沈黙の修道院
王国内で、恐れられている修道院がある。
王国内で失態を犯した令嬢たちが最後に送られる修道院。婚約者への暴行、家名を利用した横領、不貞、毒殺未遂、果ては王族への反逆まで、そこへ送られた女たちの罪状は様々だった。無実を訴える者も少なくなかったが、社交界では誰も耳を貸さない。あの修道院へ送られたという事実そのものが、貴族令嬢としての人生が終わった証明になるからだった。
中でも有名なのは、十年ほど前に収容された一人の公爵令嬢だった。
ヴェロニカ・アルヴェーン。
かつて王太子の婚約者でありながら、彼が新しく寵愛するようになった令嬢へ数え切れないほどの嫌がらせを行い、最後には暗殺まで企てたとされた女である。長く王太子妃教育を受け、王国の政治にも深く関わっていたことから、その転落は当時の社交界を大いに騒がせた。
稀代の悪女。今でも、その呼び名だけは残っている。
ロザリー・ベルク子爵令嬢がその修道院へ送られたのは、春を迎える少し前のことだった。父グレゴールがドロテアと再婚した時、ロザリーは新しい母と妹を歓迎した。母を亡くしてから長く父と二人で暮らしていたため、再び家族が増えることを素直に喜んでいたし、義妹となったコレットが自分の衣装や宝石を羨ましそうに見れば貸してやった。茶会へ連れていき、自分の知人を紹介し、婚約者であるセドリックにも妹として接してほしいと頼んだ。義母のドロテアも優しかった。家政を引き受け、娘であるコレットとロザリーを分け隔てなく扱っているように見えた。
だから、父の書斎へ呼ばれた日、机の上に並べられた書類が何を意味しているのか、ロザリーにはすぐに理解できなかった。
「こちらは、お姉様の署名でしょう?」
コレットが差し出した紙には、確かにロザリーの名が書かれていた。子爵家の口座から何度もまとまった金を引き出した記録と、その承認書だった。
「違うわ。私はこんな書類に署名していない」
「でも、筆跡はあなたのものだ」
セドリックは別の手紙を持っていた。そこにはロザリーが彼との婚約解消後に別の男と暮らすつもりであること、そのための金を確保していることが書かれていた。
「これも私ではありません」
「では、なぜこれほど証拠が揃っている」
「分からないから、調べてほしいと言っているのです」
ロザリーが父を見ると、グレゴールは視線を逸らした。
「これ以上、家の恥を広げるわけにはいかない」
「お父様」
「ドロテアとコレットが気づかなければ、もっと大きな損失になっていた。セドリック殿との婚約も、これでは続けられないだろう」
「本当に、私がしたと思っているのですか」
「今は、それを議論している場合ではない」
結局、誰も調べなかった。セドリックは婚約を破棄し、グレゴールは娘を世間から遠ざけるため、問題を起こした貴族令嬢を預かることで有名な修道院へ送ると決めた。
馬車へ乗せられる朝、コレットだけが見送りに来た。
「お姉様、ごめんなさい。私、お父様に黙っておくことも考えたの。でも、それでは家のためにならないと思って」
「そう」
「セドリック様のことも心配しないで。私たちで支えるから」
ロザリーは返事をしなかった。
その時になって初めて、妹の声が耳障りだと思った。
修道院は王都から二日ほど離れた山間にあり、古い石造りの建物を高い塀が囲んでいた。鉄門を潜った先に花壇も庭園もなく、冬枯れした畑と井戸、洗濯物を干すための紐が並んでいた。
迎えに出た修道院長ヘルミーネは五十を過ぎたくらいの女で、灰色の修道服を着ていた。
「ここでは身分による待遇の差はありません。朝は鐘とともに起床し、祈りの後はそれぞれ仕事をしていただきます。食事は三度。私物の持ち込みには制限がありますが、手紙の受け取りと発送は許可しています」
ロザリーは頷いた。
「それから、もう一つだけ」
ヘルミーネはそこで一度言葉を切った。
「夜に、絶対に音を立ててはなりません」
「音、ですか」
「日が沈んでから翌朝の鐘が鳴るまでです。声を出さない。物を落とさない。扉も静かに開閉する。守ってください」
「破ったら、どうなるのでしょう」
「守ってください」
それ以上の説明はなかった。
