四月の終わりを迎え、鹿児島市内の空は初夏を思わせる眩しい青さに染まりつつあった。
城山の山肌からは新緑の香りが穏やかな風に乗って街中へ運ばれ、天文館の通りを行き交う人々の装いもすっかり軽やかになっている。
季節は確実に移り変わり、新たな生活のリズムがそれぞれの日常にしっかりと根を下ろし始めていた。
その華やかな大通りから一本脇へ折れ、古い雑居ビルが肩を寄せ合う静まり返った路地裏。
相変わらず看板もなく、表札すら掲げられていないその黒い板壁の家は、変わらぬ静寂をまとってそこに佇んでいた。
しかし、かつて相沢真由美が持ち込んだ過去の重荷や、冷え切ったトランクの底にあるような澱んだ気配はすっかり消え失せ、今はただ心地よい春の穏やかな空気が満ちている。
橘翔平は、しっかりと前を見据えた足取りでその路地裏を進み、古びた木製の引き戸の前に立った。
あのとき、柏木湊という青年が引き起こした時空の歪みを共に見届けてから、いくつかの時間が流れた。
翔平自身、自分の仕事に向き合う中で、かつての焦燥や完璧主義の呪縛がいかに自分を縛っていたかを痛感し、今はチームの仲間たちと信頼を分かち合いながら充実した毎日を送っている。
今日は個人的な相談があってやってきたわけではなかった。
仕事の区切りが良いタイミングで、あの夜に心に誓った「対価」を納め、改めてこの場所に自分の足で挨拶に来たかったのだ。
「……失礼します」
翔平は深呼吸を一つすると、古びた木製の引き戸にそっと手をかけ、カラカラと乾いた心地よい戸車を鳴らして中へと足を踏み入れた。
薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や煤けた古文書が吊るされ、天井からは乾いた植物がぶら下がっている。
中央の円卓の上では、一筋の蝋燭の炎が静かに揺らいていた。
いつもの、阿門甲斐吽のいる空間だった。
奥の暗がりから、低い落ち着いた声とともに甲斐吽が姿を現す。
その底知れぬ光を宿した双眸は、訪れた男の確かな成長を静かに見据えていた。
「よく来ましたね、橘翔平。その澄んだ気配を見るに、日々の歩みは順調なようですね」
甲斐吽の言葉に、翔平は自然と引き締まった笑みを浮かべ、円卓の前に立ちながら深く頭を下げた。
「お久しぶりです、阿門さん。あのとき、自分の弱さと向き合う覚悟を教えていただいたおかげで、今の俺があります。現場のチームもうまくいっていて、ようやく胸を張って仕事ができるようになりました」
翔平はポケットから小さな封筒を取り出し、円卓の上にそっと置いた。
「あのとき約束した対価を、今の自分の力で稼ぎ出した報酬の中から納めます。金額の定めはないと言われましたが、今の私が自分の人生を取り戻せたことの価値を形にしたものです。どうか、受け取ってください」
甲斐吽は静かに封筒に目を落とし、やがて満足げに頷いた。
「受け取りましょう。あなたが自分の足で歩み、勝ち得た未来の重み、しかと受け止めました」
一礼した翔平がホッとした表情を浮かべたその時、ふと、部屋の引き戸が再びカラカラと音を立てて開いた。
振り返ると、そこに立っていたのは柏木湊だった。
相変わらずラフな格好だが、その目つきにはかつての尖った焦燥はなく、どこか地に足の着いた精悍さが宿っている。
「おっ、橘さんじゃねえか。奇遇だな」
「柏木さん! あんたも来ていたのか」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みをこぼした。
湊もまた、祖父の残した手帳を手がかりに新しい仕事を見つけ、自分の足で未来を切り拓いている最中だった。
彼もまた、手に持った小さな封筒を円卓の上に置き、甲斐吽に向かって深く頭を下げた。
「阿門さん。過去の影にしがみついていた俺の目を覚ましてくれてありがとうございました。今の俺なら、どんな壁が来ても自分の足で乗り越えていける気がします」
甲斐吽は二人の青年を穏やかな眼差しで見渡し、静かに告げた。
「迷いを断ち切り、過去の因果を乗り越えた者たちが、それぞれの現在を生きるためにここに集う。この家は、ただの迷い人のための場所ではありません。自らの意思で人生の舵を取る者たちの、新たな礎なのです」
その重厚な言葉が部屋の隅々にまで響き渡り、空間全体が温かな光に包まれるような感覚に包まれた。
用事を終えた翔平と湊は、並んで古びた引き戸を開け、外の世界へと歩き出した。
戸を閉め、振り返ると、そこには相変わらず看板のない、ただの古い木造家屋しかなかった。
だが、二人が感じている世界の輝きは、出会った頃とは全く違っていた。
頭上にはどこまでも高く澄み渡った春の青空が広がり、鹿児島市内の街並みは、これから始まるそれぞれの新しい物語の予感に満ち溢れて輝いていた。
迷いを抜け出し、自分の足でしっかりと歩み始めた男たちの背中を、あたたかな初夏の風が優しく押し続けている。
出逢いもまた、偶然ではなく必然なのだ。
第 21話(完)