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第9話 燃える街と、あなたの決意

 馬車の窓から見える景色が、次第に変わっていった。

 帝都からアンカードまで百キロ。馬車で丸二日の道のりだ。前世なら車で一時間の距離だが、この世界にはアスファルトも高速道路もない。石畳の街道を揺られ続けて尻が痛い。

 その間にもアンカードでは魔物の襲撃が続いていると思うと、もどかしさで気が狂いそうになる。だが馬車はこれ以上速くならない。文明の限界だ。

 帝都を出た頃は穏やかな農村風景が広がっていたが、アンカードに近づくにつれ、道端に倒れた荷車や、打ち捨てられた家財道具が目立ち始めた。

 逃げてきた人々の痕跡だ。


「避難民ですわね……」


 リディア嬢が窓の外を見つめて呟いた。その声には、さっきまでの軽口の気配はない。


 やがて道の脇に、疲れ果てた人々の姿が見え始めた。子供を抱えた母親、怪我を負った老人、茫然自失の表情で座り込む男たち。

 前世で映像としてしか見たことのない「難民」の姿が、目の前にある。

 画面越しではなく、肌で感じる絶望の空気。泥と血と煙の匂い。

 月曜朝の満員電車も地獄だと思っていたが、比較にならない。あれはせいぜい煉獄だった。


 リディア嬢が拳を握りしめているのが、隣に座っていると分かった。


「リディア様」

「……はい」

「着いたら、ぼくは戦います。リディア様は避難民の対応をお願いできますか」

「わたくしに、何ができるでしょう」

「公爵令嬢の名前と統率力があれば、人を動かせます。避難所の設営、食料と水の確保、怪我人の手当ての優先順位——それを仕切れる人が必要です」


 リディア嬢が俺を見た。碧い瞳に迷いが浮かんでいたが、すぐに消えた。


「分かりましたわ。わたくしにできることを、全力でやります」

「ありがとうございます。頼りにしています」


 その言葉に、リディア嬢は小さく頷いた。



 アンカードが見えてきた。

 商業都市と呼ぶにふさわしい高い城壁と、その上に林立する塔——だが、城壁の北東部が大きく崩壊していた。崩れた瓦礫の向こうから黒煙が上がり、炎の赤い光がちらちらと見える。


 城壁の外側にも魔物の死骸が散乱している。防衛戦は既に始まっていて、一部の魔物は撃退されたようだが、城壁内部にまで侵入を許している。


 馬車を降りると、戦場の音が一気に押し寄せてきた。

 剣戟の音。魔法の炸裂音。人の怒号と悲鳴。そして——獣の咆哮。


 後続の馬車からアンネリーゼ様と聖騎士たちが降りてくる。聖女様の顔は青ざめていたが、金色の瞳には確かな決意があった。


「ルーク様、わたしは負傷者の治療に回ります」

「お願いします、アンネリーゼ様。聖騎士のお二人は聖女様の護衛を」


 聖女様が頷き、聖騎士たちと共に城壁の内側へ走っていった。


 俺たちが城門に近づくと、血まみれの鎧を着た兵士が駆け寄ってきた。


「あんたら何者だ! ここは戦場だぞ! 子供が来る場所じゃねぇ!」


 前世でも新人時代に似たようなことを言われた。「お前にはまだ早い」——あの時は悔しかったが、今は本当に場違いな気がする。


 怒鳴る兵士の後ろから、別の声が飛んできた。


「おい、やめろ。その嬢ちゃんの紋章を見ろ——ブリュネ公爵家だ」


 声の主は、城壁の瓦礫の上に腰掛けていた男だった。

 三十手前くらいの、がっしりとした体格。短く刈り上げた赤毛に、右頬を走る古い刀傷。使い込まれた大剣を肩に担ぎ、返り血に塗れた鎧は所々が砕けている。

 だが、目は死んでいない。疲労の奥に、まだ戦う意志が燃えている。


「あんたは?」


 俺が訊くと、男は瓦礫から飛び降りてこちらに歩いてきた。


「ギルバートだ。元Aランク冒険者、今はただの傭兵。この街の防衛戦に参加している」


 元Aランク。この世界ではレベル100に達する人外と呼ばれる猛者だ。


「状況を教えてくれますか」

「見ての通りだ。城壁の北東が破られて、魔物が市内に侵入している。駐屯兵団が三百、冒険者と傭兵が八十ほど残っているが、半数近くが負傷。魔物は城壁の外にまだ数千匹はいる」


