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第8話 出発前夜——あなたのことが知りたい

 天使召喚の騒ぎが収まった後、俺たちは帝城の客間に通された。

 アンカードへの出発は明朝と決まった。百キロの道のりを踏破するには、最低限の準備が必要だからだ。

 宰相が手配してくれた馬車と護衛が、夜明けとともに出発する手筈になっている。


 客間のソファに座ると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 前世の決算期でも、ここまで長い一日はなかった。覚醒してからまだ半日しか経っていないのに、婚約破棄の修羅場、皇子への反論、天使召喚——情報量が多すぎる。


 リディア嬢は隣の客間で休んでいる。さすがに疲れただろう。

 アンネリーゼ様は聖騎士たちと別室にいるようだ。


 一人になれたのは、今日初めてかもしれない。


 窓の外に目を向けると、帝都の夜景が広がっていた。

 魔法の灯りが街路を照らし、遠くに帝城の尖塔が月明かりに浮かんでいる。

 前世の東京の夜景とは全く違う。だが、不思議と——嫌いじゃない。


 コンコン、とドアが叩かれた。


「入れ」


 入ってきたのは——親父、ベルガー伯爵だった。

 四十代半ばの、がっしりとした体格の男。口数は少ないが、目に温かみがある。ルークの記憶では、厳しいが愛情深い父親だ。


「親父殿」

「ルーク。今日は大変だったな」


 親父は向かいのソファに腰を下ろし、ため息をついた。


「宰相閣下から聞いたぞ。謁見の間での一件、見事だったそうだな」

「見事というか、必死だっただけです」

「それでいい。必死になれるということは、守りたいものがあるということだ」


 守りたいもの。

 親父の言葉が、妙に胸に刺さった。


「……親父殿は、最初から宰相閣下の計画を知っていたんですよね」

「ああ。お前やリディア嬢を巻き込むことに反対はしたが、宰相閣下に押し切られた。すまなかったな」

「いえ。結果的に、ぼくは大切な出会いを得ましたから」


 親父が少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。


「リディア嬢のことか」

「……まあ、はい」

「そうか」


 親父はそれ以上追及しなかった。代わりに、少し遠い目をして言った。


「お前の母上に似てきたな」

「母上に?」

「ああ。あの人も、守ると決めた相手のためなら、誰にでも立ち向かう人だった。皇族だろうが宰相だろうが、一歩も引かなかった」


 ルークの記憶の中で、母の姿はぼんやりとしている。幼い頃に亡くなったらしいが、詳しいことは聞かされていない。


「母上のこと、もっと教えてもらえますか」

「いずれな。今は——お前が自分の道を歩み始めた。それだけで十分だ」


 親父は立ち上がり、俺の肩を一度だけ力強く叩いた。


「シャリエ領の件、皇帝陛下から聞いた。お前の判断を尊重する。だが——」

「はい」

「無理はするな。お前はまだ十五だ。背負いきれないものは、誰かに頼れ」


 前世では、誰にも頼れなかった。

 頼り方を知らなかったのかもしれない。


「……はい。肝に銘じます」

「うむ。では、しっかり休め」


 親父が部屋を出ていった後、俺はしばらく天井を見つめていた。


 「似てきた」と言われた母のこと。前世の記憶と混ざり合うこの身体のこと。明日から始まる旅のこと。

 考えることが多すぎて、眠れそうにない。



 廊下に出ると、夜風が心地よかった。

 帝城の中庭に面した回廊を歩いていると——先客がいた。


 リディア嬢が、石造りの手すりに肘をついて、月を見上げていた。

 金色の髪が夜風にそよいで、月明かりを受けて銀色に輝いている。

 昼間の凜とした公爵令嬢でも、謁見の間で戦った闘士でもない。ただの十六歳の少女が、静かに月を眺めている姿だった。


「眠れませんか?」


 声をかけると、リディア嬢が振り返った。

 驚いた顔が、すぐに柔らかい微笑みに変わる。


「ルーク様こそ」

「考え事をしていたら、目が冴えてしまいまして」

「奇遇ですわね。わたくしも同じです」


 俺は彼女の隣に並んで、手すりに寄りかかった。

 中庭の噴水が月の光を反射して、きらきらと輝いている。


 しばらく二人とも黙っていた。

 不思議なことに、沈黙が苦にならない。前世では、沈黙が怖かった。会議で沈黙が落ちるたびに、何か喋らなければという強迫観念に駆られた。

 だが、この子の隣にいると——黙っていても落ち着く。


「ルーク様」

「はい」

「今日、お父様と話しました」


 リディア嬢は月を見上げたまま言った。


「なんと?」

「『ルークという少年を信用できるのか』と訊かれましたわ」

「……で、何と答えたのですか?」


 リディア嬢がこちらを向いた。

 月明かりに照らされた碧い瞳が、真っ直ぐに俺を見ている。


「『わたくしの人生で初めて、この人ならと思えた方です』と」


 心臓が、ドクンと大きく脈打った。

 中身は三十二歳だ。十六歳の少女の言葉で動揺するな——と自分に言い聞かせるが、無駄だった。


「……買いかぶりですよ」

「いいえ」


 リディア嬢は首を横に振った。


「ルーク様は不思議な方ですわね。十五歳とは思えないことを仰るし、大人も顔負けの知識をお持ちだし。皇帝陛下の御前で皇子に楯突く度胸もあれば、天使を召喚する力もある」


