじゃないのさ。君は少し、勘違いをしただけなんだ」
「勘……違い……?」
「そう。君が、何時も右手に握っている、その封筒。多分、君自身も気づいていないであろうその手紙。……僕が雨竜くんに当てた、一枚の手紙。それが、雨竜くんではなく誤って君に渡ってしまった。それが、全ての過ちの始まりだった」
「……………………」
その時、初めて僕は、自分の右手を意識する。そこには、黄ばんでしおれた、一枚の可愛らしい封筒が握られていた。
「これ……は……」
これは……なんだ……? 僕はコレを、ずっと握っていた? そんな、嘘だ。だって、そんな記憶は、まったくない。
「それはね。敬。生前の御園尊が、雨竜くんに当てて綴った最後の手紙だ。言ってしまえば、遺書みたいなものかな。冒頭はこうだ。『この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世には居ないでしょう。とくに死んでいるでしょう』……本当は結末に書くべきなのだろうけど、こちらの方がインパクトがあると、御園尊は思ったのだろうね」
そうして、彼女は僕も知らない筈の真実を、語りだす。
「本来、雨竜くんに渡る筈だったその手紙は、しかし御園尊の死後の遺品整理の中で、他の物に紛れて紛失してしまった。そして、本来の送り主に届かなかった手紙は、何の因果か、現実からの逃避を求める、一人の少年の手に渡った。それが、数ヶ月前――つまり、私が生まれた時のことだ」
「な……でも、なんで、そんな……」
「遺書というのは、一つの思考だ。生前の誰彼の想いが、普通の手紙とは比較にならない密度で詰まっている。御園尊の意思に触れた君は、君の記憶から私という存在を構築した。不都合な事は脳から消して。現実から逃げる為のファクターとして。……でも、君にとって御園尊という存在は、随分と神聖なモノだったらしいね。例え本人である君に不都合な思考だとしても、それが御園尊の意思である限り、私にフィードバックされる。……本当に、なんて皮肉だ。現実から逃げる為に存在する私が、結局、君の幻想をぶち壊す存在となるなんて」
どたどたと、部屋の外で音がする。だが、僕はそれに目を向ける事も出来ず、ただ、目の前の姉さんを、見つめていた。
「ねえ、敬。この世界は、御園尊にとって酷く生き辛いものだったけれど。それでも、最低と言いきるほど、悪いものでもなかったんだ」
「――――――――」
――がちゃりと、何かが開く音がする。
「それが、私の最後の意思。私でもそう思えたんだ。だから、きっと君も、何時かそう思える日が来る。時間は流れるものだから、成すがままに、身を任せてごらん」
背後から、光が溢れていく。とんっと足を鳴らして、跳ねる様に、姉さんが駆けだした。
「ね――――っ」
咄嗟に掴もうと手を伸ばす。だけど、彼女の身体は、僕の手を擦り抜けて、光へと向かい走っていく。
「まっ――――」
振り返る。開く扉。そこに立つ黒髪の青年。幻の少女は、待ちかまえていた誰彼の胸に飛び込む様に駆けていき――
――遅刻し過ぎだよ。私の、ヒーロー。
「――――――――」
――そして、消えた。目の前から、だけじゃない。僕の頭の中からも、完全に彼女の姿が消えてしまった。
力の抜けた僕の手から、一枚の薄汚れた封筒が落ちる。扉の前に立つ雨竜さんは、無言で僕に近づいてくると、落ちた封筒を拾い、中身を取り出す。彼が無言で手紙を熟読している間、僕は膝から崩れ落ち、彼を見上げていた。
……僕の、姉さんが、消えてしまった。永遠が、終わる筈の無い夢が、終わってしまった。じゃあ、僕はこれからどうすればいいんだ? どうやって、生きていけばいいんだ?
