第7話 天使が降りた日——あなたを守るために
帝城の回廊を走りながら、聖女アンネリーゼの声が近づいてくる。
「ルーク様! 帝城の上空に魔物が——きゃっ!」
法衣の裾を踏んで転びかけた聖女様を、後ろの聖騎士が慌てて支えた。
「大丈夫ですか、アンネリーゼ様!」
「は、はい……すみません」
聖女様は顔を赤くしながらも、必死に走ってくる。
大変な状況のはずなのに、どこか微笑ましいのはなぜだろう。
だが、次の瞬間——
「ガシャーン!」
頭上で凄まじい音が鳴った。
回廊の天井に嵌め込まれたステンドグラスが砕け、色とりどりの破片が降り注いでくる。
考えるより先に身体が動いた。
「防御結界!」
俺はとっさにリディア嬢の前に立ち、魔法を発動した。
半透明の光の膜が俺たちの頭上に広がり、ガラスの破片を弾き飛ばす。
——よかった。エレミー嬢の回復魔法と同じく、魔法は問題なく使えるようだ。身体適合率3%でも、防御魔法くらいなら負荷は少ない。
「ルーク様! 今の、魔法ですか?」
リディア嬢が驚いた顔で俺を見ている。
「説明は後です。外で何か——」
砕けたステンドグラスの向こうに、空が見えた。
そこには——翼を広げた巨大な影が旋回していた。
「行きましょう。外で誰かが戦っています」
「ルーク様、わたくしも——」
「危険です。リディア様は避難を——」
「いやです。わたくしもお供しますわ」
碧い瞳に、一切の迷いがない。
この子を説得している余裕はない。魔物はすぐそこにいるのだ。
「……分かりました。ぼくの傍を離れないでください」
「はい」
後ろからアンネリーゼ様と聖騎士たちも追いついてきた。
俺たちは帝城の正門から外に飛び出した。
外の光景は、想像以上に凄惨だった。
五十人ほどの衛兵たちが、空を飛ぶ魔物と交戦している——いや、一方的に攻撃されていた。
三匹のワイバーンと五匹のグリフォン。
ワイバーンは翼を広げると馬車ほどもある巨大な竜で、グリフォンは鷲の頭に獅子の身体を持つ魔獣だ。
ルークの記憶にある知識とはいえ、実物の迫力は桁違いだった。肌に突き刺さるような殺気と、翼が空気を叩く重い音。これが——異世界の現実だ。
飛行系の魔物がなぜ帝都にいるのか、しかも帝城をピンポイントで襲っているのか——疑問は山ほどあるが、今は考えている場合じゃない。
衛兵たちは弓矢と魔法で応戦しているが、飛行する相手には攻撃が届きにくい。既に数人が負傷して倒れている。
「ルーク様、何とかできませんか?」
リディア嬢が俺を見る。不安ではなく——信頼の目だ。
あなたならできる、と言っている。
混戦状態で通常の攻撃魔法を使えば、衛兵たちを巻き込む恐れがある。
ならば——あれを使うしかない。
俺は深呼吸をした。
ステータスに表示されていた固有スキル。まだ一度も使ったことがない力。
だが、使い方は——なぜか分かる。女神の祝福が、身体に刻み込まれているかのように。
「——氷結の天使召喚」
声に出した瞬間、世界が変わった。
俺の足元から蒼白い光が渦を巻いて立ち昇り、天へと伸びる。
光の柱が空に達した瞬間——その中から、一つの影が降りてきた。
人の形をした、光そのもののような存在。
透き通った氷の翼。銀色の長い髪。凍てつく蒼穹を映したような瞳。
手には氷の結晶で彩られた杖を携え、その全身から冷気と神聖な光が溢れている。
大天使。
ルークの知識にも、この世界の常識にもない存在だ。
衛兵たちが戦いの手を止め、魔物たちですら翼を止めてこちらを見ている。
「て、天使が……舞い降りたぞ……!」
衛兵の一人が呆然と呟いた。
氷結の天使は空中に浮かんだまま、ゆっくりと俺の前に降りてきた。
そして——にこりと微笑んで、俺の頬に唇を寄せた。
冷たくて、柔らかい感触。
……えっ。
「な、な、何をしているのですかルーク様! この状況で破廉恥な!」
リディア嬢の叫び声が帝城の庭園に響き渡った。
振り向くと、碧い瞳が燃えるように俺を睨んでいる。
いやいや、されたのは俺の方なんだが。
「誤解です。天使が勝手に——」
「言い訳は後で聞きますわ!」
リディア嬢の声には明確な怒りが——いや、これはヤキモチだ。
十六歳の少女が、天使に嫉妬している。状況が状況だけに笑いそうになるが、笑ったら殺される気がする。
「ちょっと黙っててください。今から片付けますから」
俺は空中でホバリングするワイバーンとグリフォンに向かって、右手を掲げた。
「——氷結浄化」
氷結の天使が杖を振るった。
それは一瞬だった。
蒼白い光が天使の杖から放たれ、空を埋め尽くすように広がる。
光が通り過ぎた場所では、ワイバーンもグリフォンも——一匹残らず氷の結晶に包まれていた。
凍結した魔物たちが重力に引かれて落下し、地面に激突すると同時に粉々に砕け散る。
大音響が帝城の庭園に轟いた。
そして——静寂。
「「「うおーっ!!!」」」
衛兵たちが我に返り、歓声を上げた。
だが俺の身体には、確かな負荷がかかっていた。右手が微かに痺れている。鼻の奥がつんとする——鼻血が出る一歩手前だ。
身体適合率3%。防御魔法は問題なかったが、天使召喚は明らかに負荷が大きい。これを何度も使えるとは思わない方がいい。
氷結の天使が俺の前に戻ってきた。