 ギルバートは俺を値踏みするように見た。


「それで、お前さんは何ができるんだ? 見たところ十五、六の坊主だが」

「少しだけ、魔法が使えます」

「少しだけ、ねぇ」


 ギルバートの目が鋭くなった。歴戦の冒険者の直感が、俺の言葉の裏にあるものを嗅ぎ取っているのだろう。


「とにかく、兵力が足りない。使えるなら誰でもいい。だが——」


 ギルバートはリディア嬢に目を向けた。


「お嬢さんは下がっていた方がいい。ここは——」

「お気遣いなく。わたくしは後方で避難民の指揮を執ります」


 リディア嬢が凜とした声で答えた。ギルバートは少し驚いた顔をして、それから口角を上げた。


「肝が据わってるな、お嬢さん。——いや、公爵令嬢殿と呼んだ方がいいか?」

「リディアで結構ですわ。今は肩書きよりも、やるべきことがありますので」


 ギルバートが感心したように鼻を鳴らした。

 リディア嬢は俺に向き直り——


「ルーク様、無茶はしないでくださいね」

「善処します」

「善処では困ります」


 碧い瞳が真剣だった。冗談で返せる空気ではない。


「……約束します。必ず、リディア様のところに戻ります」


 リディア嬢の表情が僅かに緩んだ。

 それから、護衛の兵士を伴って避難民の方へ向かっていった。

 その背中は、十六歳の少女とは思えないほど堂々としていた。


「あの嬢ちゃん、只者じゃねぇな」


 ギルバートが呟いた。


「ええ。ぼくの大切な人です」


 言ってから、自分の発言に驚いた。だが——撤回する気にはならなかった。


「おい坊主、戦場でそういうこと言うのは死亡フラグだぞ」

「死亡フラグって何ですか?」

「知らねぇ。なんとなく口から出た」


 異世界にも死亡フラグの概念があるのか。いや、ないらしい。



 ギルバートの案内で、城壁の上に登った。

 眼下に広がる光景に、息を呑んだ。


 城壁の北東側、崩壊した箇所から市内にかけて、魔物が散在している。狼型の魔獣、巨大な蜘蛛、鎧のように硬い甲殻を持つ甲虫——種類はバラバラだが、いずれも凶暴そうだ。

 そして城壁の外側——平原を埋め尽くすように、魔物の群れが蠢いている。


 前世で経営企画をやっていた人間の目で、状況を分析する。

 パワーポイントで図解したいところだが、この世界にはプロジェクターがない。口頭で勝負するしかないか。


 味方の戦力:約三百八十名(うち負傷者多数)

 敵の戦力:市内に数百、城壁外に推定数千

 城壁:北東部が崩壊、他は無事

 住民:大半が避難済みだが、市内にまだ取り残された者がいる可能性あり


 これは——単純な防衛戦では勝てない。


「ギルバートさん、提案があります」

「聞こう」

「まず、市内に侵入した魔物を優先的に排除します。これはぼくがやります」

「お前一人で?」

「天使召喚という魔法が使えます。帝城で実戦経験は一度だけですが、市内の敵を一掃する程度は可能なはずです」


 ギルバートの目が見開かれたが、すぐに冷静な表情に戻った。


「続けろ」

「市内を片付けたら、崩壊した城壁を応急修復します。回復魔法の応用で、ある程度は塞げるはずです」

「城壁を魔法で直す? 聞いたことねぇが——まあ、続けろ」

「城壁を修復したら、あとは通常の防衛戦に持ち込めます。城壁の上から弓と魔法で削り、突破を試みる敵を集中的に叩く。数で劣っていても、防衛側には地の利がある」


 前世の知識だ。ランチェスターの法則——戦力が劣る側は、局地戦に持ち込んで集中運用するのが定石。城壁はまさにそのための装置だ。


「最後に、この魔物の群れには統率者がいる可能性が高い。スタンピードがこれだけ組織的に動いているなら、どこかに魔核か、それに類する指揮系統があるはずです。それを叩ければ、群れは瓦解する」


 ギルバートはしばらく黙っていた。

 それから、ニヤリと笑った。


「おい坊主。お前、本当に十五歳か?」

「よく言われます」

「気に入った。お前の作戦に乗ろう。——だが、一つ条件がある」

「何ですか?」

「お前が倒れたら、俺が指揮を引き継ぐ。いいな?」

「もちろんです。頼りにしています」


 ギルバートが大剣を地面に突き立て、右手を差し出した。

 俺はその手を握り返した。

 硬い、戦い慣れた手だった。


「よし。じゃあ行くぞ、坊主——いや、ルーク」

「はい」


 城壁の上から、燃える街を見下ろす。

 怖くないと言えば嘘になる。天使召喚は帝城で一度使っただけだ。身体への負荷も未知数だ。


 だが——振り返れば、避難民たちの中でリディア嬢が指示を出しているのが見えた。

 あの子は自分のやるべきことを、全力でやっている。

 なら、俺も同じだ。


「——行きます」


 俺は城壁の上で両手を広げ、意識を集中した。

 身体の奥から、女神の祝福が脈動するのを感じる。


 今度は——守るために使う。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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