部屋へ案内される途中、ロザリーは何人かの令嬢とすれ違った。全員が地味な服を着ていたが、立ち居振る舞いだけで平民ではないと分かる。
最初に声をかけてきたのは、十六、七歳ほどに見える小柄な少女だった。
「まあ。随分と品のない歩き方をなさるのね」
「え?」
「夜までには直した方がよろしいわ。床板にまで嫌われてしまいますもの」
少女は可愛らしい顔で笑い、そのまま去っていった。
「ミレイユよ」
後ろから声がした。振り返ると、痩せた伯爵令嬢らしい女が壁際に立っている。
「気にしなくていい。あの子はただ性格が悪いだけ」
「あなたは?」
「オデット」
それだけ言って、彼女も行ってしまった。
夕食の席ではさらに二人を紹介された。几帳面そうに髪をまとめたテレーゼは、ロザリーが匙を置く位置を見るなり、「そちらでは食器の置き方も教わらないの?」と言い、褐色の髪をゆるく結ったカミラはロザリーの事情を聞くと、「婚約者がそんな簡単な証拠であなたを捨てたのなら、男を見る目もなかったのね」と平然と言った。
修道院へ来たというのに、ここにあるのは祈りと慎ましい暮らしだけではない。言葉の端で相手を値踏みし、育ちや失敗を遠回しに突くそのやり方は、ロザリーがよく知る貴族社会と何も変わらなかった。
ただし、誰も直接ロザリーを害そうとはしなかった。仕事を押しつけることもなく、食事を奪うこともなく、寝台へ何かを仕込むこともない。ただ何かをするたびに、遠回しな嫌味が返ってくる。
「まあ、ご実家では何でも使用人がしてくださったのね」
「それで子爵家の金の流れを一度も確認しなかったの?」
「妹があなたの署名を真似して遊んでいても気にしなかった?」
「随分と平和に暮らしてきたのね」
ロザリーは何度も言い返そうとした。それでも、この場所にいる女たちは皆、自分と同じように人生を失ったのだと思えば強く反発することもできなかった。
同じ日に入った侯爵家の娘は違った。彼女は三日目には食事が不味いと怒鳴り、四日目には自分の仕事を別の令嬢へ押しつけ、五日目の夜には部屋の水差しを倒した。
翌朝、その令嬢の寝台は空になっていた。
「彼女はどこへ?」
ロザリーが尋ねても、誰も答えなかった。
ミレイユだけがパンを小さく千切りながら言った。
「ここには合わなかったのよ」
「それだけ?」
「それ以上、何が必要なの?」
ロザリーは黙った。
その夜、眠れずに天井を見ていると、廊下に人の気配がした。誰かが歩いている。しかし足音がしない。気配だけがゆっくり近づき、ロザリーの部屋の前で止まった。扉の向こうに誰かが立っているのが分かる。呼吸を殺して待っていると、しばらくして気配は遠ざかった。
翌朝、ミレイユが食事の席でロザリーを見た。
「随分と静かに過ごせたのね」
「何か知っているの?」
「何を?」
可愛らしく首を傾げられ、それ以上は聞けなかった。
とある夜、廊下でミレイユの袖が水差しの取っ手に引っかかった。陶器が卓上で傾き、底が木の縁を擦る。ロザリーは考えるより先に手を伸ばし、水差しを受け止めると、もう片方の手でミレイユの腕を押さえた。二人とも声は出さなかった。水差しの中で揺れた水が、かすかに器の内側へ当たる。ロザリーは音が収まるまでそのまま動かず、やがてゆっくりと水差しを元の位置へ戻した。
ミレイユは暗闇の中でロザリーを見ていた。表情までは分からなかったが、視線だけはしばらく外れなかった。
翌朝になっても、ミレイユから礼はなかった。礼が欲しかったわけではない。それでも、何事もなかったような顔で朝食を取るミレイユを見ているうちに、ロザリーは少し腹が立った。
「あなた、昨夜のあれ、わざとでしょう」
「何のことかしら」
「私が嫌いなのでしょう?」
「今のところ、好きになる理由はないわね」
「なぜ私を試すの」
「試しているなんて言った?」
ロザリーは腹を立てたが、ここにいるのは皆、自分と同じように貴族社会から見放され、修道院へ送られてきた者たちなのだと、何度も自分に言い聞かせた。ヘルミーネへ告げ口する事は無かった。
さらに数日が過ぎたある日。