そして——両腕を広げて、俺をそっと抱きしめた。
冷たいのに、不思議と温かい。
天使の銀色の髪が俺の頬を撫で、花のような香りが——いや、これはリディア嬢とは違う、もっと冷たい、雪原のような香りだ。
天使は満足したように微笑むと、光の粒になって消えていった。
……気まずい。
全員がこっちを見ている。衛兵たちは呆気にとられた顔で、聖騎士たちは跪いて、アンネリーゼ様は目を輝かせて。
そしてリディア嬢は——
睨んでいる。
全力で、睨んでいる。
「あの、リディア様、あれは召喚した天使が勝手に——」
「勝手に抱きしめるのですか? 天使というのは随分と馴れ馴れしい存在なのですわね」
「ぼくに言われても……」
弁解が通じる空気ではなかった。
「ルーク様!」
衛兵の人垣をかき分けて、聖女アンネリーゼが駆けつけてきた。
金色の瞳が興奮で輝いている。
「い、今の大天使はルーク様が召喚されたのですか?!」
「さあ、どうでしょう」
「誤魔化さないでください! ルーク様が大天使に抱きしめられていたところを目撃しましたわ!」
見たのか。
一番見られたくない人に見られてしまった。
「やはりルーク様だったのですね——女神の使徒様」
「聖女様の勘違いです。ぼくはただの伯爵家の三男ですよ」
「大天使を召喚できる『ただの三男』がどこにいるのですか」
……返す言葉がない。
「使徒様だって……聖女様が言ってるのだから間違いない!」
衛兵の一人が声を上げた途端——
「「「使徒様とは知らず、大変失礼いたしました!」」」
ザッ、という音を立てて、衛兵たちが一斉にその場で跪いた。
やめてくれ。目立ちたくないんだ。
前世では社内で存在感を消して生きてきた人間なのに。
「せ、聖女様、緊急対策会議には出席しなくていいのですか?」
「わたしは魔物退治の素人ですので、出る幕はございません」
「そうですか……」
「それよりも——商業都市アンカードが魔物の集団に襲われています。ぜひ、お助けください」
聖女様が真剣な目で俺を見つめる。
「ちょっと待ってください。ぼくは女神の使徒なんかじゃ——」
「先ほどの天使召喚を『なかった事に』できますか?」
——できない。五十人の衛兵と聖女が目撃している。
「アンネリーゼ様。ぼくの力には限界があります。さっきの召喚でも、身体にかなりの負荷がかかりました。一万の魔物を相手にして、住民を守りながら戦うのは——正直、自信がありません」
嘘は言わなかった。レベル9,999でも、身体適合率3%では全力が出せない。これは紛れもない事実だ。
「ですが——」
聖女様が何か言いかけた時、横からリディア嬢が割って入った。
「いいではありませんか、ルーク様」
さっきまで睨んでいたはずの碧い瞳が——覚悟を決めた光を放っている。
「アンカードを救えば、それが実績になります。領地を任されるに足る実績が」
「リディア様……」
「それに——わたくしも一緒にまいります。あなた一人で行かせるつもりはありませんわ」
リディア嬢は俺の左腕にしっかりと絡みつき——ああ、またこの握力だ——宣言した。
「わたくしのルーク様を、一人で危険な場所に行かせる訳にはまいりませんもの」
「わたくしのルーク様」。
さらりと言った。衛兵たちの前で。聖女様の前で。堂々と。
アンネリーゼ様の金色の瞳が、一瞬だけ揺れた。
だがすぐに穏やかな微笑みを浮かべて——
「女神の使徒様……わたし達はあなたの下僕です」
聖女様と二人の聖騎士が、俺の前に跪いた。
「勝手に下僕にならないでください」
「でしたら、お供させてください。わたしの浄化の力が、少しでもお役に立てるなら」
聖女様の申し出は、確かに理にかなっている。
さっきの天使召喚で俺の身体には負荷がかかった。浄化や回復の力を持つ聖女がいれば、その負荷を軽減できるかもしれない。
それに——一万の魔物を相手にするなら、一人でも多くの味方が必要だ。
「「「使徒様! 我々もお供します!」」」
衛兵たちまで名乗りを上げ始めた。お前らは帝城の守りに就け。
「分かりました。アンカードへ行きましょう」
観念して頷くと、衛兵たちが歓声を上げた。
「「「ありがとうございます、使徒様!」」」
「使徒じゃないんだけどな……」
小声で呟くと、左腕のリディア嬢がくすりと笑った。
「使徒でも領主でも何でもよろしいですわ。わたくしにとっては、ルーク様はルーク様ですから」
その言葉が——今日聞いた中で、一番嬉しかった。
右側からはアンネリーゼ様が近づいてきて、遠慮がちに俺の右袖を摘んだ。
「わたしも、お傍にいてもよろしいですか?」
「……どうぞ」
左腕にリディア嬢。右袖にアンネリーゼ様。
両腕が塞がった。
前世では、隣を走ってくれる人は誰もいなかった。
今は——両方にいる。
嬉しいような、面倒くさいような、そして少しだけ怖いような。
こんなに大切なものが増えてしまって、俺は全部守りきれるのだろうか。
不安はある。だが——足は止まらなかった。
こうして俺たちは、魔物のスタンピードを阻止するために、百キロ先の商業都市アンカードを目指すことになった。
これが——俺の異世界生活の、本当の始まりだ。
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