軽やかな旋律
「だめだ!こんなのじゃ通用しない!」
卓は楽譜に走らせていたペンを止め、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げる。しかし、既に溢れるほどに捨てられた楽譜に弾かれた。あと少し、ほんの数小節書けば完成するが、そこを無理やり埋めようとすればするほどどうしても陳腐になる。プロとしてのプライドと迫る締め切りとで卓は目に見えて焦っていた。頭を強く掻きながら既に空になったコーヒーカップに口を付ける。
「……、ダメだ。全く集中できていない。一息入れるか。」
コーヒーを淹れるために席を立った卓は、ふと現状を振り返る。いったいいつから曲作りを楽しめなくなっただろうと。昔は純粋に楽しかった。適当に鍵盤を叩いても耳心地のよい曲が次から次に出来上がり、やがて音楽理論を知ってからは誰かに聞いてもらえるような作品に仕上がり、やがて事務所から声がかかり、プロとして活動するようになってからも受け入れられて……、少なくともその頃は楽しめていた。いつからかそれが義務に変わり、「より洗練された、より大衆向けの作品」が求められるようになり、気付けば一日の大半ピアノの前に張り付くようになっていた。ああ、昔はどんな曲を作っていただろうか……。考えを巡らすうちに悪い方へ悪い方へと引っ張られていくことに気付き大きくかぶりを振る。コーヒーを一口啜り、気持ちを落ち着かせてまたピアノの所に戻ろうとした。
その時、誰もいないはずの部屋から、軽やかな、まるで鍵盤の上を踊っているような曲が聞こえてきた。最初は幻聴と思った。先ほどまで楽譜を睨みながら叩いていた音がまだ耳に残っているのかと。しかし、どこか懐かしささえ感じるその曲は部屋へ向かうにつれ、旋律を繰り返すにつれ、だんだんと大きくなる。恐る恐る部屋を覗き込むが、やはり誰もいない。しかし、その曲は確実にピアノから聞こえている。と、入り口付近の本棚から古い楽譜集が落ちた。その少し黄ばんだ楽譜を拾い上げようとして全てを思い出した。「この曲だ……」
それは今まさに手に取った楽譜。そして、曲作りが楽しめなくなり始めた最初の綻び。
あれは大学三年の夏のこと。周りがそろそろ進路について話題をしだした頃、新曲を聞いてみてほしいと話しかけて来た友がいた。その友とは高校の頃からの付き合いでそれまでもこうして互いの曲を聴くことがあった。この時もその「軽やかな、まるで鍵盤の上を踊っているような曲」を聴き、その時に感じた情景など感想を伝えた。その時はそのいつものやり取りで別れた。しかし、この時は心情が違っていた。コンテストに投稿しようとしていた曲がうまくいかず、頭を抱えていた最中だった。自分にはない才能、自分にはないセンスに触れた時、魔が差した。借りた楽譜をカメラで撮り、ほんの少しアレンジを加え、コンテスト用に投稿してしまった。そして、その曲は最優秀賞に選ばれ、卓の名義で注目を浴びるようになり、プロへの階段を昇ろうとしていた影で、その友はその裏切りを苦に自ら命を絶ったのだ。
今まさにその曲が何度も何度も奏でられている。そのことを思い出すと、それまで軽やかに聞こえていた旋律はだんだんと糾弾に聞こえてきた。
「すまなかった!申し訳ない!お願いだ、許してくれ!」
耐えられなくなりその場にうずくまり、耳を塞ぎ必死に祈る。きつくまぶたを閉じてガタガタと震えながらそれが収まることを待つしかなかった。
すると、フッと音が鳴りやんだ。心なしか肩も軽く感じた。
「もしかして許してくれたのか?」
荒くなった呼吸を整え、拾い上げた楽譜を棚に戻そうとしたその時、
ダーン!!
乱暴に鍵盤を叩きつける音が響いた。
その音に驚き手放した楽譜が再び床に落ちる。その楽譜に目を移すと裏側にびっしりと、
「ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ」
そして、もう一枚の楽譜の裏側には
「例え兄ちゃんが許しても僕はお前を許さない!」
卓はそれを目にした時、絶望した。その友には弟がいた。あの後直接糾弾してきたその子を直接……
「ああ、ああ……、何を甘えたことを考えてたんだ……。この子が俺を許すわけないじゃないか……」
その後、旋律が鳴りやむことはなかった。