朝食の席へ向かうと、いつもとは違う場所に一人の女が座っていた。淡い金髪を低くまとめ、灰色の修道服を着ている。飾りは何一つないのに、他の令嬢とは明らかに違った。姿勢を正しているだけで、その場の中心がどこなのか分かる。ロザリーも顔だけは知っていた。社交界へ出る前から何度も肖像を見たことがある。
「ヴェロニカ・アルヴェーン公爵令嬢……」
稀代の悪女。
「いいえ」
ヴェロニカは穏やかに笑った。
「ここへ入った時に、その名は置いてきました。今はただのヴェロニカです」
ヴェロニカはロザリーの隣へ座り、何事もなかったように茶を注いだ。
「では、あなたを陥れた方々のお話を聞かせてくださる?」
突然の問いに、ロザリーはしばらく答えられなかった。向かい側でミレイユが満足そうに笑い、テレーゼは帳面を閉じ、カミラは頬杖をつき、オデットだけがいつもと変わらない顔でパンを食べていた。
「どういうことですか」
「あなたは残ることになった、ということよ」
「誰が決めたのです」
「私」
ヴェロニカは可憐に笑った。
「もしかして、夜に音を立ててはいけないという決まりも?」
「理不尽な扱いを受けた時、人がどう動くのかを見るのは勉強になるわね」
ヴェロニカは何でもないことのように答えた。
夜の決まりも、廊下の気配も、令嬢たちの嫌味も、すべて新人を見極めるためのものだった。追い詰められた時に感情のまま動くのか、他人を巻き込むのか、それとも周囲を見て自分で考えられるのか。ヴェロニカはそれを見ていた。
「それで駄目なら、別の修道院へ移っていただくの。ここで無理に暮らす必要はないもの」
「ここは修道院でしょう」
「ええ」
「あなたのものではありません」
「形式上は違うわね」
ヴェロニカはヘルミーネを見た。
修道院長は何も言わず茶を飲んでいた。
「全員と遊べるほど暇ではないし、気に入らない方と一緒に暮らす理由もないでしょう?」
その日から、令嬢たちの態度は変わった。優しくなったわけではない。ミレイユは相変わらず高飛車で、テレーゼはロザリーの間違いを容赦なく指摘し、カミラは男を見る目がないと言い続け、オデットは必要なことしか話さなかった。ただ、食事の席ではいつの間にかミレイユたちがロザリーの近くへ座るようになり、仕事の合間にも誰かが隣にいることが増えた。
ミレイユが家族に捨てられたのは十二歳の時だった。政略結婚の話が破談になった責任を押しつけられ、修道院へ送られた。高飛車で我儘な性格はその前から変わっていない。
「直してあげようとは思わなかったのですか」
ロザリーがヴェロニカへ尋ねると、本人より先にミレイユが答えた。
「どうして直す必要がありますの?」
「でも」
「わたくし、自分の性格を気に入っていますのよ」
テレーゼは実家の不正経理を見抜き、それを報告した結果、逆に責任を負わされた。ヴェロニカが帳簿を調べ、家の不正を暴いて彼女の名誉を回復させた後も、テレーゼは修道院へ残った。
カミラは平民の母から生まれ、父である男爵に引き取られた。美貌を利用して男を手玉に取ったのは事実だった。
「半分くらいは本当にやったことよ」
カミラは笑った。
「後悔しているのですか」
「全然」
オデットは自分の過去をほとんど語らなかった。ただ家族と婚約者によって長く孤立させられていたこと、ヴェロニカだけが無理に人を信じろと言わなかったことを後から知った。
誰も更生していなかった。それどころか、ロザリーが何度も自分に言い聞かせていたような、「貴族社会に見放され、人生を失った可哀想な令嬢」など、ここには一人もいなかった。
ある午後、ヴェロニカが刺繍をする傍らで、ロザリーは自分が修道院へ来ることになった経緯を話した。父の再婚から始まり、義母と義妹を家族として受け入れていたこと、身に覚えのない不正の証拠を突きつけられ、婚約者にも父にも信じてもらえなかったことまで、できるだけ順を追って説明した。ひと通り聞き終えたところで、ヴェロニカが尋ねた。
「それで、あなたはどうしたいの?」
「名誉を取り戻したいです」
「それだけ?」
ミレイユが呆れた顔をした。
テレーゼまで眼鏡の奥からロザリーを見た。
「それで終わり?」
「他に何をすればいいのです」