「……コレ、君が持っていてくれたんだね。ありがとう。この手紙が無かったら、僕はこれからも、後悔に苛まれ続けていた事だろう」
「ありがとう……だって?」
手紙を読み終えた雨竜さんが、僕にそんなことを言った。だけど、僕はその言葉の意味が分からない。
「何が……何がありがとうだよっ!! 消えた! 消えたんだ! 姉さんが消えたんだぞ!? あんたの、あんたの所為で……っ!!」
……分かっていた事だった。社会から孤立し、孤独だった姉さんを、唯一理解していたのは、雨竜さんだった。籠りがちだった姉さんを外の世界に連れ出したのは、雨竜さんだ。だから雨竜さんが現れれば、彼女は僕の前から消えてしまう。姉さんと同じ存在である彼女だからこそ、彼女が本当に求めたのは、僕ではなくて、雨竜さんだったんだ。
そんなこと、分かっていた。……でも、それでも僕は、僕には、彼女しか居なかったのに……。
「それは違うよ。敬。君が求めていたのは、先輩じゃない。君はただ、現実が怖かっただけだ。変わっていく現実が怖くて、変わらない幻想に逃げていただけだ。……でもね、敬。世界は移り変わるものなんだ。留まりゆくのは死者だけの特権だよ。人は変わる。世界も、関係も、何もかも時と共に変わっていく。僕達はこの世界に生きる限り、それを受諾して、生きていくしかない。」
……それは、何時だったか、何処かで聞いた言葉と、同じで。だけど……。
「……でも、僕は怖いんだ。そんな世界の中で一人っきりなんて、堪えられない。何時か全てに置いてけぼりにされて、死んでしまう」
かつて、誰にも関われず、一人死を選んだ、彼女の様に。
「そんなのは……怖いんだ」
「……やれやれ。未だそんな事を言っているのかい」
だが、雨竜さんは、呆れた様に頭を振って、肩を竦めた。
「君、どうして僕がここに居るのか、忘れたのかい? 誰が君を救おうとしていたのか、忘れたのかい――?」
「――――え」
顔を上げる。僕の前に立つ雨竜さん。その後ろ、逆光になっていてよく見えないが、誰かが部屋の前に立っていた。そのシルエットは、何処か懐かしくて――
「涼――子――」
「敬。ゴメン……でも、あたし、本当に――」
――立ち上がる。心の中で、鉄が砕ける音がする。
「う――きゃっ!? ちょ、け、敬……?」
気が付けば。僕は、彼女の身体を、抱きしめていた。
「け、敬…………?」
「涼子……ごめん。本当に、ごめん――っ!」
「……普通、こういうの逆じゃない?」
苦笑を洩らしながら、彼女は僕の身体に手を回す。
ぽんぽん。と、彼女の手が、僕の背中を軽く叩く。
本の牢獄を脱して、ようやく手に入れた現実は、暖くて、甘い匂いがした。
エピローグ
――とある日の休日。
何時も通りの惰眠を謳歌していた僕は、唐突に雨竜さんに呼び出され、何時かの喫茶店へと向かう事になった。店に付くと、前と同じ窓際の禁煙席に雨竜さんの姿を見つけ、僕は無言で彼の向かいに座る。
「やあ。敬くん。久しぶりだね」
「…………どうも」
にこやかな笑みを浮かべる雨竜さんに、無愛想な挨拶を返す。一応、和解したとはいえ、やっぱり彼の態度は苦手だ。
「……それで、話ってなんですか?」
「相変わらず性急だね。先に何か頼もうよ」
「……じゃあ、雨竜さんと同じもので」
おっけーと軽く答えて、雨竜さんは以前と同じ、サンドイッチとコーヒーを頼む。それらが届くまでの間、しばらく雑談に興じた後、雨竜さんは、ようやく本題を切りだした。
「そういや高校、辞めたんだってね」
「また直球ですね……」
「こんなこと、遠まわしに言っても仕方がないじゃないか」そう雨竜さんに答えられて、それもそうかと納得する。
「……はい。辞めて、定時制の高校に行くことにしました。もう、出席日数も随分足りてませんしね」
僕が姉さんとの妄想ライフで悦に入っている間に、世間の時間は進み、何時の間にやら留年確定なのだった。涼子は最後まで反対したが、元々『姉さんが通っていた』という以外には通う理由もない学校だ。そこに拘る必要も無くなった以上、あの学校に未練は無かったりする。
「反対します?」
「まさか。今の君は前向きだからね。反対する理由もない。死ぬためじゃなくて生きる為の選択なら、僕に文句なんてないさ」
そう言って、彼は一度コーヒーを啜り、カップを置くと窓の外へと目を向けた。
「……正直言って、僕はずっと後悔していたんだ。先輩が自殺したのは僕の所為なんじゃないかって、ずっと思っていた。……それも、君が見せてくれた手紙のお陰で、少しは報われたけれど。でも、僕がしっかりしていれば、先輩は今でもこの世界に居たんじゃないかって。この痛みは、多分、僕が死ぬまで抱え続けるものだと思う。時間の流れで薄まる事はあっても、絶対に消える事は無い。僕は永遠に先輩の事を悔みながら生きていくのだと思っている。……だから、僕は涼子ちゃんに協力したんだ。彼女には、僕と同じ気持ちにはなって欲しくなかったからね」
雨竜さんは、ポケットから幾らかのお札を取り出して、机の上に置く。彼はそのまま席を立つと、僕の方へと目を向けて、ふっと悲しげに微笑む。
「僕の物語はバッドエンドだったけれど、君の物語は、ここから始まる。君の人生が、なるべく良い終わりを迎えられるよう、僕は祈っているよ」
そう言い残して――救えなかったヒーローは、僕の前から去っていった。僕は、何も言えず、彼の背中を見送るだけだった。
「……………………」
机の上に置かれたお金は、会計分にしてはどう見ても余り気味で。その不可解さに首を傾げながら窓の外を見ていると、見なれた影を見つけて、その思惑を理解する。彼女が店に入り、僕を見つけるのを待ち構えながら、僕はなるべくにこやかな笑みを浮かべ、彼女を歓迎する。
「あ、あれ、敬? どうしてここに……」
「やあ。涼子。とりあえず、何か頼まない? 奢るからさ」
目を丸くする彼女の顔は、何だかとても新鮮で。
だからこれこそ、僕が生きる、現実だ。