 一つひとつ指折り数えながら言うリディア嬢。

 並べられると、確かに十五歳としては異常だ。


「わたくしに隠していることがありますわよね?」


 静かな声だった。詰問ではない。ただ——知りたい、という純粋な願い。


「……はい」


 嘘はつけなかった。この子には。


「ぼくには、リディア様にまだ話せていないことがあります。ぼくがなぜこんな知識を持っているのか。なぜ十五歳の身体で三十代のような考え方をするのか。その理由を——」


 言葉を選びながら、慎重に話した。


「いつか、すべてお話しします。今はまだ——うまく言葉にできないのですが」


 リディア嬢は黙って聞いていた。

 怒るかと思った。「今すぐ話しなさい」と言われるかと思った。

 だが——


「いいのです」


 リディア嬢は微笑んだ。


「今は訊きません。ルーク様がご自分の言葉で話せるようになった時に、聞かせてくださいまし」

「……いいのですか?」

「はい。だって——」


 リディア嬢が一歩、俺に近づいた。

 夜風が彼女の髪を揺らし、花の香りがふわりと届いた。


「わたくしが信じているのは、ルーク様の過去ではありませんわ。今、わたくしの隣に立っている、あなた自身を信じているのです」


 月明かりの下で、リディア嬢は笑った。

 作り物ではない、十六歳の少女の——まっすぐな笑顔だった。


 俺は、何も言えなかった。

 喉の奥が熱くなって、言葉が出てこなかった。


 前世の俺は、誰にも信じてもらえなかった。

 数字を出せば評価される。結果を出せば認められる。だが「お前自身を信じている」と——そんなことを言ってくれた人間は、三十二年間、一人もいなかった。


「ルーク様? どうかしましたか?」

「いえ——少し、風が目に沁みただけです」

「嘘がお下手ですわね」


 リディア嬢がくすりと笑う。

 見抜かれている。完全に。


「……ぼくは、リディア様に出会えてよかったです」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 前世の三十二年分と、この世界の半日分の感情が混ざって、うまく整理できない。

 ただ——この子の隣にいると、前世で凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくような気がした。


「わたくしもですわ」


 リディア嬢が小さく呟いた。


「明日から、大変なことが始まりますわね」

「ええ。百キロ先の魔物の大群と、荒廃した領地。前途多難です」

「ふふ。でも——」


 リディア嬢が俺を見上げた。


「帰る場所は、わたくし達がこれから作るのですわ」


 さっき回廊で言った言葉を、もう一度。

 だが、さっきとは響きが違う。逃げ場のない状況での強がりではなく——未来への、確かな意志。


「ええ、必ず」


 俺たちは並んで月を見上げた。

 異世界の月は、前世よりほんの少しだけ大きく見えた。



 翌朝。


 帝城の正門前に、二台の馬車と騎馬の護衛が待機していた。

 朝靄の中、リディア嬢が完璧な身支度で現れた。昨夜の柔らかい表情はどこへやら、凜とした公爵令嬢の顔に戻っている。


「おはようございます、ルーク様」

「おはようございます、リディア様。よく眠れましたか?」

「ええ、おかげさまで」


 嘘だ。目の下に僅かに隈がある。俺と同じで、眠れなかったのだろう。

 だが、指摘はしない。こういう時に強がれるのが、この子の強さだ。


 アンネリーゼ様も聖騎士二人を伴って現れた。


「おはようございます、ルーク様。今日からよろしくお願いいたします」


 聖女様は朝から元気だ。だが法衣の裾がすでに泥で汚れている。朝の散歩で転んだのかもしれない。


「よろしくお願いします、アンネリーゼ様」


 馬車に乗り込む段になって、当然のようにリディア嬢が俺と同じ馬車に乗った。

 アンネリーゼ様も同じ馬車に——


「こちらの馬車はもう定員ですわ」

「あら、まだ席は空いていますよ?」

「荷物を置く場所が必要ですの」

「荷物はもう一台の馬車に——」

「聖女様にはゆったりとお休みいただいた方がよろしいかと」


 リディア嬢の笑顔が怖い。

 アンネリーゼ様はにこにこと笑ったまま、素直にもう一台の馬車に乗り込んだ。あの天然さが本物なのか演技なのか、未だに判断がつかない。


 馬車が動き始めた。

 帝城の門を抜け、帝都の大通りを進む。朝早いにも関わらず、通りには人の姿がちらほらと見えた。


「ルーク様」

「はい」

「昨夜の約束、覚えていますか?」


 リディア嬢が窓の外を見ながら言った。


「いつか、すべてを話してくれると」

「……ええ、覚えています」

「楽しみにしておりますわ。わたくし、約束を破る方は嫌いですの」


 横顔が微笑んでいる。


「破りませんよ。絶対に」


 馬車が帝都を抜けると、広大な平原が広がった。

 その遥か向こうに——黒い煙が、空を汚していた。


 アンカードだ。


 リディア嬢の表情が引き締まった。

 俺も背筋を伸ばす。


 前世では、誰かのために走ることができなかった。

 会社の歯車として回り続けて、気がつけば——独りで止まっていた。


 だが今は違う。

 隣に、守りたい人がいる。

 前方には、救うべき人たちがいる。

 そして俺には——女神からもらった力がある。


 使い道は、もう分かっている。


「リディア様」

「はい?」

「——行きましょう。俺たちの戦いは、ここからです」


 リディア嬢が頷いた。

 碧い瞳に——朝日が映っていた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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