「あなたを陥れた妹は?」
「罪を認めてもらえれば」
「義母は?」
「同じです」
「父親は?」
「……お父様は、騙されただけかもしれません」
「婚約者は?」
「証拠があったのですから」
カミラが小さく息を吐いた。
ヴェロニカだけは笑っていた。
「では、また同じことをされたら?」
「もうないでしょう」
「なぜ?」
「今回のことが明らかになれば」
「次はもっと上手にやるかもしれないわ」
ロザリーは答えられなかった。
ヴェロニカは刺繍針を布へ通した。
「善良であることと、無防備であることは違うのよ」
それからロザリーは、家族について何度も質問された。ドロテアが欲しいものは何か。コレットは何を羨んでいたのか。グレゴールは何を恐れているのか。セドリックは何を優先する男なのか。最初はうまく答えられなかったが、感情から離れて一つずつ考えるうちに、少しずつ分かるようになった。あるいは、これまで考えられなかったのではなく、考えたくなかっただけなのかもしれない。
ヴェロニカは一度も答えを与えなかった。ただ質問を重ねた。ドロテアが欲しいのは、娘が子爵家で確固たる地位を得ること。コレットが欲しいのは、ロザリーが持っていたものすべて。グレゴールが恐れるのは家名が傷つくこと。セドリックが優先するのは、真実より自分が面倒へ巻き込まれないこと。それが、ロザリー自身が考えて出した答えだった。
やがて修道院の女たちは動き始めた。
テレーゼは子爵家と取引のある商会から過去数年分の記録を集めた。カミラは王都で顔の広い卒業生へ手紙を送り、セドリックとその周辺の貴族から話を拾った。オデットは既に辞めていた子爵家の使用人を探し、ミレイユは自分と同年代の令嬢たちからコレットの噂を集めた。
修道院に閉じ込められていると思っていた女たちには、驚くほど多くの手があった。結婚して侯爵夫人になった者。商会を営む者。王宮で女官をしている者。地方領主の妻となった者。教会に残った者。皆、ヴェロニカから届いた手紙を無視しなかった。
数週間後、テレーゼが食卓へ何冊もの帳簿を置いた。
「ドロテア夫人とコレット嬢は、あなたを陥れる前から子爵家の金を動かしている。額はそれほど大きくないけれど、何年も続いているわ」
「お父様は?」
「知らない可能性が高い。でも、もっと妙なものがある」
テレーゼは一枚の紙を抜き取った。
子爵家を経由して、別の商会へ流れている金があった。
さらに追うと、その商会から別の貴族家へ、その先から王家と取引のある宝飾商や建築業者へ金が移動していた。
「……でも、この金の流れは違う」
テレーゼが帳簿から顔を上げた。
「ドロテア夫人のものではない」
オデットが資料を覗き込み、短く言った。
「王太子」
部屋が静かになった。
王太子は国庫から直接支出できない金を複数の貴族家と商会へ流し、用途を隠していた。子爵家は、その一つだった。グレゴールが全容を理解しているかは分からない。ただ王太子側の「特別な取引」に協力し、その見返りを受け取っていた形跡がある。そしてドロテアは、その複雑な資金移動へ自分たちの横領まで混ぜていた。
ヴェロニカは帳簿を読んだ。
「まあ」
それだけだった。
しかしロザリーは、彼女がこれほど楽しそうに笑うところを初めて見た。
「嬉しいのですか」
「とても」
「私の家が王太子の横領に使われていたのですよ」
「おおかた、新しい婚約者へ豪奢な宝飾品や屋敷を与えるためでしょうね」
「そんな……」
「あなたに会えて良かったわ、ロザリー」
ヴェロニカは帳簿を閉じた。
「あなたも運が良かったけれど、どうやら私も運が良かったみたい」
「これを公表するのですか」
「まさか」
「でも、王太子が国庫を」
「今はまだ、その時ではないわ」
それまでの柔らかな笑みは消え、ヴェロニカの表情には、かつて王太子妃候補として政治の中枢にいた女の威厳が戻っていた。ロザリーがそれ以上問い返せないほど厳しい眼差しだった。
テレーゼは王太子へ繋がる帳簿だけを別に分け、ヴェロニカへ渡した。ロザリーの家族への復讐は、そのまま続けられた。
「コレットへ罪を被せるのですか」
計画を聞いたロザリーが尋ねると、ヴェロニカは首を傾げた。
