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第一話「残り香」

その香りを、僕は知っていた。


 けれど、どこで嗅いだのかは思い出せなかった。


『お待たせいたしました』


 店員が、僕のテーブルにコーヒーを置いた。


 白いカップから、ゆっくりと湯気が立ち上る。


 僕はいつものように、コーヒーの香りを楽しもうと深く息を吸った。


 苦みのある、少し酸味のある香り。


 その瞬間――


 ほんの一瞬だけ、別の香りが混じった。


 花のようで、少し甘い。


 けれど、甘すぎない。


 その奥には、乾いた木のような温かさがあった。


 僕は思わず顔を上げた。


 店員は、もう別のテーブルへ向かっている。


 もう一度、息を吸ってみる。


 けれど、その香りは消えていた。


 残っているのは、コーヒーの香りだけだった。


 僕はカップに口をつけた。


 いつもの味だった。


 なのに、さっきの香りだけが頭から離れなかった。


 どこかで嗅いだことがある。


 ずっと昔。


 いや。


 そんなに昔ではない。


 誰かのそばで。


 どこかの街で。


 あるいは、誰かと過ごした時間の中で。


 記憶の奥に手を伸ばしてみる。


 けれど、指先には何も触れない。


 顔も思い出せない。


 場所も思い出せない。


 ただ、香りだけが残っている。


 僕は窓の外を見た。


 午後の東京。


 信号が変わり、人が歩き、自転車が通り過ぎる。


 何も変わらない、いつもの街。


 なのに胸の奥だけが、ほんの少し騒がしかった。


 ――あの香りは、誰のものだったんだろう。


 そのときの僕は、まだ知らなかった。


 たった一度、カフェで感じたその香りが、


 十年前に置き忘れてきた記憶を、


 もう一度僕の前に連れてくることになるなんて。


そして、その記憶の中にいる女性の名前を――


僕は、まだ思い出せなかった。

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