深い霧に閉ざされた霧島山系の麓。
その奥深くに位置する古びた渓谷は、あたかも外部の時間を拒絶するかのように、重く澱んだ静寂に包まれていた。
かつて修験者たちが身を清め、神聖な祈りを捧げたというその場所は、いまや邪教の手によって歪められ、見る影もない負の領域へと変貌を遂げている。
阿門甲斐吽を先頭に、神楽坂弘恵、柏木湊、橘翔平の四人は、足元の不安定な山肌を踏みしめながら慎重に歩を進めていた。
周囲の木々は黒ずみ、葉の一枚一枚にまで邪悪な呪詛の気配が染み付いているかのようだ。
「ここが、最初の『封印の杭』が隠されている場所か……」
湊は祖父の手帳をしっかりと胸に抱きしめながら、周囲を警戒するように見回した。
空気の密度が異なり、呼吸をするたびに肺の奥が冷たく焼けるような感覚を覚える。
祖父がこの地で調査を断念せざるを得なかった理由が、肌身をもって痛いほど理解できた。
「そうだ。霧島から南へと流れる本来の清らかな龍脈が、この渓谷の底で無理やり捻じ曲げられ、ドス黒い澱みに変えられている」
甲斐吽は低い声で告げると、仕込み杖の柄を握る手に力を込めた。
その双眸は、闇の奥に潜む気配を鋭く捉えている。
ふと、弘恵が足を止め、手にした神楽鈴を微かに鳴らした。
澄んだ鈴の音が冷気の中へと響き渡るが、すぐに周囲の重い瘴気に吸い込まれるようにして消えていく。
「気をつけて……。普通の魔物じゃないわ。この土地の歴史、それも邪教の者たちが意図的に塗り替えた負の記憶そのものが、私たちを拒絶しようとしている」
弘恵の警告が終わるか終わらないかのうちに、足元の湿った土がぐにゃりと波打った。
次の瞬間、渓谷の両岸から無数の黒い影が這い出し、四人の退路を塞ぐようにして群れをなして現れた。
それはかつてこの地で非業の死を遂げた者たちの怨念が、邪教の呪術によって形を変えられた異形の従者たちだった。
「ちっ、次から次へとよくもまあ、気味の悪い連中が湧いてきやがるぜ!」
翔平は舌打ちをすると、身構えて拳を固めた。
その全身から、自身の血筋に宿る微弱な霊的感応力が熱を帯びて溢れ出し、周囲の闇をわずかに押し返す。
「怯むな! 奴らは過去の幻影と呪いの残滓にすぎない。その奥にある杭を断たなければ、何度でも蘇るぞ!」
甲斐吽の号令と同時に、疾風のような踏み込みが放たれた。
仕込み杖の刀身から放たれた黄金色の閃光が、襲いかかる黒い影の群れを両断する。
物理的な斬撃ではなく、澱んだ呪縛の根源を断ち切る神聖な剣技が、渓谷の闇を切り裂いていく。
「私たちも続くわ!」
弘恵は神楽鈴を激しく打ち鳴らし、純白の聖域を展開した。
彼女が放つ清浄な光は、まるで夜を払う黎明の光の如く、周囲に渦巻く邪悪な気配を次々と焼き払っていく。
聖域の光に触れた黒い影たちは、断末魔の悲鳴のような風の音を残して霧散していった。
しかし、敵の数は衰えることを知らない。
渓谷の奥底、ひときわ深く黒い瘴気を放つ岩陰から、さらに強大なプレッシャーが迫り来る。
そこにあったのは、人工的に打ち込まれた一本の巨大な鉄の杭だった。
無数の呪文が刻まれ、血に濡れたような錆をまとったその杭こそが、霧島からの龍脈をせき止め、すべての元凶となっている『封印の杭』に違いなかった。
「あれだ……! あの杭が、この土地の龍脈を狂わせている元凶だ!」
湊が指し示したその場所へ向かおうとした瞬間、杭の周囲に渦巻いていた瘴気が凝縮され、巨大な異形の化身となって立ち塞がった。
人間の姿を歪めたようなその巨体は、かつてこの地で私欲のために龍脈をねじ曲げた邪教の呪術者たちの怨念が結晶化したものだった。
「邪魔をするな……!」
湊は祖父の手帳を懐にしまい、手元に引き寄せた霊的な気配を総動員して前へと躍り出た。
血族の因縁に導かれ、祖父の意志を継ぐ者として、彼はここで引くわけにはいかなかった。
「湊、一人で行かせるかよ!」
翔平が素早く湊の側面に回り込み、迫り来る化身をその身を挺して受け止めた。
二人の呼吸が完璧に噛み合い、互いの血に流れる因縁の力が共鳴し合う。
「今だ、甲斐吽さん、弘恵さん!」
二人の若者が作り出したわずかな隙を、甲斐吽と弘恵が見逃すはずがなかった。
「大地の理を歪める者よ、その罪とともに消え去るがいい!」
甲斐吽の渾身の一撃が黄金の光をまとい、化身の巨体を正面から両断した。
さらに弘恵が放った浄化の鈴音が追撃となり、化身の姿を完全に消し去る。
障害が消え去った目の前には、禍々しい光りを放つ『封印の杭』が一本、むき出しになって突き立っていた。
四人はその杭を取り囲み、それぞれが宿す因縁の力と霊力を一つに重ね合わせる。
「これで終わりだ……!」
甲斐吽の杖と湊たちの意志が込められた渾身の一撃が、封印の杭の根元へと叩き込まれた。
激しい金属音とともに、杭全体に無数の亀裂が走り、次の瞬間、轟音と共に完全に粉砕された。
杭が砕け散った瞬間、渓谷の空気が一変した。
今まで重くのしかかっていた澱みが嘘のように晴れ渡り、北の霧島山系から湧き出る本来の清らかな霊気が、せき止められていたダムが決壊するかのように勢いよくこの地へと流れ込んできた。
冷たく澄んだ風が四人の頬を撫で、荒れ果てていた渓谷の地面から、わずかに緑の芽吹きが顔を出し始める。
最初の封印が解かれ、龍脈が本来の流れを取り戻したのだ。
「一つ、片付いたな」
息を整えた翔平が汗を拭いながら笑うと、湊もまた、胸のつかえが取れたような清々しい笑顔で頷いた。
「ああ、だがこれはまだ始まりにすぎない。桜島、そして鹿児島市内へ向けて、残りの杭をすべて破壊するまで、俺たちの戦いは終わらない」
失われた歴史の裏側を暴き、大地の呼吸を取り戻すための旅は、確かな手応えと共に次の舞台へと続いていくのだった。
第 35話(完)