「どうして?」
「私がされたように、偽の証拠を」
「そんな面倒なことをする必要はないわ」
ヴェロニカはテレーゼがまとめた資料を指先で叩いた。
「すでに充分な罪を犯しているのに、わざわざ冤罪まで被せるなんて酷いこと、今回はしないわ」
彼女たちがするのは、存在しない罪を作ることではなかった。既に犯した罪を、白昼へ晒すだけだった。子爵家へ有利な取引話が持ち込まれた。商会と貴族家をいくつも経由したもので、表面上は子爵家に大きな利益をもたらす。しかし正式な手続きを踏めば、グレゴールの承認が必要だった。当初の計画では、コレットが利益を欲しがり、父の署名を偽造すると考えられていた。
「しないと思います」
ロザリーが言った。
全員が彼女を見た。
「コレットは危険だと思ったことを自分ではしません。お義母様に頼みます。自分は知らなかったことにできるように」
「では、どうする?」
ヴェロニカが尋ねた。
ロザリーはしばらく考えた。
「コレットだけが利益を得られるようにしてください。お義母様に知られたら取り分が減ると思わせれば、自分でするはずです。それから、期限を短く。考える時間があると母に相談します」
ヴェロニカはその案を採用した。
後からロザリーが食堂へ入った時、ヴェロニカがミレイユたちへ話しているのが聞こえた。
「この子を残して正解だったでしょう」
それだけだった。
コレットはロザリーの予想通り動いた。父の署名を真似た書類を作り、正式な許可を受けたように見せかけて資金を動かした。
その文書を見たロザリーは、すぐに違和感へ気づいた。署名そのものではない。文字の末尾にある小さな払い方だった。幼い頃、コレットはロザリーの文字を真似して遊んでいた。何度教えても直らなかった癖があった。ロザリーを陥れた書類にも、同じ癖が残っていた。テレーゼが紙とインクの流通記録を調べ、二つの偽造文書が同じ経路で作られたことまで確認した。
そこから先は、彼女たちが何かをする必要はなかった。正式な調査が子爵家へ入った。帳簿が開かれ、資産の移動が確認され、使用人たちが証言を求められた。
最初に崩れたのはドロテアだった。彼女は自分を守るため、今回の文書偽造はコレットが一人で行ったことだと主張した。コレットは母に切り捨てられた。
そして、自分だけが罪を負うくらいならと、これまで母と共に行ってきたことを話した。ロザリー名義で行った資産移動。過去の帳簿改竄。手紙の偽造。セドリックへ渡した文書。
グレゴールは何も知らなかったと主張した。実際、ドロテアとコレットの細かな横領については知らなかった可能性が高かった。しかし当主でありながら家の財産を管理せず、王太子の不透明な資金移動へ名義を貸し、娘が訴えた時にも調査せず修道院へ送った事実は消えなかった。
子爵家は領地の大半と財産を失った。コレットは文書偽造と横領の罪で裁かれ、ドロテアは社交界から姿を消した。
セドリックが修道院を訪れたのは、その後だった。
「ロザリー、すまなかった」
面会室で、彼は何度も頭を下げた。
「私は証拠を信じた。だが、もっと調べるべきだった。君を信じるべきだった」
「そうですね」
「もし許してもらえるなら、もう一度」
ロザリーは以前なら、その言葉に揺れたかもしれないと思った。
「必要ありません」
「ロザリー」
「もう、あなたに信じていただく必要がありませんから」
それ以上、話すことはなかった。
コレットの判決が出た夜、ロザリーはヴェロニカと二人で茶を飲んでいた。
「コレットにも、悪女の素質があったのではありませんか」
ヴェロニカは否定しなかった。
「そうかもしれないわね」
「それなら、もしここへ来ていたら」
「残したかもしれない」
「助けたのですか」
「さあ」
ヴェロニカは茶を一口飲んだ。
「全員に手を差し伸べるなんてできないもの。あなたはここへ来た。そして、偶然手に入った運を掴んだ。あの子には運がなかった。それだけよ」
ロザリーは、しばらくその言葉の意味を考えた。ヴェロニカは誰にでも公平な女ではない。善人でもない。自分が気に入った女を選び、自分の手元へ置き、使えるようにする。ミレイユも、テレーゼも、カミラも、オデットもそのことを理解している。それでも皆、彼女のそばにいた。ロザリーも同じだった。
ただ一つ、気になることがあった。ヴェロニカの過去である。
彼女は王太子の婚約者だった。その立場を奪った令嬢へ陰湿な嫌がらせを繰り返し、最後には暗殺を企てたとされている。しかしロザリーは今のヴェロニカを知っている。この女が、人目につく場所へ証拠を残すだろうか。数人の侍女へ同時に目撃されるような嫌がらせをするだろうか。暗殺を企てながら、自分へ繋がる手紙を簡単に残すだろうか。王国中から稀代の悪女と呼ばれた事件は、今のヴェロニカを知れば知るほど、あまりに稚拙だった。
ある夕方、ロザリーは中庭で一人のヴェロニカを見つけた。手紙を読んでいた。封蝋には見覚えのない紋章が刻まれている。帝国のものだった。ヴェロニカは笑っていた。
修道院の令嬢たちを見る時の可憐な笑顔とも、何かを企む時の楽しそうな顔とも違った。ただ一人の男から届いた手紙を読む女の顔だった。
後日、ロザリーは尋ねた。
「ジークハルト帝からですか」
ヴェロニカは否定しなかった。
「まあ。よくそこまで分かったわね」
「帝国の封蝋でした。それに、王太子の横領を見つけた時、あなたは告発しなかった」
「ええ」
「あなたは王太子を失脚させたいのではない。もっと大きなことに使うつもりなのですね」
ヴェロニカはしばらくロザリーを見ていた。
やがて笑った。
「ああ本当に、あなたを残して良かった」
それからヴェロニカは、自分が王国に切り捨てられた経緯を話した。王太子の新しい婚約者を巡る一連の事件には、王家と複数の有力貴族が関与していた。ヴェロニカの実家が政治的に強くなりすぎたことを警戒し、王太子との婚約解消と公爵家の影響力低下を同時に進めるため、彼女を悪女として処理した。
ヴェロニカは完全な無実ではなかった。敵対した令嬢へ圧力をかけたことも、人を使って情報を集めたこともある。ただ、暗殺など企ててはいなかった。
「反論しなかったのですか」
「したわ。でも、あの時点ではもう決まっていたもの」
ヴェロニカは修道院へ送られた。そこで終わるはずだった。しかし彼女は終わらなかった。国に捨てられた令嬢を一人ずつ拾った。修道院へ送られてくる女を見極め、使える者を残し、再び社会へ戻した。
ある者は王宮へ。ある者は商会へ。ある者は貴族家へ嫁ぎ、ある者は地方へ領地を持った。全員がヴェロニカの命令だけで動いているわけではない。恩があるから。修道院との関係が自分にも利益になるから。他の令嬢を助けたいから。あるいは単純に、面白いから。理由はそれぞれだった。ただ、必要な時には皆が手を貸した。
「王国を奪うつもりなのですね」
ロザリーが言った。
「恋愛というものは、よく分からなかったのだけれど」
ヴェロニカは少しだけ笑った。
「恋とは素晴らしいものですね。ジークハルト様に教えていただきました」
皇帝ジークハルトとは、修道院へ送られた後から密かに連絡を取っていた。当初は政治上の利害だけだった。王国を内側から弱らせたいヴェロニカと、戦争をせず王国を支配下へ置きたいジークハルト。目的が一致したのだという。その関係がいつから政治上の協力だけではなくなったのか。ただ、帝国から届く手紙だけは、いつも自分で開封していた。
ロザリーの名誉回復が正式に認められると、彼女は修道院を出た。ヴェロニカは引き留めなかった。
「好きになさい。もう誰かに人生を決めてもらう必要はないでしょう」
「手紙はください」
「もちろん」
「私にできることなら協力します」
「知っているわ」
ロザリーは自分の財産を取り戻し、王都で小さな屋敷を持った。ロザリーは誠実さを捨ててはいなかった。ただ、かつてのように、人の言葉をそのまま信じるのではなく、その意図まで考えるようになった。誰かに都合よく扱われるだけの生き方は、もうしない。
修道院から手紙が届けば、ロザリーは協力した。別の令嬢のために証言を集めることもあれば、商会との契約を確認することもあった。
もっとも、それらはロザリーが修道院を出てから始まったことではなかった。ヴェロニカが十年かけて築いてきたものが、少しずつ表へ現れ始めていた。帝国との交易量が増えた。王国と長く同盟を結んでいた小国が距離を置いた。王宮の高官が何人か交代し、帝国との協調を主張する貴族が増えた。主要な商会の多くが、帝国との取引なしでは利益を維持できなくなった。教会も表立って反対しなかった。王太子の国庫横領については、公にはされないままだった。
そして、最後の日が来た。皇帝ジークハルトが正式な使節団を率いて王都へ入った。
「帝国皇帝ジークハルトだ。国王陛下、今日は一つ提案を持ってきた」
「提案、ですと」
「貴国には、我が帝国の保護下に入っていただきたい」
国王は眉を寄せた。
「何を仰っている。なぜ我が国が、そのような要求を受け入れなければならない」
「理由なら、すでに十分お分かりでしょう」
会談の席で提示されたのは、戦争の宣告ではなかった。王国が帝国の保護下へ入り、外交と軍事の一部を帝国へ委ねるという提案だった。国王は拒否しようとした。しかし交易を止められれば王国経済が揺らぐ。同盟国は既に離れている。有力貴族の多くは帝国との協調を支持している。
さらに帝国側は、王太子による国庫横領と、それに協力した貴族や商会の証拠を保有していた。拒否すれば、王家の信用そのものが崩れる。
「なぜ、帝国がこれを持っている」
国王が問うと、ジークハルトはわずかに笑った。
「それは、本人に直接お聞きになるといい」
そう言って、ジークハルトは扉の方へ顔を向けた。扉が開いた。長く修道服しか着ていなかった女が、帝国の正装をまとって入ってきた。ヴェロニカ・アルヴェーン。かつて王太子の婚約者だった女。王家によって稀代の悪女とされ、修道院へ追放された公爵令嬢。
王太子が最初に声を上げた。
「ヴェロニカ・アルヴェーン……なぜ、ここにいる」
ヴェロニカは彼へ向き直った。
「アルヴェーンの名は、修道院へ入った時に捨てました。今は帝国より女公爵の爵位を賜り、ヴェロニカ・フォン・ローゼンフェルトと申します」
国王も、王太子の隣にいた新しい婚約者も言葉を失った。列席していたアルヴェーン公爵も娘を見つめたまま動かなかった。驚きよりも、帝国の女公爵となった娘を前に何も言えないことへの苛立ちが、その顔にはっきりと表れていた。
ヴェロニカはジークハルトの隣へ進んだ。
「本日は、皇帝ジークハルト様の婚約者として参りました」
「貴様が……」
王太子の顔が歪んだ。
「俺を裏切ったのか。初めから俺たちを嵌めるつもりで――」
「まあ。面白いことをおっしゃいますね」
ヴェロニカは穏やかに微笑んだ。
「私は、あなた方のように存在しない罪を作り、誰かになすりつけたりはしておりません」
王太子の言葉が止まった。
「国庫から抜いた金も、偽装した取引も、それを隠すために利用した貴族家も、すべてご自分でなさったことでしょう。身に覚えがおありになるはずです」
彼女は国王、王太子、その婚約者へ順に目を向けた。
「私はただ、皆様がなさったことを集めて、忘れずにいただけです」
まもなく、王国は帝国の保護下へ入り、事実上その支配を受けることになった。そして、ヴェロニカは、自分を切り捨てた国家そのものを手に入れた。
修道院は、その後も残った。ヘルミーネは変わらず院長を務め、テレーゼもカミラもオデットも修道院に残って、新たに送られてくる令嬢たちを見ていた。ミレイユだけはヴェロニカと離れることを嫌がり、そのまま帝国までついていった。ヴェロニカも当然のように彼女を傍へ置き、帝国へ移った後も修道院には頻繁に手紙を送った。
王国内で失態を犯した令嬢たちが最後に送られる場所。その評判も変わらなかった。ある冬の日、新しい令嬢を乗せた馬車が鉄門の前へ止まった。少女は青ざめた顔で修道院へ入り、ヘルミーネから生活の説明を受けた。
その知らせは数日後、ロザリーの元にも届いた。新しい令嬢の名と、家名と、ここへ送られた理由。ロザリーは手紙を読み終えると机の引き出しを開き、すぐに返事を書き始めた。
修道院では、少女が自分の部屋へ案内されていた。扉を閉める直前、ヘルミーネが最後の決まりを告げた。
「夜に、絶対に音を立ててはなりません」




